頼まれ事
そこからは特になにもなく、誰からも連絡もなく、何の用事もなく、夏休みが終わった。いや正直言えば連絡は何度かあったのだが、電話での会話をするぐらいで、出かけるようなことはなかった。
変わったことといえば、昼夜逆転生活。
夜は目が冴えるし、昼間は眠くてしかたない。おかげで寝るのは朝八時。起きるのは午後四時。ひどい生活。休みが明けても未だにそんな感じだ。
それと、慶が向こうに帰っていった。大学の夏休みが終わったらしい。空港までの見送りはしてないけど。家を出る際に「いなくなって寂しいでしょ」とか抜かしてた。いや、んなことないから。
そして今日は秋学期の授業始め。
夏休み明け初授業は金曜日からという、謎なスタートを切った。
「よ」
「うす」
友人と短い挨拶を交わす。
久しぶりなのは久しぶりだが、それをわざわざ口にする必要もない。
「お前、夏休みの間何してた?」
「俺? サークルだよ」
そうか。映研での撮影か。
結局こいつは何をやったんだろうか。それを聞いてみた。
「音響だ。それと通行人Xと主人公の友人E」
通行人X? 怪盗Xみたいだな……。
「怪盗Xみたいだな」
真っ先に思ったことをそのまま告げる。
Xって何番だ? まさかローマ数字の十じゃないよな。 頭から数えてみる。A、B、C――――Y、X……。二十四番目? 通行人ってそんなにいるか?
「冗談だよ。そんなにいらねぇし、そんなにいない。通行人はそのへん歩いてる人たちで十分」
「撮影許可取れよ。無断はいかん」
「当然だ。お前はどうだったんだ?」
夏休み、何してた。と付け足されて聞かれる。別に話の流れからわかるけどさ。足されなくても。
どうだろうな。何があったっけ?
ここで発動。僕の個人スキル、不完全忘却。その能力は、脳内から記憶というデータを中途半端に不完全に消し去ってしまうという、ひどい記憶力の能力。
……なんて、中二病のように言ってみる。違う? まぁどうでもいいか。
簡単に言えば、何をしたか忘れた。あんま覚えてない。
「何したっけ?」
「いや俺に聞かれても……」
記憶を遡ってみる。
……えっと、昨日の晩ご飯は……ってそんなのどうでもいいか。しかも、あれ? 何食ったっけ?
えーと…………あぁ、昨日の晩ご飯はサンマだったんだ。って違う。
……あぁ、そうだ。まず夏休み序盤に大学の講義があったんだ。そんときにこれ(陽斗)から用事を頼まれて、断るのが面倒で引き受けた。そしてその先でまた用事を頼まれて、断るのが面倒で引き受けて、届け物をして。今度はそこで英語を教えて…………。
あとは…………。
「あぁ。お前と買い物しに行ったな」
「……うん。それは知ってるけどさ。他には?」
他には……………………?
えー、と。
「あ、そうだ。文芸部に入った」
「何があったよ、お前の夏休みに」
「僕も知らん」
何となく流れで…………でもないか。自分の意思で入部したんだ。
でもま、いいか。
あとあったことは…………。
「あと映画見に行ったな」
「へー。何見たんだよ?」
映画のタイトルと、その簡単な内容を説明する。
「あー。あれか……うちも親が見たって言ってた。感動したらしいな?」
「おぉ。いい作品だったぞ」
つい原作に手を出しちまうくらいに。
オススメするぞ、というと「いや、俺他の奴らが注目してる奴は見ないから」と拒否。こいつもこいつで変なやつだ。そこんとこが何かムカつく。少しでも読めよ見ろよ聞けよ、カス。
「で、誰と見たんだ?」
何でそう思うんだ?
「お前がそんな恋愛系の映画なんて、一人で見ねぇだろ?」
僕に恋愛映画は似合いませんか。確かに一人じゃ観ないだろうけど。
隠しても意味ないので、正直に答える。
「友達」
「女の?」
「あぁ」
流石にこれが男友達で、その二人で恋愛映画を見に行ったとしたら……ないわー。
嫌なフラグが立つわー。ホモセクシャル的なフラグが立つわー。ないわー。
「………………」
「何だよ」
じと目でこっちを見てくる。何だよ。何なんですか?
