死に至らない病
「ううっ……」
鈍い痛みが残る中、平河は目を覚ます。辺りを見渡すと二人の友人がこちらを心配そうに覗き込んでいた。
「ここは……どこだ」
「私の、部屋、だよ」
彼のそんな質問に菊華は怯えながらもそう返す。時計を見ると昼間の一時をさしている。一面畳張りの狭い部屋、窓の外からさんさんと太陽の日が入ってきている。言われてみれば自分がこの部屋に入るのは始めての事だった。
「どうして俺はここにいる?」
起き上がりながら呟いてみる。どうも記憶が曖昧だった。自分は神社で倒れた筈なのにどうしてそこから離れた彼女の家で寝ていたのだろう。
「お前が貞女に突き飛ばされてからずっと目覚めなかったから二人で看病してたんだ」
目を赤くした明がそう言うと、途端に顔色を変えて、
「わ、私はお前が目覚めたことを菊華ちゃんの父さんに報告してくる!」
急ぎ足で襖を開け出て行ってしまう。
「どうしたんだ、あいつ……?」
「明ちゃん、ずっと平河君の看病してた。家の人が皆眠ちゃっても私が後は見ているからって言ってもお家に帰ろうとしなかったの」
気付いたかな、と彼女はこちらを窺う様に尋ねてくる。その顔は少し彼女を哀れむ憐憫の感情が見え隠れしていた。
「何の話だ?」
「あの人、泣いてたよ。出て行くとき、少しだけど」
「ああ――」
そう言えば目覚めたときは目も赤くなっていなかった気がする。何だか本人が居ない中こういう事を言われると次に彼女と顔を合わせたときの対応に困ってしまう。
「事後承諾で悪いんだけどね。服、勝手に着替えさせちゃった、御免なさい」
「別に構わない。感謝する」
それまで気がつかなかったが自分の服装が昨日と変わって動き易い和装になっていた。それに併せて彼女も紅白の巫女服からこれまたゆったりとした服装になっている。
「明ちゃんにも、勧めたんだけどね、何か今の服が気に入っていたらしくて断られちゃった。けど仕方ないよね、可愛いもんあの青い浴衣」
「あれから、どうなったんだ?」
奇声と共に逃げ去った貞女は間違いなく狂気の世界の住民だった。あのままではまた人を殺すことになるだろう。果たしてあの夜は現実に起こったことなのだろうか。
「──芽久ちゃんが」
「芽久がどうしたっ?」
問い詰めると菊華は悲しそうに首を振った。つまりそれは、
「死んだって、言うのかよ」
じゃあ、貞女の身体に付着していた血痕は。彼女の物だったのか。
りりりん、とどこからか風鈴の音が届いた。一瞬の静寂、放心した彼の鼓膜は遠くの来訪者の足音を捉えた。
襖が開かれ、姿を見せたのは菊華の父、昭雄。それに付き従って入室してくる明。二人とも神妙な面持ちだが、彼女に関しては先を歩いていた男の雰囲気に飲まれていたと言った方が正しいのだろう。
何度か顔を合わせたことのある相手で、平河は自分を看病してくれたことの礼を述べる。困った時はお互い様だあ、と昭雄は応じるとその場に座り込む。
彼は抱えていた木箱を目の前に置く。平河が興味深そうにのぞき込んでいると、明も回り込んで一緒に見ようとしてくる。
「何から説明しようか、少し迷うが。まず、わしがこれから話すことは歴史とも呼べぬ伝説を基盤に考えた想像じゃ。そこを納得した上で聞きなさい」
逢沢さんも、そんなところで突っ立っていないで座りなさい──。昭雄の言葉に従い彼女も平河の隣に腰を下ろす。少し、彼女との間に距離があるように感じた。それは肉体的な面でも、精神的な面でも。菊華はというと二人から離れ、侍女のように部屋の隅で待機するようだ。
「匚盛に伝わる。クーサマの伝説について、君はどこまで聞いているかな」
視線を明に向け、そう問いかける。
「知っている部分までで良いから、全部話しなさい」
町の伝説とこの件がどう関係するのか、理解が及ばない表情で相手を見返すが。その意図が計りかねると分かった時点で、とつとつと語りだす。
彼女はまだ、自分とまともに目を合わせてくれていない。
「ある日、突然匚盛へやってきて……。不作の大地に潤いを与え、この土地の悪いものを払っただとか……」
「それだけかね?」
「人を、喰ったとも聞きました」
「うむ」
匚盛神社神主は感情の読めない顔でこちらを見て。
「平河君が、彼女に色々教えてあげたそうだね。概ね合っているよ。しかし、足らない点がいくつかあるな」
彼は、先ほどより意味深に置かれた箱に関しては存在しない物として話を続ける。
「クーサマはこの匚盛にある神器を持ち込んだとされている」
神器とは、またけったいな物言いであると平河は思った。脳内でメジャーな神器の想像が膨らむ剣やら鏡やら勾玉やら。そんなものが残っていれば国宝級ではないか。
「そいつで、ここいらの邪な気を封じてくれたのだそうでな。それは丁度、こんな具合の──匚だ」
空気が張りつめたように感じる。平河は手元に置かれたその箱に視線を移してから問うた。
「つまり、これがその──」
「いんや、それは無い。実在したとの話もあるが、大昔に焼け落ちてしまったようだ。ウチのご神体もこれと同じような形をしていてな。きっと何代か前のご神体が、どういうわけがここにこうしてある。ただそれだけのことなのだろう」
「レプリカなのか」
それにしては、この箱。妙な存在感があるように思える。何故か触れることを躊躇われる奇妙な感覚。
「開けて見よ」
こちらの心を読んだように、昭雄はそう告げた。
「……分かりました、では」
案ずるな、別に何が飛び出してくる訳では無いと自分に言い聞かせる。だが、この時点で平河はこの箱の本質のようなものを察した。
「──っ!」
手が止まる。これは、この箱は。
善くないものだ、と直感的に判断出来た。
世界が圧縮されていく感覚がある。これを開けてしまえば、何かが起きてしまう。そんな嫌な予感。
今まで自分が感じてきた世界に対する圧迫感。その元凶の一端が垣間見れたような気がした。
隣の明を盗み見るが、彼女の表情を酷いもので、唇まで真っ青にして怯える表情を見せていた。きっと自分も彼女と同じような顔色をしているのだろう。第六感が告げている、この箱を開けるべきではないと。
「どうした? 開けて見なさい」
試すような口調の昭雄の態度から、こちらの心情も彼の予想通りなのだろうと思い。それなならばと、意を決して開けて見せた。
「……空だ」
何も入っていない。これで良いのか、と対面に座る相手を見ると。神主は浅く頷いて見せた。
「いかにも、それはわしが奥の蔵で……」
いや、待て。と心の中に住むもう一人の自分。本能と呼ばれる彼が制止の声を上げた。これは純粋な空の匚ではない。中身を露わにされることによって失われるはずである匚の神秘性は、未だに健在している。
何も入っていないように見えるが、もしやと平河が匚を持ち上げたり、底を覗いてみたりしていると。
「何をやってるんだ平河?」
「しかけが無いかと思ってな」
「そんな念入りに調べなくとも……」
二人の間で初めて交わされた会話であったが。直後、昭雄に遮られる。
「これについて、最初にどう思った? やはりどこにでもある普通の匚のように思えたか?」
彼は自分達の口から何を言わせようとしているのか分からないまま、話し合いは進んでいく。
先に明が感想を述べる。
