臭いものには蓋
この土地は何かおかしい。閉じ込められている。そんな思いを平河は常に抱いていた。
町に出入りをするには、橋を越えるしかない。幼い彼には、その橋が匚盛と他の世界との境界線のように見えていたものだ。
いつか見た夕焼け、排気ガスを吐き出しながら進む車や自転車。まるで自分だけが小さな世界に閉じ込められているような錯覚。
そんな思いを平河は高校二年になった今でも、否、その思いはこれまで以上に感じるようになっていた。
自分はこの町しか知らない。広い世界のほんの一部でくすぶっているだけ。居ても居なくても変わらない。そもそも自分はこの町の外の風景を良く知らないのだ。
クラスメイトも都会の流行や、都会の生活に憧れてはいるがこの町を嫌っている様子は無く、むしろ誇るべき故郷のように感じているらしい。
平河はクラスメイトの考えは否定しない。学校終わりに寄る行きつけのラーメン屋、狭く小さいけど発売日より前に週刊誌が店頭にならぶ本屋。どれも彼にとっては大事な場所だ。
山が悪い。
結局、この考えに陥ってしまうのだ。
パチンッ! 頭部に鋭い痛みが走る。
「い……ってぇな……」
目を覚ますと、そこはホコリ臭い体育館。記憶を探るに、自分は終業式の途中、校長及び、校長の言葉を子守唄代わりにして居眠りをしていたのだ。
「何の用だよ」
若干、棘のある口調で隣に座る少女に目を向けた。
少女はさもおかしそうにくすくす、と笑い。
「だって良平君てば、口を半開きにして寝てるんだもん。それに、ほら。終業式も終わったし」
「嘘、本当かよ?」
辺りを見渡すと、周りの人間が三々五々に散っていく様子が見えた。
「えと、ごめんね?」
突然、謝罪の言葉を述べた彼女の名は九条菊華。『クーサマ』を信仰する匚盛神社の神主、九条昭雄の一人娘で、貞女と同じ演劇部に加入している。よく眉根を下げて不安そうな顔をしていることが多く、きっと本人が自分自身に誇りや自信と言ったものを持ち合わせていないからだと、平河は常々思っていた。
彼女は不安になると眼鏡の淵を触るといった変わった癖がる。それが過ぎると顔が赤に、緊張が最高潮になるとどこかへ走り去ってしまうのが通例だ。
「謝るなって、これくらいでさ。それで訊きたいんだけどよ」
彼女の性格上、ここで許すも許さないも関係なしに。後で一人。膝を抱えるだろうから記憶を上塗りするように代わりの話題を提供してやるのだ。
「今年の祭、一人で舞を踊るんだってな。もう練習とかやってるのか?」
「そりゃそうだよ~。去年まではお母さんが居たから良かったけど……。病気だからしょうがないけどさ」
平河は、どんどん表情を暗くする彼女を元気付けようと肩を叩き、
「問題ないって。年一の祭で緊張するとは思うけど、所詮田舎の祭だ。菊華が一度や二度失敗したところで誰も怒らねーって」
「う、うん? 優しいことを言っている気がするけど、あたしが失敗すること前提なんだね平河君……」
複雑な表情を見せる彼女の横から貞女が声をかけてくる。
「昔から良平さんは人を元気付けるだとか、応援することが苦手でしたからね。語彙のせいなのか性格上の問題なのか」
「残念な人を見るような目を俺に向けるなっ! それに、お前もう教室に帰ったんじゃ無かったのか」
人数が減った体育館に平河の声が響く。
「この後の事について話し合おうと思って入り口で待っていたのですが、良平さんがいつまで経っても姿を見せないので」
「この後何かあるの?」
「昨日引っ越してきた転校生にこの町の案内をすることを頼まれたのですわ」
「転校生なんて居たっけ?」
事情が呑み込めない菊華に貞女が経緯を説明すると、
「……良平君ってば、『こんな町、大っ嫌いだー!』とか言いながらお祭りにも毎年参加したりしてるよね。時々、良平君の本心がよく分からない時があるよ」
「それは毎年貞女が俺を誘うから断るに断れないんだって。それに祭の日に家を出ないとか気取ってるように見られそうだから嫌なんだよ」
「いつも祭りの話題を振ってくるのはそっちじゃありませんの」
女子二人に言い負かされた平河は話を戻す。
「帰りのHRはさっきやったし、どうせこのまま放課だろうから時間があまりないな。あっ、どうせだったら菊華も──そうか、稽古があるよな」
「ごめんね、今日はどうしても抜けられないの。でも気になるなあ、その転校生」
「優しそうでとっても元気がある人でしたよ」
にっこり、と昨日のことを思い出しながら告げる貞女の言葉に、菊華はまた顔を暗くして、
「駄目だわ……。そんな人気者みたいな性格の人、あたし話しかけられる自信が無い……。話しかけても気づかれないわよ、きっと……」
「大丈夫だって、根気よく話しかければいつか向こうも気づいてくれるはずだ」
また変なフォローしますね、と平河の発言に呆れた様子の貞女であった
「ともかくだっ」
一喝して話を続ける。
「正直なところ、この町の案内した経験のない俺らに出来ることは少ない。っていうより案内するほどの価値も魅力も無い田舎町だ」
「それは聞き捨てならないよ、良平君。この町には生鮮野菜を扱うコンビニがあるじゃない。コンビニがある町は田舎じゃないんだよ」
「そのコンビニを経営しているのは俺の親だ。いきなり自宅を紹介しろってか? それに、コンビニがあるだけでは都会である証明にもならない」
「ご、ごめんなさい」
こちらが怒鳴りつけた訳でもないのにへこまれるのは、やはり精神的にも辛い。
「だが、都会じゃないこの土地にだって見どころがあるだろう。あるよな? 貞女」
「あらやだ、良平さんたら。見ず知らずの女子を案内することに緊張してるみたいですわ」
冷静に分析されてしまっている。珍しいものを見るように菊華もこちらを見ていた。
心を落ち着かせて貞女に訊いた。
「なあ、貞女。何か案は無いか」
責任を丸投げしてしまった不甲斐なさがこの身を苛むが、プライドを守ることなど今は二の次だ。
きっと相手も不安を抱えて自分達の前に姿を現すのだから、妥協などとんでもないことだ。
しかし、こちらのそんな考えをあざ笑うかのごとく貞女は気楽に言葉を発した。
「これから住むであろう町で一番に気になることって何だと思いますか」
いきなりの謎かけ。
「やっぱり、娯楽か?」
「隣人が宗教の押し売りをやっていないかどうか、かな……」
絶対違う、とは思ったが平河は口を挟まない。貞女も酷く真面目な表情で言い放った。
「それはずばり──おいしい食事処の確保ですわ」
時間の指定をしていなかったにも関わらず、待ち合わせの相手はすぐに姿を現した。
「すまない。待たせてしまっただろうか?」
そんな状況にも関わらず、明はこちらの顔を見るなり最初にしたことは、謝罪の言葉を述べることであった。
「気にしなくても、俺達も来たばっかりだからよ。な、貞女」
「ええ、どうぞお気になさらずに」
社交辞令を言い終わった後、緊張した様子の平河が質問する。
「これから色んなところを見に行く訳だが、気になるところとかはあるか? なまじ十年以上をこの町で過ごしてるもんだから、いざ案内しろと言われても困ってるんだ」
「本当だったら昨日車の運転していた唯子さんの仕事なのに、申し訳ないと思う。……面倒ならば構わないんだが、小学校まで私を案内してくれないか? ずっと昔だったが、私もこの土地に住んでいた時期があるんだ」
「あら? ということは、わたくしたちと同じ教室で授業を受けていた可能性もある訳ですね」
同じクラスでなくとも廊下ですれ違ったりしたこともあったのだろうか、と平河はそんなことを考えながら、案内を開始することにした。
「小学校はここからも近い。案内もしやすいな。訊いとくけど、昼飯はもう食ったか」
まだだ、と答えた彼女に彼も一つ頷くと、
「だったら、小学校の近くに良い店を知っているから、そこに行こう」
「私は構わないが、そっちの人の意見は……?」
「反対なんて、とんでもありませんわ」
貞女の返答に首を傾げる明だったが、平河もその発言を気にした様子が見られなかったので、彼女の記憶にも残ることはなかった。
