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胸に穴が空く

平河はうだるような夏の日差しの中、一人寂しく空を見上げていた。あの日から幾日が経過しただろうか。

無為な日々、無為な行い。その習慣の一つに匚盛の土地、唯一の脱出路である橋まで散歩をすることであった。

橋の下、殺人現場となった場所には黄色のテープが張り巡らされている。人の形になぞられたチョークを彼は血走った目でじっと見つめた。

ここで殺された女性は、どんな気持ちで死んだのだろう。この世界には死が溢れている。誰も彼もが自分だけを置いて逝ってしまうのだ。ならばどうして自分達は生きているのだろう。

また、世界が規模を縮小する。思考するのも行動を起こすのも、全て己の内面が決定しているのだ。他者から干渉されない今こそまさに、自分は自由で孤独だった。

「平河、そこにいるのは平河か?」

 少しだけ世界が広がった。広がった部分は明の居場所になる。彼女は、土手を下りてこちらの表情を視界に収めようとしてくる。

「親御さんから聞いたぞ、あの日から一週間。ほとんど何も食べていないそうじゃないか」

頷きもしていないのに彼女は心配そうな声を出す。

「ショックなのは分かるが。それでお前まで倒れることになったらどうするんだ?」

「別に、どうともならない」

元気で居ればそれだけで失われた命が返ってくるとでも言うのか。平河は顔を身体に埋めながら、

「菊華も行方不明になっちまって。俺の大事なもんがどんどん無くなっちまって行ってるんだ。

 怖い、怖いよ」

たまらなく寂しい、と漏らす。

「……唯子さんも責任を感じていた。大人の自分が居たのに、不甲斐ないと」

「あの人は意識失ってたんだ。その間にあいつが貞女を探しに出たなんて知る由も無かっただろう。実際、あの場に居た中じゃ一番最後にあいつの失踪を知ったんだからな」

一週間前の夜。貞女を捜索していた平河達とは別に、菊華も一人で彼女の足取りを追おうとしたらしい。結果、彼女を発見したのだろうと平河は判断する。そして拉致された。

「もう、死んじまってるだろ。あいつ」

「滅多なこと言うもんじゃないぞ。まだ死んだと決まった訳じゃない」

「時間の問題だろ」

連日のように発見される死体達はどれも行方不明になっていた人々で、姿を眩ませたその日に殺害されているようだ。早ければ翌日の朝には発見される例があるが一定日数を過ぎてから発見されるものもある。

