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告白

 その日、町は午前中から凄まじい活気を放っていた。祭の当日、準備に参加するしないに関わらず人々は浮足立ち、夜を待ち遠しく感じていた。

 既に町の中心にある大通りでは屋台が組まれ、準備の声が忙しく響く。

「天気も良いし。最高の祭り日和さね」

 唯子が足を止め、騒ぐ子供達の群れを見る。浴衣を着て道を闊歩する様は、見てるこっちも気分が高揚してくるから不思議だ。

「──んっ?」

 携帯が着信を伝える。液晶を見た途端、顔を歪ませた彼女は乱暴に通話ボタンを押す。

「もしもし」

 嫌悪感を隠さない彼女の声に、たまたま近くを通りかかった中年のオヤジが委縮していた。

 しばらく相手の話を黙って聞いていたが、

「こうして電話してくるってことはアンタにも後悔の念があるんだろうけど、やっぱ無理よ、それ。自分のやったことを顧みた結果がそれかい? アンタがやれることはね、もう二度とあの子の人生に関わらないこと。判る?」

 相手の哀願する言葉を断ち切り、淡白な口調で彼女は告げる。

「いくら反省した風を装ってもね。まず最初に母親であるアンタが明の様子を聞いてこない時点でもう、駄目だわ。さっきから謝る人間、間違ってるとは思わないんかい。姉さん」

 一方的に通話を切り、電源を落としポケットにしまう。そこで一度、深呼吸。

「アンタやアタシじゃ、無理なんだよ。もう」

気だるそうにタバコに火を点けながら、唯子は空を見上げていると。

「うん?」

一人の少年が目に入った。小学生、それも低学年くらいだろう。くりくりとした目でこちらをぐっと、掴んで離さない。

どこかですれ違ったことがあるような、無いような。つまり、それほど彼女にとって重大な人物でないことは確かだ。

あまりじろじろ見られるのは好きじゃないが、追い払うのも気が引ける。

さて、あの年代の子供が気になるようなものを自分は所持しているのかと考えてみる。答えは割とすぐに出た。

彼女は少年を横目にふーっと煙を吐き出して見せる。唯子は昨今の分煙化には賛成の意思を持ってるので、こうした行為に良い印象は持っていない。ぽっぽ、と煙で輪っかを作ると。まだ半分以上残ったタバコの火を消し、携帯灰皿へ。

これで向こうの興味も失せるだろうと、少年の様子を窺う。すると、何故かこちらに歩み寄ってきて来る。

「クーサマをお姉さんが連れて来たって、ホント?」

「……んん?」

「さっき、おかーさんが言ってた。すれ違った時に」

「ああ、なるほどね」

そう言われてみれば、さっきこの少年とその母親らしき人間とすれ違ったような記憶がある。

手を振られたので、こちらが振り返すと母親が申し訳なさそうな顔をしていた。もしや、その後になされた会話の意味を知ろうとここまでやってきたのだろうか。

「こら、準ちゃん! 勝手にどっか行っちゃ駄目ってママいつも言ってるじゃない!」

遅れてやってきた母親に、唯子が問う。

「アタシが連れて来たのは、人間の子なんだけど。何かアンタ勘違いしてるんじゃないかい?」

そう言われた少年の母親は顔を真っ青にしながら逃げるように立ち去った。

噂話だ。

発見された死体の全てが食い散らかされたように、悲惨な姿であった為この町の伝承であるクーサマの再来であると考えた人々が何人か居たそうで。それはすなわち外地からやってきた娘、つまり逢沢明こそが今件の発端であると考えられているのだそうな。

大半の人間がそんな妄言を信じていないが、不吉な存在として明を見る様にはなっていた。

村八分、なんてことはありえないがこのままことが進めばきっとロクでもないことになると唯子は考えていた。

しかも、明は今夜の祭に参加するつもりでいるから、嫌でもたくさんの人間から好奇の視線を向けられるだろう。

あまりじろじろ見られるのが好きじゃないのは、きっとあの子も同じだろう。唯子は財布の中身と相談しながらある場所へと歩み出した。


      □


「──ふぁ?」

 うたた寝を、していたみたいだ。

 そよそよと心地の良い風を浴びながらうっかり昼寝をしてしまっていたが、今日は平河達との約束の日。遅刻は出来ないのだ。

 時計は午後五時を指しており、約束の六時にはまだ余裕があった。着替えを始めようと立ち上がると、玄関から人が入ってくる気配。

「明、起きてるかい?」

 唯子だ。

「今、起きたところだ」

「そいつは丁度良い。ほら」

 起き抜けの明に彼女が差し出したのは、華やかな浴衣であった。

「えっと……。これは?」

 今の今までいつもと同じ服装で出掛けようと考えていたので、上手い返しが浮かばず。そう尋ねていた。

「買ったんだよ。せっかく出来た友達と祭に行くんだからオシャレくらいさせてやらないと、って思ってね。サイズは少し大きめに見積もったけど構わないよね?」

「そんな、私なんかの為にわざわざ……」

「馬鹿言いなさんなアンタ。この家にはアタシとアンタしか居ないんだからお金のことで悩む必要は無いんだからね、遠慮すんな」

 唯子はそう言い、財布を取り出し適当な額を明に渡す。

「男に会いに行くんだったらオシャレの一つもしないとって思うだろ? うら若き乙女としては」

「そういう目的で行くんじゃないからな!」

 にやにやと楽しそうな顔を見せる彼女に明はぴしゃりと言ってのける。

「いやでも、冗談抜きで。思うところがあるんだったら、色々行動してみな。相手の感情を知りたかったら、浴衣が似合ってるかどーかとか適当に訊いてみ。そこはアンタの自由だけれども」

「自由……」

 そんなものが与えられたのは、どれくらいぶりだったか。久しく忘れていた感覚。

 ふと、真面目な方向に思考がシフトしているのを察知し、明は慌てて訂正する。

「い、今の間は色恋とかそんなものじゃないからな!」

「分かってる分かってるって、いやホント。アタシにだって花も恥じらう乙女の時代があったんだからね。アンタの気持ちくらい察してやるさ」

 言葉で言っても無駄と思い。視線で威圧すると、相手もこちらの瞳を覗き返してきた。

「そんな訳で、門限とかは無いけど、気を付けな。ここ最近何やら物騒らしいからね」

 改まった表情で告げられた言葉に明が反応する。

「分かっているよ。殺人犯が居るんだろう」

「ここ数週間で行方が分からなくなっちまった人間が、まだ何人も居るらしくてね。祭の決行も危ぶまれたみたいなのよ。きっと、注意を促すアナウンスされるだろうから、気に留めときな」

