チャプター 05:ゴースト
本日二度目のブリーフィングルームで、菜々は迷っていた。モニターからの青白い光に
照らされた瞳に、強いハイライトが入る。
今回選択され、正面に表示されているマップは雨の降るダウンタウンだった。通常通り
の装備で戦うのか、もしくは汎用性の高い突撃銃にするのか決めかねていた菜々の指が、
装備選択のボタンの間を彷徨う。
「いや…………やめよう」
二つの項目を行き来していた指が、ぴたりと止まる。押下され、菜々のアバターに装着
されたのは、いつもの狙撃銃ではなく、瑞希が身に着けていたような迷彩服と、同じく迷
彩柄の突撃銃だった。狙撃を最も得意とする菜々だが、ミドルレンジやクロスレンジの戦
闘も人並以上にこなせるよう訓練している。射程では狙撃銃の運用も充分選択肢に入るが、
光量が少なく、遮蔽物も多いこの戦場では、最低限の性能を発揮できないと考えての事だ
った。相手の戦闘スタイルが全くわからない事。そして何より、相棒である瑞希の不在が
大きい。狙撃銃の運用は瑞希の存在が前提となっている為だ。
時限信管の破片手榴弾と予備のマガジンを確認した菜々は、マップへ移動する為にテレ
ポーターへと入って行った。
青い光を抜けた瞬間、菜々の頬を大粒の雨粒が打った。
曇天の空から、激しい雨が降り注ぐダウンタウン。菜々の立つ場所は背の高い草が茂る
泥地で、足元の水溜りがせわしなく水しぶきを立て、菜々のブーツへ泥水を浴びせかける。
試合開始まで三十秒を切った時点で、菜々の準備は完全に完了していた。話相手もなく、
彼女は頭の中でもう一度マップの整理を始める。
左手に望む倉庫と、正面のバラック小屋。そして、右手に立ち並ぶ密集住宅の屋上。真
っ先に、そして最も警戒しなければならないポイントはこの三つ。身のこなしから、部長
が狙撃手である可能性が高いと考えた菜々は、間違いなくこれらの何処かに潜んでいると
読んだ。他の装備を扱えるとは言え、菜々が最も扱いなれているのは狙撃銃だ。必然的に
その運用方法や弱点まで熟知していた彼女は、相手の射線に入らないルートを数箇所イメ
ージする。
マップ全体を網羅できるルートを十分に描いた所で、カウントがゼロになり、試合が開
始される。
足元の光が消えた瞬間、素早く身を屈め雑草へと溶け込む。敵の試合開始地点はかなり
の距離が置かれているが、正面のバラック小屋は敵方の開始地点から非常に近く、また戦
場の多くを見渡す事ができるポイントで、暢気に泥地の中を歩いて行けば格好の的である。
視界が悪いステージで頻繁に利用される熱探知スコープの存在も無視できない為、自分の
身体を可能な限り隠す必要があった。
部長が通常の前衛タイプだった場合、反時計回りに索敵していると考えた菜々は、時計
回りでマップの端を舐めるように進んで行く。多くのプレイヤーは右利きで、小銃も概ね
右手で握り、銃床も右肩で構える。差は少ないとは言え、右手側の死角が大きくなる事を
利用しての戦法だ。通過せざるを得ない狙撃警戒区域も、草や遮蔽物を利用して進んで行
く。
足は泥だらけで、顔を伝う水滴に鬱陶しさを感じながらも、神経を研ぎ澄まし、視覚だ
けでなく、聴覚をも総動員して辺りを警戒する。時折後方の確認も忘れない。前方ばかり
に気を取られ、バックアタックを喰らうと言う苦い経験もあった彼女は、死角からの攻撃
を何より警戒した。
試合開始から早十五分。小さくはなくとも、それほど大きなマップでもない。怪しい箇
所をほぼ全て確認した菜々は、部長が狙撃手である可能性が低いと考えた。残るはライフ
ルマンか、近接戦闘重視の短機関銃、又は散弾銃装備。前者であれ、後者であれ、全方位
を警戒しなければならない事に変わりはない。
舌打ちしたい衝動を抑えながら、更に索敵を続ける。曲がり角での待ち伏せを想定し、
ライフルの先端に取り付けた小さな鏡で先を透かし、慎重に慎重を期す菜々。
ふと、背中に強い不快感を感じ、咄嗟に振り向く。しかし、そこには誰も居ない。少な
くとも菜々には、誰も居ないように見えていた。もう一度前方へ向き直り、低確率でも潜
んでいる可能性のある場所を入念に調べる。
進む毎に、背中に纏わり付いた嫌悪感は大きくなっていった。振り向く頻度も増え、集
中力が徐々に欠けて行く事が、本人にも判る程だ。菜々は、瑞希の不在による立ち回りの
難しさを改めて痛感する。
それでも尚、前へ進んで行けるのが、霧海菜々という女だ。勝ちに対する拘りは、誰よ
りも強かった。
ふと、下を向くと、自分のブーツとは違う足跡を発見する。その瞬間、大チャンスだと
喜ぶも、冷静に観察したその足跡には、見覚えがあった。蹄鉄を入れ子にしたような形の
独特な足跡は、敵が歩行音を消す特殊装備を身に着けている事を表している。
「マズイ、これは――」
SCARを構えたまま振り向いた瞬間、菜々の鼻先から束の間程の距離に部長の顔。突
き飛ばそうと左手を部長の胸に押し当てた瞬間、胸元に強烈な痛みを感じた。
呼吸すらできない状態で眼球を下方へと向けると、大型のアーミーナイフが自分の鳩尾
に沈み込んでいる。
叫ぶ間すら与えられず、菜々の意識は現実へと弾き返された。