元カノカフェ
元カノカフェ。
そんな変わったお店がこの時代の最先端を行く秋葉原に誕生した。メイドカフェ、執事喫茶、男の娘カフェなどに続く刺客、とでも言えば分かりやすいだろうか。どんな場所かと言えば何のことはない。元カノがお客をもてなすのだ。とはいえ、もちろん本物の元カノを用意するわけではない。それでは今まで1度も彼女がいたことのない人や現在進行形のリア充などが入れず、来店できる人を選んでしまうお店になってしまうからだ。あくまでもお店にいるのは元カノという役割を持った店員である。良く言えば特徴的な、悪く言えば変わり者の集まりと言えるオタクの集まりからこの元カノカフェが人気が出るまでにそう時間はかからなかった。今では秋葉原を代表するお店の一つとして複数の会社がお店を出しているくらいだ。
そして今日、俺はこの元カノカフェに初めて来店するために、わざわざ会社の有給休暇を取って秋葉原にやってきた。最も今日は日曜日、人も多く混雑している。こんな形で秋葉原に来ることになるとは思っていなかったのだが仕方ない。俺はこの元カノカフェで全てをリセットするのだ。
実はこの元カノカフェにはもう1つの顔がある。それは女性にフラれた男性が、“自分はもう大丈夫だ”という自分の過去をふっ切るための、いわば最終試練のようなものだ。俺の目的はこの最終試練にこそある。
ここまで言えばもう分かるかもしれないが、俺にはつい3か月前まで彼女がいた。名前は香奈。俺にはもったいないくらいの最高の彼女だった。
「とうとう、か……」
俺は入り口の目の前で深呼吸する。だがその彼女のことを考えるのも今日で終わりだ。今日を最後に俺は彼女と過ごした日々を、苦い思い出から解き放つのだ。
カランカラーン、と呼び鈴が鳴る。中にはカウンターがあり、それを隔てて一人の男性がいた。彼は短い髪にバーテンダーのような服装で、俺がそのカウンターに到着したのを見て接客を始めた。
「いらっしゃいませ。お客さま。お名前は?」
「は、葉山です」
俺は面食らったように答えた。一応前にもここまでは来たことがあったのだが、やはり緊張するものは緊張する。
「えっと、葉山様葉山様……あったあった。確か以前に一度いらっしゃったことがありましたよね?」
「え、ええ。あの時はご迷惑をおかけしました」
俺は深々と頭を下げる。俺は客としてではないが一度この店に来たことがあったのだ。
「いえいえ、それよりまたこのお店にご来店くださってありがとうございます。ということはこちらは初めてですよね? そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
「え、ええ……」
男は自分のことをこの店のオーナーである、と名乗る。前回来たときははこの人と少しばかり店のサービスについて話しただけで、この人がオーナーであるということまでは知らなかった。
「でも、オーナーのあなたが何故カウンターでお仕事を?」
「一応客商売ですからね。できるならお客様の望む最高のお相手をご用意するのが当然の業務ってもんです。店員はあくまでお客様の理想の人物のイメージに合った方を用意します。あくまで彼女たちはお客様の心の傷を癒すための手段にすぎません。その店員を無駄に疲れさせて業務に支障をきたすわけにもいきませんからね。なので最初は私がお客様に様々なご希望を聞くんですよ」
そう言った彼は1度店の奥に引っ込むと、何やら分厚いクリアファイルのようなものを持ってきた。
「あなたはどのような元カノをお望みですか? 希望があるならば名前と性格からあなたに最も必要な方をあなたの元カノとして提供致しましょう。特にないならばこちらから指名いたしますが」
「えっと、あの……」
俺が何を言おうとしたのかを察したのか、店員はみなまで言うな、と制止した。
「ご心配なく。こちらにも守秘義務がありますので、あなたの秘密、個人情報などは決して他言はいたしません。安心してご希望をお話しくだされば幸いです」
なるほどこれは人気が出るわけだ。少なくとも毎回同じ向上を述べるだけのメイドとは違って、元カノの性格はもちろん人によって多種多様だ。出来る限り客のニーズに答えようとしているのだろう。人件費も相当かかっているに違いない。