「説明がしにくいが、形容しがたい嫌な予感がした。折角開けた匚が空というのはどこか据わりが悪い。何も入っていない振りして、嫌なものが一杯に敷き詰められているみたいな」
「平河君は、どうだね?」
確かにこの匚からは邪悪な気配を感じた。だが、本質はそれではなく今もこの箱の中にとどまっているような気がしてならない。
手を一度差し込むと、まるで天啓のごとくある単語が彼の頭に生まれた。
「何もない、透明な無がここに詰まってるんだ」
「ほう……。無、とはつまり」
そこで初めて昭雄は意外そうな表情を見せる。先を聞きたがっていそうな気配だが、これ以上は説明のしようがないことを告げると。彼は衝撃的な事実を口にした。
「正直、わしらは君達の言っていることがまるで理解出来ない。こんなもの、ただの匚ではないか」
「は?」
「ええ!?」
その反応には平河も明も驚きを隠せない。代表するように平河が昭雄に尋ねた。
「じゃあ、何だったんだ今の時間はっ!」
「人は皆、同じものを見ている訳では無い。そういうことだ」
「一体それはどんな……」
「日本における神様とは何なのか。君らは考えたことがあるかね?」
茶化すでもない、至って真面目な顔で昭雄は訊いてくる。
「困った時に助けてくれるものだろう。俺はそう考えている、都合が良すぎるとは思うがな」
「君は前々からこの町のクーサマが嫌いであったようだが、やはり神を信じられないという考えがあるのだろうな」
「神様なんて、居やしないんです」
もはや話の脱線が過ぎるどころの状況ではないが、控えている菊華も口を挟むようすが見られないので。何かしらの意図があるのだろうとは思い始めていた。
「そうして口にすることであたりに喧伝し、不可思議な出来事の意味づけを探しているんだな。
と、わしはそう思っておる」
「俺が何かを恐れているって訳ですか」
「さて、そんなことまでは知らんよ。しかし、世には媚びる超常現象全てに科学的意味づけがある訳ではないと理解していてくれ」
ところで、と彼は話の切り口を変えてくる。それはまた奇妙な話題だった。
「君は神様だけではなく、魑魅魍魎といった輩も信じまいとしているのかね。記号化されたものだけではなく、例えば人に憑くとされたもの。狐憑きなんかな」
「信じません」
昭雄が何を言いたいのかはっきりとしてこないこの話し合いに、流石にしびれをきらしたのだろう。平河の声音からは相手を急かすようなニュアンスが込められていた。
「割と今も居るんじゃがな、それを信じる人間も。さて、本題に入ろうかの」
ふう、と一息入れた彼だったが、何故かこちらに問いかけるような物言いで、
「件の連続殺人。発見された遺体はどれも食い散らかされた状態だったらしいな」
回答を期待していないのだろう。そのまま話し続ける。
「クーサマも、人を喰ったとされる伝説が残っているのは、町民の誰もが知るところだろうな」
「そんな馬鹿な!!」
平河は相手の言葉を遮った。顔は高揚し、怒っているようにも見える。
「犯人は貞女なんだ! 俺も明も見たんだっ、それをどうして……?」
「──ここだけの話」
対する昭雄は、声を潜めて言う。
「匚盛という土地に飢饉があったという事実は史実に無く。常に、農作物が豊かに育ったとのことだ。クーサマの伝説が事実かはさておきな。しかし、ある一定の周期で沢山の人間が行方不明になる事案があったのだそうだ。山に近いことから鬼にでも攫われたのではないかと記されていたがな」
「クーサマが食ってたってことか? ありえねー、明や菊華もそう思うだろ」
「もし、過去の話がクーサマの行いだったとしても、信じられないな。第一、私も平河もクーサマを知らないが、貞女の顔は知っている。見間違えようもない」
「く、クーサマの精神が。貞女ちゃんに憑いていたすれば、どうかな……?」
菊華はこちらを牽制するように、そんな言葉を発した。
「ありがとう、お父さん。ここからはあたしが二人に話すからさ」
「良いのか? 二人を前にすると上手く話せないからと言ったのはお前じゃなかったか」
「ううん、良いの。やっぱりこういうのは自分の口から話さないとね」
「そうか……。ならばわしは席を外そう、友人のことは友人達で話し合うべきだと。やはりわしはそう思っているよ」
三人の見ている前で、退出していく昭雄に。平河の視線は釘付けであった。
「つまり、今までの話は菊華ちゃんの意見だったと。そういうことなのか?」
明の言葉に、父から引き継いだ菊華が頷く。
「はんっ。どっちにしても馬鹿馬鹿しい。それが事実だったとしてもだ、それがどうしたって言うんだ?」
挑発的な平河の言葉に、菊華は眉尻を下げて、
「だってぇ、可哀想じゃない……。この件はクーサマが悪いんだし、自分の意思とは関係ないじゃない」
「しつこく言うけどな、クーサマなんて居ないんだよ。早い所あいつを捕まえないと大変なことになるのは分かるだろう。ヘンな予測を立ててる場合じゃないんだよ」
「で、でもぉ……」
「菊華ちゃん。その仮説には確固たる証拠や証明出来るものが無いんだな?」
明の問いに対し、彼女は肯定するでも否定するでもなく。委縮するように視線を逸らした。
「……のよ」
「え? 何だって?」
「あんたが悪いのよっ! あんたがこの土地に来たからあ!!」
「おい……っ、何だ急に……こら!」
取っ組み合いになる二人の間に平河が身を潜り込ませ仲裁に入る。
「何を言ってんだお前! 明が何かした訳じゃねえだろうが!」
「人の気も知らないで──」
爆発した感情を明に向け、菊華は言い放った。
「邪魔なのよ、あんたは! ここにあんたが来てからロクなことがないじゃないの、殺人事件や……それにっ!」
「訳判んねえことばっか言ってんじゃねえぞお前は!!」
二人が言い合う形になった隙に、明はその場から無言で遁走する。その後ろ姿を平河が追いかけようとするが、
「待って、行かないで! 良平君まで祟られちゃうじゃない!」
その単語は、平河の理性を吹き飛ばすには十分な威力を持っていた。彼は縋り付く菊華を跳ね飛ばすと、振り返ることなく明の元へ走り去る。
「……お願い──」
背中に受けた彼女の声は、儚く消え去った。
□
ざわざわと、穢れが、喉元まで上がってきている様だ。きっとこの穢れは身体中に広がり、大地を黒く染め、触れたものも漆黒に変えてしまうだろう。
逢沢明という少女はあの瞬間、匚盛の土地に拒絶されたも同然だった。やっと手にした居場所かと思っていたのに。
「また、なのか。私は」
それは幻想であったかの如く、ほんの一言で消え去ってしまうのだ。肉親に見捨てられ、義父に虐げられ、新しい土地で出会った人間にも厄介者扱いされる。
明は九条家の前で座り込み、自責の念に駆られていた。
「私を必要に思ってくれる人なんて、最初からどこにも居やしなかったと。そうだったのか?」
飛び出してきた和風の一般的な住宅に目をやる。見慣れない景色、不安になる。
彼女はここでも一人ぼっちだった。
「……帰ろう」
今はまず、家に帰ろう。その後、布団に入って存分に眠ろう。そう言えば今日は一睡もしていなかったからこれも何かの縁だろう。初めからこうなるべくしてこうなったのだ。
寝て起きて。それからどうしよう。
もうあの二人の前に姿を見せることも無くなるだろう。平河が良いと言っても菊華は断固反対するだろう。仕方のないことだ。芽久は昨晩死んでしまった。昨晩の内に彼女の遺体を確認した。