小学校にはものの数分で辿り着いた。見て回るだけでも良かったのだが、場の流れで校内にまで入り込んだ三人は遊具に腰掛け、ゆっくりとした時間を過ごす。
塗装の塗り替えはあるものの、自分達が通っていた頃と変わったところは見られない。童心に戻ったような不思議な感覚に陥る。
「……確かに、ここに遊具で私も遊んだ記憶があるな。うん、そうだ。このブランコにも座ったことがあるぞ」
「さっきから気になっていたのですが、明さんは小学時代。何組に所属していたのですか?」
明が応えると、平河や貞女とも同じクラスになったことが判明。しかし、三年の頃までだったら話が通じる所もあるらしく、当時の思い出などを三人が話し合っていると。
校庭がにわかに活気を帯び始める。小学校も終業式を迎え、夏休み期間に入ったのだからそれも当然だが。
「何だか、妙に活気づいていますわね」
貞女の言ったように、ここの児童であろう集団が歓声を上げバスケットボールに興じている姿があった。
夏休みに入ったのがそんなにも嬉しいのかと最初は思ったが、どうやら違うようだ。
初見である小学生達を目にしても、個性や特徴などは頭に入って来ず。大体は『他人の集まり』として捉えるものだが、その中から平河を含む三人の目がある人物を見出した。
恐らく学年問わずに行われているその競技で文字通り頭一つ抜けた動きをする少女が居た。
他の児童よりも高身長にも関わらずその児童はディフェンダー、といっても所詮は小学生の真似事だが。それを軽々躱し、シュートを決める。
「綺麗なレイアップだ。あれは経験者の動きだな」
明の解説を聞かずとも分かる、圧倒的な技術の差があったのだ。コートの上ではもはや敵味方関係なしに彼女のボールを取ることに必死になっていた。無数の手から攻められる少女の表情も明るく、純粋にスポーツを楽しんでいるようだった。
運動場全体がコートになったみたいに、児童たちは好き勝手に動き回る。その結果、ついに少女の手からボールが離れ転々とこちらに転がってきた。
偶然が生んだルーズボールを拾おうと躍起になる子供達だったが、件の少女が驚異的なまでの加速を見せてぐんぐんと集団を突き放す。
誰よりも先にそれを手にしたのは傍観していた平河だ。大人気ないな、とは思ったが一番近くまで来ていた少女にボールを投げ渡した。
「ども、ありがとーございますー」
軽く手を振って去ろうとした彼女だったが、その動きを止め。平河と同じように傍観を決め込んでいた明に視線を送った。
「え……と。私に何か用かな?」
困惑する彼女へ少女は人差し指を突き立て
「……………………あのー、もしかしてだけど。──明お姉ちゃん。です、か?」
名前を呼ばれた明も大層驚いたようで、しばらく呆然とした後。
「うん。そうだけど?」
簡潔に答えると、
「明おねーちゃんだあ!」
正面から抱き付かれ、そのまま後ろに落下した。
「つぁ……」
背中を強打し、苦悶の声が漏れる。
「だ、誰なんだお前は」
「ボクだよ! あんだけ毎日一緒に居たのに、忘れちゃったの!? まあ、何年も前だからしょうがないか! でも名前を聞けばきっと思い出すよね?」
「名前は良いよ! 早くどいてくれ……」
もはや自分の怒りを隠そうともしない明に従い。少女はようやく立ち上がり、
「ごめんごめんっ。あの頃はボクがいくら頑張っても明お姉ちゃんはビクともしなかったけど、昔とは違うもんね」
起き上がろうとする明に手を貸しながら少女は名乗る。
「子供の時、向かいの家に住んでた猫間芽久だよ」
「猫間……芽久?」
記憶の隅に引っかかるものがあるのか眉根を寄せる彼女に、少女は昔の話を始めた。
「一緒に二人でバスケとかやったの、覚えて無いの? 寂しいなあ、あれがきっかけでボクはバスケを始めたのにさ。明お姉ちゃんにも練習付き合って貰ってさ、雨の日も二人で遊んだじゃん。今三年だけど。一年の初試合からレギュラーなんだよ、ボクってば」
あまりにも身長が低いので勘違いしていたが、どうやら彼女。既に小学校を入学し、中学に進級していたらしい。勝気で、気が強そうな目をした娘だ。
「わたくし、てっきり小学生かと……」
ぐっ、と平河が呑み込んだ単語を貞女がうっかり漏らしてしまう。すると芽久と名乗った少女は顔を赤くして不満を爆発させる。
「もうっ、会う人会う人。皆そうやってボクを馬鹿にするんだ! 身長が低いのは自覚しているけどあんまりじゃないかなぁ!?」
「……段々、思い出してきたぞ」
起き上がった明がそう口にする。
「お前の名前は。猫間芽久だ」
「うん! それであってるよ!」
元気に答えるが、それは自分でさっき名乗ったではないか。すると、その空気を察したのか明もこちらを向き、
「こんな性格と頭をしていた。私の後輩だ」
「ものすごくオブラートに包んで誰も傷つかない紹介の仕方だな」
「体育館があるにも関わらず、雨の日もバスケをしていた。一人でな」
「……さっき本人が同じことを言ったはずなのに、随分と印象が変わってくるな。その表現は」
どことなく馬鹿っぽさを押し出された紹介の仕方だったが、当事者である芽久は気にした様子は無く。ではなく、気づいた様子は無い。
「ところで、明お姉ちゃん。その男はなに? いつの間に帰ってきたのかも驚きだけど、男と一緒にお姉ちゃんが居ることにボク。驚かされたよ」
今度は平河が彼女の射殺すような目を向けられる。
「その人は平河良平って名前で。昨日引っ越してきた私にこの町の案内をしてくれてるんだ」
「なるほどね」
そこで考え込む素振りを見せる彼女。貞女が一緒に居ることに関してはどうでも良いらしいのだ。
「ちょっとお兄さん。こっち来てよ」
バスケットボールを投じて児童たちを散らせると、こちらの腕を引いて二人から遠ざかり耳打ちをした。
「もし、明お姉ちゃんに指一本でも触れることがあったら、その指をボクがへし折るからそこんとこヨロシク」
「なっ!?」
「明お姉ちゃんは顔も良いし優しいから、あんたみたいな下心満載の男が寄ってくるのも分かるけどさ。分相応ってのがあるっしょってこと。そんだけ」
平穏な人生を歩んできた平河にとって初めての経験だ。中学生に脅されると言うのは中々に恐ろしいもので。
「わ、分かったよ」
素直に従ってしまった自分を咎めることが出来る人間がどこにいるだろうか。
「何の話をしてたんだ?」
「別にー」
何事も無かったかのように元に戻る芽久は天使のような笑顔を浮かべていた。美しいバラには棘がある。
「楽しそうだからボクも一緒に町を散策していいか、って聞いたんだよ。ね? 良平先輩?」
「あ、ああ……」
「おねーさんも良いよねえ?」
「ええ。人数が多い方が楽しいですもの」
じゃあけってー、と盛り上がる芽久を前に。平河は空っぽの胃が痛むのを感じた。
□
三人足す一人が増え、四人で昼食を摂ることとなった。
「貞女お姉ちゃんって、すっごく肌が白いよねー。どうやったらそんな綺麗な肌になれるの?」
「さぁ……? 生まれつきとしか言いようがないんですが。やはり、屋外の遊びより室内での遊びの方が好きだったからではないかと」
「じゃーボクは無理だねー。やっぱり外で遊ぶのが最高に楽しいもんっ!」
すっかり、貞女とも距離が縮まったらしく。芽久は彼女と楽しそうに談笑していた。
「ところで、平河よ。昼食はどんなところで食べるんだ?」
「女子を引き連れてくるには抵抗があるんだが、あいにく俺はここしか旨い飯屋を知らなくてね」
「ここって、このラーメン屋か?」
一行が辿り着いた創業二十年目のラーメン屋は、平河もお気に入りの場所だ。外装は風化しているものの中は小奇麗だった。そんなに狭くも無い店内だが、昼時なので店はほぼ満席状態だ。
ここ最近、食券を買うシステムに移行し注文もしやすくもなり回転率もあがったが、やはり押し寄せる人間全てを捌ききれるはずがなく。
メニューも豊富な上に、値段も安くて味も良い。味で勝負するならこの店しかないと平河は確信している。