つまり菊華は後者の存在であるということだ。残された彼女の友人がやれることといえば早めに彼女の遺体が発見されるようにと祈るだけだった。

だから平河は無為に日々を過ごす。祈る神が犯行を重ねているのに、そんな場所へお参りに行く気も、心の中で祈るのも馬鹿馬鹿しいと感じたからだ。

「神様、か」

「ん、どうした? 私に何か言ったのか?」

あの日、菊華が貞女を擁護する時に発した言葉を思い起こしていた。クーサマが犯人、彼女はそう言っていた。だから可哀想だと。

「だったら──」

彼は腹から声を絞り出した。不服であると天に伝えるように。

「ここで起きてること全てが、仕方のないことだってのか!? 神様だからって人を殺しても良いのか? なあ、おい!」

「平河っ、落ち着けって!」

こちらの身体を抱きしめる明。久しぶりに感じた他者の温もりだった。夏の温度に晒されながらも、心が穏やかになる感触だ。

「皆、消えてしまう。俺だけになってしまう」

「私が居るだろう」

「明日までお前が生きてる保証も無いだろう!? なあ、明。俺よ、お前の事が好きなんだよ。

傍に居たいんだ。死んで欲しくなんかない……」

更に小さくなってしまう平河の肩に、まるで明は甘えるように顔を乗せる。

「泣くなよ。でも、涙を流してまで心配してくれるってのは、嬉しいな」

明が優しく涙を拭ってやると、平河は顔を上げた。恥も外聞も脱ぎ捨てた男の泣き顔だった。

「傷心につけ込むみたいで、こういうのは嫌いなんだが──」

にこり、と笑ったのも一瞬。彼女は平河の頭を抱えるようにしてその唇にそっとキスをした。

「……っ」

驚いた平河からは何の言葉も出てこない。明もそっぽを向いてそれっきり黙ってしまう。互いに赤面しあってから。

「私は……初めてだぞ」

「……そうか」

「そうか、じゃない!」

いきなり怒り出した明に一言。

「済まん、あの晩貞女に強引に……」

「つまり何番目だ?」

「二番目」

「そっかぁ」

へなへな、と緊張の糸が切れたみたいに脱力する明。平河は少し傷ついたような顔でぼやく。

「何だか俺。強引にされてばっかりだな」

すると、素早く身を離した彼女が警戒しながら言う。

「そう言われるとだな……心の準備がだなぁ!」

「待てい。こっちもそんな意図で言った訳じゃ無いからな、全く」

「ごめんな。もしかして、嫌だったりした?」

「いんや、元気出た。ありがとな」

平河は正直に答えた。自分でもいつもと同じような思考と行動パターンに戻っていると実感出来たからだ。

となると、身体の機能も正常に働くのかここで腹の虫が一声。

「サンドイッチ持ってきたけど、食べるか」

「貰うよ。……ラップしてあるけどこれ、手作りか?」

「まあな。色々考えた結果、一番断りにくいものとして。家族以外の人間が作った手料理ってことになってな。作ってみた」

さっきのキスも断りにくさの要因になっているが、それも計算の内だったのかとは訊かない。

パンに挟まれていたのはレタスとハムとマヨネーズ。炎天下にマヨネーズを持ち出すのは断りずらさも倍増するが食あたりの危険性も上昇する。

「あむっ」

一口食べて、咀嚼。旨い。作った人間が違うだけで抱く感想が違うのは何故だろう。

「文句ない味だ」

「もっと他に言い様があるんじゃないか」

「うんまい」

「それで良いよ。もう」

ともかくお前に元気が戻ったようで嬉しいよと、彼女は続けた。平河は感謝の言葉を述べた後、吹っ切れた顔で、

「驚くべきことがさっきあったからな。前向きにもなるさ」

そんな冗談を言えるまで回復していた。さっきまでの沈んでいた自分とは大違いだと心に思いながら流れる川を見つめる。

川は静かに動いていた。常に移ろいながらも不変のそれは、まるでこの世界の比喩のようだ。

「当たり前か、そんなこと」

またも不審な目を向けてくる明に無言で応えると、視線の端に見知った影が映った。驚愕と共に振り返ると、一週間前と同じ格好で、くたびれた様子の菊華がこちらを見下ろしていた。

背筋が寒くなる、感情の無い瞳。平河は彼女の名を呼んだ。

「菊華っ!」

「え? 何だとっ!?」

明も振り向き、驚いたようだ。

こうした反応は予想外だったようで、気まずい表情を浮かべながら菊華は、ただいま。とだけ言った。

「お前、今のいままでどこに居た? 俺達、探してたんだぞ。あまりにも見つからないからてっきり……」

「それは言えないの。ううん、言うなって止められてるの」

菊華はそこで衝撃的な人物の名前を口にした。

「──貞女ちゃんから」

「貞女と話したのか」

こちらを見下ろす彼女の瞳は、どこか超然的なものがある。一週間前とは雰囲気が違う。話しかけるのを躊躇ってしまう神秘性のようなものがあった。

七日にも及ぶ神隠しが、自分の印象を変えてしまったのだろうか。

「今夜の零時丁度に、匚盛神社まで来て欲しいって。貞女ちゃんが」

「要件は何だと?」

首を振る菊華。どうしてそこで拒否を示すのか、平河には想像も出来ずにいた。更に彼女は不思議を重ねてくる。

「あたしね、今回の件で色々と分かったの」

「何言って──」

「何を言ってるんだ菊華ちゃん。私達にも分かるように言ってくれ」

こちらの発言を遮った明の声は焦りの色が見えた。しかし、菊華はまた首を振る。

「えへへへ……」

照れ笑い。そんな表情を最後に、彼女は姿を眩ませた。再び、どこかへ消え去ってしまった。

「──おい、待てよ……。菊華?」

「追うぞ、平河!」

平河が現状を認識するよりもずっと早く、明は走り出していた。土手を登って辺りを見渡すも、菊華の居た痕跡は消え去り。まるで最初から誰も居なかったかのように、世界はありのままを保っていた。