 保護者からの忠告に耳を傾けながら、彼女は服を着替えはじめる。偶然か知っていたのか、浴衣の色は明が好きな青色をしていた。


 集合場所までは、自然と早足になっていた。あれから何度か平河とメールを交わし、最終的な集合場所は匚盛高校前となった。

「おーい、明ー」

 こちらの名を呼ぶのは一足先に到着していた平河。その隣で控えめに手を振るのは貞女だ。

 貞女も自分と同じように浴衣を身にまとっており、祭に向けてこちらのテンションも上がってくる。

 からから、と何人かが自分達の傍を通るが、誰の顔にも笑顔が見えた。消える寸前の夕日に写された町の景色はどこか幻想的な雰囲気を醸し出している。

「猫間はまだみたいだな」

 明が言うと、

「集合時間前ですし、向かっている最中なのでは?」

「それもそうか。にしても、平河。どうやってあいつと連絡を取ったんだ? 町中を歩き回った訳ではないだろ」

 平河も元気付けてやろうとわざわざ会いに行ったとは言えないので適当にごまかしの言葉を告げた。

「俺もどうしようか考えてたらな、偶然会ったんだよ。町中で」

 狭い土地だからな。と彼が最後に付け加えると、

「本当に良平さんはこの町が嫌いなのですね」

 貞女が感心した口調で話しかける。憮然とした顔で彼は返事した。

「お前はそうやって俺を陥れようとするな。今の発言に他意はねーよ」

「知ってます明さん? 良平さんったら家にある浴衣を敢えて着ないことでこの町の雰囲気に飲まれてないアピールをしていらっしゃるんですよ」

「うわ、それはイタいな」

「でしょう? イタいイタい」

「うるせえな、俺がどんな格好しても構わないだろ!」

 うざったそうに反応する彼に貞女が追撃する。

「それに毎年祭に誘うのだっていつも彼の方なんですから。クーサマの事は嫌いでも祭の雰囲気が好きみたいで」

「はっはっはっは」

「ああそうだよ! 祭は好きだよそりゃ勿論! 毎年来てるからな、やめるにやめられないだろう!?」

 開き直った平河を見て笑う二人。明は笑顔を見せながら、先日考えていた友人達との距離がほとんと存在しないようだった。

 まだ何度も話した訳では無いのに、こんなにも心許せる相手が出来たのは本当に幸運だったと思う。

 両親と過ごしたあの最低な日々がまるで嘘のようだ。

 ここで暮らしていけば一生あの二人に会うことは無い。それを考えるだけで幸せだった。

 だが、

「……どうした明? 顔色悪いぞ」

 記憶がフラッシュバックする。考えないようにすればするほどあの忌々しい記憶がより鮮明に蘇る。

「あきら!」

 名を呼ばれた。現実に意識を戻すと心配そうな二人の顔。

「どうかしたのですか?」

「いいや、何でもないよ」

 貞女の心配する声を振り切り、ぎこちない笑みを浮かべる。何か言いたげな表情の平河だったが、

「おらおらどけーいっ!!」

 元気ハツラツな芽久が自転車に乗って登場するのと同時に、平河に突っ込んだ。

「ぐはっ」

 ブレーキ音と同時に彼の口から声が漏れる。

「すんません遅れました!」

 颯爽と自転車から降りた芽久が選手宣誓のように手をまっすぐ挙げて言った。ピカピカの自転車は買ったばかりであることを主張しているようで、妙に存在感がある。

 明るく振る舞う彼女に数日前まで死体を見て凹んでいた、暗い面影はもうどこにも見当たらない。

「……お前、まず先に俺に何か言うべきじゃないのか」

 膝に着いた汚れを払う平河の表情は険しい。だが、彼女は飄々とした態度を崩さず。

「あ、そんなところに居たんですか平河先輩。ボク気づきませんでした」

「まず俺を引いたことを謝れ、な?」

「そんな個人的なことを優先しろだなんて、人として良くないですよ。ボクみたいにまずはここに居る全員のことを考えるべきなんです」

 知ったような口を利く彼女に平河は呆れた顔を見せたが、どうしてか貞女は彼女に同調し、明もそれに引っ張られる形になる。

「あらやだ、良平さんったら中学生に言い負かされてますわ」

「負けてーよ!!」

「じゃあ、勝てる自信があるのか?」

 意地の悪い聞き方をする明に平河は断言した。

「こっから先、でかい口を利けないように。今の内から教育してやるからなっ! そこで見てろ!!」

 年下相手にムキになった彼の手を芽久が背後から捻りあげる。

「あっ」

 時すでに遅し。刹那、夜の匚盛に青年の悲痛な叫び声が響き渡った。


      □


 大通りに出ると町の活気がまた一段と身近なものになる。夜店からは香ばしい匂いが漂い、こちらの食欲を嫌という程刺激してくる、そんな中で。

「ちったぁ加減しろよ……」

 平河は忌々しそうに、これ以上無いほど忌々しそうに口笛を吹いている芽久を睨んでいた。

「ボクは本気の半分も出してないよーだ」

 肩で息をしている彼の隣で余裕の表情を見せた彼女はすかさず明にすり寄る。行動を制限する自転車は適当な所に放置してきたので、もはやこの少女を縛る枷が取り払われたも同然とい訳だ。

「それに、平河先輩が居なくたってボクと貞女先輩の二人が居れば問題無いでしょ? ねえ、明先輩!」

「い、いや、そこまでは私も……」

 歯切れの悪い回答に、芽久は目ざとく反応した。

「んもうっ、どーして先輩はこんな男を庇うんですかっ? 男なんてものは所詮ケダモノなんですからねっ。気を許しちゃいけないんですよー!」

 どう反応すれば良いか分からず困った様子の明に、平河が助け舟を出す。

「明はお前と違って人の心を考えた発言をするからな。子供には理解不能だよな、そりゃ」

「ふんっ、一人で言ってるが良いさ! ……にしてもやっぱ、毎年毎年よくやるよねー」

「あそこからずっと伸びてるしめ縄のようなものが気になるな」

 感心した様子の芽久に明が尋ねる。どうも足元を這うように張られた紙製の縄が気になる様子で。

 紙製の縄はかなりの太さと長さを誇り、形を整える為に細い紐でぐるぐる巻きにされていた。

「れれ? もしかして説明されてない?」

 彼女が肯定の頷きを見せると、芽久だけではなく貞女も怒ったような顔をして、

「駄目じゃないですか良平さん。あなたいつか、『明には俺から説明しとく』って言っていたではありませんか」

「ぐ……すまん。メールで伝えるのを忘れていた──」

「えー! メアド交換してたのー!? ずるいー」

 どんな話題にも食いつくんじゃないかと平河が思う程に、芽久はこちらが一言発するごとに大仰に声をあげる。

「わたくしにも秘密で二人だけの連絡手段だなんて……いつだったでしょう、最後に良平さんがメールをしてくれたのは……。昔の事過ぎてもう思い出せませんわ」

 よよよ、と涙を拭く素振りをする貞女。

「面倒ったらありゃしねーなお前らは!!」

「簡単に説明するとだな」

 無事、メールアドレスの交換が終了し平河の説明が始まる。

「そもそも。この祭りはクーサマの来訪を祝うものだ。だから伝説に沿う形で祭も行われる。

 ここやあそこから伸びてる紙の縄でクーサマの到来を再現するんだよ。数百メートル先から火を灯し、町の最奥、神社の階段を登らせるんだ」

「子供とかに危険が及んだりするんじゃないか?」

 怪訝そうな明の問いに芽久が毅然と応えた。

「夏が近くなると生徒があの縄の制作を手伝うんだよ。その際に説明も受けてるから危険なのを承知だし、親同士も協力して子供の安全を見守ってるんだよ。燃えやすい紙を使ってるから燃え尽きるのも早いしね。」

「学校か……。なるほど。伝統っていうのはこんな風に受け継がれていくんだな」

 感心したようにキョロキョロと周りを観察していると。

「そろそろ時間だな」

 平河が携帯を見て告げ、屋台や照明の光が落とされていく。じわり、と余韻のように残された神社の灯りだけが唯一の光源だ。

 町を闇が包み込むのとほぼ同じときに、山の上の神社から管弦楽器の音が響きだす。音は町中のスピーカーからも流れるので、遠くの音と近くの音が混在し不思議な音色になる。

 場に生まれた厳かな空気感に押され、周りに合わせて新参者である明も黙り込む。後に残るのは布の擦れる音、誰かの足音、鼻の啜る音。何が起こっているのか理解出来ていない子供の声。