各自、自腹で食券を買って席に着く。明に関しては、奢ってやることも考えたが丁重にお断りされた。
無理強いはいけないと理解しているので黙っていると、
「代わりにボクの代金を払ってよ」
「ふざけんな。それにもし奢ったとしてもお前はちっさいからなー。並盛も完食出来ないぜきっと」
「ああ? てめーボクにケンカ売ってんのか、やんのかこのやろー」
「お前、怒りの沸点低すぎだろ!!」
みたいな会話をしつつ、テーブル席に腰を下ろす。
「ずいずいっ」
奥に入った平河の後を追うように、貞女が距離を詰めてくる。
「何だよ貞女。今日はやけに楽しそうじゃないか」
「いえいえ、一番楽しそうなのは平河さんかと思われますわ。美少女に周りを囲まれた感想はどうです?」
「どうもこうも……」
前を見るも明は聞こえない振りをして関係ない場所に目を向けてるし、芽久はコップの水を音を立てて飲みながらこちらの睨み付けているわで正直生きた心地がしない。
他にも話題はあるだろうに、中でも一番悪い選択をしてしまったのではないだろうか。
店員が注文の確認に訪れると芽久が身を乗り出す。
「一応、平河お兄ちゃんの助言に従って並にしたけど皆はどんな……。貞女ラーメン? 特上盛って、これ誰?」
彼女の声に店の雰囲気が変わった。
「へ? なに、ボク変なこと言ったかな?」
ざわめきが店の至る所で起こり、四人の据わるテーブルが注目の的となってしまう。
「貞女ラーメンってあの……」
「特上盛ってメニューあったっけ?」
「見ろ、あそこに座ってるのは……」
「わ、わしは知っとるぞ。あそこに座ってる娘の名を知ってるぞい……」
ごくり、と店の客全員が息を呑む音がした。
「あれが、大島貞女……」
「……貞女お姉ちゃんって何者?」
静まり返った店内で、恐る恐る芽久が訊いてくる。
「こいつは、この店の常連で。首領みたいなものなんだ。こいつが一週間以上店に顔を出さないとここが滅ぶって言われるくらいにな」
「座敷童みたいな扱いだね……」
引き気味の彼女が告げると同時に料理が運ばれてくる。
「うっわ、たしかにでっかいなー。あれを完食するには多分ボクが二人くらい必要だよ」
「言っとくけど。あれが大盛だからな」
「嘘だろ? 私も並にしとくんだった……」
悔やむような明の声。それも仕方ない。普通の人間だったら大盛サイズの時点で諦めに近い感情を得てしまうだろう。だが、貞女はそれの遥か上を行く。
「あ、何か机が運ばれてきたよっ?」
店の奥にしまってあった二人掛けの座席が用意される。ちなみに貞女を除いた全員の食事は届いていたのだが、誰もそれに手を付けようとしない。ただ、尋常じゃない雰囲気に圧倒され三人はカウンターの奥を注視していた。
「お水お代わりしますかー?」
貞女だけは一人、変わらぬ様子で皆のコップに水を注いでいる。それが終わると、
「では」
とだけ言い残し立ち上がると用意された席に座る。店の構造上そこに座席があっては他のお客の迷惑になるにだが、彼女の食事はそれほどまでに保護されているのだ。
長く重い沈黙だった。それを破ったのはカウンターを覗ける位置に居た客が漏らした悲鳴に近い声。
「ぅわ……」
二十代後半の男性がラーメン屋で出す声では無かったが、他の客もその事実を目の当たりにした瞬間、凍り付いた。
「うげええええええええええええええええ!?」
芽久が悲鳴を上げる。びくりと身体を仰け反らせた。
「でかぁ! そして赤ぁ!?」
その特注品の器はもはや食欲よりも恐怖を誘う程だったのだ。これが、この店の名物でありながら最も頼まれることが少ないメニュー。
「特上盛──貞女ラーメン」
それは器というにはあまりにも大きすぎた。大きく、ぶ厚く、重く、そして大雑把すぎた。それはまさに鉄塊だった。
平河がその一物を初めて見た時の感想がまさにそれであった。
今では大分慣れたとは思うがやはり、汁や麺から発せられる刺激が鼻腔や喉を攻撃する。
貞女ラーメンはただ大きいだけではなく。
辛いのだ。
それを貞女は涼しい顔して食べ始める。
「か、辛くないのか」
「そうだよ! 絶対身体に良くないって!」
店の料理に文句を言われたにも関わらず、店長含む従業員は苦笑いを浮かべるだけで反論もしない。身体に悪いもんは入ってないし。多分、大丈夫じゃね? そんなスタンスで提供しているのだろう。
「おいしいですわよ。芽久ちゃんも食べる?」
「いやぁ、ボクは自分のがあるし遠慮しとくよ」
「そうおっしゃらずに──ちょっとだけ」
宣言通り、ちょっとだけレンゲでスープをすくうと、芽久の器にちょっとだけ注いだのだが、
「うわ! 色がみるみる変わっていくよ!? 大丈夫なのこれホントに!?」
試しに口を付けた彼女が思いっきりむせた。大丈夫じゃないそうだ。
唖然として周りが見守る中、彼女はどんどん腹に収めていき。あっという間に完食。そして、スープまで飲み干した者だけが見れる器の底には、赤く猛々しい字で。
『貞女ラーメン』
と、刻印されていた。
「ふぅ、ごちそうさまでした」
満足いった様子の彼女が水を飲む姿を見て他の客も己のコップに手を伸ばしたが。
全員が喉に流し込んだ水は既に温くなっていた。
□
「こうして若い者が四人も集まっておきながら町を歩くだけなんて、つまらな過ぎだって! だからさ、皆でカラオケにでも行こうよ!」
初めに提案をしたのは熱気に耐えられなくなったのか、店を出てから口数が減っていた芽久だった。
「お前な。今日は明の為に町を周ってるんだからな、行くにしてもまた今度ってことで良いだろうが」
「あんたの意見は訊いてないよ。……で、どーかな二人とも! きっとエアコンも効いてて涼しいし親睦会の代わりにもなるだろうしさ!」
「私は良いぞ。とは言ったものの、あまり歌のレパートリーが多くないんだがな」
明に続き貞女も、少女の案を支持する姿勢を見せる。
「今日の主役である明さんが良いのならば、わたくしもそれで構いませんわ。歌うのは苦手ですが……頑張ってみます」
「おっしゃ、満場一致だねっ。じゃあ、さっさといこー。さっさとね!」
「へっ!」
勘定にも入れられなかった平河がわざとらしく鼻を鳴らして彼女をけん制するが、それすらも無視されるという悲しい結末に陥った。
貞女がこの匚盛を田舎だと露程も信じない理由。その内の一つがカラオケボックスの存在だ。
しかし、平河はいつも反論するのは匚盛が未開拓地ではないとしても『田舎』の範疇をこえてはいないことについてだ。
廃墟にも見えるそのカラオケボックスは、この町唯一無二の娯楽施設と呼べる存在ではあるものの、いかんせん外見に難があるのと部屋数が少ない。
「ボクは結構歌うから、最大の六時間コースで!」
平日ですら危ういのに、終業式後という学生にとっては最高の時間であるこのタイミングに空室があったのは奇跡と言っても過言では無いだろう。
「待て。これは金銭が関わる問題だからもっと真剣に考える必要があるだろ。俺らはそんなに歌わないし、三時間くらいがベストだと思う」
「サシでやりたいんだったらいつでも相手になるっつっただろー。二人とも、ちょっと待ってて。こいつ片づけるからさ」
「やらねえよ!! どうしてもお前は俺を叩きのめしたいのか!? そうしないと気が済まないのか?」
すぐに手を出そうとしてくるこの娘は、年上に敬意を払ったりしないのか。そもそもこれが付いてきた理由も、自分が明に手を出さないかと見張るためだとのことだが。普通に考えてそんなことを心配する人間は居ない。それも数年ぶりに会ったほぼ他人のような人間に対して、そこまで思い入れをする理由が分からない。
一度、訊いてみるか。とそう思った直後、
「若い身で散っていくから、訊きたいことや見たいものがあっただろうけど。それはボクがあの世でたんと聴かせたげるから心配しないで」
「日常生活ではまず聞けない啖呵だな」
「では良平さん。わたくし達はお先にー」
にこやかな笑顔で奥へと入っていく貞女が、こちらが気になってしょうがなさそうな明の腕をぐいぐい、と引っ張っていく。