すると陽斗は盛大にため息を吐き、首を振った。やれやれといった感じで。
「可哀想だな……」
「誰が」
「その友達。お前はひどいやつだ……」
何で僕がそんな風に言われにゃならんのだ。僕何したよ。
もう面倒なので話題を変える。
「そういや、ずっと忘れてて履修登録してないんだけどさ」
「ふーん。ま、登録期間は今日からまだ一週間あるだろ」
「まぁそうなんだけど……だから今日必修以外のやつが何あるか知らないんだよね」
「ほう。それは大変だな」
「だから教えて」
「だろうと思ったよ」
陽斗は苦笑しながら、バッグから履修登録表を出す。
「クラス別のとかは、今日はないから安心しろ。それと――――」
登録している授業を指差しながら、これはこうこう、こいつはこんなの、と一つひとつ教えてくれる。親切なやつだ。
「……なるほど」
とりあえず印刷してきた僕の登録表と照らし合わせながら、登録すべきものと、必要ないけどやろうとしているものを書き込んでいく。
「サンキュー」
「おう」
そして授業の鐘が鳴り、授業が始まった。
この後先生のとこ行っていろいろ聞いてこないと。僕、落としてるのあるし。
授業が終わり、先生に履修について尋ねてみた。すると驚いたことに、本日の二限に受けるはずの授業は受けることができないと判明。理由は簡単。これを受けるために必要な授業を僕が前回落としているから。そのうえそれを受けるために他の授業を削除しなければならない。しかもそれは必修科目。
あー。面倒臭い。
その後、履修登録について任されている先生の研究室へと向かい、そこで履修登録の変更をしてもらった。反映されるのは週明けらしい。
おかげで暇が出来てしまった。
とりあえず、本でも読もう。
僕は落ち着いて座って本が読める場所を探し、そこに根を張って読書を始めた。
昼休みになり、陽斗がいる教室へと向かい、そこで雑談をしながら、コンビニで買ってきていた昼飯を食べる。買ってきたのはそばとおにぎりと野菜スティック。
そして昼休みは終わりかけ、もうすぐ授業が始まる。しかし僕はその時間は空き。それに対して陽斗はそれに出なければならない。
というわけで再び暇になってしまい、さっきの場所に戻り、読書を再開させる。
「あ、そういえば……」
ふと何か用事があったことを思い出す。
「教科書、買わなきゃ……」
どの授業にどの教科書が必要なのか、それは全くわからない。しかし教科書販売リストがあるはずだ。それを取りに行こう。
面倒臭いな。でも必要なことだ。
開いたばかりの本を閉じ、立ち上がって、それがある館へと向かう。
自動ドアを潜りすぐのところにリストはあった。それを回収し、元の場所に戻ろうとすると、
「あ、春風くんだ」
同い年の少女が声をかけてきた。
「よ」
「こんにちは」
顔を上げてそちらの方を見てみると、声の主はもうひとり、女性と一緒にいた。
誰だ? 学科の友達かな。
「どうしたんだ? 授業は?」
「空きなの。春風くんは?」
「見ての通りの空きだ」
その少女、香月は隣の女性に声をかけられ、きゃいきゃいと話し始めた。というか一方的に質問されている。質問の内容は僕のことのようだ。
しかしすぐに「じゃあね」と別れてしまい、その女性はどこかに去って行った。
「今のは?」
「友達。私と同じであんまり英語は得意じゃないんだよ」
そんなパーソナルな情報流していいのか?