町中でたった一つの明かりを放っていた神社の足元にもまた一つ新たな光が生まれる。

その正体は松明。町の顔役なのだろうか、髭を生やした男が火をつけようと地に置かれた縄に近づくと。

 点火したと同時に一瞬で縄が火に包まれる。燃えやすいようにガソリンでも塗られていたのだろう。

 わっ、と歓声が起こると同時に照明がつけられ、匚盛神社で行われる舞踊についてのアナウンスが流れる。

「菊華は今頃緊張しているだろうな。冷やかしにでも行くか」

「そうやってすぐに人を茶化すのは、あなたの悪い癖ですわ。良平さん」

「冗談だって。一目顔を合わせておきたいところだが、より一層緊張させちまうだろうからやめとくよ」

 賢明ですわ、と貞女が賛同し。

「ボクはじゃがバターが食べたいなっ!!」

 芽久が提案すると平河もよし、と言って。

「じゃ、まずは腹ごしらえをするか!!」

「いえーいー!」

 祭の雰囲気に感化されたのか、地の部分が出たのか。その発言を受けて、芽久が歓声を上げながら彼に抱き付く。

 飛びかかれた彼も舞い上がっているのか、少女を抱えてグルグルと回転を始める。流石にここまで騒いでいる人間は他に居ないので、周囲の人々の視線も集まってきてかなり恥ずかしいのだが。

「あいつ、毎年祭の度にああなるのか」

「いえ、いつもはもっとまともな感じで……。わたくし、あんな平河さんを見たの。初めてです」

 同じく動揺した様子の貞女に明も同情し、率直な感想を述べる。

「不気味だな」

「はい、不気味です」

 当の本人達も疲れたのか、回転を止め。よたよたと辺りをおぼつかない足取りで歩き出す。

「ははは、楽しいなぁ! 明達も楽しんでるかぁ!?」

 へらへらと気色悪い笑顔を見せた平河がその場に立ち止って訊いてくる。

「まだ始まったばかりだし、どこにも行っていないのに楽しめるか。私は今、形容しがたい不安に襲われていて忙しい。頼むから、私達と五メートルくらい距離を置いて歩いてくれ」

「冷たいなあ、お前は。よーし、芽久っ。お前は楽しんでるか!?」

「いえあはー!!」

 頭がどうかしてしまったのでは無いかと本気で不安になってきた明の横で、貞女が冷静に分析する。

「これはきっと、普段クールぶってはしゃげない祭りの場で、いつもと違う人間と行動することによって良平さんの理性が取り払われたのではないかと」

 それが当たってたらかっこ悪りいなー、と明は思い。

「やっぱりお前、この町の事が大好きなんじゃないか?」

 と、口にするが。どうにも彼の耳には届かなかったようで、前方では気がふれたような二人の珍道中が始まっていた。


      □


 今日は本当に愉快でしょうがない。きっかけは、いつもこちらに対しキツい言葉を投げかけていた芽久が無防備に抱き付いてきたからだ。

 ほんの一瞬だけ普段の彼女とのギャップに驚いたが、祭の日にそんなことを言いだすのも野暮だと思い。こうなれば自分もとそれに乗ったのが悪かった。

 そこから先はもう何が面白いのか分からなくなっている自分が面白くなってしまって。笑いの無間地獄に陥ってしまった訳だ。

 見苦しい言い訳をするようだが、数日前にコンタクトを取った際、酷く傷ついていた彼女がここまで回復したのが嬉しいのだ。

 多少、彼女だって無理をしているかもしれないのだ。そこで自分が乗ってやらなければどうするんだ!?

「まぁ、良いだろ今日くらいは!」

「……何がだ?」

 自己肯定すると共に明の白い目がこちらに向けられる。平河はその目を見返しながらバターで汚れた口元をおしぼりで拭きとる。

「良平先輩が元気ってだけで、それだけで良いでしょ!!」

「別に悪くは無いけどな。芽久も平河も、お前らいつの間にそんな仲良くなってんだ?」

「出会った瞬間だねっ! わはははは」

 口元をべたべたと汚した芽久が言う。精神年齢が幼くなってるんじゃないかと懸念を抱くが匚盛には頭の病院が無いので明は見なかったふりをした。

「さて、そろそろ良い時間だし。菊華の晴れ舞台を見に行こうか」

 正気を取り戻した平河が告げると、芽久が猛烈に反対する。

「えー、まだボク遊び足りないよー!! 金魚すくいもしてないし、このままじゃ祭を終えれないって」

 彼女の言うように、神社での舞の奉納が祭りの締めくくりとされているので。それに足を運んでしまえばそれ以降、屋台巡りが出来なくなってしまう訳だ。

「とは言っても俺の知り合いが舞う訳だから、どうしても見に行かなければならないんだ。……かと言ってお前一人にさせれないしなあ」

 思案気な表情を見せた彼に、明が芽久のお守りを引き受けようとするも。

「それでしたらわたくしが芽久ちゃんを見ているので、良平さん達はどうぞ神社に向かってくださいな」

「いや貞女さん。菊華さんとあまり面識のない、赤の他人の私が行っても意味が無いんじゃないか?」

 先を越された明が告げる言葉はほとんど本音だ。この組み合わせはどう考えてもおかしいと思うのだが。

「まあまあ」

 と、妙な威圧力のある彼女の笑顔に閉口せざるを得ない。ここまで頑なに譲る気が無い人間を相手するのは厄介だし、彼女なりにこちらを慮った故の好意なのだろう。

 どんな理由で? 他人の舞を見ることで自分にどんな利益が。それとも他に彼女の意図する所とは。

「女同士話したいことでもあるんだろ。ここで問答してても進まないし、貞女達もなるべく早く来いよ」

 ばっさりと切り捨てるように動き出す平河。

「……まさかぁ」

 緊張やら恥ずかしいやら、こそばゆい気持ちで彼の後ろに付く明だった。


 神前行事である舞踊の延期がアナウンスされたのは、貞女達と別れてすぐのことであった。

 こんなことは滅多にあることではないが、演者の体調が悪いのか。はたまた、やむにやまれぬ事情があったりするのだろう。

 最低でも三十分は延期され、結構の十分前に再び放送をするとのことだが、これで平河達は手持無沙汰になってしまった訳だ。

 平河に連れ添う明の心情を代弁すれば、勘弁してくれ。といったところだろう。そもそも祭の雰囲気自体になれていない彼女が、男子と行動を共にすることはかなり神経をすり減らす事なのだ。

「今からでも貞女達と合流……は無理か」

 平河はいよいよ混雑してきた大通りに目をやって呟く。神社の前の階段を見ると、どこから湧いたのかと尋ねたくなるほどの人々が階段を下ってきている。彼らも時間を潰そうと夜店を巡ろうとしているのだ。

「……駄目だ、繋がらねえ。メールも入れといた方が良いか──いや」

 自分の発言を取り消すと、こちらを振り向き、

「食うだけが祭りでは無し。ちょっと周ってみようぜ、この通り以外でも店は出てるから。空いてる道を探すか」

「動きたいのは山々だが。不規則な人の流れが」

「かき分けろ。お前の住んでた所だったら、こんな祭りより大規模なやつが近所でやってなかったか?」

 確かに人の数では他より劣っているだろうが、密度の濃さがとんでもない。唯子の話では町民のほとんど全員が祭りに参加するらしく、不快指数だったら都会にも負けないのだそうだ。