「あ、ちょっと! 勝手に決めてくれちゃって、何時間にしたのさ!」
大人の貫録で今回は貞女に軍配があがったようだ。それに比べて自分の行動を顧みるのはやめておいた。空しい気持ちで胸がいっぱいになるだろうから。
時間は貞女に用事があるとのことで三時間ピッタリとのこと。
最初は不平不満を口にした芽久だったが、それよりも時間を有効に活用すべきと思い至ったのだろう。素早く入曲状況をチェックし、
「うわー! この曲も入ってないとか、やっぱ最悪だよこの店! 立て直して最新機種の導入しろー!」
理不尽に喚くのであった。
「そんじゃ、私からいこう」
レパートリーが少ないのは本当だったのだろう。一番早くにマイクを手にした明で、既にスピーカーからはイントロが流れていた。
『あー、あー。テストー。聞こえるか?』
「聞こえてるって」
彼女が歌うのは一昔前に流行ったバラード調の曲だ。しっとりとした雰囲気だが、知っている楽曲なので皆の顔は明るい。
自分は音楽的な才能が無いのであくまで主観的な感想しか抱けないのだが、普通に上手かった。
貞女がそれに続く。彼女選んだ曲だがあいにく平河は初めて耳にするメロディーであった。
ある女性の悲哀な日々を歌っていて、どこか差し迫った気分にさせられた。彼女も歌が上手いようだ。考えてみれば彼女の歌声を聴いたのはこれが初であった。
『次はボクだああああああ!』
マイクを手にしたことによって芽久は更にパワフルとなり、選曲も明るく騒々しい。
『ぱーぱぱっぱーぱぱぱーぱぱぱー!!』
ここまで来て平河はとある重大なことに気が付いていた。
「……しまった。この部屋に居るのは相当レベルが高い連中だ……」
仲間内であってもやはり気を使ってしまう。自分が歌うことによって白けるようなことがあってはならない。そう考えている内に出番が来てしまう。
「あら、良平さんが入曲されてませんわ」
「てんめー。テンポ悪くなるんだよ早くしろー」
「……決められないんだったら。私が決めるから一緒に歌おう」
明の提案はこちらの意思を汲み取ったものなのか、それとも分からないなりに彼女が配慮してくれたのか。彼女の目を見て真意を汲み取ろうとすると、
「上手いとか下手とか。気にしなくて良いんじゃないか? 平河が楽しけりゃ私らも楽しいだろうしさ。知ったような口をきいて済まん」
「聞かれてたのか……」
情けないを通り越して痛々しい。ここまで相手に気を遣わせて後に引ける男はきっといないだろう。
最終的に、平河の順番は皆とのデュエットや合唱をするようになり。何とかその場をしのいだ。
恥ずかしさと感謝の気持ちを心に抱きながら、彼は隣で自分に合わせ歌う明の姿を見つめるのであった。
□
「それでは、わたくしはこちらですので」
貞女の別れの言葉に平河と明が応じると、去り際に彼女が、
「今日はとっても楽しかったですわ。また四人でどこかに遊びに行きましょうね」
そう言い残していく。
「中々騒がしい一日だったな今日は。私の住んでいた所とは段違いに疲れたぞ」
夕日に染まる町を二人が歩いていると、感慨深い様子で明が声を出す。
「毎日がこうって訳じゃないさ。何もない所だよ、匚盛は。ったくそれにしてもあの娘……」
帰り際、店の前で別れた芽久に蹴られた箇所に目を向けると、軽く赤くなっているみたいだった。
「大丈夫か、かなり鈍い音が聞こえたようだが」
「お前と遊んでた頃からあんな風に暴力的だったのか?」
「私の前ではただの明るい子を演じていたみたいだが、学校ではクラスの男子が怯えるくらい凶悪だったみたいだったな。でも根は良い子だし、ケンカしてもちゃんとした理由があったんだよ」
今しがた理不尽な暴力を振るわれた本人としては釈然としない話だけれども、今日だけで猫間芽久のイメージを固めてしまうのは気が早い。とは考えさせられた。
「あの大島さんは話し方から察するに、お嬢様か何かなのか」
「違うぞ、初対面の相手は大体そう思うんだけどな。結構普通の家だぞ。あいつの住んでるところ。親御さんも物腰が柔らかだから、それが関係してるんだよ」
「そうか、親御さんの性格が関係してるのか……」
彼女は考え込む素振りを見せてから、改まって平河の方を見る。
「今日はありがとうな。お蔭でとっても楽しかった」
面と向かってそう言われた彼は頭を掻きながら視線を周囲に彷徨わせ、
「お、おう。俺も楽しかったぞ。……礼には及ばない」
これまで親しい人間としか会話をしてこなかったので、こういった場合の返事を考えるのが一番苦手なのだ。
奇妙な返事に明はくすり、と笑う。
このままでは男としての面子が丸つぶれなので、気取ったことを口にする。
「何だったら、夏休みの空いている日とかは相手をしてやる。友達としてな」
「いかん……笑ってしまう」
「笑うな!!」
今日だけで初対面の二人に自分の弱味を晒してしまった。今後の雲行きが怪しくなってきたかも知れないと危機感を抱く。
「匚盛に帰って来て、本当に良かったよ。ありきたりな言い方だが、何もないがある。それを実感した」
「出前を断られることが多々あるけどな」
「そりゃ困るな」
笑う明はそう言えば、と思い出す。
「この町には神様を祀っている立派な神社があると聞いたが、案内して貰っても良いか?」
平河の顔が曇る。あんなり乗り気では無いようだ。控えめだが考え直すべきだとその表情が物語っていた。
「面白いものが置いてある訳じゃないぞ。別に立派って程じゃないし」
明も彼の意図を汲み、自然な風で譲歩する姿勢を見せる。
「嫌なら良いよ。また別の日に一人で行くし」
だが、仏教面の平河がそれを止める。
「待て、良いぞ。連れてってやる」
「……頼んどいてだが、本当に良いのか?」
「構わない。見て貰いたいものがあるんだ。この町に対して思い入れを持たない人間に」
わざとなのかそのつもりが無いのだろうかは不明だが、会話の流れとしては不穏な空気を感じ、身構えてしまう彼女だが。
「では、お願いしようかな」
相手の好意を無下にする訳にはいかないので、にっこりと笑って彼女は応えた。
□
その神社は町の入口、明が昨日、車で渡った橋をずっと行った先にあった。
橋から神社への道は大通りと呼ばれ、匚盛の中で一番賑わっているとのことだ。
歩いている途中、二人は他愛もない世間話をした。好きなマンガやらテレビ番組の話やら。
しかし、残念なことに平河と明の間には都会と田舎という、文化の違いが横たわり、ここ匚盛がいかに不便かを浮き彫りにする結果となるのであった。
「まさかここまで話が合わないとはな……。でも、観たいドラマがあった時とかここの住民はいつもどうしてるんだ?」
「町中の人間が見ていないから、気にならないな。今日、初めて聞いたテレビ番組もあったくらいだ」
「なるほどな」
匚盛神社は斜面に沿って作られた、階段の上にある。明は急な段差にたじろぎつつ言う。
「こうしていざ、目の前に立ってみると心なしか緊張してしまうな。やっぱり、日本人として神様を崇めることが血に刻み込まれているのだろうか」
「……」
何も反応を見せない平河に疑問を抱きながらも、彼女は階段に足をかけた。
神社の境内に上がった明が最初に気になったのは下界との匂いの質が異なる点であった。
そこは、湿った土の匂いがする場所であった。雨が降った訳でもないのに。
そう思ったのも束の間、夕日が照り付ける神社の姿に明はノズタルジックな気分を感じながら感想を口にする。
「威厳や歴史があるって雰囲気だな。思ってたよりも広くて驚いているぞ」
「……そうかもな」
「おい、平河。お前、大丈夫か?」
振り向いた彼女の顔に飛び込んできたのは、真っ青になった平河の顔。尋常な状態でないことが一目で分かる。
「ちょっと座れって! なっ?」
その場でしゃがませた時、また一人、新たな人物が階段を上ってくる気配がした。
「あら、こんなところでどうしたの良平君?」
少女が一人、不思議そうにこちらを見ていた。どうやら平河と知り合いなのだろうと察した明が助けを求める。
