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春の風と香る月  作者: 寝台ひつじ
2/13

出逢い

 東山(とうやま)春風(はるか)。それが僕の名前。

 女子みたいだ、とよく言われて、子供の頃はあまり好きではなかったが、今では結構気に入っている。

 面倒臭がりで、諦め癖があり、人との付き合いが得意ではなく、人の目を見るのが苦手で、恥ずかしがりなところもあり、消極的で、意外に心配性で、さらには怖がりだったりする。

 勉強は得意ではないし、運動も嫌い。工作やスケッチは好きだが、自慢するほどではなく、自慢できるようなこともない。

 表情の変化は大きいほうだと思ってる。よく笑うし、すぐキレるし、感動もする。泣くことはほとんどないけど。ただ、笑いのツボは自分でも理解できないくらい、変なところで笑うし、怒りの沸点もどこにあるのかわからないくらい、馬鹿げたことでキレる。自分でも喜怒哀楽は把握できてないが、感情はよく動く方だと思ってる。

 僕は自分のことをその程度しか知らない。いやまだ思いつく点はあるが、はっきりとしない。

 人は「自分のことは自分が一番よく知っている」と言うが、他人の方が実はよく知っているのではないだろうか。自分で見た自分と他から見た自分であれば、客観的に、先入観なく見ることができる他人からの方がわかることは多いと思う。猫をかぶっていたり、演じたりしていなければ、だが。

 閑話休題。

 僕は自分の過去をあまり覚えていない。いや記憶喪失や記憶障害などではない。ただただ、すこぶる記憶力が悪いのだ。覚えようとしていないということもあるのかもしれないが。何をしても、ほとんどを忘れてしまう。

 興味のあることや気にも留めていないこと、すぐに忘れたいことはよく覚えていたりするのだが、学校の勉強や注意されたことはなかなか覚えられない。メモを取ったりしたらいいとも思うのだが、そのメモのことすら忘れる始末。

 幼稚園のことは基本覚えていない。小学校でのことも九割は忘れた。中学の時もあまり覚えていないし、高校のことも曖昧。昨年何をしたかすらも朧気。下手したら昨日このことだって怪しい。時々何をしていたかをパッと思い出すことはあるけど、思い出そうとした時にはなかなか出てこない。だから自分の記憶は基本的に信用せず、あまり頼りにしない。

 だが今までの僕の人生を振り返るとしたら、

 幼稚園を卒園して、小学校を卒業して、中学校に入ってエスカレーター式に高校生に。しかし勉強についていけなくなり、二年の夏に、二学期が始まる前に中退。今度は午後に塾に通い、高校卒業認定試験を受ける。なんとか高卒認定に合格し、大学を受験する。前から興味があり、やってみたいと思っていた職業があったので、それを専攻している学科がある大学を受けることに。受験する大学はそこ一本に絞り、運が良かったのか一発で合格し、浪人になることなく、現役で大学生になった。

 それからは講義やら何やらと受け、大学で出来た友人と馬鹿話をして笑い合ったり、遊びに行ったり、大学の学祭をしたり、いろいろと楽しく過ごして一年と数ヶ月の月日が経った。

 そして現在は大学の二年。当然の事ながら、一年の頃とは履修する授業が違うので、以前よりも帰る時間が少し遅くなった。

 帰りの電車は、ちょうど帰宅ラッシュの時間とかぶり、サラリーマンやOLと一緒になるのでずっと立ったままになるし、席が空いていると思っても二人分をひとりで座っているようなマナーのなっていない(やから)のせいでスペースが無駄になっている。きちんと座れっての。

 立ちっぱなしのまま電車に揺られながら、常に持ち歩いている文庫サイズの小説をカバンから出し、目を落とす。耳にはイヤホンが入っていてお気に入りの音楽を聞いている。

 この時間は結構好きだ。気に入っている。なんとなく落ち着くのだ。むしろこうしていないと落ち着かない。人によっては「電車の中で立ったまま読書なんて出来ない」と言うが、そんな事はない。少し読みづらい事もあるけど。それに読まないよりだいぶマシだ。というか、読まないなんて暇すぎる。つまらなすぎる。

 電車に揺られ本に目を落とすこと40分強。目的の駅に着き、ブックカバーについている栞紐を本に噛ませて電車を降りる。と同時に乗り込もうとしてくる奴と肩がぶつかりそうになった。降りる人優先だろうが。

 改札を抜け駅の外へ出ると、もう暗くなっていて――ずっと読書をしていて気づかなかった――周りは既に人口の光で溢れていた。これから徐々に日が長くなるが、まだ短い。

 人が多い駅前の通りを進み、明かりが少なくなった道を歩む。

 駅から十数分歩くと、家に着く。

「ただいま」

 玄関の扉を開け、暗く抑揚のない声で言う。

 靴を脱いですぐに自室に向かおうとする。しかしその前に、

「おかえり」

 リビングに続く扉が開き、声をかけられた。母さんだ。母さんは誰かが帰宅するとリビングから顔を出して、こうして迎える。少しうざい。

 階段に足をかけたまま、体をずらして首をそちらへ向ける。

「もうすぐご飯できるから。早く降りてきて」

「あぁ。わかった」

 それだけを言い残して二階に上がる。どうせ出来たら呼ぶだろう。それまで部屋でくつろいでいよう。

 二階に上がってすぐのところにあるドアを開いて、そこに入る。

 ここが僕の部屋。入って正面に窓があり、右手壁際にはベッド、左手には机、ドアがある壁には本棚があり、部屋の中心には背の低いテーブルが。右手の壁、ベッドの足元にはクローゼットが備え付けてある。殺風景な、特に目立ったものがない、普通の部屋。

 机の側にカバンを置き、椅子を引いて座る。

「つかれた……」

 腕をだらりと垂らし、全体重を背もたれにかけ、首を後ろに倒して天井に目線を向ける。

 ここのところ、大学に行って帰ってくる、それだけの事なのにすごく疲れる。大学に行って、講義を受けて、友達と喋って、昼飯食って、また勉強して、帰る。その繰り返しをしているだけのはずなのに。なんでこんなに疲れるのだろう……。