てか英語得意じゃないのに英米語に入ったのか、あの人も。最近の流行り? 得意じゃない分野に飛び込むのが。
「私よりは断然出来るけどね!」
胸を張って言えたことじゃない。
「いいのか? 一緒に行かなくて」
「うん。この時間は空きだし。同じ用事があるわけじゃないし。それに…………」
そこまで言って、俯き加減で頬を染める。
何だ? 今何か呟いたような……。
そのことを指摘して聞いてみると、「何でもないよ」と両手を胸の前に出して振る。
まぁ、気にしない。放っておいて欲しいのだろう。
「あ、そうだ。ちょうど良かった」
「ん?」
「あのね、サークルの事なんだけど……」
あー。そういえば何も話聞いてなかったな。活動日とか、活動内容とか、メンバーとか、いろいろと……ってそれどころか何も知らねぇや。サークルの名前と、香月が所属してるくらいのことしか知らねぇな。
とりあえず立ち話もなんなので、場所を移動することに。
移動した先は、文芸部部室。僕の荷物を回収してから向かった。
そこで聞かされたことは、まず活動の内容。これは僕が想像していた通り、読書と執筆だった。そして活動する日。これはないらしい。まさかの自由。たまにミーティング的な集まりがあるらしいが極稀で、ほとんどメールでのやりとりのようだ。メンバーについては……教えてもらわなかった。どうせ聞いてもわからないから。そしていろいろと聞いたのだが……まぁあまり覚えていない。
そして一応確認したかったことを聞く。
「ところで香月は……ここの部長なのか?」
「違うよ」
「即答……!」
疑問に対する答えは、まさかの瞬殺だった。
「何で?」
「え、いや……だって活動してるのは自分だけって……」
それだけではなく、こうしてサークルについての説明も、僕をサークルに誘ったことも、初めてここに来た時も……あれ? 今思うと別に部長じゃなくても出来ることばっかだな。
つまりは僕の勘違い、か。…………何に対する勘違いなんだか。
ちなみに部長についても聞いてみる。
「部長? さぁ……どうしてるんだろ……。ここの学生ってことは確かなんだけど……」
全く情報がなかった。
部長がここの学生だってことくらいは知ってる。この大学のサークルに所属してるんだから。しかしそれ以外の情報はなかった。
何だそれ。怪しいなおい。
まぁいいか。他人事だし。
……いや、このサークルに入った以上、他人事ではない、のか……?
「まぁいいか……」
考えることを諦めた。
「それで、今度の文化祭なんだけど……」
「文化祭? 何かするのか」
てっきり映研との共同制作の映画のみだと思ってた。
「うん。あのね、うちのサークルは毎年テーマを決めて、それにあった本を読んで感想を書いたり、自作小説を執筆したりするの」
「へー」
それは面白そうだな。どっちをやっても。
「それで、今年のテーマは『友情』なんだよ」
「友情、ねぇ……」
つまり、友情を題材にした小説を読んでその感想文を書くか、自作でオリジナルの友情の小説を執筆するか。だな。
どっちも面倒だろうなぁ……。
「ちなみに自由参加だよ」
自由なんだ。規則ゆるっ。
「でも出来れば参加して欲しいな」
どっちなんだよ……。
「考えとく……」
面倒なんだけど……、
「うんっ」
何でかなぁ。この笑顔を見ると、断りづらいんだよなぁ。
今日も輝いてるなぁ。
頭撫でたくなるなぁ。やらんけど。
「ひとりいくつ書いてもいいんだよ。ちなみに私は執筆で参加するんだ」
「小説書いてたな、そういえば」
「読むのも好きだけど、書くのも割と好きなんだよ」
「へー」
執筆か……。やってみようかな。
「ところで何人くらいが参加すんの?」
「さぁ……」
知らないことだらけだな、本当に。
大丈夫か、このサークルは。
とりあえず聞きたいことは聞けたし、意外と時間が経っていて、もう授業が終わる。次の教室へ向かわなければ。
そういうわけで、香月に別れを告げて教室に向かった。
授業が始まり、終えて、最後の授業を受ける。これは選択なので受けなくてもいいのだが、興味があった。ちなみに陽斗も受けている。
そしてその授業も終えて、電車内で読書して、帰宅。
今日も疲れた……。
✽ ✽ ✽
「ふぁあー…………」
欠伸をしながら、大学までの坂を登る。
にしても、もう秋だってのに、まだ暑い……。残暑も長いな。
今日も大学。授業が始まる。夏休みに戻らねぇかなぁ。
「春風くんっ」
突然名前を呼ばれ、同時に背中を平手打ちされた。痛い。
「……普通に声をかけろ」
「あ、ごめんね……」
少し不機嫌気味に告げてしまう。しまったな。
朝は弱いんだよ。特に意味もなく、何となくイライラする。朝はいつもそうだ。まぁ音楽聴いたり本読んでたりしたら、大体は治るんだけどさ。
「いや……」
強く目を瞑り、小さく頭を振る。この行動に意味はないが、少しはマシになる気がした。
何となく、空気が重い気がする。何とかした方がいいのか? どうやってだ。
「あ、あの、春風くん」
そう思っていると、香月の方から声をかけてきた。
「何?」
「今日は、部室来れそう?」
「無理」
「えっ!?」
聞かれた瞬間に答える。即答した。
別に遅くまで授業があるわけじゃないし、空きもある。でも今日はなんか、やる気が出なかった。
「来ないの?」
なぜか上目遣いで、悲しそうな瞳をこちらに向けて再度聞かれる。
なんだこれ。何この状況。
「……冗談だ。行くよ」
ため息混じりに言うと、瞬間的に笑顔に花が咲いた。
「うんっ。待ってるね!」
そう言うと、元気に大学の門を潜って走っていった。元気だなぁ。
でも僕、いつ行くとか言ってないんだけど。一体いつ待ってる気なんだ?