「さっき急に顔が真っ青になって、大変なんだ! あんた、この男の知り合いか!?」
彼女の必死な表情に少女、九条菊華が頷くと同時に。
「俺は問題ない。菊華も、気にしないでくれ」
すっく、と立ち上がった彼は顔色が悪いものの、先ほどまでよりかはだいぶ増しになっているようだった。
「本当だ……。さっきより大分良いようだが、どうしたんだ一体?」
「別に……」
明の心配そうな声に対し、歯切れの悪い答えが返す平河。
「それにしても、良平君がこんなところに居るなんて珍しいね。一番毛嫌いして無かった? クーサマのこと。確かに現代人として神様を本気で信じているのもどうかと思うけどさー」
楽しそうに言葉を紡ぐ彼女に、彼は薄ら笑いをして、
「自分ん家が祀ってる神様を前に偉いことを言いだすなお前は。罰が当たったりするんじゃないのか?」
「言論の自由ってことで許してくれるでしょ」
その言い訳が通るのであれば、クーサマはかなり現代社会の勉強していることになる訳だが。
そんな俗っぽい神様が崇りや呪いなどといった、非科学的な事象を発生させられるとは考えられない。
「意外だな。お前のことだからもっと熱心に神様とかを信仰してるものだと思っていたが」
「時と場合によるよねー。困った時とかはお参りに来たりするよ、今日みたいに」
「……悩みがあるのか。と、ここで聞いておきたいんだけどさ。ここの神社って何の専門なんだ? やっぱり、豊穣とか家内安全とかか?」
伝説ではクーサマは、貧困に喘ぎ苦しむ匚盛の土地を救ったとされているのでそれらしいことを口にしてみる。だが、神社の娘はそれを否定し、
「しょーじきなところ、割と何でもイケるよこの神社」
軽い調子で宣言してきた。
「適当だな」
平河の言葉に、菊華は過剰な反応を見せる。
「え、駄目? やっぱり駄目だったかなぁ? でも、言い訳ぐらい言って良いよね、私だって神様を軽んじてる訳じゃ無いんだよ。ただ、クーサマがそれくらい何でも出来る神様なんだよって言いたかっただけど悪気なんて全然。御神体の管理だってちゃんとしてるし、毎日境内の掃除とか頑張ってるし、ちょっとくらい軽口を言っても……」
一人で落ち込んでいく彼女の姿を見た明は、反射的に平河の顔を見た。
「この人も大丈夫なのか不安になってくるんだが、大丈夫なんだよな?」
確認するような彼女の問いかけに彼は頷き、
「ところで菊華。クーサマで思い出したんだが、どうしてこの神社の御神体は箱の形をしてるんだ? 昨日引っ越してきたこいつに説明しようと思ったんだが俺も分からないんだ」
「ぐす……っ。えと、言い伝えによるとクーサマは四角い匚を持ってこの土地に来て、その匚に病気だとか悪いものを封じ込めたらしいの。毎年、お祭りの時に見るでしょ? あの匚を儀式は一年の間に貯めた悪いものを炎にくべるって意味があるんだよ」
涙目だった序盤の語り出しから後半にかけ、菊華の口調は見違えるほどに堂々としていてさっきまで見せていた気弱な一面が夢か何かではないかと勘違いしてしまうほどであった。
「お、お見事……」
一度もつかえることなく空で説明をした彼女と、上手く誘導して見せた平河の手腕に明は小さく心の中で拍手をしていた。
「そんな……それほどでも。あたし、九条菊華って言うの。この匚盛神社で巫女をやってるわ。あなたが、噂の昨日来た転校生?」
さっぱりとした菊華の様子に明も調子を合わせて自己紹介をする。
「転校生って言っても、小学三年生まではここに暮らしてたみたいだけどな。色々分からないこともあると思うからそんな時は助けになってくれると嬉しい」
「うん、承ったよ」
どちらともなく手を差し出し、がっしりと握手を交わす。
「……」
しばらくお互いの目を見あっていたが、手を離すタイミングが掴めず気まずい雰囲気になる。
すると、十八時を告げるサイレンが町中に響き渡る。
「あっ、そうだった!!」
ぱっ、と手を離した菊華は早口で告げる。
「そう言えばお父さんにお使いを頼まれてるんだった! 夕食の準備があるのに、こんなところで油を売ってちゃ駄目だったんだ」
「そ、そうだな。ありがとな、九条さん」
別れの言葉を告げると。階段を駆け下りる菊華が、下の名前で良いよー。と言い残し視界から外れる。
「……テンションの上下が激しい子だな」
「それ以外は常識がある普通のやつなんだがな、気にしないでやってくれ」
後に残された二人はそんな会話をする。その時吹いた風は、やはり湿った匂いがした。
「……っ?」
再び生まれた沈黙だが、今度の静寂は背筋が凍るような冷たい印象だ。空気が緊張しているみたいに、明達は口を噤んだ。
「暗く、なったな……」
「ああ」
ぽつりと告げられた彼の言葉に同意する。日が地平線に姿を消そうとしているのだ。
町が暗がりに身を落とそうとしている姿が、ここから丸見えで感傷的な気分が沸き起こる。
平河もじっとその光景を見ていた。寂しげなその横顔は、泣き出しそうな子供の顔にも見えた。
「俺は。この町の事が嫌いだ」
突然の物言いだったが、何故か明も予測していたかのように。ああ、とだけ応える。この景色を見ていれば、そんな言葉も出てくるだろうと思っていたから。
理解も想像も及ばないが、彼女の耳に突拍子もない発言に聞こえなかったのも事実。
「なんというかな」
彼は自分だけが抱えている心の闇を。それでも分かるようにと、拙い言葉で説明する。
「息苦しいんだ、まるで水の中に。いや、そんなもんじゃない。物が敷き詰められた箱の中に押し込まれているような──違和感を、常に感じていて」
明は視線を足元に移す。地面があった。
湿っている。さっきからずっとここに立っていたのに、全く気が付かなかった。
嫌な、気分だ。
昼間は明るくてあんなにもキラキラと輝いていた町が、今ではまるで自分を否定しているみたいに無言で座っている。
「特に、この場所に来るとそれを一番に感じてな。気分が悪くなるんだ。言いようもない不快感が」
がさがさと、木々が風に揺られて音を発する。どこまでも不安を煽る音だ。だからきっと、この気分も全部、気のせいかなにだと明は思い込もうとしたのだが。
背後から視線のようなものを感じた。
「ううっ……」
思わずそんな声が漏れてしまう。嫌だ、と叫び出したい気分だった。明はそこで初めて自然の闇の恐ろしさを実感した。
ああ、どうしてこんな時に。あの日々の記憶が蘇ってくるんだ。
既に終わったことなのに、自分にはもう輝やかしく安全で素晴らしい時間しか待っていないはずなのに。
どうして、思い出すんだ。
この不快感は、あの時に似ている。
怖い。
ぞわぞわと、身の内から黒く淀んだものが溢れてくるのが分かった。聖域にあるまじき汚れが、自分の中から湧いてくる。現在、そしてこれから先も。身体一杯に詰まった自身の汚れが他者を汚していくのか。
平河は口を閉ざし黙って町を見下ろしている。ここからではその表情は伺えない。彼にもこの不快感が伝わっているのだろうか。
「まるで、この町に封じ込まれているようで」
嫌なんだ。と、彼が告げると同時に、
「いっ……」
拒否する己の身体を振り切り、強引に明は後ろを振り向いた。この重圧の原因をこの目で確かめるために。己が汚れを刺激する感覚の正体を。
見たと同時に、目が合う。
視線がかち合った。
□
それとほぼ同時刻。九条菊華は買い物袋を片手に、とぼとぼと帰宅しようとしていた。
夏休みに入ったばかりだというのに憂鬱な顔をしている理由。それは、つい先ほど八百屋で交わされた会話にある。
顔見知りの主婦に容姿を褒められたのだ。それがどうして不機嫌の理由になるのかと問われれば。
「また増えてるよ……。平河君も、気づいてたのかなあ……」
前髪で隠していた部分に触れると、そこには思春期特有のニキビが。理由はそれだけではない。二つ目の理由は自分の低い鼻。三つ目はダサいヘアスタイル。四つ目は野暮ったい顔そのもの。五つ目はなで肩。六つ目が小さい胸に七つ目が腰のライン。エトセトラ、エトセトラ。