 そのままの体勢で数分間ぼーっとすると、下階から声がかかった。

『春風くーん。ご飯、できたよー』

「……あぁー……」

 下に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で一応返事を返す。

 のろのろとした動きで立ち上がり、腕を上げて伸びをする。ため息のように息を吐き、ノブに手かけて、一時動きを止める。その時に何を思ったか、一瞬頭を巡らせた。しかし、なぜそんなことをしたのかがわからない。夕食前に何かやるべきことでもあったのだろうか。…………いや、ないだろう。

 そう思いながらドアを開けて、下へと向かう。

「あ、降りてきた。今日の晩ご飯は春風くんの好きな親子丼よ」

 何かいい事でもあったのか、えらく上機嫌だな。

 まぁ、僕にはどうでもいい事だけど。てか、ラーメンの方が好きなんだが。一番。特に味噌。

 テーブルに出来た料理を並べていき、全て運び終えると、僕の向かいに母さんも座り、手を合わせた。……今日は父さん、当直だったか。

「では、いただきましょう」

 それを合図に、僕は何も言わず丼ぶりを持ち上げ、中身をかき込んだ。

「あらあら、うふふ。よっぽどお腹が減ってたのね」

 食事時の挨拶もせずに食べ始めたのに対し、いつも通りにこにこと笑顔を浮かべたまま俺を見る。

 違う。そこまで腹が減ってたわけではない。ただ面倒なだけだ。挨拶というものをするのが。ただの一言を言うことが。面倒なだけだ。

「今日ね、お買い物に行ったら小さい子がカートを押してお母さんのお手伝いをしててね――」

 母さんも食事を始めてから少しすると、今日は何があった、何を話した、何を見た、などの世間話が始まった。別に興味ないっての。たぶん、母さんが話したいだけなんだろうけど。

 僕はその話に対し、「あぁ」「へぇ」「ふーん」などと生返事をするだけ。だって興味ないし。

 そうしていると母さんの表情が、にこにことした明るい笑みから、落ち着いた大人の笑みへと変わり、話を振ってきた。

「ねぇ、春風くん。大学、どう? 楽しい? 今何してるの?」

「……何でそんな事、いちいち親に言わないといけないんだよ」

 ため息混じりに言い、付け合せのサラダを口に放り込む。しかし、そう呟いたところで母さんは――表情を戻し――にこにこと笑顔を浮かべたまま。僕が話すのを待っているようだ。

 そのまま時間が過ぎるのを待とうかと思うのだが、駄目だ。とうとうこちらがその空気に耐えられなくなり、口を開く。

「授業の内容が変わっただけで、ほとんど変わらない。だから楽しいし、面白いよ」

 肺に溜まった空気を吐き出すのと一緒に、むすっとした不機嫌そうな口調で、言葉を発した。

「そう。楽しいのならよかった」

 さらに上機嫌になり、食事を再開させる。今の質問に何か意味あったのか。

 なんでこんな事をいちいち親に報告しなきゃならないんだよ。面倒臭い。

 最近、親との会話が面倒になってきた。疲れてきた。なんで会話しなきゃいけないんだよ。

 食べる速度を上げ、何も言わずに立ち上がる。丼ぶりの中身はもうない。

「あら。ごちそうさま?」

「あぁ」

 自分が使っていた食器を積み、シンクに置いてから、自室へと向かう。

 部屋に戻ってすぐ、ベッドに倒れこみ仰向けになる。枕元に置いてあるゲームを手に取り、電源を入れる。中身はモンスターをハントするアクションゲームだ。数日ぶりに点けた。画面には”POUSE”の文字が浮かんでいる。そういえば何か狩っている途中で切ったんだった。

 カチャカチャとゲームをしながら別のことを考える。

 大学に入ってからいろいろあった。授業は、春期は大学生活に慣れるので精一杯だった。秋期は逆に慣れてしまい、油断してしまった。おかげで――春期はなんとかギリギリセーフで0だったが――秋期はいくつか単位を落とした。面倒臭い。

 大学の授業は興味があるものが多いが、いろいろと面倒だ。興味があってもつまらなかったり想像と違っていたりすると、途端に面倒になりやる気をなくしてしまう。違っても面白い、というものもあるが。

 ハマりやすいがすぐ飽きる。僕は熱しやすくて冷めやすい性格なんだ、基本的に。何をしても、長続きしない。だから授業中、それに飽きてしまい、ほとんど寝ていた。それが落とした原因だろうな。今は、飽きても起きているようにしている。でも疲れるし面倒だ。

 初めは確かに、興味からだが、目標とするものがあった。でも大学に入ってから様々な授業を受けているうちに――よし、倒した――何かよくわからなくなった。僕は本当にそうなりたいのだろうか。もっと違う道があるのではないだろうか。そんな事を――あ、レア素材ゲット――最近考えるようになった。

