チャプター 23:欠片
「あの……本当に撃っても大丈夫なんですか?」
二脚を立て、狙撃銃を構える菜々は、後方に立つ英子に顔を向けた。
「えっ? 大丈夫よ? どうして?」
「いや……」
菜々は怖気づいていた。無鉄砲でFPS以外に興味のない菜々だが、銃刀法という法律
がある事ぐらいは知っている。さも当たり前のように撃たせようとしている英子に、流石
の菜々もたじろぐ。
菜々の気を知ってか、小さな声で笑ったかと思うと、腕を組む英子。
「どうという事はないわ。ここは昔、高速道路用に使われていたトンネルなの。両端の出
入り口は崩れて出入りできないし、この場所へ出入りできるのは私達だけよ。誰にも知ら
れなければ、捕まる事もないんだから」
「そういう、問題なんですか?」
発砲を渋る菜々に、英子はいやらしい笑みを浮かべた。それは、千代がいたずらを思い
ついた時の顔。だが、同じ姉妹でも英子の笑みは、不思議と下品ではなかった。
「なあに? ここまで来ておいて、やめちゃうの? 意外に弱いのね」
その一言に、菜々の目が殺気を取り戻す。しかしそれには、先ほどまでの見下した感情
は欠片も混ざっていない。菜々の視線は純粋な闘争心だけで構成されていた。
「弱いと自覚しているからここに来ているんです。撃ちますよ」
言い終わるや、右目を照準器に滑り込ませターゲットを睨む。
「ふう…………」
大きく吸い込んだ息を、静かに、ゆっくりと吐き出す。いつも通り、狙撃へ入る為のル
ーティンを処理してゆく菜々。
そして、マンターゲットの急所に狙いがついた瞬間に、狙撃銃のトリガーを引き絞る。
「――――ぐうっ…………?!」
実際に動作する機関は菜々の顔面から三十センチも離れていない。爆裂する装薬に、思
わず強張る。そしてそれによって引き起こされたほんの僅かな照準のズレが、五百メート
ル先では大きな誤差となって現れる。弾丸は、ターゲットを大きく逸れて着弾した。
後方から近づいた英子が、悔しがる菜々の肩に、そっと手を置いた。その間に、菜々の
右手が僅かに反応する。そして、菜々が起こした一連の動作を、ケビンは興味深げに観察
していた。
「大丈夫。一番最初は誰だって上手くいかないわ。落ち着いて、いつも通りに撃てばいい
のよ」
「…………わかりました」
もう一度深呼吸し、意識を照準器の中へ集中させる菜々。ゆらめく照準が標的を捉えた
瞬間、同じようにトリガーを引き絞る。アバターで感じるよりも大きな音が出るとわかっ
ている分、二発目の弾丸は無事にターゲットへ着弾する。一撃必殺の部位ではないものの、
命中した事は射手である菜々へ大きな自信を与えた。
更に狙いを定め、三射、四射と続けざまに発砲する。六発目には、遂に致命傷を与える
箇所へ命中する。着弾を確認した瞬間、菜々は無意識に笑っていた。
そして、七発目を発砲しようとした瞬間、後方に座るケビンが鉄のスプーンを大きな缶
詰に打ち付けた。金属が打ち合う事で、当たり前のように音を発し、それに反応した菜々
の右手が素早くグリップを離し、臀部にぶら提げられているであろうホルスターへと手を
伸ばす。しかし、当然の事ながらそこに拳銃は無い。
一連の動作を見ていたケビンは、腕を組みにやけた。そして、ケビンの起こした行動の
意図を読み取ってか、同じように腕を組み、にやけながら菜々を見る英子。
「クク…………そういうこと、だな」
「フフッ…………なるほどね」
一体何を納得しているのか、菜々は眉をひそめる。本人にしてみれば、当たり前の反射
動作だったからだ。
「あー……菜々。君が何故、上手く撃てないのかわかったよ」
ケビンの一言に、菜々の興奮は最高潮に達した。いくら訓練してもわからなかった自分
の弱点を、いとも簡単に見つけてくれたケビンへと歩み寄る菜々。
「……教えてください! 一体何がいけないんですか?」