「それじゃあ……」
俺は事細かに彼女のことを話した。黒髪でショートカット、服装はおとなしめで引っ込み思案、膝下のスカートに清楚な感じの女の子、といった具合に。その特徴に合わせて店員はクリアファイルをめくる。それはさながらとても分厚い辞典から、目的のものを探し当てるように、1人1人丁寧に。しばらくすると、クリアファイルをめくる手を止めた店員はおや……、という顔をした。
「珍しいこともあるものですね。ちょうどあなたの条件にピタリと合う方が見つかりました。普通は多少お客様に妥協してもらうことが多いんですけどね」
店員はクリアファイルを俺に見せてきた。
「ほら、この方ですよ」
「あっ!」
俺はその顔を見て思わず声をあげる。そこにいたのは間違いなく俺の見知った顔だった。
元カノカフェはメイド喫茶のように時間無制限という訳ではない。サービスはきっかり一時間、一日一回限定と決まっている。また、店員が出勤するのは一日一回限定である。というのは、客や店員たちの精神状態を考えての事、ということらしい。言われてみるといくら試練とはいえ元カノ(の役割をしている店員)と長い時間いるのはもちろんきついものがあるし、もちろん店員だって一日ずっと元カノの役割をこなすのは無理があるだろう。その辺りの事情を鑑みたオーナー(つまり、先ほど俺を出迎えてくれた男性)がそのようなルールを決めたのだという。
また、このお店は完全予約制である。ネットで予約してからこの店に来ないとこの店のサービスを受けることはできない。俺が前に来たときにカウンターのオーナーと話しただけで帰ったのは予約制であることを知らずに店の中に入ってしまったためである。そのため、俺は日をまた改めてこの店に来ることにしたのだ。それが今日だったという訳である。
俺はオーナーの出してくれたその女の子を指差した。
「この人でお願いします」
「では、この方でよろしいですね。準備いたしますのでしばらくお待ちください」
オーナーもうすうす勘付いてはいたのだろうが、特に俺に何かを突っ込むことはなかった。5分ほどしてオーナーは伝票を手渡した。
「お待たせいたしました。時間は今、午後2時13分からきっかり一時間、午後3時13分までとなります。あなたにとって良い時間が過ごせるよう祈っております」
オーナーは深々と頭を下げる。俺は言う必要はなかったのだが、オーナーにこう言ってしまった。
「はい。いってきます」
「いってらっしゃいませ」
オーナーはそんな俺の発言に違和感を感じることなく、再び頭を下げた。
カウンターを離れた俺はその先に見えた廊下を歩く。廊下の長さは50メートルほどあった。その壁には均等な間隔でドアがいくつかあった。このお店には5部屋ほどしかなく、それが予約制となっている所以なのだろう。俺は部屋のプレートを見て、伝票に記された番号の部屋のドアを開けた。
「いらっしゃ……えっ?」
声の方向を見た俺は、指名した彼女の姿を確認する。そこには、先ほどオーナーに指名したショートカットで少しおとなしい感じの服装の俺の元カノが驚いたようにこちらを見ていた。清楚な感じの化粧は相変わらずかわいいと思う。彼女は膝より少し下くらいのスカートを後ろから撫でるようにしながらスカートを整え、丸テーブルに座った。
「えっと、向かいどうぞ」
彼女も何か話さないといけないと思ったのだろう、そう一言俺に言った。何というか無理に言葉をひねり出そうとしている感じがしてぎこちない。
「……ありがとう」
俺もその気まずい雰囲気に勝つことができないまま、まだ驚いたような顔の彼女を見ながらその目の前に腰かけた。
俺が今回通された部屋は、丸テーブルに畳の部屋と何とも質素な感じの部屋だった。当然ながら普通の店のように椅子はない。だが、元カノカフェというからには当然彼女と同棲したりしていた人もいる訳であって、この部屋のセンス自体は決して悪くはないと思われた。
「……何でここに?」
彼女……香奈の方も気まずそうに声をかける。マニュアル通りの反応ではないことは明白だった。
「……いや、ほら、ここ、元カノカフェだし……」