 クエストをクリア、セーブしてゲームを切る。

 そしてその事から、つい、ふと思うようになった。

「……何してんだろ……」

 大学行って、勉強して、友達と喋って、そして疲れて帰る。得るものは、知識と友情、そしてそれ以上の多大な疲労。

 ホント、何してんだろうな…………。


  ✽ ✽ ✽


 いつもと同じように朝食を食って、人の多い電車に揺られて、大学へ向かう。履修した通りの授業を受けて、ようやく昼休み。ここまででも結構疲れた。

 三限の教室まで移動し、前の方の席を確保してそこで昼食を取る。予めコンビニで買ってきたパンやそばが主な昼飯だ。

 コンビニ袋から昼飯を取り出す。今日はとろろそばと納豆巻き。

「よす」

 納豆巻きのフィルムを剥がしたところで、声とかけられる。箕輪(みのわ)陽斗(ようと)。同じ学科で他クラスの友人。

「おう」

 短い返事を返すと僕の隣に陣取り、持参してきた飯をカバンから出す。バンダナに包まれたそれはいつも同じもの。

「今日の中身は?」

「ん? 梅干しとツナとジャム」

「ハズレはひとつか」

「セルフロシアンライスボール! さてハズレはどれだ?」

 結局は全部自分で食うくせに……。

「残すなよ。食ってよし」

「おっしゃ!」

 僕の合図と共に、自分の昼食に手を出す。まず一つ目を掴み、アルミホイルを剥がして、かぶりつく。一口目を咀嚼して飲み込み、第一声。

「ツッコめよ!」

 うるせぇな……。

「ひとつ明らかにおかしいだろ!? 何だよジャムって! パンにでも塗ってろよ!」

「自分で言ったことだろうが……」

「ボケだよ、わざとだよ! ツッコミをくれると思って、ボケたんだよ!」

 何だ、ツッコミ待ちだったのか。てか僕が何にでもツッコむと思うなよ。

 スルーするときもたまにはある。

「元気だねぇ。何かいい事でもあったか?」

「うっせ!」

 おどけたように言うと、半ギレでむしゃむしゃとおにぎりを貪り食い出した。

 そこまでのやり取りをして、食事に戻る。ちなみに本当の中身は、梅干し、ツナ、高菜だそうだ。

「そういや、お前。部活はしないのか?」

 納豆巻きを食べ終え、とろろそばを半分ほど食した頃。陽斗が唐突にそう切り出し、三つ目のおにぎりを食べきる。

「何だ? 急に」

「いやさ。お前最近さ。なんかこう……何で大学来てんだろうな、みたいな事考えてそうな表情すっからさ。部活でも始めたらどうかなってよ」

 こいつ…………。

 陽斗とはこの大学に入ってから知り合ったのだが。なかなか僕のことをわかっている。…………んだと思う、たぶん。

 確かに僕は、今を楽しく思っているが、もうわからなくなった。何で来ているのだろう、なんてよく頭に浮かぶ。大学来て、勉強して、喋って、飯食って、帰る。その繰り返し。機械的に動いているような感覚に陥ることもある。そんなふうな表情をしているかもな、って時もある。

 しかし誰にも気づかれていないものだと思っていた。心配なんてされてないと思っていた。

 ……こいつ、意外に友達思いなんだな。でも、

「やんない。メンドイ。やる気出ない」

 やる気ないものをやろうとは思わない。面倒臭いし、かったるい。……同じ意味だっけ?

「お前は本当に怠惰な性格してやがる。七つの大罪の一つだぜ?」

 んなことは知っている。僕は面倒臭がりで、やる気のない奴だって事くらい。でもどうでもいいだろ。

「そういや、七罪って他に何があったっけ」

 ふと疑問に思ってそのまま口に出す。

 それを聞いて「そういえば…………」と同じように考えを巡らせ、ブツブツと呟き考える。

 正解と思われる単語を口に出し合い考えたが、結局答えは出切らなかった。最終的に陽斗がスマートフォンで答えを検索。

 ちなみに正解は傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲だった。

 ……傲慢以外はわかってたのにな、僕たち。


 本日の全ての授業を終え、カバンにノートやら筆記用具やらを仕舞う。

「よう。これからどうする?」

 いろいろと仕舞い込んでカバンを閉じたところで、先に帰宅の準備を終えた陽斗が声をかけてきた。

「帰る。もう授業は終わったし」

「なんだよ。どっか寄ってこうぜ?」

「メンドイ」

「……ちぇ。つまんね。んじゃ俺も帰ろ」

 他の友達に声かけろよ。あ、こいつ友達少ねぇんだった。僕もだけど。

 こいつとは馬が合うような、合わないような。そんな友人関係だが、大学ではだいたい一緒にいる。僕は人との対話は苦手だし、こいつもこいつでそういうのが苦手だ。だからそれぞれ友達が少ない。

 …………言っていて悲しくなってきた。なんてことはない。事実だし。

 大学の門から出て、陽斗と帰路につく。駅のホームまでは方向が同じなので肩を並べて共に行く。

「へー。じゃあお前は天国も地獄も無い派なのか」

「派ってなんだよ……」

 唐突に始まった『人の死後』の話。人は「善人は天国へ行って快楽を得て、悪人は地獄へ落ち苦痛を与えられる」と言う。いや過去形か? まぁ、いいか。

 しかし僕の意見は違う。

「死んだら魂が肉体から離れ、その世の記憶が抹消され、新たな肉体を得て新たな個体として再び生まれる」

 つまりは転生。これが僕の考えだ。ただしその「肉体」というのがまた人であるか、もしくは他の動物か、あるいは植物か。それはわからない。とにかく、死んだら何か「魂があるもの」に生まれ変わる。というのが僕の意見だ。

 それを説明すると、「ほー」と納得したような、驚いているような、興味あるような。そんな表情で俺を見た。

「そういうお前は、どうなんだ?」

 聞かれたことを、言い出しっぺに聞き返す。

「俺? 俺は、『無』だと思う」

「無?」

「そう、無。人は死んだら何も無くなる。感覚も、意識も、何もかも」

 語っている陽斗の瞳は少し陰り、しかし妙な明かりを灯した。仄暗い色をしていた。

 こいつが過去に何があったのかは知らないが、辛いことでもあったのだろうか。つい、そう思ってしまうような瞳で、前を見つめていた。

 ……アホらし。

「ま、興味はないけどな」

「だろうな。お前は基本、自分に関わりそうなこと以外はどうでもいいヤツさ」

 さっきの陰りがなくなり、いつもの色に戻った。

 何やってんだか。

 改札を通って駅構内に入る。こいつとはここでお別れだ。電車の行き先が違う。

「じゃあな」

「おう。また!」

 ホームに入ってすぐに電車が来た。行き先が俺の目的駅の少し先。これに乗ろう。

 少し早足でそれに乗り込み、ポケットに入れているウォークマンを取り出す。

 今日は帰りが少し早いからか、電車内にはポツポツと空席が出来ていた。と言っても、やはりひとりで二人分の席を使っている愚か者もいるのだが。……ちっ。

 その向かいの座席には一人が座れそうな空間がある。が、あえて二人分を使っている野郎の方に足を向ける。そいつは僕が近づいたことに気付くと、向かいの空席を一瞥し、そして面倒そうに、嫌々といった様子で体をずらしスペースを空けた。だったら座んな。