貞女は今夜も誰かを殺すのだろうか。それを菊華が庇おうとしていることに違和感を覚えた。
「私は殺されかけたって言うのに」
その事実を知った上で、彼女は友人であるという理由だけで貞女の肩を持つのか。それは酷い、差別ではないか。
こんな自分の命よりも価値がある人物なのか、あの娘は。明は思い起こす、昨晩のことを。
雨が降りしきる神社の鳥居。その上に悠然と屹立する貞女の姿は、彼女自身が元々持つ神秘性を更に引き上げるようだった。
殺されかけたのにも関わらず。白く、穢れを知らない少女の身体は確かに美しかったと。そう言い切れてしまう。
それに対して、自分は。
「くっ……」
長い間放置されていたであろうアルミ缶を蹴り飛ばす。空しさだけが残った。
今更環境を変えられるはずもないんだ。それに、白い目で見られたとしても、義父との暮らしよりは何倍も良い。
だからこれからは、なるべく目立たぬように。他人に迷惑をかけないように生きることを心がけよう。
生きる資格のない自分は、死んだように生きるのがお似合いだ。
「うっ……ぅぐっ……」
悲しみの思考は、己を苛む。涙が出てしまう。こんなに悲しいのに、共感してくれる人間が居てくれない。味方してくれる人間も居ない。寂しさが胸を貫く。
「明っ! ちょっと待てよ!」
こんな自分の名を呼んでくれる人が居る。それはとても嬉しいことだが。今は、そのやさしさが辛い。
「……良いんだ平河、来なくていい。分かったんだ、もう……」
「菊華のことなんて気にすんなって、あいつも色々ショックでちょっと変になっちまってるんだ。大丈夫、本心ではあんなこと思ってないって。苛立ちのぶつけようが無くて、ついあいつもああいう言葉を使っちまったんだろ」
「うっかりっていうのはな、言った人間の本音が出るもんだ。理性が働かず思った言葉が出てきてしまう。つまり、菊華ちゃんは私よりも貞女ちゃんの方を取った。ただ、それだけだ」
言い放つ自分の声は、孤独の所為で震えている。涙が出そうだ。昨晩、彼に告白されたことがまるで夢の出来事だったみたいに、今はもう遥か遠くの記憶のように思えてならない。
「消えてしまいたいよ……」
明は、死に際になされる最後の一呼吸の如き、か細い声でそう伝えた。
「このまま何もしないで、流れるように。誰の邪魔をしない、誰の迷惑にもならない。そうやって穏やかに時を過ごして死んで行けたら、私はきっと」
世界で一番幸せな女になれるな。と彼女は冷たい笑顔を浮かべた。
幸福とは何ぞやと、幼心によく考えていた。明にとっては誰にも叱られることなく、馬鹿にもされぬこと。
その他のことは全部後回しにしてきた。勉強もよくしたし、部活だって頑張った。才能やら元からの素質などの理由から頂点に君臨することは一度も無かったが。ありとあらゆる面で良い子であれたと思う。
しかし、それが失敗だと気付いたのは中学も終わりの頃だった。
気付いたころには、自分の心を苛む両親だけが残るだけで。心の底から本音を話せるような人間が、どこを探しても存在しなかったのだ。
彼女は理不尽な暴力に怯えるあまり、心を壊すよりも先に。誤った人生観を獲得してしまったのであった。
□
息苦しい。まるで世界が幅を狭めて自分達を押しつぶそうとしているようだ。
平河は背を向けて立ちすくむ明に向けて言葉を投げかける。彼女は何よりも言葉を求めているように見えたからだ。
「お前なぁ!」
これまでの会話の中で一番の大声だったと思う。驚きの表情で振り返る彼女に向けて彼は、自分の気持ちを叩きつける。
「死ぬことに期待して生きるなんて、そんな生き方があるかぁ!!」
何とも馬鹿馬鹿しい悩みではないか。彼女は常に孤独を感じていたようだが、真に誰からも愛されていなければ、ここまで命を繋げることすら不可能だっただろう。
きっと、あと一歩だったのだ。暗闇から抜け出すのは、彼女自身が差し出された手を取ることが必要だったのに。いくつもの救いの手を明はこうして振り払ったのだろう。クラスメイトや部活の仲間の温かみが信用出来なくて。疑って、自滅して。
「私だけじゃなく、誰だって邪魔に思われないように必死じゃないか! 皆、友達から嫌われない為に毎日必死で、そうやって生きているのに……っ! それなのに──っ」
「そんなどうでも良い言葉なんかは聞きたく無いんだ! 俺はな、明。お前の言葉を聞きたいんだぜ」
「さっきから私は自分の本音を言っている! 好きなように生きようとした。だけど、菊華ちゃんにそれを否定された! あの言葉を無視して生きるほど私はずうずうしくなどない」
「誰に何と言われたって良いさ。良いに決まってる。周りのうるさい雑音なんて聞き流せ、何をすべきかじゃなくて何をしたいかだ! 蹴っ飛ばせ、ノイズなんか。聞かせててやればいいんだお前の本音を! お前が言うのなら、俺は従ってやる」
脳みそが沸騰したみたいに熱くなっている。これが、思わず出てしまう本音というものなのか。
最高に気持ちいいじゃないか、と平河は心の中でほくそ笑む。叫ぶことで心身共に健康になると、昔から言われているが。確かにそう思う。
「何と言われても俺は、お前の味方だから!」
思ったことを思うがままに口にするだなんて、本当だったら至極簡単なことのはずなのに。
こんな状況でないと本音を言えなくなってしまっていただなんて。
彼女には自分の本心に従って生きて欲しいと思う。誰かに迷惑をかける代りに、誰かの手助けをする。それでプラスマイナスが無くなってしまえば万事解決なのだ。
簡単なのだ、人間社会なんて。囚われていたのは己の精神で、それを囲っていたのは理性と呼ばれる檻だったのだ。
「私は──」
明がこちらに歩み寄る。心が定まり、とても静かな瞳をしていた。
「もう一度、菊華ちゃんと話をしたいと思う。これからはもう、私は拒絶されることを恐れない。何故なら平河が味方してくれるのだからな、それだけで安心だ」
それは彼女の本心だったのか、こちらを落ち着かせるための方便なのかは判別出来なかったが、少なくとも明は笑っていた。彼女が笑顔を取り戻したのなら、建前でもなんでも別に関係なかった。
取りあえず、今は。二人で一歩前進したということで。満足することにした。
「あっ」
少し、驚いた明の表情は平河の背後に向けられていた。カランコロンと靴音立てて歩いてくるのは、九条昭雄その人だ。
どうかしたのだろうか、と視線で探りを入れると。重々しい口調で彼は告げる。
「ついさっきな、うちに客が来たんだ。わしのじゃない、君達へのだ」
「……誰です?」
嫌な予感があったが、勇気を出して訊いてみた。
「大島貞女と名乗っていた。当然、本人だったので居間に通しておいた。今、菊華と話をしているから応援に行って欲しい。わしはちょっと、用事があるでな」
未来の事を予知することは誰にだって不可能だ。しかし、終わりは近いのだと。平河はどこか確信をしていた。
□
「あら、これはこれは神主サン」
「こうして顔を合わせるのは二度目じゃな」
家を離れた昭雄はというと、公園のベンチに腰掛けてタバコを吸っている唯子の元を訪れていた。
「ひょっとしてだが、あなたは日がな一日そうしてタバコを吸っているのではあるまいな?