 信仰心の厚い土地柄の所為でもあろう。老若男女様々な人々が行き交う道の真ん中で彼女は思う。

 最後に祭りへと参加をしたのはいつだっただろうかと。

 嫌な思い出が頭を過ぎったので、半ば強引に目に入った住宅と住宅の隙間の小道に反応を示す。

「平河! あっちの道に一時避難をしよう」

 人の流れから強引に脱出すると、平河もやれやれといった調子でついてくる。先にあるのは暗く狭い十字路だが、どれか一つくらいは屋台まで導いてくれるだろう。

 数歩、小道に入っただけで喧騒が遠くに聞こえる。前方からは寒々とした沈黙。

「近道だ」

 自慢げな気持ちになり、そんな言葉を口にするが。一度、十字路を曲がり。次のT字路が前方に見えた際に、この道を町民が通らない理由が分かった気がする。

 街灯なんてあるはずもない二人の行く末を照らすのは、大通りから漏れた明かりと星々の光だけだ。

 あんまり好き好んで入ろうとは思わない道だ。一人だったら絶対入らないだろう。だが、自分一人だけではないこの状況が、暗い場所にも厭わず足を踏み出せる理由だ。

 言い換えれば二人きり。その事実に思い当たってしまった明はけん制するように隣の平河に声をかけた。

「どこまで続くんだろうなあ、この道は」

「もうちょっとだ」

 T字路に差し掛かり、片方が私有地で行き止まりであること確認する。直進した先に民家の駐車場。また二つに枝分かれしているのを目にして腹に黒いものが溜まる感覚がする。ここで重苦しい空気を感じているのは自分だけだろうか。

 そもそも、こうして二人きりで行動することに平河はどんな考えを持っているのだろう。仲の良さから考えれば、彼は貞女と一緒に居たいと考えているに決まっている。さっきから言葉数が少ないのは不機嫌な証拠なのか。だからといって薄暗い道に入った途端、饒舌になるような人間も珍しいだろう。

 気のせいだろう。きっとそうだと、民家に突き当たった時。

「おおっと?」

 二つに分かれたT字路と思っていた道が、すぐに途絶える行き止まりであることに気が付いた。

「行き止まり、だな」

背後からの声に少しむっとする。

「分かっていたんなら教えてくれても良いじゃないか」

非難の目で見返すと少し困ったように鼻を掻き、

「いやさ、いつ気づくかなーって思ってたんだけどよ。最後まで気づかなかったご様子で」

 口を手で押さえ、笑顔を隠す平河。あからさまに人を馬鹿にした態度だったが。嫌な思いどころか、こちらの口角も上がってくる。

「ほんじゃ、今度は俺の方ついてくること」

 踵を返し、元の道に帰ろうとする平河。

「ちょっと待ってくれ、平河」

 そんな彼の背中を呼び止める明。理由は無い。ただ単に何となく呼び止めてしまったのだ。伝えたい言葉も無いはずなのに、自然に声を発してしまっていた。

「ん? どうした?」

 予想外の呼びかけに、相手が振り返る。意表を突かれた所為か、緊張しているようで視線がしっかりとこちらに向いていないことが分かった。そうして自分も、彼と同じ症状に陥っていた。

「あ、あの……」

伝えたいことがあるわけではない、だが口は勝手に開かれる。二人の間に気まずい沈黙が取り囲む。

さっさと会話を切り上げれば良いものを、それすら出来ずに固まってしまう。焦りと緊張で頭がくらくらしてきた。心臓が喉元まで上がって来ている。鼓動が早まり、身体が熱い。このまま気絶してしまえばどれほど楽だろうか。現実逃避でしかないその考えを掻き消しながら彼女は口を閉じると、相手は何かを察したのか、目に見えて震える指でこちらを指し。

「お前のその浴衣。似合ってるぞ、結構。色とか、俺の好みだ」

 顔も赤く、恥じらいの表情をした彼の賛辞に。明は頷くことで視線を逸らすことに成功し、

「あ、ああ……。そうか……ありがとう」

言われた彼女自身も恥ずかしさがあったがそれとは違うもっと内から湧いてくる感情を明は悟った。時間が止まったかのようで自分の体温や鼓動が手に取るようにわかる感覚。

それは、彼女の中である二つのことを決定付ける重要な感情。

「あの、その……。祭が終わった後、ちょっとで良いから。話をしないか……その、門限とかがあるんだったら別に今度とかでも構わないんだけどな。いいや、私としては是非今日中に話して置きたいんだが」

 何も考えられぬ程真っ白になった脳みそから、自然とそんな言葉達が流れ込んでくる。

「それは、ここだと言えないことか?」

 辺りを伺いながら告げる平河に首肯する明。その意思表示に対し彼は一瞬だけ、躊躇するような顔をしたが。こちらを待たせるような真似はしなかった。

「分かったよ」

 その答えが返ってくるまでの数秒が彼女にとっては永遠のように長く感ぜられた。それに反応し身体が固くこわばる。

「じゃ、行こうか」

 今度こそ歩き出す平河。その後ろに付く明だったが、その距離はさっき歩いてきた時よりも開かれていた。


      □


かつてない感情が平河の中で渦巻いていた。恋愛経験の乏しい彼であったが、自分の抱いた気持ちが恋心であることには思い当たっている。

明のことを女性として意識をし出したのはいつからだろう。ついさっきのことにも思えるし、案内役を買って出たばかりの時かも知れない。

曖昧な記憶だが、それで現状が変わる訳では無い。もっと彼女と話してみたいと思う反面、気恥ずかしさも共存する。じれったくなるような精神状態だ。

数日前まではどこにでも居る転校生だと思っていた。時間もそう経っていないから今でも彼女が転校生であることに変化はない。変わったのは、自分の心だ。

もしかすると、明の容姿に惹かれて彼女の案内役を請け負ったのかと邪推してみる。自分が浅ましい人間だと感じてしまうが、背後に感じる少女の存在が鼓動を早めさせるので自己嫌悪に陥っている場合じゃなかった。

彼女から明言された訳では無いので、祭りの後で語られる話の内容は自分で想像するしかない。

平河は高校生らしく自惚れた想像をするが、話の内容がどのようなものでも自分は今日、何らかの意思を彼女に伝えるだろう。そう予感していた。

再び大通りまで戻ってくる。アナウンスはまだ無い、よほどの大事なのだろうか。

通りの人々もどこかへ散ったらしく、先ほどまでの混雑は解消されていて自由に動き回れる程度にはなっていた。

神社の前から階段を見上げるとそれなりに人は残っているようだ。これだけ期待されているのだから、やるやらないは抜きにして舞の奉納に関しては何らかのアナウンスはされるだろう。

もちろん、中止となれば匚盛神社として類を見ない出来事となるだろから、十中八九行われるだろうが。

「さて、困ったぞ」

 大して困っていない様子で平河が呟く。匚盛神社前の通りにでた彼らを待っていたのは、道を塞ぐほどに膨れ上がった群衆。

 左右どちらに行くとしても斜面に面した道で、幅も狭い。

「さて、明よ。貴殿はどちらへ向かいたい?」

「……あっち」

 おどけた平河を気にせず、比較的空いた道の方を指さす彼女に。

「はぐれるでないぞー」

 意地でキャラを突き通す。

 ほとんど停滞した人々の群れの中を進む一組の男女。可能な限り他人に迷惑をかけず、その上自分自身も被害者にならないよう歩くのは至難の業である。

 うっかり見落としそうになる小さい子供。蹴飛ばさないように注意して避ける。棒切れを踏み、音を立てる。夜店に向かう人間は突然進路を変えるから要注意だ。食べ物を持った人間も危険だ。お面は意外と固くて痛い。ガラの悪そうな男達の横をすり抜ける。子供の泣き声、禿頭の老人。