 その男に嫌悪感を抱きながらも隣に座り、小説を開く。イヤホンから流れ出る音に耳を傾けつつ、目と脳では字を追い、読書を始める。

 しかし、

 いつの間に寝てしまったのだろう。気がついたら降りる駅に着いていて、ドアが開くところだった。

「あ、やべ」

 立ち上がり、急いで電車から降りる。

 起きるのがもう少し遅ければどこまで行ってしまったかわからない。

 何度か目的の駅とは違う方に向かう電車に乗ったことがある。乗り換えすればいいと思ってのことだ。しかしそのまま寝てしまって、乗り換えをし損ねた事がある。そのおかげで「ここどこ!?」な状態になったことも何度かある。

 無事に降りることが出来て、改札から出て帰路につく。


「ただいま」

 自宅に帰り着くと、いつも通り自室がある二階へと向かう。

 背後から「おかえり」と聞こえたが、それはいつものことだし、そのまま返事もせずに部屋に入る。

 すぐに机の一部を占領しているノートパソコンを開き、電源を入れる。

「はぁ……」

 椅子に座り、大きなため息を吐く。

 少しするとパソコンがパスワード入力画面に変わる。設定しているパスワードを入れると、“Welcome”の文字が浮かび、見慣れたデスクトップ画面が映された。

 その中から音楽ファイルを開き、適当にダブルクリックして再生する。

 それを聞き流しながら、バッグに入れていた小説を取り出して、読む。

 家にいるときはだいたいこうしている。特に目的もなくインターネットを使うか、溜まっている本を読むか、既に読んだ漫画を再読するか、思い出したようにゲームをするか、好きなアニメとか見るか。だらだらとしている。その方が楽だし、楽しい。

 たまに「高校生にもなってアニメかよ」なんて言ってる人がいるけど、僕は大学生にもなってアニメ見てる。別に好きなんだからいいじゃん。問題ないでしょ?

 それはともかく。

 課題が出されているときはそれもしなければならないが。正直やる気にならない。目先の飴玉にばかり手を伸ばし、その先にある幸せのために鞭は振るわない。そして目の前に辛いことがあれば、どうにかしてそれを避けようとし、逃げる。とても楽で、甘美で、将来のことを全く考えていない、自分を甘やかす生活をしている。

 余談だった。

 そのうち下から声がかかり、夕食の準備が出来ていることを知る。

「はぁ……」

 面倒臭い。

 下に降りるのが、面倒だ。

 たったそれだけの事なのに。

 部屋まで持ってきてくれないだろうか。

 そう思いながらも、膝を押して立ち上がり、ドアを開けてリビングへと向かう。

 この日は、これ以上特に何もなかった。


 そしてその日以降も大して変わらない、僕にとってのいつも通りの日常を過ごしていった。


  ✽ ✽ ✽


 大学の授業も中頃に差し掛かったある日。

「大学、やめようかな……」

 なんの前触れもなく、唐突に、陽斗にそう告げる。

 その友人は、僕の言葉を聞くなり呆けた顔になって、笑い出した。

「は? やめるって……突然どうした?」

 笑いの混じった質問。しかし馬鹿にしているのではない。驚いているのだと思う。

「いや……なんか、始めはこの仕事やりたいなと思って入ったんだが……しばらく授業受けてみて、もう、わかんなくなった……」

 それに続き、別のことにも興味を持ち始めているということも告げる。

 その話を、こいつはバカにせずに、柔らかい表情のまま、真剣に聞いてくれた。

「へぇ……んで? やめてどうすんの? その仕事に関連する学校に行くのか?」

「あー……なんか……勉強、疲れた……」

 質問に対して、的を外したような、しかし的確と思った返事をする。

「………でも、その事について、続けられるのか?」

 パック牛乳のストローに口をつけながら、問われる。

 それは、自分でも心配していることだ。

 興味あることも、やってみたいと思うことも、僕にはたくさんある。しかし、それらをやろうとする行動力がない。それにそれらを長く続けられるほどの気力や根気がなかった。ハマっても、すぐに飽きてしまう。熱しやすく冷めやすい、この性格。

「………どうなんだろうな……」

 天井を仰ぎ、一言だけ発した。

 今思えば、僕は人生を楽な方に、楽な方にと生きてきたと思う。

 親がするままに塾や習い事をし、長めに続いたが「もういやだ」とやめてしまい、親が言うままに中学校を面接受験し、そこからエスカレーター式に高校に入ったが、ついていけないと途中で投げ出し中退。しかし高卒という肩書きはあったほうがいいと思い高校卒業認定試験を受け、そのために付け焼刃で塾へ通う。大学は、少し興味があったというだけでこの大学を受験して、出される課題は「これでいいか」と適当に仕上げ、すでに単位をいくつか落としている。

 様々なことに嫌気が差し、面倒臭がって、適当に生きて、逃げてきた。そういう癖がついてしまっている。

 そのツケが、今ここに回ってきたのだろうか。

「ふーん……まぁ、いいんじゃん? やめたいならやめればさ」

 ストローを吸い、パックの中身を飲み干す。

「でも、たまにはさ。そのデカイ敵に立ち向かうのも大事だと思うぞ?」

 空になりクシャっと潰れたパックのストローを咥えたまま弄び、言葉を紡ぐ。

「生きてりゃ、そりゃ何度も敵にぶつかるさ。逃げるのもいいと思う。でも、それをずっと避けて逃げてるだけじゃダメだろ。たまには立ち向かってかなきゃ」

「……立ち向かう勇気もやる気もない」

「んならそのまま歩き続けろ。そうすりゃ自然と壁にぶつかるさ」

 そしてその壁をぶち壊していけ。気楽に、ケラケラと笑いながら言われた。

 なんかこいつは適当に答えているだけのような気がする。

 しかし、なぜかはわからないが、僕のことを思って、真剣に答えてくれたのだろうと、そう感じた。

「人間、壁にぶつかって、デカイ敵に遭って、それを踏み越えて成長するんだ。逃げることは学ぶことでもあるとは思うけど、困難を乗り越えた方が、もっとデカいもんを得られる」