「……それもそうだったね」
沈黙が空間を支配する。
『あの……あっ!』
つい同時に話しかけてしまい、お互い声をあげる。まるで噛み合っていない。
「香奈からどうぞ」
「いや、裕紀から……」
何だろう。時間制限があるのはいいなと思ってこの店にしたのだが、これではまるで逆効果だ。むしろ居心地が悪いというか、体がむずかゆい。話したいことだっていろいろまとめてきたはずなのに、それすらもままならないままに、俺は彼女にろくに話をすることすらできなかった。
「……とりあえず飲み物出すね。えっと……アップルジュースでいい?」
「あ、うん」
香奈は奥の部屋に引っ込んだ。冷蔵庫が見えるところを見ると、このお店の元カノはなかなか庶民的な場所らしい。
そんなことを思いながら、俺は彼女の対応に違和感を感じていた。この対応も、俺が事前に調べてきたマニュアルとは違うものだったからだ。テレビで見ただけではあるが、マニュアル通りならここでは何の飲み物を飲むか聞かれてから、「コーヒー? 砂糖はいくつにする? ……2個? そう、昔とは違うのね……」などといった会話がされるところだったはずで、冷蔵庫まで戻る必要はない。やはり本当の元カノと対面してしまった俺の場合はマニュアル通りとはいかないし、そのための冷蔵庫なのかもしれない。とはいえ店員の言った通りこれはかなりのレアケースだ。俺は半ば何かの運命的なものを感じていた。
「あたし、つい最近ここで働き始めたの」
俺にアップルジュースを手渡して、久しぶりに口を開いた香奈の第一声はそれだった。彼女は逆にアイスコーヒーを手に持って隣に座った。
「ここで?」
「うん。裕紀と別れたあとにね。もう2ヶ月くらいかな」
香奈は目を合わせない。それは彼女の癖のようなものだった。彼女は元々人と目を合わせるのが好きな方ではなく、人と話すのも苦手な方だった。だが、こうして自分から話しかけてきているところを見ると、多少は克服したのか、あるいは店員という立場から少しも話を振らないといけないと感じたのか。真実は定かではないが、いずれにせよ香奈は俺と付き合っていた頃よりも成長していた。
「何ていうか、不思議な感じがする。俺とお前、別れてからもう会わないと思ってたのにな。こんなところで会うなんて」
俺は思わずさっき思ったことをそのまま口に出していた。
「……そうだね。あたしもこんなところで会うなんて思ってなかった」
彼女ははにかみながらそう答える。これも彼女の癖のようなものだ。彼女は意見が同じだと反応するときに恥ずかしがる癖があるのだ。この癖を見たのもずいぶんと久しい。
「……元気でやってるか?」
会話に困った俺はとりあえず当たり障りのない事を聞いてみた。
「うん。裕紀も元気?」
彼女は優しく返す。その微笑みは俺と付き合っていたときのそれそのものだった。
「ああ、俺も元気だよ」
俺も以前のように穏やかな笑みで返した。
もともと彼女に惹かれたのはもう5年くらい前のことだろうか。出会ったきっかけは簡単なもので、大学のサークルでの飲み会だった。あの日はつい飲みすぎて悪酔いした俺を彼女が支えるように家まで連れて行ってくれたんだった。
それから大学で顔を合わせるようになると俺は彼女のことに急速に興味を持っていった。好きな食べ物は? 家族構成は? 好きな芸能人は? こんな質問を繰り返していくうちに、俺と彼女はいつしかとても親密な関係になっていった。そしてそこから先は流れで付き合い始め、約5年間彼女と恋人同士の関係にあった。ハグもしたし、キスもした。肉体関係こそなかったが、そこに愛はあったはずだった。だが、つい数か月前、
「あの、言いにくいんだけど……」
彼女はそう言って別れを切り出してきたのだ。俺はもちろん最初断った。彼女のことを本気で愛していたし、何より俺に別れる理由がなかったからだ。だが、彼女の意志が固いことが分かり、しぶしぶ承諾。俺たちは元の知り合い程度の関係に戻ったのだった。
「……」
「……」