もしそうなら、少し問題ではないかね」
「いやね、今日は仕事が休みだったもので。ちゃんと自分らの食い扶持くらいは稼げますよっと」
「わしとしては、健康面に気を使って貰いたいんだがの。あなたはまだ若いのだからな、要らぬことでリスクを負う必要など無いと言うことだよ」
ご忠告ありがとうございます、と唯子は素直に年長者の進言通りタバコの火を消したが。それも今の間だけであろう。
「それよりも昨日は、うちの明がそちらへお邪魔になったそうで。大丈夫だったでしょうかね?」
「お友達の平河君がちょっとした怪我をしてしまっての。その看病を一晩中していたのだそうだ。わしから見ても大した娘じゃぞあれは。なりもどことなく父親に似ておる。……しかし、あれは本当に残念だったのう」
それは娘である明本人も知らない。実の父の死因についての話であった。
「アタシの生まれはここではないので、その方とは面識があまり無んですけども。事故死、だったと聞いてますが」
「見ず知らずの人の子を引き取ったのか? あなたは」
「色んなとこから話が回ってきましてね。あの子の血縁で一番年が近かったのと、地理的な理由で引き取ることにしたんです。町を離れ、匚盛へ来たのはアタシの独断で。せめて父親と過ごした幸せな記憶のある場所に住まわせてやりたくて。そのことを身内に話したら、いくつか仕事を紹介してもらって居を構えさせて貰いました」
彼女を引き取ると話をした時。親戚一同からは自分の身を心配する声があがった。その中でも両親からの反発が凄まじかった。
「若い身空で子持ちになるとは……覚悟が要ることじゃろうて」
「覚悟なんてそんな。決まってんのか決まってないんだかねえ……。アタシって意外と直情的だから、半端な決断だって何度もしてきましたよ。でも、ここはそんなアタシを暖かく迎えてくれた」
と、そこで大事なことを口にしておく。
「──明のことは、どうも違うみたいだがね」
「あなたの娘を非難する動きがあることはわしも承知している。そのことに関しては、非常に申し訳なく感じているよ」
「神主サンが謝ることは無いよ。信仰心が強い土地だってことは、ちょっと住んだだけでも判るもんですから」
毎年、あれだけの規模と人間が参加するのだ。歴史も長い。ここに住む町民のアイデンティティと評しても差し支えないだろう。
「それで、今日はどういった用件で?」
「うむ──」
大仰に首を振った昭雄は、しばし言葉を選んでいるようだったが。額に皺を刻んだ表情を浮かべ、
「ここ最近、巷を騒がしている失踪と殺人。あなたは、どのように考えていますかな」
「失礼を承知で言いますがこの町に住む愉快犯か何かかと考えてますね。ちなみに明にはしっかりとしたアリバイがあるので」
「不安に駆られた人間は神経質になるものだ。そんな時こそうちに参るべきと思うのだがな。
どうも予測不可能な方向に噂が行ってしまっているようだな」
憂いの表情で町の風景を視界に収める昭雄は、遠慮がちに尋ねた。
「もし、仮にじゃがの。そのクーサマが現世に舞い戻り、伝説の通り人を喰う様なことがあるとすれば。どうですかな、こんな町など出て行きますか」
「万が一にでも、そうであれば逃げるでしょ。まあ、逃げる前にやることやってから。ですがね」
「やることとは?」
「アタシと明が引っ越すハメになった、その神様を一度ぶん殴りでもしないと。収まりがつかないんでね。後悔なんかは後にするってことで、グーで思い切り」
「豪快な人だ」
かかかっ、と笑う昭雄を前にふっと唯子は暗い顔をして。
「でも、ホント。そんなオチだったら最悪だねえ……」
だってさ、
「たくさんの人死にが出た結果、それが神様の行いだったとすれば。亡くなった人達の立場が無いじゃないか。神様だったら人、殺しても良いんかいってことになるじゃあないか……」
「……」
再び黙った匚盛の代表とも呼べる神社の神主は、真摯な顔である要請を彼女にした。
「あなたと男衆何人かで手伝って貰いたいことがあるんじゃ。女性のあなたに頼むようなことじゃないとは思うが、子供達の身の安全と匚盛を救う為に。説明を聞いて信じられなくとも、信じたうえで拒否しても構わないので。話だけでも聞いてくれないかの」
「……それは、主にどういった仕事内容に?」
「最高で徹夜を何日か。最低で最悪の事態となった時」
昭雄は唯子の両腕に目を向けた。
「あなたがグーで思い切りぶん殴る必要があるかも知れない」
□
「昨日、あの後どうした」
「ええっ?」
ごく自然な風にそう切り出した平河に皆の視線が集まる。問われた貞女も理解が出来ないといった風にこちらを見ていた。
場所は変わらず菊華の部屋、顔ぶれは用事があると席を外した昭雄をのぞけば先程と変わっていない。菊華は彼の発言を言葉で打ち消す。
「さ、貞女ちゃんはどうして今日来たのかな?」
そう尋ねて、
「下駄が片方失くしてしまいまして。昨晩の記憶もどうにも曖昧で神社で良平さんと別れた後の事だとか、それから先のことが全然思い出せないのです」
「へえ、でも午前中の片づけでは特に落し物は無かった筈だけど。もっと他の所で失くしたんじゃないかな?」
「その様ですわね……。御免なさお、お邪魔しました」
彼女が帰ろうとしたその時、平河が再び言葉を発したのだ。
「貞女、お前は人を殺したことがあるか?」
この馬鹿っ! 内心で明はそう叫んだ。いくらなんでも急すぎるだろう、とも思った。クーサマに取り憑かれ意識がが無い云々の話はまだ予測でしかなく、実際はどうなのか分かったものではないというのに。
「俺はお前にぶっ飛ばされた張本人だからな。言わば証人みたいなもんだ」
彼はこちらの思いを無視するかのごとく話を続ける。
「ええと、さきほどからどうしてお二人がここを訪れたのかは謎でしたが……。わたくしが、良平さんを……その、ぶっ飛ばしたって?」
「そうだ。ここに居る奴全員がそれを見ている」
視線で同意を求めてくるが手前に居る菊華同様、反応を返すことが出来ない。その沈黙を肯定と受け取ったのか焦りの表情を浮かべ。
「またそんな風にわたくしを騙そうと……。第一、男の子である良平さんをぶっ飛ばすなんて、不可能ですわ。見てくださいこの細腕」
誇示するようにと見せてくる腕には確かにそんな力は皆無だろう。だが、昨夜の事は現実で彼女自身が町民を喰ったと言う証言もある。漸くそこで会話が途切れたので慌てて耳打ちをした。
「いきなりどうしたんだ? 彼女の意識の有無に関わらずあんなことを言われたら誰だって混乱するだろう。何か考えがあるんだろうな?」
ああ、と彼は言って。
「要はこれ以上人を殺させず、その上で意識の有無を調べれば良いんだろう? 簡単なことだ、貞女、急で悪いんだが一つ聞いてくれないか」
「昨夜のアリバイと言われれば、困ってしまいますわ」
「なに、そんな複雑なことじゃない」
一度言葉を切った彼は三人に確認を取るように目配せをする。だが誰一人としてその意図が分からず相手の言葉を待つばかりだ。
「幾日か俺達と一緒に泊まって欲しいんだ。この部屋で」
「はぁ、そうですか。……ええっと?」
勢いで頷いた彼女も思いなおしたように態度を一転する。
「何を言い出すかと思えばお前……」
と、明が言葉を続けようとしたその時、
「それは……妙案かも」
菊華が思案顔をあげて同調した。
「と、言うよりそれしか手が無いかと思うよ。貞女ちゃんが眠っている時に事件が起これば無罪の証明になるし、もし無意識の犯行っていうのだったとしたら刑も軽くなるかもしれないし……」
「刑って……本格的に犯罪者扱いされてますわね、わたくし」
「あっ、ごめんね。でも実際のところ多重人格者は刑が軽くなるって良く聞くし。やって悪いことはないと思うの」
そう言いつつ何度か頷く彼女に平河はやや心配そうに。
「でも、良いのか? 俺が言ったこととはいえ何日も邪魔も邪魔をすることになるぞ」
「それは構わないけど……。家事とか、手伝ってね?」
はにかんだ笑顔を見せて恵美がそう伝えると。
「だとすれば布団を敷くスペースを増やさねばな。その部屋だと窮屈で仕様がないだろう」
締め切られた襖の奥から昭雄の声が響いてきたのだった。
「流石に重いな……」