 そう言ってくれることが、嬉しかった。

「でもま、結局はお前が決めることだから、どうこう言うつもりはないけどな」

「……もういろいろと言ってるが」

「ん? そうか?」

 恍けたように言い、またカラカラと笑う。

 このやりとりが、どこか心地よかった。

「しかし。本当に突然どうした?」

 改めて、最初と同じ質問をされた。

 大学をやめようかどうか、という考えについては、入学して一年くらいのところでもう既に考え始めていた。

 しかし、きっかけになったことと言えば……。

 そう考えると、思い当たる点があった。

 ずっと頭に残っている、脳裏に焼き付かれた、あの言葉だろう。

 ――惰性で行ってるのなら、大学なんてやめてしまえ。

 父さんに言われた言葉だ。

 惰性で行くなら無駄だから、と。それならやめた方がいい、と。

 何を思ってそう言われたのか。それはわからないが、そう告げられた。去年の冬頃、だったか……。その言葉が頭に残り、時々チラつくのだ。

 言われたときは、まだ続けるという事を言った。

 しかし、

「もう、わかんねぇ……」

 本当に、この職業に就きたかったのか? いや、ちょっと興味があっただけだ。もっと楽だと思っていた。大学生活は楽しいものだと思っていた。遊んでいられるものだと考えていた。

 それが、とても簡単に考えていたことは、わかっている。

 現実も目の当たりにしているつもりだ。

「面倒だな……いろいろと……」

「そうだな。生きんのは面倒なことだな」

 でも、僕だけがそう思っているわけじゃない。

 ほとんどの人がそう感じて、しかしそれを受け入れて、乗り越えて、生きている。

 僕は、そうではない。逃げようとしている。それは、生きることから逃げたいからなのだろうか……?

「なんて、な」

 小さく呟く。

 もうわけわからない。

 その事に関して悩むのは一旦中止だ。

「ところで今日はどうするよ」

 珍しく僕の方から提案する。

「ん? まだ授業があんだろ」

「今日の授業が終わったら」

「そうだな……なんか食ってかね?」

「いいねぇ……ラーメン食い行こう」

 そういうわけで、本日は帰りにラーメンを食べてくことになった。

 その旨を親にメールし、でも帰ってからも少しは食うということを伝える。


 この日の授業を全て受け終え、放課後になり駅前のラーメン店。

「んー……俺は野菜たっぷりタンメン」

「味噌ラーメンと餃子を一枚」

「はい、かしこまりました。ご注文を繰り返します――」

 品が来るまで雑談し、来たらそれを食べながら雑談し、食べ終わってそれぞれの駅に向かう線に向かってこの日はさようなら。

 やっぱラーメンは味噌だな。


  ✽ ✽ ✽


 そうして数週間が過ぎていき、授業も後半に差し掛かり、先生たちが期末試験について話すようになってきた。

 と言っても、内容はまだ告げられていない。そろそろ試験に向けて勉強しろよという言葉がかけられるだけだ。

「はぁ~……もうすぐ期末か~……」

 その日の帰り。共に帰っている陽斗がそう零した。

「もう勉強始めなきゃな~……」

「早いな。まだ範囲も聞いてないだろ?」

「そうだけど……早めにやっとかにゃ、俺の頭じゃ足りん」

 こいつはいつもそうだ。

 早め早めに準備して。しかしまさかの範囲外を勉強するという。何とも間抜けな結果を生み出していた。

「お前だって。自分でよく言ってるだろ? 記憶力ないって」

「あぁ。だから勉強しても無駄なんだ」

「そっちにとっちゃったか……」

 僕は今まで、中高とほとんど勉強をしてこなかった。テスト前でもだ。

 理由は単純。面倒だったから。

 最悪な理由だ。

「努力して上回ろう、とは思わないのか?」

「……メンドイ」

「最悪だな、お前」

 わかっている。でも、やる気が出ないのは本当のことだ。

 そもそも、絞りきってカラッカラになった雑巾をいくら絞ってもそこから水滴は出ない。

「てか、勉強の仕方がわからん」

「それはそれでひどいな」

 今までテスト勉強をしてこなかったツケがここに回ってきた。

「今度はあんま落とさないようにしろよ」

「……善処する」

 そうとしか答えられない。

 勉強する気はさらさらないからだ。

 …………ホント、最悪だな。


  ✽ ✽ ✽


 そしてとうとう、嫌な嫌なテスト週間。

 今回は、事前に先生たちが教えてくれていた範囲を、ざっとではあるが勉強してきている。自信は当然ない。

 その自信の程は、ほぼ皆無と言ってもいい。

 テスト週間時の時間は若干ズレている。そのため、時間が少しわからなくなり、危うく遅刻しそうになった。危ねぇ危ねぇ、ギリギリセーフ。でもそのおかげでテスト前の勉強が出来なかった。いや勉強じゃなくて見直しか。