「あっ……」

 明の声に振り向く。人間の壁に阻まれて、二人の距離が開きそうになる。平河は脊髄神経で手を差し出した。

 差し出された手を見た明の瞳に、衝撃とも困惑ともとれる感情が見えたが。結論として彼女はこちらの手首を掴むことを決断したようだ。

「大丈夫か、しっかり掴まれ」

平河も非常に軽く。触れるような強さで掴み返す。突如静止した為、何人かの人間に接触されたゆっくりと彼女を引き寄せることだけに集中した。

至近に近づく明の驚いた顔。ふわり、と良い香りがした。多分、こちらも動揺していたのも向こうに筒抜けなのだろう。

「何かやりたいのあるか!?」

「まだ無い!」

 一旦、意思疎通を図った後も、何となく二人はお互いの手首を掴んだままでいた。人にぶつかるたび、段々とだが平河の手にも力が籠ってくる。

 そうして、人ごみから抜け出した。

 繋がれていた手はどちらともなく離されるが。

「今度は店が見当たらなくなったな」

 平河の言葉に明は後ろを振り返る。まだまだ人が引く気配のないこの状況に若干気後れしているようだ。

「どうする明? 先に進むか?」

 それとも、と前置きをして。

「もう一度入るか?」

訊かれた明は頷き。

「途中にあった焼き鳥。あれが食べたい」

おずおずと差し出される彼女の手、平河は半身でその手を掴み。

「焼き鳥な。俺も食いたかったんだ」

笑顔を浮かべた彼は、相手の顔を見ないまま一歩、足を踏み出した。


     □


「うまうま」

 ほくほくとした顔でジャガバターを食す芽久はご機嫌だった。両手に金魚の袋や水風船、頭部にひょっとこお面を引っ掛けて貞女と歩いていると。

「んなっ!?」

彼女は目撃してしまう。焼き鳥を片手に固く手を繋いだ平河と明の姿を。すれ違い様に見た初々しい二人のその様子はまさに出来立てほやほやのカップルそのもので。

「ななななにぬねの……」

「どうかいたしましたので? 芽久ちゃん」

それに気が付かなかったのであろう貞女が能天気にそんなことを訊いてくる。

今すぐあの男のケツを後ろから蹴っ飛ばしてやりたかったが、明の見せていたあの表情を見たせいで、水を差す訳にもいかないような気にもなる。

「あの」

「いやあ! ボクは普通だよ本当にね!! 貞女先輩が気にするこたあ何にもないでっせ、えっへっへ!」

てっきり平河は、この大和撫子を体現したような容姿の貞女に思いを寄せていると考えていたが、何があったんだろうかこの数十分の間に。

「これが吊り橋効果……? 雰囲気酔い?」

ちょっと混乱してしまう。つまり、平河達は既にお互いの気持ちを伝えあったのだろう。だから今あんな風にしているのだ。

一目見ただけだが、そのつながりはかなり強固のようだった。ちらり、と連れ添いの貞女を見上げる。

ならばいずれバレることなのだから、秘密にすることもなかろうと。と軽く考えた芽久はそっと口を開き。

「今、そこで明先輩と良平先輩が手を繋いでいましてね──」


      □


神社の境内には、これでもかと言う程、沢山の人々が集まっていた。特に何事も無かったかのようにアナウンスがされたのは、予定されていた時間の一時間後。舞台に上がった菊華が例年通り、舞を踊っている。

緊張しているようだが、体調は問題がないようだ。ならば、延期の理由は他にあるのだろうかと邪推してしまうが、ここにいる大半の人間にとっては理由など、きっとどうでも良いことであろう。

