チャプター 08:父と母
これと言った解決策を思いつかなかった菜々は、気分転換の為に現実世界へと戻ってい
た。もっとも、本人もこの程度で攻略できる相手だと考えていなかった為、ある種の諦め
が心にゆとりを生んでいた。
部屋を出て階段を下りて行くと、リビングには人の気配があった。
「千代、ここじゃ、その、まずいよ」
「カカカ……歴は恥ずかしがり屋だな。別に――」
言いかけた所で、座る歴に馬乗りで抱きついていた、銀髪の女と菜々の視線が交わった。
ここで気まずそうに視線を落とせば可愛げがあると言うものだが、女は菜々を見たままだ
らしなくにやけた。
「菜々、ただいま。歴なら取り込み中だぞ? あたしもな」
「おかえり。それは、見ればわかるよ。お熱い事で」
未だ歴と抱き合う銀髪の女が、菜々の母親、霧海千代。菜々へ更に色気が添加されたよ
うな容姿で、とても四十代とは思えない若さだった。
「ほら、千代。菜々が見てるよ」
言いつつも、歴の腕は千代を放さなかった。抱かれる千代も、それが当たり前のように
身体を預けている。結婚二十年にもなる夫婦とは思えない仲の良さだ。
「全くよ。よく飽きないもんだな」
呆れ顔で両親を眺める菜々の瞳に、一瞬、憂いが映り込んでいた。さりげなく娘を見て
いた歴が、腕を解いて千代へアイコンタクトを取る。
「紅茶を淹れてくるよ。菜々は要る?」
歴の言葉に、途端に機嫌を損ねる千代。
「なんだよ。あたしには聞かないのか?」
「千代の分はもう入ってるよ」
歴の笑顔に、千代の表情は緩み切っていた。菜々の聞いた噂では、千代は何でもテキパ
キとこなす職場の要で、部下からは女王様のように扱われているとの事だ。菜々の母親だ
けあり、黙っていれば息を呑むほど美しい。一体誰が、千代のこのような姿を想像できる
だろう、と菜々は思った。
苦笑しながらも、頷きながら台所に入ってゆく歴。リビングには、立ったままの菜々と、
ソファに掛ける千代が残された。
目を閉じて何かを考えていたらしい千代だが、薄く開かれた双眸に、菜々の顔が映る。
「それで? 何か悩み事か?」
母親の対面に座ろうとしていた菜々の動きが一瞬止まる。隠し事が得意なタイプではな
かったが、千代の勘も人並み外れて鋭かった。隠さなければならない事でもない為、菜々
は母の正面に座り、背もたれへ身体を預ける。
「ははは……お袋には敵わないな」
空笑いと共に自分の頭を掻きながら、目を閉じて自分の頭を整理する菜々。それが判っ
ているのか、千代も黙って言葉を待つ。
一通り思考の終了した菜々の目が開き、母へと向けられる。
「いや、悩み事って程の事じゃないんだが。学校の部活でさ。FPSをやってる所がある
んだ」
菜々の会話が止まったところで、千代がゆっくりと口を開く。
「FPSって、あんたがやってるスポーツだったよな?」
「そう」
FPSとは、一人称視点の対人射撃競技を指した言葉だ。現代における電子競技として
唯一の種目でもある。
わかってくれている母親に満足しつつ、続ける菜々。
「そこの部長が、凄く強くてさ。接近戦に特化してるんだけど、立ち回りが上手くて……
今日は久しぶりに負けた」
「へえ…………」
相槌を打ちつつ、菜々を見つめる千代。その表情は、どこか嬉しそうだった。
「強敵なんて、願ってもない。欲しいと思っても簡単に得られるものじゃないだろう。盗
める技術も多い。それは凄く幸運な事だぞ。菜々もずっと欲しかったんじゃないのか?」
菜々は更に驚いた。まるで、自分の気持ちがすべて読み取られているかのような錯覚を
覚える。千代の勘も、ここまで来てしまうと人間離れしているな、と菜々は思った。
「本当にさ。良くわかるもんだな。その通りだよ。ただ」
張りのある菜々の声が萎んだ。
「倒し方が思い描けない。今日の今日で解決できるとは思ってない。だけど、大まかな攻
略法は見えても、具体的なヴィジョンが見えない。それをこれから考える所なんだよ。だ
から、まだ悩んでいる状態じゃない、かな」
自己完結した菜々に、千代は満足げに頷いた。
「そうかそうか。早速大学生活を楽しんでるようだな。沢山悩んで、いろいろ試してみれ
ばいい」
目を閉じたまま、菜々の返事に頷く千代。
会話がなくなり、暫く、歴が紅茶を準備する音がリビングに響いた。菜々と千代は全く