つまり彼女は、どうしようもないくらいに自分の容貌が嫌いなのであった。
「悪気は無いんだろうけど。やっぱり、気になるよねえ」
子供の頃から言われている言葉ではあるが、この年になれば流石に『可愛らしさ』がなんたるかも分かるようになってくる。
前提として当たり前のことだが、菊華は同世代の女性と比べても特別見劣りするような外見をしてはいない。
平均があれば確実に超えているし、彼女のことを思う男子生徒も少なからず居る。
つまるところ彼女は、普段から己を過小評価するきらいがあるのだ。
見た目の件について菊華の最大の不幸は、同じ学年に貞女という奇跡のような美貌の少女が在籍していることだろう。
一目見た時から凍り付いてしまったかのように硬直し、親しく話そうなどとは考えられなかったほどの圧倒的な空気を身に纏っていた。
無理なら無理と諦めてしまえば良いものを菊華は彼女と自分を比べては絶望をする。今回の祭だって自分よりも彼女が舞った方がより神秘的で絵になるだろう。
「失敗したらどうしよう。良平君達にそれを見られたらあたし、どうすれば」
こうしてうじうじと悩んでしまう自分も、彼女は大嫌いだった。
「菊華よ」
壮年の低く腹の底に響く声。彼女の父、九条昭雄のものだ。自らが買い物に行かせたにも関わらず彼がわざわざ家を出て娘を迎えたのには理由がある。
「どうしたの? 子供じゃないんだからお迎えなんて要らないのに」
「ついさっき入った話じゃが。ここ最近、匚盛での行方不明の数が増えているらしいのでな。つい心配になったのだよ」
深く顔に刻まれた皺からは貫録と威厳が満ちているが、性格は温厚で義理人情に溢れる男性だ。
「学校では話題になってなかったけど、何人くらいなの?」
「確認が取れてるだけで八人だそうだ。年齢も職業も関係ないとのことだから、お前に万が一のことがあってはな」
「それは怖いねー。ところでお父さん、その箱は何?」
彼女は父親が大事そうに抱えていた木箱を指で指し示す。
「これか? これは神社の裏の蔵から見つけたものでな」
確か、父は都会の病院に母が入院してから蔵の整理に乗り出していたのを思い出す。かねがね母が口を酸っぱくして言っていたことなので、機会をようやく見つけたのだろうとあまり気に留めていなかったが。
「古い、箱だね。開けてみたの?」
父は立方体の箱の蓋を開け、中身を見せてくる。思わせぶりなその見せ方に期待して身を乗り出すが、見事に何もなく、中身は空だった。
「空じゃないの。ちょっとあたし、期待してたのに」
「わしも期待していたんだがな。空振りだったようだ。見つけた場所が場所だっただけに残念でならぬわい」
「? 蔵で見つけたんじゃないの?」
何も分からぬ菊華に昭雄が説明する。
「恥ずかしい話、わしは神社の主となってからあの蔵を本格的に調べたのはこれが初めてだったのじゃよ。整理してみて驚いたのは道具に阻まれて見えにくかった位置に、奥に続く通路があったことじゃ」
「神主としてちゃんと管理しないといけないと思うんだけど」
「先代も先々代もそうだったみたいだし、わしも特に気にしとらんかった。で、中は天井が低く長い道のりだったもんで引き返そうかと思ったその時。ついに洞窟の最深部に行き着いたのだ」
熱の籠った彼の言葉を聞くうちに、価値があるように見えてきてしまうのは人間の脳ミソの不思議なところである。
「奥まった場所に昔の祭壇があってな、百年はゆうに超えていただろう。そこにこいつが鎮座してあったんじゃよ」
「もしかしてそれ、うちが祀っている御神体と関係があるんじゃ……」
匚盛神社が祀るのはクーサマが持ち込んだとされる箱なのだが、塗装もしっかりとされた見栄えのいいもので、いわゆる祭儀用のものだ。
オリジナルはとっくの昔に行方が分からなくなっていたのだが、蔵の奥にあるとは灯台下暗しもいいとこだろう。
「もし、そうなら歴史的発見だがな。神社の歴史に比べるとこの箱はどうも新しすぎるようだ。これもまたレプリカなのだろう」
「なあんだ、残念」
菊華の残念そうな声に、昭雄も済まなそうに声のトーンを落とす。
「調べればまた何か出てくる可能性があるが、祭を来週に控えた今、本格的な探索も出来んだろうて。無事、祭が終わった時にはお前も手伝ってくれるか」
「……うん」
そうだ、祭が近いのだ。そのことを思い出し、さっきまでの暗鬱な気分が戻ってきてしまう。
この時点で彼女の脳内からは匚盛の行方不明者の数字など消え去ってしまっていた。
西の空は昏い。底なしの闇が、夜が来るのだ。
「良平君に、無様な姿は見せられないよね……」
□
身体が硬直した。
「何だ、あれは?」
明は境内の隅の方に山積みにされた人形達を見て、呆然としていた。神社の神聖なイメージと反してそこに集まった物は見ていて不安な気持ちになるものであった。
新しい物も古いものも日本の物も外国の物も一緒くたになったそれは高さにして三メートルはあるだろう。
「人喰いの神だったから、人間の代わりに人形を捧げているのさ。今じゃ年寄り連中くらいしかやりはしないけどな」
近づいて見ると不気味さが一層増す。手近にあった真新しい日本人形に手を伸ばそうとするのを平河が止めに入る。
「一度捧げられた人形に触れるのはタブーとされている。触るなよ、触れば祟られるっていう言葉は聞いたことがあるだろ?」
慌てて手を引っ込める明だったが、どうして自分がこんな不気味なものに触れようとしたのか。その動機を忘れていることに驚きを覚えた。
「はぁ……」
がっくしと膝を着く彼女に平河が声をかける。
「酷い顔だ。もう少しここで休んでいくか?」
「いや」
首を振って応える。
「私は問題ない。平河も気にしないでくれ」
立ち上がりながら平河の口調を真似る明が笑いかけた。
「済まない、昨日来たばっかりだってのにこの土地の悪いことばかり話して。気分を悪くしたなら謝るよ」
頭を下げる彼に彼女は慌てて言う。
「謝るなよ。私、今日は四人で遊べて凄く楽しかったんだからな。逆に、こっちが今日のことを謝らなくちゃならないくらいだよ。『貴重な夏休みを私の為に使わせて申し訳ない』ってな具合で」
「家に居ても寝て過ごすだけだったからな。それに、俺も今日は楽しかった」
そう言って笑った平河の顔は、どこにでも居る少年のものの筈だったが。明は自分の心臓が僅かに高鳴ったのを知る。
「じゃあ、お互い様か……」
にっ、と明も歯を見せて笑う。ほんの少しの間だけ見つめ合った二人は、どちらともなく視線を逸らし恥ずかしそうにまた笑った。
先ほどまであった不快感もいつの間にかどこかへ吹き飛び、面白おかしい気分が二人の脳内に充満していた。
□
「ただいまあ……」
疲れた様子の明が戸を開けた部屋の中では、退屈そうな唯子が両足を広げ一服していた。
「おお、お帰り。随分とお疲れだな、楽しんできたかい?」
親代わりの女性の言葉に頬を緩ませ、
「それはもう。近い内にまた遊びに行こうとも話したぞ」
「ほう、そりゃ宜しいことで」
愉快そうに歯を見せる彼女に、今度は明が半目で尋ねる。
「暇そうにしているが、仕事とかは大丈夫なのか? そもそも職についてるのか唯子さん」
「今週はお休みを貰ってるんだよ。アンタの身の回りの世話とか他にも色んな手続きが居るからさ。それとアンタさ、来週はどうするつもり?」
「何の話だ?」
怪訝そうに問い返すと、目を丸くした彼女が答えた。
「祭りのことさ。何も聞いてないのかい?」
一言たりともと言うと、仕方が無さそうに彼女が腕を組み、
「明日にでもあの子らの家に行って誘うが良いんじゃないの? あの好青年君の家はアタシも知ってるからさ。それともメールとか。若いからメアドも交換済みでしょ、どうせ」
「いまいちよく分からん理屈だし、メールアドレスも交換してない」
「はんっ」
鼻で一蹴される。
「若いんだから、もっと攻めないとイカンよ。もたもたしてるとあの別嬪さんに盗られちまうってば」
「だからっ、どうしてそうやってすぐ色恋沙汰にしたがるかなあ!」