平河は一度家に帰宅し、旅行にでも行くのかと言わんばかりの大きさの鞄に対し限界まで詰め込んだ。肩に担ぎ、思わずその様な感想を抱く。
あの後、菊華の父親と正式に話し合った結果、念には念を入れるなどという理由で一週間ほどの宿泊を許可された。食事と寝床は提供してもらえるが衣類に関しては私物を使うように、と言われたので急ぎ帰って着替えやその他諸々の荷物。それと、頑丈な紐を用意した。この紐で高見咲を拘束した上、残った三人が交代交代で彼女を監視していくという寸法だ。
「平河君。わしの用事と言うのは、この行いに万全の安全を期すため。町の人間達の協力を求めていたのだ。勿論、詳細は伏せた上でな」
言われ、平河の両親も前々から承知していたような反応を取ったのを思い出していた。既に各方面への報告は済んでいるのだろう。ここで一番重要なのは、拘束される立場にある貞女の心情だ。
「わたくし、こうした縄で縛られるのは初めての経験でございますわ」
などと彼女は冗談交じりに笑っていたが、心中穏やかではなかっただろう。友人と思っていた相手から疑われ紐で自由を奪われ監視される立場に甘んじる。そんな状況に自分が陥ったらどう思うのだろうか、と彼は考え直ぐにそれをかき消した。きっと自分は彼女に同情してしまうからだ。一見、残酷であっても真に彼女の事を考えたらこの手が最も有力なのだ。だから今は――。
「己を殺して、鬼にならなくてはいけないな」
大したことではない。一週間、たったの一週間だ。しかもその内貞女を拘束する時間は夜の間だけ、皆で話し合った結果だ。
見張りの為に必ず誰かが起きているだろうからその人物が彼女と一晩中話し合っていてもいいだろう。そしてそのまま何も起こらなければ彼女が人殺しだという懸念が消えてなくなるのだ。無くなったその時は、あいつの言うことを何でも聞いてやろうと、平河は心の底から思うのであった。
□
夜が来た。辺りの一切の明かりは消され、底なしの漆黒が一体に広がっていた。貞女は静まり返った家屋の床でそんな事を思う。夜は昔から嫌いじゃなかった、寧ろ好きだ。闇が当たり一面に満ちているから。昔から天井を眺めていると隙間が埋まる感覚があり眠れぬ夜などはいつもそうしていた記憶がある。
考え事をするにも、この闇は最適だ。空想や哲学的思考にいくら耽ってもそれを咎める人間は居ない。夜は、孤独を生む代わりに自分だけの思慮の時間を生んでくれるものだと、彼女は昔から考えていた。
彼女はそこで視線を横へ向けた、この瞬間だけは子供の頃から嫌いだった。天井で感じた充足も左右を見ればたちまち立ち消えてしまうからだ。ああ、隙間がある。ここに自分一人しか居なかったならばそんなことを呟いていただろうがその部屋には一つ、人影と呼べるものがあった。
「良平さん」
その影の名前を呼ぶ、馴染み深く言いなれた名前。窓の向こうを見ていた彼はこちらの声に反応する。
「どうした?」
彼は自分を監視するためにこうして一緒の部屋に留まってくれているのだ。今夜は彼一人だが明日からは二時間おきの交代性に切り替わるらしい。当初の予定では今日も交代制を敷くつもりであったらしいが平河本人がそれを断ったというのだ。理由は、自分が男だから。だそうだ。
彼が一度言い出したら聞かないことは菊華と自分は身にしみているので何も言わずに了承したが明は納得のいっていない様子だった。
が、そんな彼女も彼の態度から何かを感じ取ったのか最後には折れ、今は一階の客間で横になっている筈だ。
「寝言か……?」
かすかに聞こえる虫の声に混じり、彼のそんな呟きも耳に入ってくる。貞女が目を開けると、動揺する平河の様子が感じられた。
満月の今日は外が嫌に明るい。そのおかげで生まれた逆光の所為で、彼の表情が伺えないがこちらを心配しているみたいである。
「月が、明るいね」
ああ、と彼も外の景色に視線をやった。薄い雲に遮られた月が、神々しい輝きを放ち匚盛を照らしている。
「私も見たいな」
拘束された手足では移動もままならないので、夜は誰かの補助が必要になる。窮屈ではあるが、手足の拘束が少し甘くなっているように思う。
これは平河なりにこちらを慮った故の成果なのだろうか。
「綺麗なもんだぞ、ほら」
軽々と貞女の身体を持ち上げた平河は、お姫様を移動させるよう、丁寧に扱った。窓際まで来ることによって月光の恩恵が最大限に受けられる。
「昔から月の光を浴びると肌が若いままで居られると言われてますが、どうなんでしょうかね。あれは事実なのでしょうか?」
「どうだかな。でも、あながち間違いじゃないとは思うけど」
「あら? 良平さんなら『下らない』と切り捨てるかと思って訊いてみたのですが」
「俺が否定する前提で話しかけてくるなよ。お前の予測通りに、俺が月光浴を否定してたら会話が終了しちまうじゃねえか」
こんな時でも彼はいつもと同じ態度で接してくれている。あえて、触れないようにしてくれているのかと思えば。
「紐、痛くないか?」
さらりとこちらの身を思いやるようなセリフを口にする。首を振って応えると彼はそうか、とだけ言い。
「何年ぶりだろうな。こうして空を見上げるのは」
見上げた空は光り輝く星々で埋め尽くされていて、都会の夜景は綺麗だと言われているが。恐らくこの星空には負けるだろうと貞女は信じていた。それほどまでに美しい光景だった。
「思えば俺は、山だとか町を繋ぐ橋だとかそんなもんばっかり見ていたな。いつも、外界のことばかり考えていた気がする」
けどな、
「明と神社で話した時とかお前とこうして空を眺めてみてな、ちょっと考えが改まった」
「どんな風に」
お互いの意識は窓の景色に向いている。視線は、合わさない。
「空は、どこまで行っても空なんだよな。地面はどこまでいっても地面でここにあるものはここじゃないところには無くて、ここにないものはここじゃないところには有る。それがこの世界なんだと思う。多少の違いが有るが全て誤差の範囲、ここも他もそんなに変わらないんだと、思う」
「うん」
変わらない。それは自分も分かっていた。子供の頃から感じていた焦燥もこの島に来てからも変わることは無かった。辛いことは辛かったし嬉しいことは嬉しかった。それがこの町で学んだこと。ここからは民家の屋根で見えないが方角的に見ればこの先には大きな町がある。それと同じようなものだと思った。
「ご免な」
唐突に平河はそう謝罪をした。
「急にどうなされたので?」
貞女はこそばゆい気持ちを抱きながらも優しく応ずる。
「寝苦しいだろ。その格好」
「ああ――これですか」
その謝罪はもう何時間も前になされたことだ。今の沈黙によって罪の意識が芽生えたといったところだが、そんな彼がとても愛おしく感じられた。
「大丈夫。だって……」
彼女は言葉を一度切って次の言葉を強調する。
「ご免。ちょっと眠くなっちゃった」
言うなり、彼の肩に寄りかかる。刹那、明の顔が思い起される。その瞬間、彼女の心にも罪の意識が芽生えたが彼女は我意を殺すほど善良でも自分の気持ちを隠し続けて生きるほど愚かではなかった。
「私、良平さんの事が好きです」
僅かに相手の呼吸が変わるのが判る。自分の鼓動は先程から変わっていない。彼に触れられたその時から今この瞬間まで変わっていない。いつになったらこの興奮は収まるのだろうかと考えながらも言葉を紡ぐ。
「登校時間をわざと合わせたり部活を最後まで残ったりしてあらゆる方法で良平さんに近寄ろうとしたのです」
恥ずべき行為だ、と彼女は自分の行為をそう捉えていた。打算的で興味の無い振りをして始めてあったときから彼の事を見ていたのだ。自分の発言の何割が自分の本心であっただろうか、と思う。何割が彼への求愛の言葉だっただろう。いつから彼の自分に対する感情を気にし始めたのだろう。覚えていない、覚えていないが。
最初は窓を一人眺めていた彼を知ったあの瞬間だった。それだけは覚えてる。他の事なんてどうでも……」
じゃあ、自分はどうして明や菊華と仲良くしていたのだろう?
貞女は静かに平河の答えを待った。思い切り彼の方に体重を預けるのも申し訳ないので適度に調整を試みようとするが。しかし、どうにも体の自由が利かない。おかしい、試しに言葉を、彼の名を呼ぼうとするがそれすらも適わない。一体何が起こっているのだろう。一体何が……?