 だから点数には、自信ない。言い切れる。

 …………自慢にもならねぇな。


 そして期末終了。

「お前、どうだった?」

「ん? 自信ある」

「お、マジで?」

「あぁ。落とす方に」

「そっちか~……」

 自信満々に告げると、駄目だこいつ、と言いたげな表情になった。

 仕方ないじゃん。勉強嫌いなんだから。……じゃあ何で大学に進学した、って話になるんだけどな。

「これからどうすんだ?」

 珍しく、ではないが、僕の方から話を振る。

 もう試験は終わった。明日からは夏休みだ。長期休暇ヒャッホー。

 つまり家に帰って勉強という面倒で嫌なこと――僕はほとんど勉強してないが――から解放されたことを祝福したい。そんな気分。

「んー……カラオケ行こうぜ」

「……じゃ、そうするか」

「おう」

 即断即決。やることは決まった。

 というわけでカラオケに行くことになった。


 その日、僕たちははしゃぎまくって、危うく喉が潰れかけた。

 翌日は喉が痛かった。


  ✽ ✽ ✽


 夏休みに入って、特にやることもなく、ただただ、うだうだぐだぐだと過ごし、本当に何もせずに、ただただのうのうと過ごしている。まだ三日しか経ってないけどね。既に堕落してます。

 しかし一日だけ、大学に行く用事があり、大学へ行った。それはうちの学科の生徒が対象となった、特別講義。大学内の一番広い教室で行われる講義だった。

 そしてその講義が終わり、受けていた学生が一気に帰宅モードになった。

「ハル!」

「なんだ?」

 帰り支度をしていると、焦ったような声色で陽斗に名を呼ばれた。何か急いでいるようだ。

「すまん! ちょっと頼まれてくれないか?」

「何を?」

「ちょっと、部室棟に行って取ってきてほしいもんがあるんだ」

 なんとなく、嫌な予感がした。

「……それいつ?」

「今日」

 予想は的中した。

 急過ぎだろ、こいつ……。

 てか何で俺が……自分で行けよ。

 しかし、なんとなく別にいいかと頼まれることにした。

「わかったよ……」

「おぉ! 助かる! 部長には話通してあるから」

 面倒臭いな……。

 そう思ったが、今日も今日とて何もない。暇つぶしに利用させてもらおう。

「明日お前にそれを渡せばいいのか?」

「あぁ。それでよろしく。頼んだ!」

 陽斗から部室の場所を聞き、バッグを肩にかける。

「でも何で自分で行かん?」

 興味があったので、理由を尋ねてみる。

「ん? デート」

 とりあえず脇腹を殴っておいた。


 奴から聞いた部室の場所へと向かい、階段を上る。

 陽斗は演劇系のサークルに所属している。確か、映画研究会、だったか?

 普段から部活で何をしているかは知らないが、時々練習のために早々に教室から出て行ったりしている。あいつは何を担当しているのか知らないが、音響や大道具、カメラに照明、役者と様々な役職があり、大変そうだ。

 ……そういえば、何を取ってくればいいんだ?

