チャプター 01:ポイントマンとスナイパー
日本国が突如として異世界に転移して五十年余り。海を隔てた大陸では、ドラゴンやエ
ルフと呼ばれる精霊が住み、今まで架空だと思われていた存在が実在する世界。
だが、それらの存在が大きな脅威となる事は無かった。転移暦元年、精霊族の長である
ドラゴンが和平交渉へ現れ、相互不可侵の条約を結ぶ。
そして、転移暦三十年に始まり、約一年続いた未曾有の戦争を共闘した人類と精霊族は、
その溝も徐々に埋まりつつあった。
白い布団にくるまり、すやすやと寝息を立てる女。名前は菜々(なな)。霧海家
に生まれた唯一の子で、大学生になったばかりの十八歳。黒髪を伸ばし、閉じられた瞼か
らは、人形のようなまつ毛が伸びており、シャープな顔の輪郭も相まって、世間から見れ
ば相当な美人に映るであろう容姿。
幾度か寝返りをうっていた彼女だが、ベッド脇に置かれた目覚まし時計に載せられたハ
ンマーが、これでもかと左右のベルを打ち鳴らし、菜々の睡眠を妨げる。
「うん…………ああ」
ハスキーなうめき声を上げたかと思うと、菜々の両目がゆっくりと開く。ダークブラウ
ンの瞳が見つめるのは、ガタガタと踊る目覚まし時計だった。直ぐに右手が被せられ、裏
のスイッチがオフにされると、大きく息を吸い、身体を起こす菜々。
頭をかきながら、大きく口を開けあくびをする。床へ足をつけると、まだまだ冷たい朝
の冷気がつま先へ凍み込んで来る。ひと震えした後、スリッパを履き部屋の外へ出た。
階段を下って行くと、彼女の嗅ぎ慣れた紅茶の匂いが鼻腔へ入ってきた。リビングから
覗く事ができるキッチンでは、菜々よりも遥かに小柄な金髪の男が、菜箸を片手に朝食の
準備をしていた。
「親父」
菜々が声をかけると、フライパンを下ろし振り向く。菜々の父親であり、霧海家の家長、
歴だった。
「ああ、おはよう。菜々」
小さな顔から溢れんばかりの笑顔を浮かべる歴。大学生になる娘を持つ父親とは思えな
い幼い顔立ちと、二十代と言われても通用する肌。声にしても、ローティーンの少年が囁
いているようにしか聞こえない。あまりにも人間離れした若さ。
二十数年前に流行した突然変異の影響らしい、と言う事ぐらいしか聞かされていなかっ
た菜々は、深く考えるのを止め、生返事を返しつつリビングのテーブルへと腰掛けた。
食卓には、白いレースのテーブルクロスがかけられており、白磁の皿には分厚いベーコ
ンや目玉焼きが乗せられている。
「いただきます」
小さな木製のバスケットの中では、焼きたてのトーストが湯気を上げており、バターを
垂らさないよう手元の皿に移すと、豪快にかぶりついた。
「ふふ…………目が怖いよ、菜々」
憮然とした態度で朝食を摂る娘に、苦笑いを見せならが揚げ物を運ぶ歴。目を閉じて口
を動かしていた菜々は、薄く目を開き、鋭い眼差しを歴へと向ける。
「うるせえ。目つきが悪いのは生まれつきなんだよ」
父親に対する言葉遣いとしては、あまりに乱暴なものだったが、すっかり慣れていたら
しい歴は、揚げ物の乗った皿を食卓へ下ろす。
「菜々は綺麗なんだから。もったいないよ?」
穏やかに返す歴だが、鼻で笑う菜々。
「そういうクサイ台詞はお袋にでも言ってくれよ」
「勿論、千代にも囁いてるさ。毎晩ね」
棘を練りこんだ言葉も、歴にはまるで通用しなかった。ぬかに釘とはこの事だと、肩を
すくめ、朝食の目玉焼きへとフォークを突き刺し黄身を割ると、たっぷりとトーストへ染
み込ませ、口に運ぶ。
黙々と食べる菜々。食器へ伸ばす手を止め、歴の碧眼が菜々へ向けられる。
「何か……嫌な事でもあったの?」
「別に」
一瞬、菜々の手が止まった事を歴は見逃さなかった。
「そっか」
微笑する歴の瞳には憂いが見え隠れしている。しかし、それ以上口を開く事はない。
無言で自分の分を平らげていく菜々だが、ふと何かを思い出したのか、険の取れた両目
が歴へと向けられる。
「……そういえば、お袋は?」
バタートーストを一生懸命に食べていた歴は、口の中を空にすると菜々へ視線を返した。