同じ姿勢で、天井を仰いでぼんやりと何かを考えている様子だった。ふと、千代の頭が起
き上がり、菜々の顔へと目を向ける。視線に気がついたのか、天井を眺めながら、部長攻
略の作戦を考えていた菜々が母へと視線を返す。
「ところでだが、その部長さんは銃器を使わないのか? あのスポーツは確か、火器をメ
インにしたものだった覚えがあるんだが」
菜々は、千代の問いかけに無言で頷いた。
「普通はそうだね。部長も確か、サブマシンガンを携行していた。一撃でやられちまった
から火器の練度は測りかねるけど、格闘戦の能力は相当なものだった」
「…………接近戦なら、瑞希ちゃんだって結構なものだろう?」
千代に視線を返しながら一度頷いた菜々は、顎先へと手の甲を当て、部長の動きを思い
出していた。菜々が見たのは本当に一瞬だけだったが、半歩の距離であっても気配が希薄
な隠密能力に加え、無駄のないナイフ捌き。
「あれは……瑞希でもかなり苦しい戦いになるだろうな。五分五分の勝負になるかもしれ
ない」
「ほう」
菜々の意見を聞きながら、何かを思案するように視線を落とし、自分の左手の甲を撫で
る千代。だが、途端に噴き出し、菜々を見た。
「フッ…………なんだよ、あんたに勝ち目ないじゃないか。確か菜々、スナイパーだった
よな? そこまで接近された時点で負けだろう」
母の一言に、菜々は口を尖らせ、眉をひそめる。
「そうなんだよ。だから困ってるんだ」
再度黙り込み、真剣に考えをめぐらせる菜々だが、考えようとすればする程、堂々巡り
になるジレンマに苛まれる。
「あんたも結構なもんだと思ってたんだけどな。やっぱり上には上が居るか」
悩む菜々を他所に、本音を口にする千代。
「凄い子なんだな。そういえば、名前は?」
「畝火、唯。だったかな」
菜々が名前を口にすると、それを聞いた千代が眉を跳ね上げた。
「畝火、畝火とはな。カカカ……やっぱりアンタには、少し苦しい相手かもしれないな」
菜々は、千代の反応に納得しない様子だった。
「お袋、何が可笑しいんだよ?」
鼻を鳴らし、目を薄めた千代が菜々を見る。
「菜々、"エイコ"、って名前、聞いた事あるか?」
千代の発言に、菜々は驚きを隠せない。とても母親の口から出てくるとは思わなかった
名詞だからだ。
「一応、知ってる。侵略者戦争の地上部隊を指揮してたスナイパーだろ? 信じられない
ような伝説をいくつも残してるって言う」
「そう」
千代の肯定に、菜々は鼻を鳴らして笑う。
「まさか、お袋の口からそんな名前が出てくるなんてな。あんな、実在するかもわからな
いような人間の名前が。でも、どうしてその名前を?」
「いいや、何でもないよ。ふと思い出しただけだ」
千代の不可解な言動に、菜々は首を傾げた。
「しかし、それだけの格闘センスがあるなら。あんたにとっては最高の、いや、最悪のラ
イバルだな」
千代が顔面に貼り付けた意地の悪い笑みに、菜々は顔を顰める。
「けっ。最悪だろうが何だろうが、やっつけてやろうじゃないかよ」
「結構結構」
母に軽くあしらわれた事で、鎮火していた菜々の闘志に火がついた。こうした点は、娘
の性格を熟知した千代ならではの焚きつけ方と言えるだろう。
会話が途切れた所で、頃合いを見計らったかのように紅茶を運んできた歴。お盆の上に
は、ティーカップが三つと、お茶請けのビスケットが数枚乗せられていた。テーブルに置
く前に、お盆の上からビスケットを一枚取り、大胆に口へねじ込む千代。菜々の性格は、
彼女の影響を受けている事がよくわかる。
「千代、お行儀が悪いよ」
「なあ、歴」
歴の注意をまるで聞かず、お盆を降ろした歴の身体へ、両腕を絡める千代。耳へと口を
近づけ、何かを囁く。娘が居る手前、まだまだ羞恥心の大きいのか、千代を遠ざけようと
手を伸ばす歴。
しかし菜々の方は、既に苛立ちが限界まで迫っていた。思わず漏れる舌打ち。それが、
正面の二人に聞こえない筈がなかった。
「ふふ、わかった、わかったよ。歴、部屋に行こうか」
「ちょ、ちょっと千代!」
千代に手を引かれ、夫婦は寝室へと入っていった。
ようやく静かになったリビングには、菜々と、ビスケットと、湯気の立ち上る紅茶だけ
が取り残された。