ああ、駄目だ。隙間が埋まる。
夜の闇が、悪いものが彼女の心の中に入っていき彼女は満ちて、溢れた。
□
平河はもたれかかる彼女の重みを感じていた。眠気からか動揺は少ないが、何と答えるべきか思い浮かばない。昨夜の自分から明へ向けた告白の事を思い返し向こうもこんな風に困っていたのだろうかなどと考える。
自分はこの少女の事をどう思っているのだろう。二人の関係は他の生徒達とは明らかに違うものであったが好意を寄せるほどでも無かった。事実、彼が選んだのは彼女ではなく下で寝息を立てている明の方だ。こちらではない。
とは言っても自身の鼓動の高まりを確認する。意思が揺らいでいるのだろうかと彼は自分の心を観察しそんなことを思い浮かべた。大島貞女、彼女は確かに美しい。女性としての魅力は充分に認める。だが、やはり思い浮かべるのは下で眠っている彼女のこと。ここは断るしか選択肢が無い。その筈なのに言葉を発することが躊躇われる、厭な予感がするのだ。まるでここから今までの関係が崩れ去ってしまいそうな予感。
彼が考えあぐねている間に彼女は身を完全にこちらに預けて答えを待っている。兎に角自分の気持ちを伝えなくてはと口を開こうとするが。
「あのな、さだ――!?」
その途端、貞女が物凄いと力で彼を押し倒した。不意打ちで行われたそれに平河は反応できずに床に倒れ伏す。勢いで後頭部を打つが気遣う様子が彼女から全く感ぜられない。無感情、据わった目付きで少女はこちらを見下ろしてその身を寄せる。手首に巻かれた縄がいつの間にか解かれている。
覆い被さる姿勢になった時点で漸く彼女は表情を変えた。口を思い切り吊り上げた喜の表情、笑っている。
「――一日ぶり」
耳元で彼女がそう囁く。声は全く笑っていなかった。
「お前は……」
仰向けになった平河が相手を見上げ呆然とした表情でそう言うと、
「大島貞女、十七歳」
応えながら彼女は浅く彼を抱きしめる。昨晩の彼女と違い暴力的な雰囲気は無く、慈愛に満ちたそんな抱き寄せ方だった。
「お前は、誰なんだ」
彼は萎縮した自分の精神に鞭打って質問を投げ掛ける。これだけはどうしても聞いておきたかった事。
「演劇部部長兼、あなたの友達ですわ」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかおりません。わたくしはわたくし、化物でも神様でもないのです」
そう言って身を離しつつ、体を捕らえていた腕を解き、彼の顔を上に向かせ自分と目をあわさせる。
「寧ろこっちのわたくそのほうが本当の自分と言えるのかも知れないのです。朝と違ってわたくしは自分の欲望に忠実で本音をはっきりと言うんですもの」
「馬鹿言うな、貞女が俺達を傷つけたり人を喰ったりするか」
「随分、自信があるのですね。わたくしに嫌われていないと思える根拠があるのかしら」
「貞女に嫌われていない自信はある」
相手の目を見返してはっきりと断言すると彼女は目を細め。
「まあ、嫌われてなんていないのは確かですわ。さっき告白までしたものね」
「おい、どうしてお前が高見咲の記憶を持っているんだ」
強引に手を振り払うと彼女は困ったものを見るような調子で。
「自分の記憶を持っていておかしい? とは言っても、さっきまでのわたくしにこっちの私の記憶は残らないのです。判るでしょうかこの意味が、本音をさらけ出すわたくしとそれを隠しそれでいて記憶が不完全のわたくし。どっちが本物と言えるのか」
「お前が消え去れば万事解決なんだよ」
苛立たしげに睨み付ける彼の視線を受けながらも嬉しそうに笑う。
「意地悪して御免なさいねぇ。けど、一つ訂正してあげる。皆はわたくしが取り付いてるみたいな扱いをしているけど本当のところは違うの。わたくしはですね、生まれたのです。ある日突然、一ヶ月くらい前でしたか……」
自分の胸に手を当てて今度は小ばかにしたような笑みを浮かべる。
「最初は無遠慮に人を襲って喰っていましたの。自分の意志とは関係無しに。ともかく、理由は分からないけど喰ってしまいたくなりましたの。ああ、ひょっとしてこれが神様のお示しかも知れません。人を喰えと、神様が決めたのでしょう。うふふふふ」
「俺の知ってる貞女はそんな短絡的な考えはしなかったはずだがなあ?」
皮肉を込めて彼が言うと今度は彼女が冷たい、不気味な笑みを見せる。
「……良平さんったら、強気ですわね。」
「冗談だ。いつものお前だったら流しているだろう」
ふー、と彼女は一息つくとこちらに顔を寄せてくる。十センチ程の距離、息も掛かるであろう距離だ。
「ねえ、良平さん。わたくしとキスしましょう」
彼女は先程払われた右腕を首元にやりながら言う。
「はあ?」
「ドラマとかでよくあるじゃありませんか。こうゆう状況で、男と女が逆ですけ、どっ」
「がはぁっ!」
確かめるように首を一度絞められる。離そうとするが、やはり離れない。凄い力だ。
「どうして拒否するのです。初めてでしょう? こうゆうの」
首を段々と絞めながら彼女は顔を近づけてくる。酷くゆっくり迫るそれは彼にとって恐怖の対象でしかなかった。全力で体を動かし脱出を計るが、徒労に終わる。
「――はい、おやすみなさい」
彼女はそう言い放った瞬間、二人の唇は触れ合い平河の首を握る力が最大になった。意識が飛ぶ寸前だったが彼はなけなしの力を振り絞り彼女の唇を思い切り噛んだ。
「――――っ!」
彼の反撃に慌てた彼女は瞬時に上体を起こし、声にならない声をあげた。口の中には血の味が残ったが噛み千切るまでは至らなかったようだ。
「このっ、このこのこのこの……」
口を押さえ怒りに震える彼女だが依然、姿勢を崩さず平河を解放しない。
「痛いじゃない!!」
彼女は言葉と共に腕を振りかぶると彼の頬を打った。鋭い、弾けるような音が部屋に生まれる。
「がっ」
ビンタといえど打つ相手は人外、思わず平河はうめき声を上げてしまう。その様子に彼女は再び笑みを浮かべると。
「まあ良いですわ、結果はどうであれ良平さんのファーストキスは戴きましたから」
じゃあ次は、と言う掛け声と共に彼の上着に手を掛け引き裂いた。
「ごかいちょー、……っと結構良い体してますね、思った通りです。ああ、この瞬間を何年待ち侘びたでしょう──」
「やめろ……」
「やめません、絶対に」
一瞬、彼女はとても寂しそうな表情を見せて言う。
「受け入れてくださいまし、このわたくしを」
無茶言うなと、彼は拳を握り振りかぶった。
□
「私の親のことだがな……」
二階で巻き起こっている事態に気付かず、明と菊華は枕を並べて雑談していた。昼間の内に、昨夜の分まで昼寝した為に、目が冴えているのだ。今は、明が己の過去を話し、菊華もそれを黙って聞いている。彼女は緊張と興奮の所為で眠れないのだそうだ。
「ちょっとでも気に入らない所があればすぐ逆上するような人でな。近隣住民の人達からも大層嫌われていた。私があの人に殴られた回数だって数えようがないくらいだ」
「やっぱり恨んでいるよね。背中の傷、一生消えないんでしょ?」
「恨む、か……。考えたことも無かったな、そんなこと」
「どうして?」
「一刻も早く忘れたかったのもそうだし、こうしてあの人の元から離れた今でも怖いくらいだからさ。恨み節を言う勇気が湧かないんだ」
恐怖が先行して、あの人に対しどんな感情を抱けばいいか分からない。嫌だったなだとか、もうあんな目には遭いたくないと思うがそれまでだ。漠然とした思いがあるだけでそれが具体的に事物を非難するところまで自分の思考が辿りつかない。
「私は、嫌なんだ。誰かに軽蔑されることが、私が持っている嫌な面や汚れた場所を覗かれることがたまらなく怖い」
少し自分語りさせて貰うとだがな、と彼女は前置きをし。