そして授業が終わり、昼休みを経て、空き時間。暇だ。
というわけで約束通り文芸部部室に向かう。
今度はノックもせずに、ノブを回してみる。開いているようだ。
「………………」
特に言葉もなくドアを開け、中に入る。
「あ、春風くん。来てくれたんだ」
中には、前にも見たように、香月がひとり、椅子に座って読書をしていた。それも僕が入るなり中断してしまったが。
部室内の机には小さなサイズの弁当箱が置いてあった。たぶん、昼休みからここにいるのだろう。昼食を食べ、読書をしていたのだと思う。
一体いつからここにいたんだ?
「よう」
「ほら。こっち」
早く早く、と急かすように隣の椅子を引き、その座席を叩く。そして僕が動くとそそくさとノートを取り出し開いて、筆記用具を準備する。
これは、どう見てもアレだ…………。
英語を教えろと催促している。
「どこがわからない?」
面倒臭そうに、ため息混じりに聞き、隣に座る。
勉強を初めてから時間が経った。
わからない英語文を見て、それをどう解くかを教えて、考えさせる。英語は単語が肝心だ。英単語を学び覚え、接続の仕方や文法を知り、応用して……とか、僕自身もいろいろと聞かされた。よくわかんねぇし、面倒で、あんま覚えてない。
ちなみに香月が考えてる間、僕は読書をしている。いやだって、暇でしょ? 英語とかずっと見てたくないし。
「……ねぇねぇ、春風くん」
「はいはい」
わからない箇所が出ると、香月は僕を呼ぶ。そこでようやく僕は本から目を離し、ノートを覗き見る。
この単語が何と読むのか、前後の単語と合わせることで、何と読めるか、それを教えて、「あとは自分で考えろ」と突き放す。自分で勉強せずに教えてもらうだけでは身にならない。…………ような気がする、たぶん。
そしてまた、読書に戻る。
………………ってあれ? 今何時だ?
時計を見てみると、もうすぐ授業が終わるところだった。危ない危ない。
「香月。そろそろ僕は行く。教室に向かわなきゃ」
「え? あ、ホントだ……」
香月は同じように時計を見ると、残念そうに、悲しそうに、寂しそうに顔を伏せ、ノートや筆記用具を片付け始めた。
…………いや、気のせいだろう。僕の勘違いだ、きっと。
「ねぇ。放課後は、ここ来る?」
「ん? そうだな……今日は次の授業で終わりだし……」
曖昧な答えを出し、来る気ではいるという雰囲気を出す。
たぶん、香月は来る気なのだろう。それで、僕がここに来るようならきっと、勉強を見て欲しいんだろうと思う。別に構わないけどね。
会話もその程度に、僕たちは別れてそれぞれの教室へと向かった。
そして放課後。
「ハル。行こうぜ」
「あぁ」
帰宅準備を終えて、教室から出る。うちの学科の必修は、今日はこれで終わり。選択科目を取っているやつはこれからその授業へと向かう。というかもうすでに向かっている。僕と陽斗は帰宅組。
教室から出て、外に出て。陽斗と何か適当に話しながら門へと向かう。
「あ、ハル」
その途中、陽斗が言葉を発し、僕の動きを制した。
「俺、今日は映研で集まりなんだ」
じゃあな、と告げて部室棟へと足を向けた。
「あぁ。そうか」
そのあとを僕も行く。
……………………しばしの無言。そして部室棟付近にまで近づいたところで、
「……って何でお前まで!?」
「遅ぇよ」
やっと反応をした。
「今日は僕も文芸部の活動だ」
「それならそう言えよ」
「無言で付いてったら何か反応あるかなと」
「実験されてたのか、俺?」
微妙に違う気がする。
部室棟に入り、階段を上りながら会話再開。内容はサークルについて。
「文芸部、何してんだ?」
「何って?」