とにかく、いつものことがいつも通り執り行われる。これこそに意味を見出している者の集まりなのだ。

平河は、巫女装束を身にまとい。堂々とした彼女の舞を黙って見つめていた。明も同様に、舞台上で行われる神事に集中している。

辺りを包み込む奇妙な静けさが、この場の神秘性を増していた。呼吸一つも雑音になる。そんな場面だったが。

「んっ?」

平河は自分の服の裾を引かれるのを感じ振り返る。待っていたのは、さっき別行動を取ることにした貞女。

不敵な笑みを浮かべこちらを見上げてくる。どことなく不気味な印象を持ったが、いつもの様に話しかけてくる彼女の言葉に変わったところは無い。

「お話は全て聞かせて頂きましわ」

「き、聞かせて貰ったとは?」

「ふふふふ。随分とお楽しみだったようで」

意地の悪い言い方をしてくる彼女に、平河は冷や汗をかきながら応じる。ちらり、と貞女は明の方を見て、

「念願。叶ったようですわね」

そこでようやく彼女の言わんとしていることを理解し、狼狽する。

「違う。最初からこれが目的だった訳じゃ無い。何と言うか、いつの間にかなっていたみたいな……」

明に聞かれぬよう、小声で話す二人。

「そんな軽い思いなのですか? わたくしが別れることをお勧めした場合。良平っさんはどう答えるのでしょうね?」

「そんなの、決まってるだろ。それに、まだ付き合ってる訳じゃ無い」

告白も何もあった訳じゃ無いのだ。さっきまで手を繋いでいた。客観的に見ればそれが事実に最も適しているだろう。

「ですが、良平さんの心はもう決まっているのでしょう?」

まるでこちらの心情を全て悟ったかの物言いだったが、それについて口を挟むことも、口答えもせず。

「まあ、な」

とだけ言った。

「何だか、不思議な気分ですわ」

唐突に貞女が言う。

「あの良平さんが女性とお付き合いをしようだなんて考えるとは、本当に。不思議でしょうがありませんわ」

「まあ、振られたらおしまいなのだけどな」

「告白はするつもりで、これが終わった後にでもわたくしと作戦会議などはいかがです?」

「既に明から話があるって呼ばれてるんだよな」

すると、貞女はわざとらしく笑って、

「そう言えば、わたくし用事があったのでした。先に帰るので、後はお好きに」

「露骨だな、おい」

応えてから気付く。彼女と一緒に居るはずである芽久の姿が見当たらないことを。それについて尋ねると。

「何だか、やりたいことは全てやりきったらしく。満足してお帰りになりましたわ」

「おい、そりゃあんまずいんじゃないか? 殺人鬼が町をうろついてるんだから、いつどんな危険があるか……」

「このお祭りには町中の人達が関わってますから。その殺人鬼さんも祭りの事で手いっぱいでしょう」

本気なのか冗談なのかどっちつかずの答え。しかし、彼女の性格上。危険だと分かっていて芽久を一人で家に帰すような真似はしない。つまり、本気でそう考えているのだろう。

「そっちの方が問題だよなあ……」

何にも無いと良いんだが。本当に、今日くらいはこの匚盛に安全で幸せな夜を迎えさせてやって欲しい。

例え自分が嫌いな町であっても、そこで起こる悲劇はなるべく最小限に収まって欲しいと思うのだ。

と、ロマンチストじみた思考に浸っていると。今度は明に裾を引かれ。

「……周り、見てみろ」

注意されて初めて、ずっと喋っていた自分達に向け、批判的な視線が集中していることに気が付いた。

反省の意を表して小さく頭を下げ、平河は舞台上に視線を戻した。

屋根付きの舞台上で舞を披露する菊華は、こういう場面だと『らしく』見える。いつものように病的な怯えに晒されること無く、緩やかに、演者の面持ちを浮かべていた。

「流石だな」

じろり、と周囲の視線が集まるのを感じ。平河は肩を落とす。

神へと捧げる神事を食い入るように見つめている彼らの心には、今起きている連続殺人事件への不安も混じっているのだろう。

ふっ、と。そこで感じる重圧。まるで世界が密度を増して、この身を押しつぶしにかかってきているような。

空を見上げると、この仮説を肯定するようにどんよりとした雨雲が空を覆い始めていた。早ければ今夜中にも雨になることだろう。


     □


「何なのだ、これは?」

平河達四人が大通りで会話を交わしていた頃まで時は遡る。舞の奉納が行われる時間が差し迫っていた頃に、彼女の父親である九条昭雄はある光景を目にしていた。

「俺らが来たときには既に。……ほんのさっきまで、こんなもの。影も形もありゃしなかったんだがな」

祭の手伝いをしていた男に呼ばれ、現場に駆け付けた昭雄は衝撃を感じていた。場所は神社のすぐ裏手、蔵の手前で数人の男達が途方に暮れている。

聖域とされるその場所に、正体不明の血痕が大量に残されていれば、誰だろうと驚くであろう。

「山に近いことだし、獣の仕業かいな。こいつは」

 男の言葉に、昭雄は肯定も否定もせず告げる。

「わしも長いこと匚盛に住んでおるが、動物が人を襲うことなんて聞いたことも無いがな。しかし、事実こうして何者かが何者かの被害に遭っている……」

この出血だ。長くは持つまい。蔵の扉に何かを打ち付けたような跡から、血の跡は暗い山の奥にまで点々と続いている。

「きっとイノシシかオオカミの仕業だろ」

「馬っ鹿お前。オオカミなんてとっくの昔に滅んだよ」

違う。少なくとも四肢動物の犯行じゃないことは確実だ。何故ならば、獲物を引きずった跡が無いから。それ故に血痕だけが道しるべのように残されているのだ。

 その場で犬などが獲物を食い殺して立ち去った可能性も却下する。それならば、何かしらの死体がここに残っていなければおかしい。とすれば、

「鳥か?」

ありえない。と脳内で否定。この血の量からして獲物はかなり大型の動物と考えられる。そんなものを運べるような鳥類が匚盛に居るはずがない。

もっと調べる必要があることは明白だった。だが、彼の背後に菊華の影が現れることによってその行動は中断せざるを得なかった。

「どうしたの、お父さん。何かあった──うわっ!?」

「お前はここに来ちゃいかん。獣か何かの仕業じゃろうて。わしはやることがあるから、皆、任せたぞ」

昭雄は舞踊の開始時刻を延期する旨を報告するために、現場を離れ、他の町民に後を任せることとした。

「しっかし、本当に何なんだろうなこれは。蔵の状況からして、相当なスピードで激突したことだろうに」

後に残された男達が現場の検証を始めるが。

「足跡から予測しようも駄目みたいだな」

そこには複数の足跡が残されていたが、どれも人間の履いた靴の足跡で今回の件とは無関係だろうと、誰もがそう判断をした。

たった一人、一瞬それを見ただけの菊華のみを除いて。


     □


「ああいう、古典? 的な伝統芸能を目にする機会は中々あるもんじゃないからな、新鮮で時間があっという間に過ぎたな」

閑散とした神社の境内で、こちらの顔を見るなり明はそう感想を述べた。良かったな、と平河が返すと、

「それに、菊華さんの堂に入った技術。彼女がここの雰囲気そのものであったと言っても過言じゃないだろう。無宗教を自称していたが、今夜のことで考えを改めることになるかも知れないな」

「……そりゃ結構なことで」

平河にとってはもはや見慣れたことなので特別変わった印象を抱かなかったが、初見の明には何かしら感得し得るものがあったのだろう。熱く語る彼女に、彼は問う。

「で、要件はそれで良いのか」

「ああ、違う……。すまん、そうじゃないんだ」

少し冷たい言い方になってしまったので、僅かに委縮した様子を見せる彼女に心の中で謝っておく。

人の気配がしなくなった町を望む。明日の早朝から行われる祭りの始末のために、今日は一段と町の暗がりが深いようだ。

この重苦しい暗がりを、昨日までの自分だったら嫌悪の目で見ていただろう。だが今は、そう悪いものでもないとそんな風に思ってもいた。

「不思議なものだ」

平河が自分の心境をそう漏らすと、明が聞き返してくる。

「へっ? 何か言ったのか今!?」

「別に大したことじゃねえから聞き流してくれ」

「そう言われると気になってくるだろ!」

こんなやりとりをしている内に、二人の間にあった緊張が大分和らいだようで、今度は明の方から話しかけてくる。

「しかし、凄い眺めだな。まるで町全体が眠っているみたいだ。私の住んでたところは、二十四時間明かりが灯っていたからな。嫌いじゃない、この景色は。初めて来たときはもっと──」

そこで言葉を区切った彼女は何を言おうとしていたのだろう。

「初めて来たときは、ゆっくり出来なかったからな」

言い直した彼女のセリフには隠された意図のようなものが見えた。それが何かを平河は察せられない。

「平河はっ……」

言葉を途切れさせないようにする彼女は、どこか必死な表情だった。

「今日の祭。楽しかったか?」

「おお、楽しかったぞ。去年までは貞女と二人きりだったからこんな時間までうろついてはいなかった」

「そうか……」

この時点で既に彼女がどういった話をしようとしているのか、大体は予測していた。さっきから平河の心臓も高鳴るばかりで、収まる気配が一向に見られない。

「お前はどうだったんだ? 匚盛に来て初めての祭だったろう?」

男性としての自覚を持った彼が尋ねると、明はどこか悲しげな表情を見せる。

どうして、と思うと同じくして疑問が飛んできた。

「お前は、やっぱりこの町の事が嫌いでしょうがないのか?」

彼女の問いに、考え込む。以前の自分であったら即答していた筈の質問に、彼は首を振って。

「前よりは、嫌いではなくなったような。気がするよ」

「……そっか」

「──だが」

安堵した彼女の表情が強ばる。対する平河の足は、緊張から震えが生じていた。それを隠す様に、彼は視線を鳥居の外。眼下の町に向ける。

「きっと、これはお前が一緒に居たからだと思う。祭が楽しく感じられたのも、この町への印象が変わったのも、明のお蔭だと思うんだ」

「……!?」

はっ、と息を呑む明。駄目だ、こうゆうのはどうしたって耐えられない。平河も恥ずかしさから漏れそうになった吐息をぐっと堪える。

「お前が居たからだ……」

か細い声だった。自分でも驚くほどに。それでも静寂を守っていた神社のお蔭で彼女の耳には届いているようだ。

平河は一度大きく息を吸って。

「お前と出会えたからだ」

正直それは、

「ここでなくてもお前が居れば……」

どこでも良い。

「今は無理でもきっといつかは」

この町の事だって愛せるようになれるかもしれない。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待った……」