お互い、そこからは無言だった。思いのほかこの元カノカフェと言う空間はきついものがある。理由は簡単だ。逃げようとしても逃げられないからである。この店は一時間と言う限られた時間で元カノとの交流を楽しむ名目となっている。それ故か、途中退出不可というおかしな制約がついて回っているのだ。これでは客もきついが店員にも相当な気まずさがあるだろう。どおりで店員が一日一時間と言った定時の感覚でいる訳である。これで給料が時給800円というのだから恐れ入る。彼女たちは一体どうしてこんな気まずい職業で、しかも800円という安月給でアルバイトなどしたがるのか。これでは一日の生活すらままならないし、自分の家を建てたり、車を買ったりすることだって不可能だ。
とそこまで考えて俺はある一つの疑問に思い当たった。先ほどはスルーしていたが、なぜ香奈はここで働いているのだろう。彼女の家はそれなりに裕福だし、卒業した後にきちんと就職もしていたはずだ。今日は俺が有給を取ったとはいえ日曜日、仕事が休みなのかもしれない。とはいえ、そのような事情を考えたとしても、気になるか気にならないかで言われたらとても気になる。ある種余計なお世話だと言われたらそれまでかもしれないが、それでも俺に知る権利くらいはあるだろう。
「なあ香奈、そういや何でここで働くことにしたんだ?」
そこまで考えて、俺はようやくそう口を開いた。
「ここで働こうと思った理由、か……。強いて言うなら、裕紀のことを吹っ切るため、かな。裕紀もあたしを吹っ切るためにここに来たんでしょ?」
「あ、ああ。そうだけど。何でそれを……」
すると彼女は少し得意そうに笑った。
「この元カノカフェが過去を吹っ切るために来る人がいるっていうのはもうみんな知ってることじゃない。テレビでもやってたし。それに、裕紀のことならまだ結構分かってるつもりだよ?」
「そうか、これは一本取られたな」
俺は冗談めかして笑った。
そこから先、俺はようやく香奈と昔のように自然な感じで話すことができるようになった。あれからどうしていたのか、仕事はうまくやっているのか、最近何か変わったことはあったのか、などだ。だが、時間とは残酷なもので、気にしていないとあっという間に過ぎてしまう。ふと気づいて時計を見ると、もう午後3時を指そうとしている。聞こうとしていたことなど頭の片隅にもなく、結局半分も聞くことはできなかった。時間が経つのは早いものだとこの時ばかりは心から思ってしまった。
「そうだ、もう時間もないし、もう一つだけ聞きたいことがあるんだ」
だが、俺にはまだどうしても聞いておきたいことが残っていた。これだけは今この場で聞いておきたい、そんな質問が一つだけあった。だが、それにはとても覚悟が必要だった。その質問をすることは俺にとってとても重要なことであり、その理由によっては今まで生きてきたすべてが崩れてしまう、そんな気もしたからだ。だが、ここで質問できなくてはわざわざ元カノカフェに来た意味がなくなってしまう。そう思った俺は慎重に口を開いたのだった。
「……何?」
彼女は訝しむように聞き返す。
「……俺のどこが嫌いだった?」
俺は勇気を出してこう聞いた。もしもう一度、彼女に会うことが、そして聞くことができたら、俺はこの質問を彼女にしようと思っていたのだった。もちろん機会があるはずないと半ば諦めかけてはいたのだが。彼女は少し考え、答えた。
「……嫌いな所なんて、なかったよ。ただの一つも」
返ってきたのはそんな意外な答えだった。俺は困惑する。
「じゃあ、どうして別れようなんて……」
彼女は少し迷ったように言葉を絞り出した。
「あたしはあなたに釣り合ってない、あたしがそう感じてしまったから、かな」
彼女は隠していた本心をそこからぽつりぽつりと語り始めた。
「あなたは私と違って社交的で、いろんなサークルに顔も出して、友達もたくさんいた。でもあたしは自分の趣味だった音楽サークルにだけ参加してたし、そのサークルにもそんなに参加してなかった。たまたま行こう、そう思ってあの飲み会に参加したの」
そう言われてみると俺はあんまりサークルで香奈の顔を見たことがなかった。出会ったきっかけもあの飲み会が初めてだったし、その飲み会の後、俺はサークルで香奈を見かけたことはなかった。
「そんな飲み会でね、好きになったのが裕紀だった。裕紀はあたしにないものをたくさん持ってて、何だか輝いてるように見えたから。そんなあなたが初めて会ったあの時、あたしに興味を持ってくれたことが何よりうれしかった」