唸るような声で迫る菜々だが、ケビンは含み笑いを続けた。
「まあ、そんなに慌てるな。今しがた珈琲ができたところだ。先ずはこいつを楽しもうじ
ゃないか。なあ?」
言い終わるや、早速テーブルに置かれたマグカップを持つと口先へ持ち上げ、立ち上る
湯気を吸い込む。そして英子も、対面へと腰掛け、同じように白いマグカップを引き寄せ
た。そして、最後に残ったもう一つのカップを菜々へと押し出す。
「はい。貴女もどうぞ?」
難しい表情のままケビンを睨み、呼びかけても座ろうとしない菜々に、英子は苦笑した。
「貴女がいくら急かしても、ケビンは教えてくれないわ。本当にマイペースなんだから。
だけど」
英子は手元のカップから珈琲を一口すすり、感嘆のため息を漏らした後、再度菜々へ視
線を戻す。
「何事にも、一番いいテンポを知ってる。私もそれに倣ってるのよ。それに、原因を知っ
ても、直ぐにどうにかできる事でもないの。先ずは、座って?」
「…………わかりました」
ようやく腰掛け、珈琲を手にした菜々は、その匂いに思わず顔をしかめた。彼女の家に
は珈琲を飲む習慣が無く、嗅ぎ慣れない所が大きい。珈琲や紅茶といった嗜好品は非常に
高価で、庶民は口にする機会が殆ど無い。そういった意味では、日常的に紅茶を嗜む菜々
は、裕福な家庭に生まれたと言える。
菜々の反応に、ケビンは可笑しそうに頷いた。
「…………ああそうか。あいつは、珈琲を飲まないからな。だが、一度ぐらいは試してみ
たらどうだ? 気に入るかもしれないぞ?」
「はい…………いただきます」
恐る恐る口にすると、香りとは裏腹に、苦味は優しく、気がつけば、英子と同じように
吐息を漏らしていた。不思議と、今までピンと張り続けていた気持ちがゆっくりと緩んで
ゆく。
いつの間にか用意されていた大判のクッキーを齧り、再度珈琲をすすったケビンが菜々
を見る。
「結論から言えば、君に弱点は無い」
「な…………それならどうして――」
「まあ聞け。俺も最初は不思議だったんだ。菜々は年齢不相応の、それこそびっくりする
くらい訓練を積んだ兵士に見えた。だが、実際はそうではなかった。実際の狙撃能力は、
俺達の基準で言えば及第点に届いていないんだ。それが、とても不思議でね。一体何が原
因なのか、俺は菜々をよく観察したんだ。そしてわかった」
息継ぎをするかのように、手元の珈琲を口へ運ぶ。喉が音を立て、嚥下が完了したケビ
ンは、手に持つ、食べかけのクッキーへ視線を落とした。
「菜々は、バランスが取れすぎているんだ。だから、いろいろな要素に邪魔されてしまっ
ている」
後に続くであろう台詞にそなえ、菜々は一語一句聞き漏らさないよう、耳をすました。
真剣な視線が、ケビンへ向かう。
「戦場では、あらゆる状況が発生するだろう? 前方に多くの敵が並んでいるかもしれな
いし、未だ見えない相手を索敵する事もある。もしかしたら、側方、または後方から撃た
れるかもしれない。刃物を構えた敵が、背後に迫っているかもしれない。更には地上どこ
ろか、空からの砲撃、爆撃までも」
食べかけとはいえ、多く残るクッキーを頬張り、バリバリと音を立てるケビン。更にも
う一枚摘むと、それを菜々へ差し出した。どういう相手かようやくわかってきた菜々は、
それを素直に受け取り、もう一度話相手を見た。
素直になった事に満足したのか、ケビンは笑みを増し、口を開く。
「だが、人は一度に多くの事ができない。二つ以上の事を行えば効率が落ちるし、そもそ
も同時にできない奴だって居る。だが、君は違う。前方の索敵や狙撃、後方への警戒を同
時にこなしてしまう。通常ならば、とてもできないような事をいっぺんにやってしまって
いるんだ。これは才能かもしれないし、努力の結果かもしれない。できてしまうが故に、