「活動内容だよ」
名前から察せ。わかるだろ。
かくかくしかじか。……なんてね。そんな言葉で通じれば楽だ。
簡単に説明する。活動内容は、読書または執筆。そして英語の勉強。
…………いや最後のは違うだろ。でもそのまま言う。
「いや最後のは違うんじゃねぇか?」
セルフツッコミと似たような反応された。
「実際に教えてんだよ」
「へー……でもお前、英語嫌いだろ? てか飽きたんだっけ?」
「まぁな」
「じゃあ何で教えてんだ? いつもみたいに投げればいいのに……」
まぁ、そうなんだけど……。確かにそうなんだけれども……。
「どうもね……」
あの顔を見ちゃうと、投げられないんだよなぁ。
少女のように無垢で、太陽のように輝かしくて、花のように可憐な、あの笑顔を見てしまうとね……。
…………なんて。
「よくわからねぇけど……頑張れよ」
「あいよ。ほどほどに頑張んよ」
映研の部室がある階に到達し、陽斗とはここで別れる。僕はこの上に用があるのだ。
今のあいつとの会話で、僕はふと考えるようになった。
僕は、彼女のことを、香月のことを、どう思ってるのだろうか、と。
文芸部部室の前に着き、ノックもなしにドアを開ける。
「……へ?」
中から聞こえたのは、間の抜けたような声。そしてそこで見たのは、Tシャツを脱いで下着姿になっている女性の姿。というか香月だった。
「…………え?」
次に聞こえたのはそれよりもさらに間抜けな声、というか僕の口から漏れ出た声。
互いに、思考も動作も一時停止してしまう。
何このラブコメ漫画でありがちなベタな展開。
「すまん!」
先に動いたのは、動けたのは、僕の方だった。
急いでドアを閉じ、なぜか部屋に背を向けて、そのまましゃがみこむ。
やべぇ……。これ、殺されるんじゃね? 何この殴られる程度で済めば万々歳なこの状況……。あー、僕、死んだな。うん。社会的に死んだ。たぶん。
絶対に許されないよな……。せめて、警察沙汰にはならなければ……いいかな。
…………それにしても、よく悲鳴を上げなかったな…………。
数分が経ち、僕はその間ずっと何も出来ずにしゃがみこんでいた。何も出来ないよ、そりゃ。
「あ、あの…………」
すると、少しだけドアが開き、おずおずと声をかけられた。
「も、もう、入ってもいいよ…………」
そう言うとドアを少し開いたまま離れて、椅子に座る音が聞こえた。
こちらも恐る恐るドアを開け、中に入る。
そこにいたのは、本も読まずに、椅子に座った状態で、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに顔を伏せ、両手を膝の上に乗せて、緊張しているような格好の香月。しかも急いで着替えたのだろう。服も髪も少し乱れている。足元に転がっているのは、何だ? 袋のようだけど……。
彼女から少し離れたところにまで椅子を引き、座る。流石にあんなことがあったすぐあとに彼女の側に寄るのは、気が引ける。
……事実は小説よりも奇なり、だな。
無言のまま時間が流れ、下や外からの賑やかな音のみが、この中の音を占めている。
「…………えっと……」
先に口を開いたのは、香月だった。
「ごめん。ごめんなさい。すみませんでした」
彼女が動いたことで僕のトリガーが引かれ、立ち上がり限界まで頭を下げていた。そして発せられたのは、謝罪の言葉。
もう、本っ当にごめんなさい!
「いや、あの……鍵閉めてなかった私も悪かったんだし……」
何言ってんだこいつは。
「ノックもせずに、確かめずに、勝手に開けた僕が悪い。全面的に僕が悪いです!」
もういっそ、土下座をしてしまう。
心の底からすみませんでした!