 今頃になって気づく。もうすぐ映研の部室だ。

 しかし僕はあいつから何も聞いていないことを思い出してしまった。

 まぁ、話は通してあるらしいし、行けばわかるか。大丈夫だろう。

 ………たぶん。

 例の部室の前についた。

 正直、超緊張する。帰りたい。気持ち悪くなってきた。心臓がバクンバクン言っている。嫌な汗が滲み出てきた。

 しかし陽斗に頼まれ、それを受けた以上、引き返すわけには行かない。

 一度深呼吸をして、ドアをノックして中に入る。

「失礼します」

 中にはこの部の部員であろう男性が一人いた。

「ん? どうした? 入部希望者?」

 こんな時期にそれはないと思うが。

「いやあの……あいつなんつったっけ……」

 いつも下の名前でばかり呼んでいるので、苗字がすぐに出てこなかった。

「えっと……あ、そうだ。箕輪に頼まれて来たんですけど……」

 しかし名前を告げるだけではわからないようで、学科と学年を次いで教える。

「あぁ、うん。話は聞いてる。えーと……」

 そう言うとその学生は机の上にある束をいくつか見て、その中からひとつを選んだ。

 そういえばあいつ、話は通してあるって言っていたな。既に決まっていたんじゃないか? なのに僕に今日行って欲しいってこと事前に言い忘れてたな、あの野郎。

「……これだ。ほい。悪いな」

「あ、いや……」

 これは、きっと台本だろう。タイトルと作者の名があり、そしてつらつらと文章が並べられていた。その上部には演出が記載されていて、普通の小説とは違う。

「ところで、あいつが今日来ない理由って知ってるか?」

「さぁ……聞こうと思ったらごまかされまして……」

 デートと言っていたが、あれは嘘だ。あいつ彼女いないし。

 人と会っているのはそうなのだろうが、バイトの面接でもないだろう。たぶん中学だか高校だがの時の友達と会う約束でもしているのだと思う。

 ちなみに、いつだったかの「死後について」の話していたときのあの顔もあいつの演技だ。細かいことは知らないが、そんな暗い過去はなかったはずだし。

 予定のものは受け取ったし、「失礼しました」と出ようとする。

「あ、ちょっと待った」

 しかし止められてしまった。

 振り返って見ると、また机にある資料やら何やらを漁り、その中からまたひとつを選び出す。

「これ。上の文芸部に持ってってくれないか?」

「はぁ……なぜ僕が……」

「すまんな。こっちもこれからちょっと用事があるんだ」

 言葉を発しながら、何やら出かける準備をしている。これからどこかに撮影許可でも取りに行くのだろうか。

「急ぎじゃないし、別に断ってもらっても構わないが」

 行ってくれると助かる。そう言いたげな目をこちらに向ける。

 ……まぁ、別にいいか。断るのも面倒臭い。

 というわけでそれを了承し、紙の束を受け取る。

 映研の部室を出る際、

「ありがとう」

 礼を告げられた。

 なんだか、小っ恥ずかしい。


 またもうひとつ階を登ることになった。

 受け取った紙の束のひとつ、陽斗に渡す台本を鞄に入れ、もうひとつは小脇に抱えて、階段を上る。

 向かうのは、さっき教えてもらった文芸部。“部”とついているが、サークルらしい。

 どの部屋かは一応聞いたので、まぁ向かえば大丈夫だろう。

「……何なんだろう……」

 渡されたものが何か。ふと疑問に思い、口にする。

 それが何かは知らされなかった。知られてはまずいものなのだろうか。しかし、もしそうならこうして部外者である俺におつかいなんて頼まないだろう。

 問題ない。勝手にそう判断し、階段を上りつつ中身を見る。

 どうやらこれも、台本のようだ。だがさっきのとは違い、演出の指示がされた部分はなく、本当に小説のように書かれている。……いや違うな。小説だ、これ。たぶん。

 しかし、さっき少しだけ読んだ台本とこの小説の原稿のようなもの。タイトルも、文の始まり方も、最初の台詞も、全てが似ている。いやそれどころか同じだ。

 どういうことだろう。

 これは文芸部へと持って行って欲しいと頼まれた。陽斗に渡す台本と内容は同じ。それらはどちらも映研から受け取った。

「そうか」

 そこで、脳を電流が駆けた。

 これは、つまり……、

 ……………………いや、気のせいだったらしい。繋がらなかった。

 いつの間にか部室の前につき、また深呼吸をして、ドアを叩く。

「………………」

 返事がない。

 いるかどうかはわからないので、一応返事を待ってみたが、それがない。

 もう一度ノックしてみる。

「………………」

 しかし、やはり返事はない。

 誰もいないのだろうか……?

 だとしたらもう用はない。帰ろう。

 そう思い踵を返そうとするが、なぜだろう。そこから動けない。足が動こうとしない。

 なぜか、そのサークルにとても強く惹きつけられる。

 そのドアのノブに手をかけ、押す。

「……開いてる……」

 ドアは開いていた。つまり、この部屋には誰かがいるようだ。

「……失礼します」

 部屋を開放し中を見ると、そこにいたのはひとりの女学生だった。

 窓辺に椅子を置き、そこに座って、本を読んでいた。

 窓から入る日の光りが輝き、その女性をシルエットのように映し出していて、とても神秘的だ。

 僕はその光景に、目を奪われた。

「…………あれ?」

 一枚の絵のようなその光景に釘づけになっている間に、女性がこちらの存在に気づいた。

「ごめんなさい。気づかなかった……えっと……ご用件は? あっ! もしかして入部希望?」

 少し目を輝かせて尋ねてくる。

 ……最近、その単語が流行っているのだろうか……?

「いやあの……これを……」

 下の階の映研から預かった紙束を差し出す。

 それを見て、女性は立ち上がり、こちらに近づいてくる。

「映研からです」

「あー、これね。……うん。ありがと」

 追加説明をすると、受け取った小説であろうそれを、彼女は自身のカバンに詰め込み、例と共にこちらに微笑みかけた。

「君は……映研の新入部員、なのかな?」

「いえ、違います……」

 とりあえず、自分の学科、学年、名前、所属を答える。ちなみに所属はしていないので、高校で言うのであれば帰宅部だ。

「トウヤマハルカくんって言うんだ」

 漢字を教えているわけではないので、どう書くかは知らないだろう。

 でも多分、遠山(とうやま)(はるか)だと思っているんだろうな………。

「……女の子みたいだね」

 何だこの女。初対面相手にいきなり失礼な。

「僕は気に入ってる」

 ぶっきらぼうに答えると、またにこやかに笑って、

「うん。いい名前だと思うよ」

 と付け足した。なら言うなよ。

「私は、英米語学科二年の柊木(ひいらぎ)香月(かづき)

 ……ヒイラギカズキ。

 漢字は分からないが、なんとなく、いい響きだと、綺麗な音だと思った。

「……男みたいな名前ですね」

 しかし、そんな思いとは裏腹に、僕の口からは彼女と同じようなことを言っていた。

 いや、多分言われたことを言い返したかっただけだと思う。

 本当は、好きな名前だった。

「うん。よく言われる。私は気に入ってるけどね」

「そうですか……」

 会話はそこで終わった。

 ヒイラギさんは僕から視線を外し、何やらバッグを漁り始めた。

 僕自身は、少しこの部屋を見回していた。

 しかし、なんだろう。

 何かここには惹かれるものがある。

 静かなところだ……。そう思った。

 ここに対する、純粋な感想で、真っ先に思った第一印象。

 下の階からも外からも音がするし、賑やかな方かもしれない。でも、そんな中でも、静寂に包まれているような。そんなに気なるところだった。

 でも、そんなことはどうでもいいか。

 それよりも、この部員――部長? のヒイラギさんに聞きたいことがあった。

「さっきの……あれ、何ですか?」

 外していた視線を、また僕に向け「あれ?」と小首をかしげて聞き返してくる。

 あれというのは、僕がここに持ってきた預かり物の紙束のことだ。

 そのことを伝えると、納得したように「あー、あれね」と言葉に出して、一言、

「小説だよ」

 と告げた。

「……………………」

「……………………」

 僕たちの間に、短い無音が訪れた。

 …………………………え、それだけ?

「それだけ、ですか?」

「ん? うん。それ以上はないと思うけど」

 僕が聞きたかったことと違った。

 あの束が「何であるか」ではなく、「何で映研からこちらに来たのか」という理由を聞きたかった。

 そう細かく尋ねて、ようやく答えがわかった。

「あれは私が書いた小説。それを映研で映像化するの。今度の文化祭の共同制作として」

「共同制作……」

 なるほど。これでやっと繋がった。

 あの台本は、この人が書いた小説を元に書かれたものだった。だから似ていたのだ。どっちからの提案かは知らないが、物語を文芸部が提供し、それを映像化して、合作の映画を作ろうとしているようだ。

 これですっきりした。もうここに用はない。

 ヒイラギさんに礼と別れを告げて部屋を出ようとして、それをやめた。

 彼女は、バッグからノートを取り出し、何やら書き始めていた。

 あの紙束は、彼女が書いた小説だと言っていた。もしかしたら、また何か書いているのではないか?