平河の告白に明は顔を赤くすると。

「そんな……一気に言われるとだな……その、私も……困るというか……そうやってはっきり言われるとなあー……」

意味を成さない言葉を並べ立てる。しかし、その表情は次第に悲しみを帯びてきて。

「……どうした? もしかして嫌だったか?」

思わずこちらがそう聞いてしまうほどに悲しげに見えた。

「大丈夫、だ」

彼女は何度か深呼吸をした後にそう言うと話し始めたが、それは彼の告白に応えるものではなく。

「……この話を先にさせてくれ。していなかったよな、私が匚盛に連れてこられた理由」

「そ──」

そんなことよりも、告白の答えを聞かせてくれと言いたい平河だったが、明の異様な表情に気圧される。

一見して、顔は笑顔に見える。が、瞳の奥が暗く笑っていない。

「少し、向こう向いててくれないか」

言われた通り彼女から背を向けると、布が擦れる音。

「気持ち悪いかと思うから、覚悟して見てくれ」

その発言を受け、ゆっくりと振り返った平河を待っていたのは、浴衣をはだけさせ、背面を晒した明の姿であった。

「──っ!?」

 思わず漏らしそうになった声を、平河は全力で押し込んだ。彼女の背中の全域に、痛々しい火傷の跡が広がっていたのだ。

驚きのあまり声を出すことも出来ない彼に代わって、明が言葉を紡ぐ。

「どこから話すべきか。迷うな」

そうだな、と考え込んでから。

「私が覚えているのは、どこかの土地から母と義理の父と一緒に引っ越した時くらいだろうか。その土地とは匚盛だったんだが、当時の記憶としては印象に薄い。父が他界してから母は義理父と結婚し、とある町に住んでいたんだ。母は……悪人では無かったものの、母親としての責任感が足りないような人物だったように思う」

ゆっくりと傷跡を隠す様に、着物に袖を通す彼女の語り口は平坦なものでそこに怒りや悲しみといった複雑な感情は含まれていない。

「養父と私は仲が悪かった、というより日常的に殴られたり怒鳴られたりしてた。最初の頃は母が庇ってくれた記憶もあるが。二人の間に子供が生まれた後はそれも無くなったな。ちょっと私がミスをしただけで烈火のごとく怒り狂うんだ義父は。私を折檻するときは適当な難癖をつけてきたからな。相手に私を攻撃する理由を与えたくなかったんだよ」

さっきまでとは場を包んでいた空気が変わっていた気がした。今日の風は、どこか冷たく余所余所しい。

「でも、年を重ねるにつれて義父からの暴力も減ってきてな。……無関心になったとも言えるが、良い子にしていれば私も自由に行動することが出来た。その所為かは不明だが、私は身体を目一杯動かすのが好きだった。妹は私と反対で文系でちょっと感情の起伏が少なく育ったのかな」

平河の心臓は先ほど違った意味で早鐘を打っていた。彼は目の前に居る少女に恐れを抱いているのだ。

自分と住む世界が違う相手を排斥する。それが人間らしさ、それが生物としての本能。あと少しで彼は、彼女の元より走り去るなり、もしくは強引にその身を抱きしめ、先の言葉を言わせぬ様にしただろう。

そのギリギリの瀬戸際で平河が彼女に対し清純でいられたのは、彼の抱えていた意地と彼女への思いやりの精神があったが故にだ。

得体の知れない物を受け付けない。それじゃまるで、この町に住む人間と同じではないか。

都合の悪いことからの逃避は何も生まない。彼は彼女の話を聞きたいとは思わない。だが、聞かなければならない。聞く義務が自分にはある。そう感じていた。

「ある日、私はちょっとしたことで父親に反抗してしまったんだ。……それで頭に血が上ったんだろうな、義父は私の顔を思い切り殴ってな、ふっ飛んだよ。不幸中の幸いと言うべきかふっ飛んだ先には母が調理中だったらカレーの鍋があって、それにぶつかった。お蔭で前々から我が家を気にしてくれていた近所の人とかが、偶然にも私や母の悲鳴を聞きつけてな。救急車で病院に搬送された訳だ」

どこがおかしいのか、彼女はほっとした顔でこちらを見据えていた。

明はきっとその時、自分はとても幸運な人間か何かだと思ったに違いない。だから親元を離れられてこうして平河と話せている、と。

だから、そんな風に笑えているのだ。本当の幸せを知らないから、彼女は。

「ある日、入院していると親戚を名乗る人が来て……」

唯子と出会ったのだろう。それで彼女は親元を離れられたのだ。そして、故郷である匚盛へと帰ってきた。

「お前に必要されていると言われて、私は。幸せだった。救われたと思ったんだ」

救われていない。彼女はまだ何も救われていないのだ。全てはこれからなのに、貞女や芽久や、これから通うこととなる学校での友人達と話して、身体と、心の傷を癒さなければいけないのに。

「……私は、幸せ者だ。でも、誰かと付き合うとかは無理なんだよ。所詮私は、人から愛される資格なんてないんだよきっと」

どうしてもう、そうやって全部悟りきったような言葉を口にするのか。何を思って愛される資格が無いと言うのか。じゃあ、彼女を愛した自分の心は一体なんだったんだ。偽物だとでも言うのか、まやかしだとでも言うのか。

そんなはずが無い。

「そんなはずが無いだろう!! なあ、明!」

「部活を、していたんだ。バスケットでそれなりに活躍したが、腹を割って話せる友達なんて出来なかったよ。悩みや本音をぶちまけられないんだ、私は。嘘だって吐く。だから、病室に来る同級生も居なかったし、唯一の取り柄だったバスケも肩の怪我でもうやれなくなった……」

「それが、どうした……っ!」

平河には分からない。突如として自分を貶めるような発言を彼女が開始したのか。慰めれば良いのか、肯定すれば良いのか、叱ってやれば良いのか、愛の言葉でも囁けば良いのか。

彼には分からない。

今のまま何かを言っても、全て自分の本心から生じた言葉ではないみたいで、声を出すことも憚れる。

どうすれば良い? 彼は考えた。

答えは出ない。いくら考えても結果は同じだろう。ならばせめて、誤解でも何でも構わないから、後になって自分の言葉じゃなかったと否定することとなっても良いから。

「それでも何でも俺はお前のことが好きなんだ!」

今の気持ちを彼は発した。刹那的な感情かも知れない。若者らしい浅慮な行いと非難されることもあるだろう。

だが、今の自分を否定する彼女よりはマシだ。言うしかない、自分は今しかないのだから。

そしてそれを彼女に伝える必要がある。

「お前はどうなんだっ。俺のことが好きか!? お前の言葉で聞かせてくれ!」

過去も未来も肉体すらも要らない。ただ純粋に、平河は明の心に触れたかった。一人なら凍えそうな孤独の中でも二人ならば、耐えしのげるかと。拒絶されたとしても、そばに居るくらいは許してくれるように。

ポツリ、と頬に冷たいものが触れた。それは堰を切ったように次々と空から降ってくる。上を見ると巨大な雨雲が自分達に雨を降らせているのが見える。明の表情は下を向いているのでこちらからは伺えない。