「も、もういいよ……頭上げて?」
「でも……」
「もういいから……ね?」
…………優しいなぁ。
将来変な男に引っかからなければいいけど……。
とりあえず立ち上がり、また少し離れたところの椅子に座る。
「…………もう少し近くに来て」
そう言われて一度は拒否するが、悲しそうに再度言われてしまったので、心の中で感謝の言葉を告げて近付く。
また英語の勉強スタイルになり、質問に答え、考えさせて、その間は本を読む。
…………いや集中出来ねぇな。そりゃそうか。
いつもより香月の存在を意識してしまう。陽斗とのさっきまでの会話もあるし、何よりさっきの彼女の姿が脳裏に焼き付かれてしまっていて、フラッシュバックしてしまうのだ。さらには忘れ去られたはずの、いつだったかに触れてしまった彼女の膝の柔らかい感触まで思い出されてしまう。
本を読んでいるはずなのに、内容が全く頭に入ってこない。
「春風くん」
「なに!?」
声が裏返ってしまった。恥ずかしい。
「あ、えっと、これ……」
わからないというところを指差され、それをまた教える。
…………近いな。
さっきまで気にしてなかったのに、急に気になってしまうようになった。
香月の吐息が、香月の香りが、香月の温もりが……全てが気になってしまう。僕、今すごい心臓がバクバクしてる。
しかも同じタイミングで顔を上げて、顔を見合わせようものなら、
「っ」
互いに恥ずかしくなってしまい、顔を背けてしまう。
あーもう。これじゃあ勉強出来ん!
「今日はもう切り上げよう」
「え……っ」
「互いに集中出来てない。これで勉強しても意味はない」
たぶん、僕の顔は赤いんだろうなぁ。だって恥ずかしいもんよ。
「だからもう帰る。おつかれ」
バッグを取り、ドアへと向かおうとする。
しかし、
「……………………」
服の裾を掴まれた、ような感覚が。
「どうした?」
「あ、じゃあ、その……その前に……」
首を回し、後ろを見る。
するとバッグを漁り、そこから何か紙を取り出した。表のようなものが書かれている。というか履修登録表だ。
「私の、これ、暇な時……!」
…………だから何なのだろうか。
たぶん、この時に部室に来ているという事を伝えたいのだろう。
それで? だから何なのだろう。
「春風くんのも、見せて」
「……あぁ」
断る理由もないので、僕の履修登録表を見せる。登録は休みの間に済まし、印刷もしてきた。たぶん、これで大丈夫。
香月は僕の登録表を見て、自分のと見比べて、何か印をつけて、何かを書き込んでいる。何だ? 何をしてるんだ?
「ありがと」
なぜか礼を言われ、僕の頭は疑問でいっぱいだ。
改めて別れを告げ、先に部室を出て帰宅する。
その後は、帰りの電車の中でも読書に集中出来なかった。
理由は言うまでもないだろう。
何でこういう時にばっか驚異の記憶力が発揮すんだよ……。
✽ ✽ ✽
またいつも通りの朝。今期は前と比べて、朝は少し遅くていい。一限は必修も選択もないから、少し楽だ。
そしていつものように、教室に入っては陽斗と短い挨拶をして読書に入る。と、
「なぁハル」
陽斗に話しかけられた。
「ん?」
視線をそのまま、本に向けたまま返事をして、耳では話を聞こうとする。というか、本読んでんだから邪魔すんなよ。話しかけんな。
「ちょっと頼みたいことがあんだけど」
またかこの野郎。
「他をあたってくれ」
「わかった」
珍しく、聞き分けよく諦めた。
のはいいが……。
「………………」
無言でちらちらとこちらの様子を伺っている。その表情は、「頼まれてくれないかなー。他に頼れるやついないんだけどなー」と訴えかけてくるような。
はぁ……面倒だなぁ……。
「話は聞こうか」
「おぅ! 頼りになるぜ」
無言のプレッシャーを放っておきながら何を言うか、こいつは。
本を閉じて、頬杖をついて、呆れ顔で問う。
「んで、用ってのは?」
「あぁ。たまうちのサークル関係なんだけどさ」
「今度は何を取りに行けばいい?」
「いや回収作業じゃねぇよ。作って欲しいものがあるんだ」
「作って欲しいもの?」
あからさまに面倒臭そうにオウム返しする。
陽斗の話を聞くと、何でも次の撮影で必要な小道具が消失してしまったらしい。消失、ロスト、つまりは無くし物だ。しかしそれは見つかり、無事に続けられるはずだったのだが、昨日、何かの拍子にそれが壊れてしまったらしい。それも、修復不可能な感じに。
「それで、何を作れと?」
「ビーズのリスのストラップ」
また難題な……。面倒臭い。
「新しく買えよ」
「手作りのものがいいんだ」
「誰が作っても手作りだろ」
「職人が作った売り物なんて嫌なんだ」
「何でよ」
「カントクのこだわり」
そこんとこ、こだわんなよ……。
「誰かが誰かの為に作ったってのが大事なんだ」
なんとなくわかりはするが……。
「それにそのストラップ、オリジナルのデザインで作られてて、店じゃ売ってないし」
それ先に言え!