 そう思い、気になって、背後からそのノートを覗き込む。

「………………」

 小説ではない。一つ一つの文章が短い。短文だ。しかもそれらは繋がっていない。というか日本語でなかった。いや日本語文もあるが。

 そこに書かれていたのは、日本語で書かれた文と、英語で書かれた文章だった。

 なんだこれ……。

 ノートに書かれていることが何かを考えていると、僕の気配を感じとったのか、ヒイラギさんが首を振り返させた。

「うわっ!」

 そして僕の顔を見るなり驚愕の声を上げる。

 …………驚きすぎじゃね? いくら僕でも傷つくぜ。

 まぁいいけど。

 振り返ったついでに、この短文が何であるかを聞いてみることにした。

「これ、何ですか?」

 その格好のまま、ノートに目をやったままで聞く。

 彼女は何かを言おうとするが、口をパクパクするばかりで音が出ない。さらには顔がだんだんと赤みを帯びていく。

 そしてとうとう、顔を逸らされた。

「ち、近い……っ!」

 逸らされた上に言われた言葉を正しく認識するのに、数秒かかった。結構近くまで顔を寄せていたらしい。

「あぁ、すいません」

 前に折り倒していた体を起こし、改めて尋ねると――僕を一瞥した後に――答えが返ってきた。

「うちの学科科目の課題」

 なぜか少し恥ずかしそうにして言った。

 あー。そういえば英米語学科だったっけ。うちも英語は授業にあるけど。

 またノートを覗き込んで、その文章を読む。

 きっと『次の文章の問を英訳し、英語で答えなさい』みたいな問題なのだろうと思う。日本語文があり、次に英文、そしてまた英文と並んで書かれている。ちなみに文の頭には順番にQ、Q、Aと書かれている。

 そしてさらにその問題を読んでみる。

「…………これ、間違ってます」

 一番上の一文を指差し、指摘する。

「え?」

「これじゃあ意味が通じません。それに、“繁華街”を英語で“night town”なんて言いません。それじゃあ単に“夜の街”です」

 問題はこうだ。

 『繁華街まで行きたいのですが、道を教えてくれませんか?』

 それに対して彼女の英訳は、日本語にすると、

 『夜の街に行きたい。どうやっていけばいいですか?』だ、と思う。

 ……まぁ、自信はないのだが。

 …………関係ないか。

 さて。帰ろう。邪魔すんなって怒られる前に。

 別れを告げて部屋から出ていこうとしたとき、

「ま、待って!」

 なぜか呼び止められてしまった。本日二度目。そんなに文句を言いたいのだろうか。

 振り向いてみると、期待に胸を膨らませ目をキラキラとしている少女がそこにいた。

 え? 何ですか?

「君、英語得意なの?」

「いや全然」

「私、英米語学科なんだけど、あんま得意じゃなくて! 出来れば教えて欲しいんだけど――って、えー?」

 英語とか。面倒臭いし。好きくない。得意でもない。

 もういいかな。

 改めて別れを告げようと――――

「でも今……!」

 ………無理だった。

「面倒臭いので帰ります。それじゃ」

 無理に終わらせ帰る。

「待って!」

 しかしそれを遮られた。

 後ろにいる――であろう少女が僕の服の裾を摘んでいるのだ。たぶん。

「……なにか?」

 区切るように尋ねる。

「教えて!」

 僕さっき、英語は得意じゃないと言ったはずなんだけどな……。

「得意じゃなくていいから!」

 そう伝えようとしたら先回りされた。

 それほど苦手なら何で英米語学科に入ったんだ、この人。

「悪いけど、僕は英語は好きじゃないです。面倒臭いし」

「それでもいいから」

「教えたとしても、合ってるって保証はできないです」

「それでもいいから!」

「不正解率高いですが」

「それでもいいから!!」

 いやそれは良くないだろ。

 もう面倒臭い。何も言わずに放してもらうのを待とう。

 口を噤み、解放を待つ。

 すると向こうも噤み、何かを待つようにこちらをじっと見る。

 それが平行線的に続き、ただ無意味に時間が過ぎていくだけ。

 ……面倒臭いなぁ……。

「はぁ……わかった。わかりました。手伝います。でも正解の保証はしませんよ」

 とうとうこちらが折れる。

 言って振り返ってみると、パァっと笑顔を輝かせている、とても同い年とは思えない少女のような人がいた。てかずっとそんな感じだった。

 その人は僕に礼を告げると嬉しそうに、ウキウキと椅子に座り、早くと急かしている。

 何なんだ、これ。

 仕方ないので僕もその隣に座り、ノートを見て、教える態勢になる。

 予定なら普段よりも随分と早く帰れるはずだったのに。

 この日は結局、このヒイラギカズキさんに英語の授業をすることとなった。面倒臭いなぁ。

 結局うちに帰り着いたのは、いつもより少し早いくらいの時間で、ほとんど大差なかった。


 夕食後。映研から預かった台本を見る。結構分厚いが、どれほどのものを撮る気なのだろうか。

 これについてどうするのかを聞くために、陽斗にメールをする。

『預かってきたぞ。いつ渡せばいい?』

 台本の中身を見ながら返答を待つ。

 へー。結構大作になるのかな? ちょっと楽しみだ。

 少し時間が空き、やっと返信が来た。

『サンキュー。じゃあ、明日頼む。時間は空いてるから』

『了解』

 その後、何度かのやりとりで待ち合わせの時間と場所を決め、この件に関してはここで終わり。話題を変える。

『これ、お前、主役みたいだぞ』

 このメールに対する返信は、意外に早かった。

『マジで!? いやねーよ』

 何とも否定的な。

 そういや、前にも言っていたな。主役は勘弁、的なこと。

『あぁまぁ、嘘だからな』

『嘘かよ! んで? 本当は?』

『それは自分で確認しろ』

 やりとりを無理矢理終わらせるように『じゃあな』と文末に乗せて送る。

 返信で『あぁ。明日』と来たが、それには返さず、これでメールは終了した。


 次の日。待ち合わせの時間に決めた場所へ行き、陽斗と会って例のものを渡した。

 特にやることもなく、暇だったので、その後はこいつと他愛もない話をして、夕方頃にそれぞれの家へと帰った。


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