「どこへ行っても居場所が無かったんだ。何度も殴られた私は何度も助けを求めた、母親に。
唯一血の繋がっているはずの母に! でも、あの人は何もしてくれなかった。むしろ、冷たく当たってきた。辛かった、でも次第に自分が悪いんじゃないかって思うようになったんだ。
悲しかったよ、本当に悪かったのは私の方だったと気が付いたときは。そう考えてしまう自分のことが」
今にしてみれば、あの時そんな風に考えてしまったことの方が辛く。悲しいことなのだと気が付いているのだ。
「さっきはごめんなさい」
唐突に、菊華がそう繰り出した。明は一瞬、何のことか理解出来なかったがが、すぐにああ、と応え。
「本当は分かっていたの。あなたとこの件は一切関係がないってことを。でもあたし、ずるいから。誰かに当たり散らしたくなっちゃって、都合の良いこと言ってるってことは自覚してるよ」
「良いさ、謝ってくれたんだから。許すよ」
互いに目を合わせ、手を取り合った。仲直りの握手だ、と明は思った。
「あたしね」
「ん?」
遠慮がちに話し始めた菊華の表情は暗い。絶望の淵を覗いているようであった。
「不安なの」
「私だって不安はあるさ。今どきの女子高生なんて不安ばっかさ」
よくある悩みだ。自分達くらいの年代の娘らは皆、大小関わらずそれなりに不安や、恐怖を心に住まわせている。
「違うの。その不安がね、手に取るように判るのよ。想像力が良いのか、危機回避能力と呼ばれるものなのか、考えている内に身体が動きを止めちゃうくらい思いつめちゃうの」
「考えすぎは、良くないぞ」
うん、と菊華は応えたが。でも、と続け。
「そうもいかなくて……。だって、目の前にある危機を黙って見過ごす訳にもいかないじゃない? 誰だって未来を予知することは不可能なんだから、予測が──外れ、て?」
話すにつれて小声になっていった彼女の顔が、最終的に真っ青な色に変わり落ち着きのない表情であたりを見渡しだす。
「どうした急に?」
起き上がって質問する。菊華が何かを返そうとしたのが見えたが直後に物音がした。二階からだ。
「ああ──」
後悔するような菊華の声。
「無理にでもあたし達は、同伴すべきだったんだ……」
不吉な予兆を感じた明は二階へ駆け上がり、平河らに充てられた部屋の前まで来た。狂乱の匂いがする。
「どうした平河!?」
開け放たれた先に待っていたのは、墨汁のように濃厚な闇とそれを照らす柔らかな月光。そんな中で、二人の男女が縺れ合っていた。
明は振り上げられた拳を見た。
「貞女の身体から出て行きやがれ!」
そう雄叫びをあげながら振り下ろされた拳を、貞女はじっと見つめていた。
「やっぱり、お優しいのですね。あなたは」
「……どうすればお前は貞女の身体から出て行くんだ」
「わたくしがわたくしから出て行く? おっしゃることの意味が分かりませんが」
この状況は明にとって想定の範囲外であった。平河にとっても同じことであろう。だが彼はこちらの姿を見定めると素早く指示を飛ばす。
「貞女を抑えるのを手伝ってくれ、こいつ。凄い力だから気を着けろっ!」
「あ、ああ!」
「そのようなことをせずとも、わたくし。逃げも隠れもいたしませんわよ」
「信じれるか」
平河の言葉に、貞女はぞっとするような笑みを浮かべ。
「わたくしが本気で何かするつもりでしたら、お二人など一瞬でただの肉塊になっているでしょう。それに、昼間わたくしがここを訪れたのだって、あなた方への誠意を見せたつもりなのですから」
「誠意だと?」
疑って掛かるような彼の口調だったが、とりあえずは話を聞くつもりのようだ。
「説明責任を果たすべきだとわたくし自身が判断し、ここまで足を運んだのです。芽久さんに関しては良平さんも大変悲しまれたようですし」
「芽久を殺したことに、理由があるって言いたいのか? それで俺達が納得するとでも? その為にわざわざ姿を現したと?」
彼女は頷きつつ、話し始めようとした。だが、
「説明だとっ? どんな理由があろうとも殺人はいけないことだろう。私は殺されかけたんだぞ、ここで理由をぐだぐだと話されて、はいそうですか、なんて答えられると思うか!」
明は物凄い剣幕で貞女に詰め寄った。這いつくばった彼女と視線を合わせながら、自分が持っていた思いのたけをぶつける。
「芽久ちゃんだけじゃない、町民の皆さんの命も沢山奪って……! 自分の所属する部活の後輩まで手にかけて、私怨以外に理由は無いだろう!?」
「異議ありですわ」
手をかざし、相手の発言を押さえつけると貞女は至極不思議そうに首を傾げて、問うた。
「どうして、匚盛での殺人全てがわたくしの所為みたくなっているのでしょうか」
「え?」
これには流石の明も激情を引っ込め、疑問符が頭に浮かぶ。同様に平河も血相を変えて彼女に聞き返していた。
「おいおいおい、待てよ。お前一人の犯行じゃないってどういう意味だ? 貞女の人格と自分の二人でやったとか言いださないよな」
「逆にお聞きしますけれど、どうしてわたくしが演劇部の後輩や友人である芽久さんを殺害する必要があったのです? こちらとしては、喰えれば何でも良かったのでわざわざ顔見知りを襲う必要がありませんわ」
「犯行には動機が必要だろ。そもそも、お前はどうして人を殺し。その上で肉を喰らったんだ?」
貞女は即答する。
「喰わねば隙間が空くのですよ。心に大きな」
「な、何を言って……」
「詳しいことはわたくし自身も分かりません。自分の精神が二つに別たれたのを実感し、心に空虚な部分が生まれるのを感じたのが最初の理由でございます」
心の隙間、それが一体なんだと言うのだろうか。
「意味の分からんことを言いやがって、俺達をおちょくっているのか。それに、それはお前が芽久を殺していないことの証明にはならないだろう」
底知れぬ威圧感が部屋に満ちた。それは、貞女から漏れたものなのかそれともここの空間が本来持っていたものなのか。ともかく平河は未知なる相手との会話に怯えつつも強気で言い放った。
「証拠。証拠ですか……」
失念していた、と言いたげに彼女は声を発する。
「証拠ならございます。嘘か本当か判断するのはあなたがたの仕事ですが。逃げ出したりなどは絶対にいたしませんので、拘束を解いて下さい。──神に誓って」
「……絶対だぞ」
彼は明に視線で指示すると、自分自身も貞女から離れる。身軽になった貞女はストレッチ運動をしたかと思うと、身体をまさぐり何かを探し始めた。
「で、証拠とは一体何なんだ」
警戒するように尋ねた平河に対し、貞女は壮絶に笑って。
「そんなものありませんよぉぉおおおおおぉぉおおおおおおおぉぉぉぉおおおっと!!」
跳躍し、窓を突き破り易々と九条邸から脱出した。
「くそったれ、とんだ間抜けだ俺はっ!」
平河の後を追って明も外に身を乗り出した。彼女の姿が、闇に消える──そのはずだったが。
幾人かの人影が、夜の街に姿を現した。目を凝らして、人相を確認すると見知った顔が一人。
「唯子さんだ……唯子さんがいるぞ」
静かに、だがざわざわと外からの音が激しくなるのを明は感じた。
□
「どうなってるんだこれは、貞女を見張るために集められたのか?」
平河は騒ぎになり始めている辺りの様子を窺いながら、そう言った。暗闇からあっちへ行ったぞ、だとかライトを点けろ、ケーサツを呼べ。といった声が多数生まれている。
「何なのだ、これは一体……。唯子さん、あなたがどうしてここに居る!?」
住居の明かりが点き始めたことにより、人相がはっきりした唯子に向けて、明が問いかけると、
「神主サンに呼ばれたから居るまでさ。危ないからアンタらはそこで見てなって」