「意味判んねえ、意味判んねえってあいつ!」

苛立ちと焦燥からくる身体の変化。平河達はその後、二人で町中を歩き回ったが貞女は勿論の事、菊華の足取りすらも掴めなかった。


     □


その土地は昔、神様が訪れたことがあるのだそうだ。神様は村に繁栄を与え、住民に安息の日々を与えたとされる。しかし、その神様は人を殺して喰ったとも言われている。どうしてそんなことをしたのか、真実はどこにあるのか。それは誰にも分からない。

ただ、そんな伝説がこの土地にはある。それだけの話だ。

平河良平という名の少年は、この土地の事が昔から嫌いで嫌いで、しょうがなかった。どことなく排他的な町の空気と、言い様も無い閉塞感の為に。

だが、彼にも心安げる場所があった。それは家族と数少ない友人達のことだ。彼女らと居る間はどこまでも自由を謳歌していた。

匚盛は平河にとって忌むべき土地だったが、紛れもない彼の故郷でもある。いずれ帰る場所、ならば一度は旅立たなければならない場所。五臓六腑に思い出を詰め込んで、彼はこの土地を後にする。そんな夢想を毎日のようにしていた。

今日、ここまでの道のりまでは。そう考えていた。

「……?」

震えている。平河は足を震わせながら匚盛神社の階段を見上げてた。随伴する人間は居ない。

彼一人だ。

「明、怒るだろうな。……絶対に謝らないが」

時刻はあと少しで午後十一時、約束の時間の一時間前だ。彼は零時になったら自分の家に来るよう明に指示しておきながら、一人抜け駆けして匚盛神社まで来ていた。

「少なくとも俺は、知っておきたいんだ」

例え命を失うこととなったとしても。

「こんな事態が引き起こされた理由を、そんなもの最初から無かったとしても。納得をしたいんだ」

明には自分の身に何かあったときの為の保険として。いいや、彼女にこれ以上危険が及ばないようにと一人、敵陣の前に参上したと。そんな風に言ってしまって良いだろう。

匚盛全体の危険であるはずが、どうにも事件の根幹が自分の身辺にあるらしく、無関係な立場で居るのも無理が生じるように思われた。それに何よりもこのままでは据わりが悪い。

どんな結末が待っているにしろ、彼は最後に貞女と話がしたかった。

「ごめんな、明」

謝罪の言葉を口にしてから、はっと先ほどの言葉を思い出し一人赤面していると。

「謝るくらいだったら、最初からするな」

「うおっ! 明!?」

「集合時間の一時間前に来るのはマナー違反だ。それと、わざわざ集合時間にお前の家に集合って言うのもおかしいだろ色々と。もしかしてお前、何も考えずにここまで来たろ?」