心なしか彼女の表情は少し明るそうに見えた。
「それから裕紀に告白された時は夢みたいだった。こんな日々がずっと続けばいいなって思ってた。それから別れる直前まで、あなたがあたしにいろいろしてくれたことは本当に感謝してるし、今でも昨日のことのように思い出せるわ」
そこで一区切り置いた彼女は、再び沈痛な面持ちに戻った。
「でもね、あたし、ふと思ったの。そんなあなたとあたし、本当に対等な立場でいていいのかって。あたしにはあなたと比べて足りないものが多すぎる。あたしには、あなたの彼女で居続けられる資格なんてないんじゃないかって。だから、あの時あたしはあなたに別れを切り出したの」
これがもし彼女の本心だったとしたら、俺はなぜあの時あんなにあっさりと別れたいといった彼女の言葉を受け入れてしまったのだろう。彼女はそういえば別れたい、といった時に他の理由を一切言わなかった。俺は俺であまりのショックにそんなことを聞く余裕なんてなかったし、彼女を説得しようとすることで精一杯で、彼女の気持ちなんてまるで考えようとしていなかった。
「……なあ、俺って香奈から見てそんなに完璧な人間に見えたか?」
そこまで考えた俺は黙っていられなくなって口を開いた。
「うん。あたしよりずっと、裕紀はすごい人間に見えたよ。あなたは、あたしにとってまぶしくて、手が届かないように見えたから」
その眼差しに嘘はなかった。それを見た俺も覚悟を決める。香奈の描いていた虚像を粉々に壊すために。
「香奈は俺を買いかぶりすぎだよ。俺はそんなできた人間じゃない。いろんなサークルにいたのは友達を増やさないと一人じゃ何もできないからだし、何より飽きっぽかったからな。音楽サークルだって惰性で続けてただけで、もう本当はとうの昔に飽きてたし。俺は昔から多趣味だったけど、それは同時に一つの事をずっと続けられなかった裏返しなんだよ。でも香奈、お前は一つのことに打ち込めるすごい集中力を持ってるじゃないか。それは俺にはない長所だし、何より尊敬できる点だよ」
そして俺は一呼吸おいて、こう続けた。
「俺にないものを持ってる香奈のことを俺は心から尊敬してたし、俺の中でお前を好きだって気持ちだけはずっと続いてた。だから、お前から別れを切り出された時はずいぶんショックだったし、それからしばらくは何もする気分になれなかった」
「本当に? 裕紀、あたしのことそんな風に思ってくれてたの?」
「ああ。だって、そうじゃなかったら香奈のことを吹っ切るために有給使ってまでこんなところに来ようなんて考えないし、何より香奈のこと、すぐに忘れられてたはずだから」
「そっか。そうだったんだ」
彼女は俺のその言葉に涙を流しながら、そう言った。しばらく泣いた後、彼女は備え付けのティッシュで涙を拭いた。
「おいおい、せっかくのかわいい化粧が台無しだぜ?」
俺は彼女の顔を見てそう言う。アイラインやらファンデーションやらがぐしゃぐしゃに崩れていた。
「バカ、泣かせたのはどっちよ」
そう返した香奈の顔から陰りが消えていた。そして、見えはしなかったけど、おそらく俺の顔からも同様のことが起きていただろう。互いに言いたかったことが言えてすっきりしたのかもしれない。
「何だかあたしたち、お互いにすれ違ってたんだね」
「ああ、みたいだな」
俺たちは互いに顔を見合わせて笑った。
「あ、じゃあさっき裕紀のお願い聞いたから、今度はあたしのお願いも聞いて?」
香奈は俺の腕をギュッとつかんでそうおねだりしてきた。もうこの部屋に入ってきたばかりの頃の微妙な距離感など、そこにはなかった。
「いいけど、何のお願いだ?」
「それはね……」
そして、店側の指定した会計の時間となった。俺と香奈は立ち上がった。香奈は俺が入るときに開けたドアを開けた
「部屋を出るまで送っていくのがこのお店のシステムなの」
香奈が部屋を出るときにそう説明する。
「会計はどうするんだ?」
「会計はね、ほらそこ」