そこに集まった大人達の前に、まるで幽鬼のような出で立ちの貞女が姿を現す。実を隠す必要もないと言おうとしているのかそれとも、何らかの意味があるのか。
「明はそこで待っていろっ! 俺も応援に行く」
相手の反応を気にする余裕は無く。彼は階下へ急いだ。外へ出た彼を待っていたのは、十人位の大人に囲まれた友人の姿であった。
数の優位に立っていた彼らだったが、貞女を威圧するような文句をあげる人間は一人も居らず。恐る恐る声をかけるその姿は、獰猛な獣を丸腰で囲っているような頼りない印象だった。
普通なら絶体絶命の危機に瀕した貞女は、大した問題では無いとでも言いたげに手にしていた木箱の外装を見分している。
箱、あれは昼間見た空の箱だ。どうして彼女があれを持っている。どんな事情で? 何かあれに価値を見出したとでも言うのか。それとも最初からあの箱を求めてこの家に来たのだろうか。
少しの間だけ周囲の人間の言う事に従っているようであったが、ゆらりと、彼女は一歩踏み出すと。手頃な男性の頭を鷲掴みにしてそのまま夜空へとぶん投げた。
「ぐぅあぁああああああ?」
地面に落下した男が白目をむいて気絶すると。現場が殺気立ち始め、我先にと貞女に突進し、彼女を拘束しようとしたが。
「えいっ」
押さえつけようとした男達全員を打破し、悠然と彼女は夜空の下で君臨する。てくてくと歩み去ろうとした貞女だったが、進路に立ちふさがる一つの影に気が付いた。
先ほどの乱戦に参加しなかった唯子だ。そんな彼女を見上げ、貞女は行儀正しく一礼してから。
「どいて下さいませんか」
「誰がどくかい、ばーか」
あっかんべーをする唯子に貞女は笑顔で拳を作り、
「いやいやいやいや、冗談だって。アンタちょっと待──」
無視して顔面にぶち込んだ。
「唯子さん!」
二階から明の声。声をかけられた本人はしばし、足元が覚束ない様子だったが。なんと、その場に立ち自らの無事を誇示した。
「……っ!」
苦い顔をしたのは攻撃した側の貞女だった。握り込んだ彼女の拳から流血が確認される。どうやら今の一瞬で何かがあったらしい。
「ここでアタシの重大事実を発表させて貰うとね」
笑顔だが苦しそうな唯子は己の額、貞女と同様に流血したそれを指さしながら。
「アタシはガキん頃から石頭って言われててな。ケンカの時はいつもこいつで戦ってた」
顔面に向けられた拳に合わせ、頭突きをする技術。それを実践で成し遂げたのだ。
「その手、アンタだって痛いだろうに。なっ、診療所言って治療しようや。と言っても治療するのはアタシの仕事なんだがな。明にも言ってないが、医師免許持ってんだよ」
凄いだろ、と彼女は二階の明へ向けて言ったが、言われた本人はそれどこではないだろうと平河は察する。
どれ、見せてみなと。唯子が手に触れようとするのを、貞女は拒まない。
「うん、やっぱこりゃ医者に見せないとな。まず、中へ入って色々話を聞かせてくれ。そこらで伸びてるオッサン達の代わりに、さ」
抵抗する意思なし、そう判断したのであろう唯子は先に歩み出す。平河は慌ててそれを避けると、彼女の独り言を耳にした。
「やっべえ、こりゃアタシも暴行罪で捕まっちまうかも……いやしかし、大ケガってほどじゃねえからなあ」
意識が完全に別なことに切り替わっていて、残るは後始末だけだとでも言いたげな様子である。
奥から明と菊華が姿を現すがそれを手で追い払うジェスチャーまでしている。後ろからゆっくりとだが歩み寄ってくる貞女の姿が見えた。
大事そうに木箱を抱えて。音もなく忍び寄り。
「死ねえぇええええええ!」
蹴り飛ばされた唯子の身体は宙に浮いた。不自然な格好で廊下を進んだ彼女は、壁との激突で動きを止める。
「あーもう喰いたい喰らいたいしゃぶりたいわぁー。でも駄目、捕まっちゃうから。姿、くらますから。目的を果たすまでは、終われない死ねない。そして、やっと見つけた……」
彼女は手にした箱を慈しむように抱き寄せ。
「やっと埋まるよぉ」
「なっ……何を言ってるんだ」
立ちすくむ明が、ようやく絞り出すように言ったのがその言葉であった。平河は顔を出し、厳しい目で様子を窺っていた昭雄に駆け寄る。
「あの箱は一体何なんだ! 昭雄さん、何か俺達に隠し事をしている訳じゃないよな」
「隠し事などしとらん。あれはただの空箱だ、君達も確認しただろう。それに今すべきことはあの娘をここから逃がさないことだ。放っておけば大変なことになる」
と、彼がそこまで言ったところで向こうに立つ彼女が行動を起した。それは膝を曲げて身を丸めるような姿勢。一瞬で行われたのでそこに居た他の人間が反応する前にその力を彼女が解放した。
跳躍。彼女は一秒もしない内に空へ打ちあがり月光をまんべんなくその身に照らす。
「……っと」
長い滞空時間を経て民家の上に着地、先程より倍の距離がこちらと開く。
「待て! どこへ行く!?」
このままでは逃げられる。そう思った彼は考えを纏める時間を稼ぐためにそんな疑問を放ったがこちらの意図など最初から無視するように彼女は笑顔を見せ、
「あっち」
と、自身の後方を指差し跳躍すると宣言どおりそちらの方角へと姿を消したのであった。間を置かず、うめき声をあげながら目を覚ました男達が彼女の追跡にあたる。
「貞女ちゃん、待って! お願いだから!」
その後に付いて行こうとした菊華を平河が抑える。彼女はきっ、とこちらを睨み。
「追わなくちゃ!」
「危険だ。お前の代わりに俺が行くから、明と一緒に家に居ろ」
「平河、それを言うならお前だって危険だ!」
このやりとりに反応し、明も口を挟んでくる。
「待て待て。子供達だけで話を進めるでない。ここはわしが出るから、平河君も家に残っていなさい。鍵をしっかりと掛けてな」
昭雄の発言に三人が反対し、それらを代表するように平河が懇願する。
「貞女は俺にとって大事な友達なんだ。あいつにこれ以上人を殺させたくはないんだよ。お願いだ、昭雄さん。俺もあいつを探す手伝いをさせてくれ」
「私からもお願いします!」
「お父さん。お願い!」
三人に頭を下げられ、困った顔を見せた昭雄は。断腸の思いである決断をした。
「家に飯島さんを残していく訳にもいかん。だから女の子のどちらかには残って貰う、もう一人と平河君は絶対にわしのそばから離れないこと。これが飲めんのだったら三人とも残って貰うぞ」
「明達は二人とも残して男手のみで行くべきだ」
「あんなの相手だ、男だろうが女だろうが関係ないだろう」
「あたしを連れてって、お父さん!」
様々な意見が飛び交い始めた頃、昭雄は平河を横目に見て小声で言った。
「時間が無い、連れていく一人は君に選んでもらおうか。昼間、共にいる時間は平河君の方が長いだろう。客観的な視点で頼む」
娘を前にしては父も選び辛いのだろう。菊華の意見を聞きたい反面、危険なことはさせたくない。しかし、女子二人を家に置くという参加権そのものを奪う方法は避けたい。
それで自分に悪魔の宣告をさせると、そういう魂胆なのだろう。ならばと平河は考える。頭を抱える時間ももったいないので極めて冷静に、かつ客観的な視点である結論を下した。
「やはりここは明を連れて行った方が良いと思う。運動能力もそうだし、こいつは昼間思いっきり寝たから眠気による判断力の低下もないはずだ」
「そんな、良平君!」
「決まりのようだな。菊華は家に入ってなさい、携帯の電源はいつでも入れておくように。ちゃんと戸締りもするんだぞ」
娘の言葉を遮った昭雄の行動は素早かった。彼は目で菊華を牽制し、突き放す様に歩き出す。
昭雄は懐から携帯式ライトを二本取り出し、平河と明へ一本ずつ渡しながら、菊華が自宅に戻ったところを目で追っていた。
きちんと戸が閉められるのを確認してから彼は歩き出す。二人も黙ってそれの後を追った。