「全てお見通しって訳か……くそ」

自分の計画が全て水の泡になったことを悟り、肩の力を抜くと。

「そんなガッカリするほど自信があったのか? 小学生にもおかしいって言われるぞ」

「確かに」

芽久が生きていれば、速攻で突っ込まれていただろう。

「しかし、この時間に俺が来るって良く分かったな」

「コンビニの前で張ってたんだよ」

「古典的だな」

張り込みされるほどに自分の言葉は信用されていなかったのかと、若干ショックを受ける。

「相手が単純だからな」

「俺はお前を危険な目に遇わせたくないんだ」

直接交渉し、帰宅を促そうとするが。

「そうやってすぐ自分だけで責任を負おうとするな。私ら、どう頑張っても一般人だろ? 事件の解決なんて最初から無理だし、そこで変に義務感を抱くのは駄目だぞ」

 私もこの事件の関係者だと胸を張る明に平河は告げる。

「……責任なんて感じてないさ。ただ俺はこの件について納得したいだけで」

「ほらそれだ。責任者ぶる」

「とにかくお前は帰れよ。唯子さん、心配してるぞ」

「黙って抜け出してきたから問題ない」

そういう問題じゃないことは彼女も重々承知の上での発言だろう。畜生と、口に出さず脳内で毒づいてから。

「死んでしまっても、お前が無事ならそれで良いと思ってたのに」

畜生、畜生と今度は口に出して言う。

「格好良いとこ、見せたくなったな。……五年以内に」

「……今じゃないんだな」

「ああ、これ一応、俺ン中で精一杯気取った言葉だからな。……どうだろう?」

「全体的に残念だな。特に後半の失速具合が致命的。次の機会に期待するよ」

期待されてしまった。嬉しいことに。

「それと私、こうゆうものでして」

名刺でも取り出すのかと思いきや、服の中から家庭用の包丁を取り出してくる。

「腹、殴ってたら大変なことになってたな」

「そんな選択肢があったのか……?」

「あぶねえってことだよ。護身用か」

新品なのだろう。ピカピカの獲物を手にした明が逆に尋ねてくる。

「そっちは何か持ってないのか。こう、武器みたいなやつ」

「友達と会いに行くんだ。要らねーよ」

命の危険が伴う相手だけどな、と平河は忘れず付け加えた。

「いつだって命がけなんだよ。生きるってことは」

「明、やっぱりお前は……」

「帰らんぞ」

先手を打つように彼女は宣言する。

「私一人では無理でも、平河が一緒だったらどこへ行くのも怖くないんだ」

「……しまったな」

これ以上無い殺し文句だと、平河は痛感するのであった。


     □


先に階段を登り切ったのは明の方であった。そして、月下に佇む貞女の姿を確認し、息を呑む。

まるで絵画の景色が現実になったように、ありとあらゆる美がそこに混在していた。

「逢沢明さん、で宜しいですか?」

「そっちこそ大島貞女か」

「ええ、一週間前にあなたを襲ったのとは別のわたくしです」

遅れて登ってくる平河が尋ねた。

「お前は一体どこまでが演技だったんだ? あの日のことはどれくらい覚えてる?」

「九条さんの家から逃げた日の事は、おぼろげに。夢だと言われれば信じてしまう程に薄ぼんやりとした記憶ですが」

彼女はきっと、事実を述べているのだろう。その表情に揺らぎはなく、こちらを騙しているような雰囲気でもない。

「結局、どっちが本当のお前なんだ──?」

「本物も偽物もないですわ。わたくしはわたくし、今はもう、それで良いではありませんか」

確かに、と平河が肯定する。そうした二人の距離感を計ろうとした明自分に嫌気が指していた。

「聞かせてくれ。貞女さん、あなたが殺した者の中に芽久や部活の後輩も混じっているのだろう? 理由なんて聞かない。私はあなたの言葉で聞きたいんだ」

「……」

また、彼女は首を振った。どうして? どうしてここへ来てまで犯行を否定する?