「なら無理だ」
「何で」
「僕はビーズのキットでしか作ったことない。製作図も完成図もなしには作れん」
ビーズも何が必要なんだかわからんし。
「それなら問題ない」
「は?」
そう言うとバッグを漁って何か袋を取り出した。何が入ってるんだ?
それは何かと尋ねると、
「制作図面と必要なビーズにテグス。あと、根付きとか。とにかく作るのに必要なものが入ってる」
準備いいな。
「それだけ揃ってんなら店行って特注してもらえ!」
「金かかるじゃん」
部費使え!
「あとさっき言ったように、手作り感のあるものがいいんだ」
んなもん職人でも……って、またさっきの会話のループになるだけだ。
「映研の中で作れるやついんだろ」
オリジナルってんだから、作ったやつがいるはずだ。
「いないぞ」
「何!?」
いない!?
「正確にはいなくなった」
「いなくなっただと!?」
何それ衝撃の事実。
「あぁ。何か、大学やめたらしい」
「やめたァ!?」
「しかも先月」
何その超バッドタイミング。狙ってやってんじゃねぇだろうな?
「それなら壊すなよ!」
「故意に壊したわけじゃない。事故だ」
だとしてもだ!
「なぁ、頼むっ!」
手を合わせて頼んでくる。
……材料は揃ってるし、図面もある。ないのはハサミとかニッパーとかだけど……それはうちにもある。やろうと思って出来ないこともない。ただ時間がわからない。どのくらいかかるのだろうか。それ以前に、僕はプロじゃないし、確実に完成させられるという保証も、断言も出来ない。
それに、何より、
「メンドイ」
やる気がない。
「友達甲斐のないやつめ!」
それは何か違う気がする。
物作りってのは自分の意思で、自由な時に作るのがいいんだ。まぁそうでなくても楽しめるんだろうけど……。
「頼むよ!」
「やだよ」
「拝むから」
「拝まれても困る」
「おごるから」
「何をだよ……」
「金やるから」
「黙れ金欠」
常に金ないだの何だの言ってるやつが何を言ってんだ。
……はぁ、面倒だなぁ。
「わかったよ。やってやる」
「本当か!?」
「あぁ」
もう言葉を返すのも面倒になってきた。
頼みを断る理由は面倒なだけ。でもどうせうち帰っても暇なだけだし。面倒だけど、いい暇潰しになるだろう。
「助かる! 恩に着る!」
「おぉ。感謝しろよ」
「あぁ。崇め奉る!」
「それはいい。そこまでするな」
うざいから。
というわけでビーズのセットを受け取り、ストラップを作ることにした。
「言っとくが、出来は期待すんなよ。それと、一応、他にも当たっとけ」
もし出来なかった時の予防線だ。
「あぁ、わかった」
そう言いながらも期待たっぷりな目でこちらを見てくる。困るんだよなぁ……。
「ところで、これっていつ使うんだ?」
「今度の土曜」
ということは金曜にはこいつか誰か映研の手にないといけないってことか……。
…………今日含めて、あと二、三日ってとこか……。
「頼むのが遅すぎる」
怒りを込めた肘を脇腹に突き刺してやった。
昼休みにそのビーズの図面を広げて確認してみる。……結構複雑だな……難易度高そうだ。僕、初級のものくらいしかやったことないんだけど……本当に出来るのか? 不安になってきた。
授業は終わり放課後になり、陽斗は「ストラップのこと、報告してくる」と映研の部室に駆けて行き、僕はその後ろをのろのろと付いて行き文芸部部室へと向かった。
部室前につき、いつもと同じように、
――――ガチャ……。
ノックもせずに開けてしまう。
あっ……と、明けてから思い出した。つい昨日起こってしまった出来事を。僕の記憶力って本当にクズだな……。