「年齢を積み重ねるにつれて青春時代の恋ってのが恋しくなるもんなのさ」
面白半分で口を出されては堪らないとは思いつつも、今日のメンバーで祭に参加することに魅力を感じていた。
「っつーことで。アンタは明日、彼氏君の家に行って祭に誘うこと。オッケー?」
「でもさ、今日誘われなかったってことは理由があると思うんだ。それにいきなり家を尋ねるだなんて、恥ずかしいだろ……」
「命短し恋せよ乙女だよ。恥ずかしがってるアンタはずばり、彼に恋をした訳だね?」
いやいや、と明は首を振り、
「ともかく、家を訪ねるのは駄目だ! それに唯子さんは平河の家だけじゃなくて、大島さんの家も知っていて隠してるんじゃないのか!?」
「了解。分かったよ。アタシも十代の乙女の心を弄ぶ趣味は無いさ」
タバコの火を消した唯子は冷蔵庫からビールを取り出す。
「祝宴だ、飲もっ!」
「飲むな!」
それは無理なお話だわー、とプルタブを開けようとした彼女が静止する。にやり、と笑っていて。これは悪だくみをしている顔だと悟った。
思考の海から突然戻ってきたかと思うと、こちらの名を呼んである注文を押し付けてきた。
「帰ってきたところで申し訳ないんだけどさ。ちょっとコンビニ行ってツマミ買ってきてくんない?」
「何だっていきなりそんなことを言うんだ。面倒だからもう少し待つか、自分で行って来てくれよ」
「アンタが戻ってくるまでに夕食の用意、しとくからさ」
それでも嫌な顔を見せた明に唯子は観念したように首を振り、
「外に置いてあるアタシの自転車やるからさ、頼むよホント」
「ご褒美みたいに言ってるけど、昨日あんたが新しい自転車を買ったのを私は知ってるんだからな!?」
「ネットショッピングって便利だね。日本中どこでも欲しいものが手に入るんだからさ」
彼女の言葉を背に受けながら、しぶしぶといった調子で明は退室した。
匚盛の夜は都会と違って街灯の光も少なくしん、と静まり返っている。コンビニの場所は昼間の段階で確認してあるので迷うことはまずありえないものの、やはり遠い。自転車の空気も抜けきっていたので徒歩でコンビニまで行くことにした。十分程歩きようやく辿り着いたその場所で、彼女にとっては意外な人物と落ち合う。
心臓が止まるかと思ったくらいだ。
「誰かと思ったら、なんだ明か」
先に相手を視認したのは平河の方であった。煌々と輝く店内の光を浴びた彼は竹ぼうきと塵取りを手にし、店先の掃除をしているみたいだ。
「平河もこんなところで何をしてるんだっ? 奇遇だなあ!」
数分前に唯子と交わした会話が頭に残っていたため、変に身構えてしまう明であった。そんな不審な態度にも動じず、平河は事もなさげにある事実を口にする。
「このコンビニ、俺ん家がやってるんだよ。説明して無かったか」
「ああ……初耳だよ」
わざわざコンビニへ行けと指定した唯子の策略に気付けなかった自分に嫌気が指す。直前の会話を踏まえれば回避出来ただろうと、今更ながらに後悔した。
だが、これは好機であることもまた事実。ここまでお膳立てがされた上に、後は自分が彼を祭に誘うだけなのだ。話はとても簡単なのである。
「あのさ、平河──」
口を開くが、どうも言い出しづらい。こんな感じに異性と会話をするというのは初めてのシチュエーションなので、勝手が分からないのだ。このままでは心臓が破裂するかもしれない。
困った。が、ここで止まっていては相手も困ってしまうのだろう。
「来週、祭があるらしいじゃないか。一緒に皆で行きたいんだが、どうだろうか」
やっとのことで声に出した思いは大分早口になってしまったが、要件は伝えられた。気になる返事は。
「ああ、俺は良いぞ全然。貞女や……芽久も一緒か、まあ喜ぶんじゃないか? 少なくとも俺と貞女は毎年二人での参加だから予定的にも問題はない」
あっさりと縦に振られた首からは、細々とした話が紡がれる。最終決定日や集合場所、格好や祭りについてのちょっとした解説、そしてメアド交換。
「──送信っと。どうだ、行ったか? 取り敢えず今日はこんなもんだけど、何か質問とかあるか?」
「……クーサマは居る。と、お前は信じているのか?」
「まさかだろ。……神様が居るだなんて、もしそんなことがあるのならば、俺を匚盛に閉じ込めてるのが神様の仕業ってことになっちまう。考えたくもないよ、そんなもしものことなんてさ」
こう言って見せた平河の表情は笑顔に見えたが、同時に寂しげにも映る。明はその時初めて、この男の素顔を垣間見た気がしたのであった。
□
「♪~♪♪~」
すっかり日の落ちた土手を、鼻歌まじりに快走する自転車の影。闇にまぎれてそれを操るのは、少女向け雑誌を買って満足げな顔をした芽久である。
一人での夜道を不安に感じる人間も居るが、彼女はそれとは正反対の人種で、昼間との違いを面白く思っているのだ。
今日家に帰ったら何をしようか。何をしても良いだろう、何故なら来年になれば自分も高校生。折角の夏休みだ、ちょっとくらし夜更かしをしても罰は当たらないだろう。
と意気込んでいるが彼女。常日頃から同じようなことを考えるものの、眠気に勝てず気づけば眠りの中に居るのだ。
そもそも夜更かししてまでこなしたい仕事や、趣味もないので夜遅くまで起きている必要が無いのだが。背伸びしたい年頃なのだろう。
鍛えられた筋肉加速する。夏の風が気持ち良い。きっと明日は晴れだろう。そうに違いない。
少しだけ風景に変化が。この町唯一の出口である橋が前方に見えた。
「お?」
橋の下。案山子のように突っ立っている人間の姿が一つ。一日中晴れだったのに、レインコートを着ている。
「おお?」
それともう一人、闇夜が手伝い姿の隠されていた人影が一つ。倒れていた。
「おおお?」
不吉な予感がする。注意深く観察すると、予感の正体に勘づいた。
レインコートの身体には赤黒い液体が付着していた。その液体は倒れ伏す人間が流したもののように見える。
被害者の腹が裂け。それを見下ろす容疑者の図であるとそう察した瞬間、芽久は声にならない悲鳴を上げる。
混乱した彼女は自転車のコントロールを失った。激しい揺れを感じた時には既に土手を猛スピードで下っているところだった。
「ががががが」
揺れるからだとハンドル。段差に引っかかり、車体が跳ねる。
一瞬の浮遊感。
目の前にはこちらを振り向こうとするレインコートの姿が。どうやらこのままでは追突コースのようだが、少女にこの運命を変える力など持っているはずも無く。
「ぎゃあああああああああ……!」
血まみれのレインコートの脇腹に、自転車の前輪をぶち込んだ。
「がはっ、がはぁっ!」
冷たい。水の中か。芽久は天地の感覚を無くしたことにより錯乱する。滅茶苦茶に手足を動かして上下を確認する。
苦労の甲斐あってか、浅瀬に足を着き立ち上がる。さっきまでそこに居たはずのレインコートが姿を消していた。
もう一人はというと、さっきと変わらずそこで倒れている。動いた様子もまるでない。
「え、ちょっと……」
気が動転し、自失してしまう。しかし、我に返った芽久は仰向けに倒れた女性。ほっそりとした男性に声をかける。
「大丈夫ですか!? すみません、大丈夫で──」
そこで彼女は女の腹部に目をやり、息を呑む。上から見下ろした時に視界に入った傷口を観ることによって芽久はそこでようやく事の重大さに気が付く。
「ひっ」
遅れてくる恐怖心。恥や外聞も投げ捨て、
「いやぁあああああああぁぁぁあああああああああ!」
少女は叫び、転がるようにしてその場から逃げ去った。
□
大島貞女は物腰が柔らかく几帳面な性格である、それが世間一般の彼女に対するイメージだ。その事に関しては否定しないが反面、自分だけが特別几帳面な訳ではないと考えていた。
几帳面さや、物静かな印象などといった言葉は後天的に教育された結果を指すのであって、それを自分が生まれ持っていたかのように言われるのが嫌でしょうがなかったのだ。