「うっ」

貞女の身体が一度左右にぶれ、二人に分身したように見えたが。何かの見間違いだろう。再び言葉を発した彼女はどこか狂人めいた瞳をしていた。

「あれはですわねぇ、どこぞの誰か様がこのワタクシに罪を着せようとあくせく頑張った結果の物だとワタクシは推理したので御座います」

ここにはもうさっきまで居た貞女ではない彼女が立っている。その事実に気が付いた平河は高圧的に彼女に迫る。

「昼間、菊華を使って俺らをここに呼んだよな。あれからあいつは家に帰る訳でもなく再び姿を消した。お前、菊華をどこに隠した?」

「ワタクシ、菊華さんを監禁などいたしませんわ。多分、きっと今頃は──」

その辺にでもいらっしゃるのではないかと。そう彼女が言った瞬間。とても、嫌な感覚がした。


     □


「ふせろっ!」

先に反応したのは平河の方であった。彼は明を抱え込むと、荒々しく地面に倒れ伏す。しかし、そんな二人の身体を軽々と持ち上げる手があった。

束の間の浮遊感。そのまま乱雑に投げ飛ばされる。

「ぐぁっ!」

苦悶の声を漏らした平河が見たのは、こちらを投げ終えた姿で硬直している貞女と、手で顔を隠した少女がもう一人。

あれは、あの娘は。

「まさか──」

呆然と明が呟く。平河はそのもう一人の人物の名を呼んだ。

「……菊華、どうしてお前が?」

「ですからワタクシも申し上げ申しましたように、匚盛での殺人はワタクシだけの手によるもでは無かったのですって」

構えを取りながら、貞女は明のつぶやきに反応する。

「ワタクシ、一晩に一人以上食べたことがありませんでございますの。それに比べてこのお方は──」

アチョーと、品性も欠片も無い掛け声で蹴りを放つが、菊華は上体を逸らすだけでこれを簡単に躱す。

「あらあら……」

これには流石の貞女も驚いたようで、攻撃の手を止めた。相手は先ほどから死んだような瞳で、誰にも視線を合わせていない。下を向き、俯いて。ぶつぶつと独り言を言いだす。

「あたし、怖いの」

「何だよ……。菊華、お前。何て言ったんだよ?」

声が小さくて聞き取れない。

「怖いの怖いの怖いの怖いの怖いの怖いの……」

一度大きく息を吸って、

「怖いのよぉぉぉぉぉ!」

涙をぼろぼろと流し、泣き出してしまった。

「お、おい」

大丈夫か、と彼女の元に近寄ろうとしたその時。

「馬鹿、下がれ!」

声と共に服の背中を掴まれ思い切り引かれた。倒れる瞬間、頭上を何かが通過した。

「死ぬぞ!」

倒れた先に居た明がこちらを受け止めながら言う。視線を戻すと腕を振った上体で動きを止めている状態の菊華が居た。

「ふーっ、ふーっ」

興奮からか荒く息を吐いているそれはこちらを見て、もう一度その腕を振りかぶる。

「なんでどうしてこんなことになっちゃったかなあ最初からこうなるって分かっていたらあたしだって……。ううんでも無理だよねあたしと平河君が出会わなければって考えたけどそれだと本末転倒だし、怖いよ怖いよ悲しいの寂しいの。私の平河君を誑かしたあの女には死んでもらいたいけどそれを平河君が守って言うならうっかり殺しちゃってもしょうがないというかあたしドンマイって感じで許されるよね、生きてても私のモノになってくれないだろうし。ああ怖い――」

――反撃されるのが怖い。そう言いながらゆっくりと大げさに明の首を掴もうと歩み寄る。

「お黙りなさい、この根暗女が!」

あと数センチで指が首に掛かろうとする中、真横からの貞女のとび蹴りによって危機から脱せられた。華麗に着地を成功させ、地に伏した津々見を見下ろして。

「ワタクシもあなたも負けたのよ。あの方、逢沢明さんにね。それをあなたのような意味不明で頭のおかしい言い分で覆されるのは不快なのです!」

そう啖呵をきると傍らで膝をつけている明の手を取りその場で立たせる。

「うふふふふふ。どうかワタクシの後ろに居て下さいね、良平さんも。言うこと聞いとかないと死んでしまいますよ!」

ぎゃはー! と大声で吼える彼女を鬱陶しそうに見上げながら菊華が立ち上がってくる。口元で何事かを呟いている。ここからでは聞こえないがあの形からして、『怖い』だろう。

「またそうやって貞女ちゃんは平河君への点数稼ぎ? 不甲斐ないあたしを甲斐甲斐しく世話をしてる様を平河君に見てもらえて良かったねー。それに、あたしが平河君を諦める? 無理に決まってるでしょ。あたしはただあたしの欲求に従っているだけなんだからね。それに、あなたはそれで良いの? あなただって良平君のこと──」

「まあまあそう言わずに、ね、これを見て下さる?」

貞女は足元に置いてあった木箱を手に取る。

「あれは……あれが、どう関係あるっていうんだ?」

一緒に傍観している明がそんなことを呟くと、

「やだ、その箱。なんか怖いよ」

菊華がじりじりと後ずさりをして差し出されたその箱から逃れようとする。嫌がっているのが丸分かりだ。

「この箱には――」

何が詰まっているのでしょうか? と前へ歩を進めながら彼女は問う。

「ひぃ……っ!」

声にならない悲鳴が響いた。


      □


怖い。それは菊華がその箱を見た瞬間からずっと思っていたことだ。たとえ中身が空であったとしてもこうして蓋を閉じられていては中身に何が入っているのか分かったものではないからだ。この感覚は知っている常々自分が感じていた不安そのもの、目に見えぬ脅威や困難を恐れている時と同じ。

その箱は開けてはいけない。明けてしまったら全部が見えてしまう、『不安』で抑えられていた危惧が現実となってしまう。世の中にある真っ暗闇の落とし穴の証明となってしまう。