「さっき、平河が手を握ってくれたとき。……私は本当に嬉しかった」

彼女がこちらの問いに応えようと、顔を上げたが。

「私も、お前のことが好きだ……好きだ、けど──」

表情は悲哀に染まり、涙を流していた明は、一度寂しげにこちらの顔を見て。

「──さよなら」

走り去ってしまう。咄嗟の事で理解が出来なかった平河は苛立たしげに彼女を追いかける。

「待てっ、わっけ判んねえぞお前!」

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……」

「おい、明!?」

足場の悪い階段で二人は錯乱する。特に明は凄まじく、平河に肩を掴まれた瞬間。力が抜けたように、その場に座り込んでしまう。

「知らないから、平河はっ!」

「何がだ!?」

要領を得ない彼女の言葉に、荒っぽく応える。取りあえず、立って話を聞こうと手を伸ばすが、拒否された。

明の震えが止まらない。反応が無い。

「畜生、なんだって言うんだ!?」

上段から見下ろす平河に対し、明は座ったまま首を九十度上に向け。早口で告げた。

「私は義父に犯されていたんだ」

平河は今日何度目かの絶句をした。だって、それはあまりにも。身体を忙しく動かしやきもきしていた様子の彼だったが、ついには激昂する。

「そんなことが許されると思ったのかっ!」

「許した訳ないだろ。当たり前だ」

「違う、そうじゃない!」

怒りが彼の心を支配していた。血の繋がりがないとは言え、自分の娘を。肉体的な苦痛なら耐えられる、精神的苦痛もそれが過ぎればあとは乗り越えるだけ。しかし、この少女の父は自分の娘の未来を奪うような真似をしたのだ。

彼の心情とリンクするように雨は激しさを増す。二人ともすでにずぶ濡れだ。強烈な感情を抱きながらも彼は明に手を伸ばす。だが、彼女は頑なにその場から動こうとしない。

「言いたくなかった言いたくなかった言いたくなかった」

誰にも漏らせない秘中の秘を漏らした彼女はそれを見下ろす平河を仰ぎ見て、

「嫌われると分かっていて、どうして口にしてしまうかなあ? 私」

雨は止むことを知らず、彼女の涙もまた、無限に見えた。何年間分の涙が天気となって地峡に降り注いでいるようだと平河は思った。

「び、病院でその後受けた検査の結果。──なんと私は妊娠しにくい体質だったそうだ……。幸いなことに、幸いなことにな……」

もう、見ていられなかった。折角の晴れ着のはずだった浴衣も、ここでは悲しみの演出をしている。

「平河ぁ、好きなんだ! でも、どうして私は産まれてきたのか分からないんだ。人と人との間に挟まれて死んでしまいそうだよ。不器用な私が悪いのか? どうして、私は平河に自分の嫌な所を見せているんだっ? 分からない、分からないよぉ!」

それは、史上類を見ないだろう悲しみに満ちた告白だった。彼女の泣き顔から目を話せなかった平河に、頭上から声が降ってきた。

「男女の恋愛というのは秘密の共有ですから。『本当の自分を知って貰いたい、自分の全てを認めて欲しい』人間は常に懺悔の相手と、赦しの瞬間を待っているのですよ」

明にも聞こえたらしく、口を噤んだ。涙は止まっていないが、悲しみよりも驚愕の色が濃い様だ。

背後を向いた平河が見たのは、大雨の中鳥居の上に立つ一人の女。全てを見透かしたような顔が瞬時に、鬼の形相へ代わり、

「だぁけど、どうしてその女なのよぉぉおおおおおぉぉおおおぉぉぉおおおお!」

雨音にも負けない金切り声を挙げたのは、長い黒髪を持った。

「貞女……?」

あまりにも常軌を逸した彼女の立ち振る舞いに、困惑するばかりの二人。よく見ると、彼女の浴衣が赤く染まっているようであった。

 ペンキ、ではない。

「いっ?」

血液が付着していることを確認し、思わず声を漏らしてしまった平河を、訳が分からないと言いたげな明が見ていた。そんな二人の様子を見ていた貞女は、奥歯を噛みしめ鳥居から飛び降りる。

「ぃいいいいいやああああああはうあああぁぁああああぁあああああああぁあぁああああ!」

意味不明な奇声を上げるその姿に、いつも彼女が守っていた上品な雰囲気など存在しない。

まるで獣。貞女は平河達の目の前に降り立ち、座り込んだままの明を指し、

「うふ、ごきげんよぉ。明さぁん」

にやにやと不気味な表情を浮かべていた。

「ごめんなさい。わたくし、どうやらあなたのことが嫌いみたいですので。だから──」

どうかわたくしに殺させて下さいませ、と丁寧に告げた。


     □


今日は一体、何がどうなっているのだろうと。考えが纏まらない明の前に立った貞女はゆっくりと腕を振りかぶり。

「死ね」

当たり前の様に振り下ろす。全身の毛が逆立つ感覚。死ぬ、そう思ったが、

「馬鹿、避けろよ!」

平河に服を掴まれ辛うじて回避する。彼も混乱しているようで、中腰の姿勢のまま変わり果ててしまった友人をじっと見ているだけであった。

「わたくし、勘違いしておりましたの」

ふう、と芝居がかった様子で濡れた髪をかき上げる貞女。その冷静さが彼女の狂気を体現していた。

「どうしてわたくしは人を殺してしまうのでしょう。これはきっとわたくし自身の内面の発露ではないか、としばらくの間は考えていましたわ。でも、気づきましたの。これは匚盛が原因なのだと」

「貞女、おまっ──!」

いきなり繰り出された回し蹴りに平河は咄嗟に防御の姿勢を取るが、そのまま持っていかれる。

「ぐぁ……」

苦悶の声を漏らす彼は立ち上がろうと必死にもがく。

「邪魔してはなりません!」

そう彼に指を刺して言うと舌を出し、挑戦的な笑顔を見せる。

「あなたが黙って見ていてくれたらあの子を静かに殺してあげます。もし、あなたがわたくしの邪魔をしたならば、あの子に悲鳴を上げさせながら殺します。お解りになりました?」

「……そんな……がっ」

散歩にでも行くような気軽さで平河の頭を踏みつぶす貞女。意識を失った彼を見た彼女は恍惚の表情を見せ、

「やぁっと二人きりになれましたねええええええええええええええええええええ! わたくし、嬉しくって、本当に嬉しくてっ、嬉しすぎて嬉しすぎて嬉しすぎてぇ!」

口から泡を吹きながら喜びを表現する彼女は、そのままこちらの喉を掴み。天高く持ち上げる。

「かっ……やめっ……!」

「何かもうどうでも良くなっちゃった……」

急激に冷え込んだ表情を見せ、

「ではごきげんよう、さようなら」

手に込めた力を次第に強めていった。

明の脳内が死に支配される一歩手前、救いの声が響く。

「待ちなさいっ!」

「あら? あなたは……」

人一人の身体を持ち上げたまま、不思議そうに首を捻った貞女はその人物の名前を呼ぶ。

「菊華さんではありませんか。どうしたのですか、こんな時刻に」

「……あなただったのね」

菊華は相手の軽口などに取り合わず、ある事実を口にした。

「町民を殺し、その肉を食った連続殺人犯の正体は、あなただったのね!!」

「ふふふふ、せいかーい。ですわぁ」

自分の犯行を言い当てられたにも関わらず、彼女はへらへらと楽しそうに笑っていた。

「あなたに一つ、訊きたいことが──」

「ん、待って!」

手のひらをかざして相手の発言を阻んだ貞女は、小馬鹿にするような口調で告げる。

「わたくし、今夜はもう疲れましたので。さっさとその辺の人の肉を食って眠りたいのです。

だから今夜は、この辺のところで勘弁してくださいまして……ねっ!」

貞女は言い終わると同時に跳躍した。雨雲をバックに空に到達する彼女を止める手段はどこにもない。

人間離れした人喰いの娘は、最後までおかしそうに笑みを零しながら夜の闇へと消えさった。

「な、なんだったんだあれは?」

そう漏らした明の問いに応えられるものはなく。ただ、地表に容赦なく打ち付ける雨だけが全員の鼓膜を揺らすだけであった。



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