一つの事に集中できないんだ。多分、菜々は物事を処理できる無意識の容量みたいなもの
が、普通の倍以上あるんだろう。だから、もしも君が狙撃だけに全ての力を注げたなら…
………とても面白い事になる。きっとね」
精々数秒、たかだか数発の狙撃でそこまで見抜いたケビンに、菜々は驚愕した。それは、
観察力が高いと評価する瑞希にすら、一度も言われなかった事だからだ。
「これは心の問題だ、菜々。君は十分な技術を持っている。身体のバランスも良いし、射
撃姿勢も、とても綺麗だ。あとは今まで身につけたものをどう使うか。だが」
前のめりになる菜々を他所に、喉を潤すかのように珈琲をゴクリと飲むケビン。大きく
息を吸った後、カップを下ろす。
「心ほど不確かで、目に見えず、客観的にも主観的にも評価しづらいものは無い。大陸に
棲む精霊たちは違うらしいが…………それは、まあいい。俺達、人は、心を鍛える確かな
術を未だ持たないでいる。ならば、どうすればいい? 英子?」
突然話を振られた英子は、驚きもせず、湯気の消えかけている珈琲を飲む。そして、不
敵な笑みで質問に答えた。
「諦める」
その一言の真意が読めず、菜々は眉をひそめた。
「これは私の場合、なんだけれど。狙撃銃というのは、とても繊細なものだと思うのよ。
だから、本当の本当に集中しなければならない。それこそ、周りに居る仲間の命も、果て
は、自分自身の命さえも諦め、全ての意識を照準器の中に閉じ込めるの。あの頃の私は、
そうするしかなかったから」
椅子から立ち上がった英子は、狙撃のレーンへと足を運ぶ。そして、つられて立ち上が
った菜々を見た。
「こっちへいらっしゃい、菜々ちゃん。自分の命すら諦められたなら…………きっと貴女
の欲しいものは手に入るから」
「…………はい!」
菜々は足早にレーンへ近づいた。二脚を開いたまま置かれたM21を握り、精神を集中
させる。そして、静かにトリガーを引いた。
バレルが火を噴き、飛び出した弾丸はターゲットの右肩を打ち抜いた。
「ふう…………ふう…………」
更に集中する為、いつもより多く深呼吸を行う。そして再度トリガーを引き絞る。だが
着弾したのは、ターゲットの下腹部だった。
英子は一歩近づき、菜々の左肩にそっと手をかける。その瞬間、菜々は右手が反応して
しまう。
「貴女の今の状態はとてもいい。けれど、本当にもう少しだけ、あとほんの少しだけなの。
そうね…………」
何かを思案しているらしい身振りの英子が、ふと、自分の背中を菜々に密着させる。
「菜々ちゃんが一番好きな子が、一番信頼する戦友が背中を護ってくれている。そう思っ
て撃ってみて? 上手く行くかもしれないわ」
菜々は英子に言われるままに、背後に瑞希がいる状況を想像した。いつもなら前方で敵
と戦っている戦友が、自分の背中を護ってくれている。思考がぼやけ、照準器の十字が、
ひどく緩やかにゆらめいて見えた。更には、菜々の視力では見えない筈の、投影されてい
るターゲットのドットすら手に取るようにわかる感覚。身体が心に邪魔されない状態。無
心状態になった事で、菜々の持つ全てのものが理想的な状態へ変わって行く。
今の自分なら、標的の額を狙って撃ち抜ける気がした。
そして静かに狙いを定め、同じように、菜々の指はゆっくりと、トリガーを引いた。
銃口から飛び出した弾丸は、コンマ七秒も掛からず、スマイルマークの描かれたターゲ
ットの眉間に命中する。イメージした通りの、寸分の狂いすらない着弾だった。
「は……ハハッ…………」
その結果に、撃った本人である菜々が一番驚いた。ひどくシンプルで、あまりに劇的な
変化に思考がついて行かず、空笑いだけが漏れる。
背中を離し、菜々へと顔を近づけた英子が柔らかな笑みを浮かべる。
「その感覚を、忘れないで」
菜々の特別訓練は、大きな収穫をもって終了した。