部屋を出るとカウンターが見える。そしてそこには先ほどと寸分違わぬ様子でオーナーが立っていた。香奈は廊下で俺を見守っている。フロントには出てこられないルールなのだそうだ。もっとも、そこまで元カノがしてしまっては店としても問題が起きたときに対処しずらいのでこの仕様は正解だと言えるかもしれない。
「そのご様子だとどうやら素晴らしい時間を過ごせたようですね」
「ええ、おかげさまで」
俺は再びオーナーの前に立つと、伝票を手渡した。
「それは何よりでございます。それでは、お会計になります」
俺は提示された額を見て財布からお札を取り出す。
「確かにちょうど、お預かりいたしました」
その直後、入り口のドアが開いた。不思議な店だ、と俺は改めて思う。
「またのご来店、心よりお待ちしております」
そう言った店主の声がわずかに聞こえた。
「オーナー、話があります」
裕紀が出て行ったあと、香奈はそうオーナーに切り出した。
「……分かっています。あなたにはもう、このお店は必要ではないのですね」
「はい」
香奈はまっすぐな目でオーナーを見た。
「働き始めた頃とはずいぶん目が変わりましたね。今のあなたは自信に満ち溢れているようだ」
そう言ってオーナーは先ほど裕紀の払ったお金をそのまま香奈に手渡した。
「いいんですかこんなに……?」
「あなたはこの数か月間、自分に自信を持ちたいと言って一生懸命働いてくれましたからね。これは私からのささやかなプレゼントです」
「今まで……ありがとうございました!」
香奈は深く頭を下げた。
「いいんですよ、ここは心の傷を癒すことが目的の施設ですからね。男性が自分の過去を吹っ切りたいように、女性だって昔の記憶を忘れたいとは思うでしょう。でも、今の日本にはそのような手段はほとんどない。だから私は男性でも女性でも、そんな忘れたい思い出を過去の笑い話にできるように、この元カノカフェを立ち上げたんですよ。もっとも、ここに来ると傷がえぐられる、と言った人もいるから需要ばかりとは言えないのが厳しいところですけどね」
その直後、入り口が再び開いた。
「それでは香奈様、ここで培ったあなたの経験で、あなたの人生がこれからより良きものになりますよう、心から願っております。細かい手続きは、月末に行いますので、またお越しくださいませ」
オーナーは深々と香奈に向かって頭を下げた。
その数日後、
「久しぶり、だな」
「……うん」
俺は初めて彼女とデートした公園で、香奈と待ち合わせをしていた。こないだ、あの元カノカフェで香奈にされたお願いを叶えるために。香奈がしてきたお願い、それはこのようなものだった。
「また、あたしと付き合ってくれないかな?」
「え……?」
別れたトラウマを振り切ろうと思って店に来た俺に、香奈はこう言ったのだ。
「自分勝手だっていうのは分かってる。あたしが元々別れたいって言ったんだし。でも、私の勘違いで別れて、しかもこんなところで裕紀とあたし、偶然出会えた。何て言うか、上手く言えないけど、これって何かの巡り会わせのような気がするの」
それは俺も薄々感じてはいた。そもそもこんなところで会うこと自体、普通ならありえないことだったのだ。だが、俺と香奈はこうしてここで再び出会うことができた。それこそ、まさに運命とでも言うべきものによって。
「俺も、そう思う」
うまく言葉が出てこなかったので、それだけ言葉をひねり出す。
「だから、もう一回最初からやり直したいの。裕紀との人生を」
香奈の目に前のような自信の無さはもうなかった。俺は頷いた。
「ね、裕紀?」
「ん、どうした?」
すると、香奈は俺の目の前に顔を近づけてきて、目を閉じた。
「これから、またよろしくね」
彼女と始める人生が、またすれ違ってしまうかもしれない。でも、今の俺にはそれすらもどうにかしてしまえるほどの自信がある。だって、あんなドラマみたいな偶然で、俺たちはもう一度、ヨリを戻すことができたのだから。
「ああ」
俺たちの間にもう、多くの言葉は必要ない。俺も目を閉じ、そのまま彼女の唇に触れた。その感触は、どこまでも温かく、そして柔らかかった。
久しぶりの投稿は恋愛ものにしてみました。あんまり自分にこういう経験がないのでうまく書けた自信はありませんが、読んで下さると嬉しいです! また、良ければ感想等お願いします!