「答えは」

中身を覗けば分かります。と貞女は笑顔で蓋に手を掛ける。やめろ、やめてくれ。開けないで。


      □


「開けるなぁ!」

先程と違い今度は怒気を含む咆哮が生まれた。それを聞いた貞女は歯を見せ、

「ですよねぇー。その不安こそが今回の犯行の肝ですものねえ、人を喰うってだけなら一人で、それも女の子を集中的に狙う必要はないですものぉ」

「喰う相手を選別していたって? どうして? まさか芽久も……」

放心した様子で尋ねてくる彼に丁寧に答える。

「イエース、菊華ちゃん。ワタクシ、あなたの良平さんへの思いは随分前から知っていたの。けどまあそれを応援してあげるほどワタクシも親切ではありません。そう、自分以外の女、ちょっとでも彼と交流のある女に嫉妬していたんですわよね。ワタクシの部活の後輩や肩をぶつけただけの通行人、友人の菊華ちゃん。一緒に下校している時などは周りの人達の事が目に入って仕方ないって感じで御座いましたよ」

「そんな理由で俺の芽久を殺したのかっ!? あいつがお前に何かをしたかっ!」

彼の声からは血の気が引いていた。

「良いじゃない別に! 人を愛して何が悪いの? それを言うなら貞女ちゃん、あなただって同じでしょう? 私の事なんて好きでも何でも無いくせに仲良い振りしてさ!」

嘲笑と共に貞女の襟首を掴む。

「あんたも私も人殺し! 人を喰ったの、殺して喰った……」

ははははは、と大口を開けて笑う恵美の頬を、

「馬鹿!」

彼女が打った。

「いたっ」

突然の痛みに呆然とする相手の頬を二度、三度とはたくと大きく息を吸い。

「わたくしがそんな理由であなたと付き合っているとお思いで? わたくしはですね、あなたや良平さんと一緒に居るだけでね。埋まっていたのよ、子供の頃から空いていた隙間が! ……感謝しているんですよ、あなた達方に……」

その言葉を聞いた瞬間、彼女は殴られでもしたかのような表情で固まってしまった。掴んでいた服から手を離しそのまま上へ持っていく。

 一瞬、こちらを見上げた菊華と目が合った。自分の顔に自然な笑みが浮かぶ。

「ごめ――」

――んなさい、そう謝ろうとするこちらの言葉を遮るものがあった。それは、真向かいに立つ彼女の両手。その手がこちらの首をしっかりと捉え、絞めている。

「ど」

どうして、そんな言葉も出てこない。

「貞女ちゃんが不思議そうな顔をしてるから教えてあげるよ。そこで座ってる二人もよく聞いててね、私は説明上手だからほんの二、三言で終わるよ」

相手はさらに力を込めながら言い放つ。

「今更遅いんだよ、屑が。とっとと死ね」

駄目だ、意識が遠のく――


      □


「憎らしい、憎らしい、憎らしい」

菊華が貞女の首を絞めている。そんな光景を前にしながらも平河は一歩も動けずにいた。掛け替えの無い友人の命が消えかけているのにも関わらず一言も発することが出来ぬまま呆然とそれを眺めることしか出来なかった。

「おっ……っ」

彼の横から影が生まれる、自分より一回り小さい女の影。

「津々見!」

手にはどこから取り出したのか包丁が一振り握られている。先ほど自分に示した護身用の武器。だが、この場においてその刃はあまりにも頼りない。

「おおお……」

明は二人の下へ全力で突貫した。自分に背を向けている菊華の背中に包丁を振りかぶる。

「なっ」

対する彼女の反応も早く素早く首から指を離し迎撃に向かうが、直後に両者の動きが止まった。

意識を失いかけていた貞女が、渾身の力でもって放った抜き手が彼女の脇腹に深々と刺さっていたからだ。

「くそが……」

痛みに耐えた表情のままで彼女は明の目を突こうとするが、抜き手がもう一本追加され、一瞬体の力が抜けてしまう。代わりにと言わんばかりに彼女は明の腕を掴みそれを握力だけでへし折る。