褒められることの何が悪い、と世の中の人々は言うだろうが彼女は自分以外の人間が行った行為の結果を奪うような真似をすることが本能的に嫌いなのだ。
だってそんな上っ面だけ見られても本当に自分など分かりようがないのだから。
本当の自分とは言ってみるものの、自分が裏表のある性格であることを自負している訳じゃ無い。
ただ、見た目やら何やらで勝手な評価を付けられたくないのだ。小学校の時代から何かと学級委員やら、部活動の部長などを任されてきたが。ルールや規範を破る楽しさを知っているし、部活の練習だって、どうしてもやる気が起きない日もある。
トップに立つ人間の器でないことは、誰よりも自分自身が一番理解しているつもりだ。
彼女、貞女は。子供の頃より隙間というのを嫌った。それは空間的なものではなく勉学や生活習慣にも同じで潔癖なまでに仕事の遣り残しやノートの空欄などを埋めることに執心する。
それを彼女自身が異常であることを理解していたので社会生活で困ったことなどは無かった。限度を弁えていたのだ。しかし、いざ世の中に目を向けると、やはり隙間が目に付く。両親は別段変わった点が無かったが、幼い頃の彼女が辺りの隙間について言及すると、その瞬間だけ二人は親という仮面を捨て奇怪なものを見るかのように悩ましげに娘の顔を見据えた。幼心に自分の異常さに気付いたのは恐らくそれが理由の一つとして数えられるだろう。非難されるのなら、疎まれるならと彼女は自分の意思を胸の奥に仕舞い込んだ。
幼稚園に入園するも。隙間どころか、そこかしこに大きな穴が開いているように見えたのだ。
小学校に上がるまでの数年間、止まれば死んでしまうような心持で目に付くものを片っ端から埋めていく作業を行い、彼女は小学生の頃に学級委員に選ばれる。周りからは学校一の才媛と呼ばれるほどに彼女の行いは全てにおいて圧倒的に感じられたのだ。田舎の小さな学校で人の数もそう多くないのだが、彼女が他に無い才能を持ち合わせていることは比を見るより明らかであった。そんなある日のこと貞女は一人の少年と出会う。出会う、というよりは目にしたというほうがここでは正しい。二クラスしかないうちの一つ、彼女が所属するクラスで、周りが休み時間で騒いでいる中、一人椅子に腰を掛け窓の外を眺めている男子生徒を発見した。その少年は平河良平という名前なのは知っていたが、彼がどういった人となりかはわかって居なかった。彼女が当時関心を持っていたのはただ隙間を埋めることだったので彼には何の興味も湧いてこなかった。
だが、頻繁に見かけるその後ろ姿に意識を払うようになったのも、それからすぐのことである。
彼に初めて声をかけたのは、小学校三年にあがったばかりの頃。冬休みの課題未提出者が集められた教室の中だったように記憶していた。
通常ならば課題など、休みの最初に終わらせてしまうのだが、うっかりしていたのだ。まさか、プリントだけでなく近所の風景を絵の具で描いてくるようにと口頭でも課題が伝えられていたことを、それを聞き逃しメモを取り忘れていたことが。居残りをさせられるまで課題を残してしまったのは、課題の提出日に欠席をしてしまった為にだ。
仲の良い友達や趣味も特に無かったので、課題をやる時間はいつも十分にあった。だから、この集まりに自分の名を連ねることになろうとは夢にも思っていなかったのだが、先述の理由をそのままに居残りに不満も無かった。
考えてみれば、この時点で課題を出し忘れたことは自分にとって有益だったのだろう。なぜならば、居残り組の中に平河の姿を見出せたからだ。
「俺はだな、この町のことが嫌いなんだ」
隣に座り。どうして、いつも一人でいるのかと尋ねるも、彼の返事は素っ気ないもので、こちらを一度ちらりと見ると、すぐに視線を逸らしてしまった。この町が嫌い、そんな言葉だけを残して。
それによって、彼女の心にはわだかまりのようなものが生じる。そしてそれは貞女の嫌うすき間とも言い換えることが出来た。
気になるすき間は、埋めなければ。
その日より、彼女は平河に干渉をし始めるようになった。
「はぁー……」
居残りは何日にも及んだ。大体の生徒が放課後の時間をこれ以上無駄にしまいと、必死で課題を進めている横で、平河だけはぼう、と椅子に座って窓の外を眺めたりしていた。
窓の向こうには匚盛を囲む立派な山々が一望できる。いつも彼はそうやってどこか遠くを夢見ているようだった。
教師の目からは課題をやらずにサボっているように見えたらしく、何度か注意を受けていたが。平河のペンが走ることは無い。
「何を見ているんですの?」
叱られてもなお、暇そうな顔を見せていた彼に貞女が尋ねると。さも当たり前のことのように、
「いや、特に何も。課題やるの、面倒だから。見てただけだよ」
「……」
肩透かしを食らったようだった。今の発言でスイッチが入ったのか、さっきまでとは人が変わったかのようにノートに向かい始めた平河の横で、貞女は停止していた。
愛想は悪いが、コミュニケーションを取ること自体に抵抗を感じている訳では無い。それだけでも収穫としては十分だと、そう思うようにした。
頑なに他者を寄せ付けない平河にも、子供らしい部分があると分かった以上。彼女は更に彼との距離を縮めようとする。
彼が内に秘めている闇を少しでも知りたいがために。
そんなこんなで二人はいつの間にか友達と呼べる関係にまで発展し、中学に入ってもその関係が変化することは無かった。
環境の変化により、貞女の交友関係にも変化が起こった。彼女に女友達が出来たのだ。
異常な自分にも女の友達が出来る、それは彼女にとってとても大きな一歩のように感じていた。相手の名前は菊華と言った。その友達も例に漏れず隙間のことなどは気にしていなかったが、彼女は自分と違って他者の目を恐れていた。何か悪いことをしたわけではなくとも常に怯えている、犯した罪を恐れるし自身がいつか起すかも知れぬ罪まで恐れていたのだ。その少女と会話したとき、貞女の心に相手を思う余裕が生まれた。この少女は自分と似ていると、そう感じたのだ。
友人は臆病な自分を治したいといって演劇部の扉を叩いた。しかし、大島はそれで彼女が変われるとは思っていなかった。確率が零とは言えないが、保証は無い。そんな隙間を彼女は嫌った。だから、菊華を見守るただそれだけのために彼女も同じ演劇部に入部した。幸か不幸か、そうした生来の几帳面な性質により演劇部の部長にまで上り詰めたのだ。才能があった訳ではない、しかし、自身が部員としての穴になるわけにはいかなかった。だから努力をしたのだ。暫く彼女はその友人と二人で帰っていた。一見、依存しているような関係だがそれは彼女にとってどうでもいい話なのだ。どうせこの世の隙間は埋まることが無いのだ、それならば隣に居るこの少女を幸せにしてやるほうが効率的だし、彼女自身が良い気持ちになることが出来る。
仲睦まじい女友達だけではなく。男子生徒の姿もそこにはあった。平河だ。
「なんだ、貞女。お前、菊華と知り合いだったのか」
これを契機に、三人はつるむようになる。変わった人間達の変わった三人組が、こうして出来あがったのである。
その絆は高校にあがった今でも強固に結ばれたままだ。
□
携帯の振動で目が覚めた。自分でも気が付かない内に眠ってしまっていたようである。
貞女は寝ぼけた頭に命令し、ベッドで明滅を繰り返している携帯電話に手を伸ばす。液晶には平河良平の文字。
珍しいな、と思いながら電話に出ると、
『あー、貞女。お前今、どこに居る?』
口調こそ冷静だが、ひっ迫した様子の彼の様子に動揺しながらも答える。
「家、ですけれど……」
辺りを確認する隙に時間を確認。夕飯時、遅い時間では無い。そこで胃袋が空であることに気付き空腹感を覚えるが、平河の一言で目が覚める。
『俺も親父から聞いたばかりで詳しいことは分からねえけど、どうやら死体が見つかったらしい。被害者は女、警察も動いていて騒ぎになってる』
貞女は立ち上がり、カーテンを開けた。目を凝らせども、そこにもいつもと同じ暗闇が広がっているだけであった。