しかし、今度僕の目の前に広がっていた光景は、
「春風くん。こんにちは」
いつも通りの、読書に励む香月の姿。よかった……。
「どうも」
いつものように催促されるように隣へと誘われ、そのままいつものように、流されるように、香月の隣に座り、いつの間にやら準備していたノートに目を向ける。一度そのノートに目を通して、間違っている部分を指摘し、考えさせる。
その間に僕は、陽斗から預かったビーズのセットが入っている袋を出し、その袋から製作図を取り出す。
うーん……何度見ても複雑そうだな……。本当に僕に作れるのか? いやこれはやってみないとわからんか。しかし、今作るのは、ちょっと無理があるか。一度始めたら中断するのも大変だし。
出来ればすぐにでも帰って作り始めたいんだけど……なんせ金曜までには出来てないとって感じだし……。でも空いてる時間には来るって言ってるし……香月は、英語の勉強、楽しみにしてるみたいだし……。僕としても、ここは落ち着くから、来たいとは思うし……。
まぁ、いいか。今日はもう読書してよう。
そう決断し、その図面を折り畳んで袋に収める。
「春風くん、それ何?」
そんな作業をしていると、目をキラキラと輝かせて興味津々に聞いてきた。
「ビーズストラップの設計図」
「ビーズ? へぇ。春風くん、ビーズとかやるんだ」
何か感心するように「へー」とか「ふーん」とか言ってこちらを見る。
「ま、友達に頼まれてね」
「友達に? プレゼント?」
それなら頼まれた、なんて言わないが。
「映研での小道具だって。壊れちゃったから作って欲しい、なんていきなり言われて……」
無事に出来るかどうかはわからんけど……頼まれて、受けちゃったからにはやらなきゃならない。できれば完成した姿で渡したい。
でも今は読書するけどね。
ビーズの袋をカバンに入れて、入れ替えるように小説を取り出す。
「……春風くんって、優しいよね」
何をいきなり言ってるんだ、この人は。
「何で?」
驚きの色を孕んだ声で尋ねる。親以外からそんなこと言われるの、初めてな気がする。なので驚いた。
「だって、いきなり頼まれたそのビーズも引き受けて作ろうとしてるし、得意じゃないって言いながら私の英語見てくれるし…………」
そのあとも何か例を挙げていたが、生憎僕の耳には届かなかった。しかも頬を若干赤くしているのはなぜだ。
「春風くんは優しいよ…………」
なぜか消え入ってしまいそうな声で、独り言のように呟かれた。
…………小っ恥ずかしいんだよなぁ。
「あっそ……」
素っ気なく返す。だって恥ずかしいじゃん。
僕は、自分が作ったものや描いたものに対して褒められるのは慣れてるが、自分自身が褒められることには慣れてない。だから、恥ずかしく思う。褒められるという行為が。
彼女のノートを盗み見て、間違ってる箇所を指摘し、再度考えるように言う。そうして考えてる間に、やっぱり僕は本に目を落とす。
…………別に優しくなんてないし。
帰宅してから、例の袋を取り出して、箱状になってるものを机に並べ、そこにビーズを色毎に箱別に入れていく。こうして分けてる方が色を見やすい。それと一緒にテグスやその他部品を取り出す。
次に制作図面を出し、広げて、テグスがどのくらい必要かを確認し、スタート地点をチェックする。最初の色のビーズをテグスに通して、と。
「……よし」
準備出来た。
じゃあ、始めるとするか。ビーズ制作。
『春風くーん。ご飯出来たよー』
…………水を差されてしまった。