「うぐっ」

激痛に獲物を取り落とした彼女の脇腹に蹴りを加える。その破壊的な一撃に、明も膝を折り倒れ伏すがそれを見届けるより先に菊華は腕を無造作に後ろへと振った。意味の無い行為に思われたが背後にあるのは貞女の首。

鮮血が舞う。首の血管が切断された影響だ。がたん、と足元の木箱が蹴られて蓋が空く。

「ひゅーーっ……」

血を噴出しながらも彼女は夜空を見上げると足元に目をやる。先程自身で蹴飛ばした匚が口を開いていた。

無表情でそれを抱えて中を覗きこむ、中身は相変わらず空であったか彼女の首から吹き出る血液によって中が血によって満たされていく。

虚無が虚無では無くなっていく。

「あ、あはは……」

その様子を見た彼女は笑みすらも浮かべ安らかに目を閉じた。

「おい」

漸くそこで自分は声を出すことが出来た。

「嘘だろう?」

辺りは貞女の血液が散乱し、明は呻き声を上げながら蠢いている。

「あっけないね、相変わらず人の命って」

そう言って菊華は本当に何でもない事のように血溜りの中を歩いてこちらへと向かって来ていた。

「次は君」

こちらを見下ろすと彼女はそう宣言をする。

「大丈夫、優しくしてあげるから」

ふと、眼前に立つ彼女の向こうに有る夜空に意識が行く。満天の星空に欠けた月、相変わらず世界は狭かった。どうすれば自分の世界は広がるのだろうか。今まで感じていた圧迫感、それは。

自分の心にある匚。それに蓋をしていたのだ、一人孤独に。それに気が付いた、だからもう大丈夫。相変わらず世界は狭い。だけど、匚の蓋は開かれた。ならば、


その匚が狭いのであったら満ちて溢れれば良いだけの事だろう。


「さよなら私の愛した人」

と、振りかぶった彼女の腕を引き止めるものがいた。それは短髪で焼けた肌に精悍な目付きの女生徒。

「腕、痛くないの?」

菊華が不審そうに尋ねると、

「痛いに決まってるだろう!」

思い切りその顔をぶん殴った。だが、満身創痍の彼女の体では充分な威力が出ずに結果として反撃されたその首を掴まれてしまう。

「えへへへ、宙ぶらりんー」

表情こそ笑顔だが内心では怒りに震えているだろう彼女は、棒立ちの姿勢で明の額に人差し指を当てて。

「このまま刺し殺しちゃおっかな」

ぐりぐりと指先を押し付けていた。

「がはっ、何だ……随分余裕じゃないか」

明は相手のその行いを鼻で笑う。時間稼ぎのつもりだと思うが悲しいことにこの状況を打開する方法が全く浮かばない。いずれ、殺される。

様々な思考をめぐらす中、地面に放置された包丁が眼に入る。先程彼女が取りこぼした物だ。それが手を伸ばせば届く距離であったので手に取った。

日常生活で使われる数少ない刃物だがどうにもしっくりこない。横目で二人に目をやるがこちらの様子に気付いた様子は無い。彼は音をたてぬようゆっくり立ち上がる。

「いいからおとなしく……。あれ、良平君ってば物騒なものを持ってるね」

何気ない様子で振り向いた彼女と目が合ってしまった。彼女はそのままの姿勢で。

「度胸は買うけどそれは無謀だよ。もし君があたしを殺そうとしたらその時は、この子の命はないよ。真面目な話こっちもお腹に穴が空いてて死にかけだからさ。そのままその包丁を捨ててくれたらこの子の命、助けてあげる」

「騙されるな! このままだったらどの道二人とも殺される。早いか遅いかの違いだ、それに――こいつは皆の……貞女さんや芽久ちゃんの敵だろう!」

 二つの声が彼の鼓膜を揺らす。

「俺は――」

どうすれば良いんだ?

「良平君……」

菊華が自分の名を呟いたその時、一陣の風が吹いた。僅かだがそれは彼女の集中力を途切れさせる。

「平河、殺せ!」

きっかけはその声だった。一歩、大きく踏み込んだ彼は頭を下げながら一言、何かを呟いた。

誰もが息を止めた瞬間、それを振るった。

「――――っ!」

その場に居た三人が同時に声を張り上げた結果、平河は世界の形を忘れ地面に倒れ伏す。

 見上げた世界はどこまでも広かった。



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