「千代は朝からお仕事だよ。でも、夕方には帰ってくるって」
残りのトーストやベーコンを口いっぱいに詰め込み、無言で頷く菜々。不機嫌な態度の
菜々だが、眺める歴はどこか嬉しそうだった。
「ごちそうさま」
朝食を食べ終わると、直ぐに席を立ち、自分の部屋へと戻って行く菜々。降りてきた階
段を上り、自室の扉を開ける。
クローゼットの中から取り出したのは、焦げ茶のタートルネックと黒いデニムパンツだ
った。手早く寝巻きを脱ぎ捨て、柔軟剤の香るそれへ袖を通す。部屋の隅に置かれた机に
近寄り、手の平サイズの鏡を立て髪を束ねる菜々。ポニーテイルを結い終わると、桃の香
りがするリップを引き、小さな立て鏡を閉じる。僅か五分ほどで出掛ける準備が完了して
いた。女としては異端と言える身支度の早さだ。
最後に、椅子の背もたれに掛けられたチョコレート色のフライトジャケットを羽織り、
肩掛けの鞄を持って部屋の外へ。
玄関まで歩いたところで、足音を聞きつけた歴が近づいてきた。
「いってらっしゃい」
見る者すべてを幸せにできるであろう天使の笑みに、菜々もつられて笑ってしまう。父
の無邪気さに、菜々の険も解されてしまった。
「いってきます」
愛用のスニーカーへ足を滑り込ませ、玄関のノブに手を掛けた菜々は、無邪気な父に挨
拶を返し、外へ出た。
朝も早いと言うのに、空では太陽がはりきって地上を照らしていた。それでも、四月上
旬の空気は彼のパワーでは温まりきらないようだ。燦々とふりそそぐ太陽光と、雲も殆ど
ない青空。それだけで、少しだけ胸のモヤモヤが取れた気がした。
自宅の門を開けると、そこには小柄な少女が鞄を背負って立っていた。栗色のショート
ヘアで、身長は菜々の肩にも届かない程低く、顔立ちも幼い彼女の容姿は、ピンクのワン
ピースと相まって可愛いと表現するのが最も相応しい。
「おはよう、菜々ちゃん」
「ああ、おはようさん。早いな」
小鳥のような声で菜々へ挨拶する彼女の名は、巌瑞希。菜々の幼馴染で、
最も交流のある親友だった。
歩き出す菜々だが、瑞希は付いてこない。
「あっ……菜々ちゃん、ちょっと待って」
振り向いた菜々の目には、ゴソゴソと肩下げ鞄をかき回し、中から小さな缶を取り出し
た。
「あのね、お母さんが菜々ちゃんに味見して欲しいんだって」
「へえ」
途端に興味のありそうな声を出す菜々。それを見る瑞希の表情は強張っていた。麗人の
見せる邪悪な笑みほど恐ろしいものはないらしい。
紅茶の缶らしい容器の蓋を開け、両手で差し出す瑞希。
「ど、どうぞ」
「いただきます」
菜々はそっと手を入れると、肌色のクッキーを一枚摘み出した。手を持ち上げ、口の前
に持ってきたところで指先が止まる。
「ほう。発酵バターに変えたのか」
瑞希の表情が驚きへ変わり、目が見開かれた。
「た、食べてないのにわかるの?」
「そりゃあ、な。親父が毎日嫌ってほど作ってるからな」
菜々は、二インチはあろう大き目のクッキーを一口で頬張った。左右の頬が膨れ、ボリ
ボリと音が漏れる。喉が鳴り、口が空になると、目を閉じて腕を組む菜々。
「まあ、悪くない。七十点……いや、七十五点かな」
喋りながら歩き出す菜々に、瑞希も続いた。
「そっか……お母さんに伝えておくね」
「おう。しかし、幸子さんセンスいいよな」
鞄を背負い直しながら苦笑いする瑞希だが、菜々の発言に首を傾げる。
「そうなの?」
「ああ。普通の洋菓子専門店の焼き菓子と遜色ないよ」
「へ?」
ただでさえ高い声が、更に高い間の抜けた声へと変わる。両手を胸の前で握り締め、興
奮気味に菜々を見る瑞希。
「そ、それって凄いんじゃない?」
歩きながら、ちらりと瑞希を見る菜々。
「凄いな。焼き菓子作り始めて、まだ何回も作ってないんだろ? それであれだけのもの
ができるんだからな」
「ふふ……お母さん、きっと喜ぶわ」
さも自分の事のように喜ぶ瑞希に、菜々はすっかり毒気を抜かれてしまっていた。父親
を含め、自分の周りには無邪気な天然人間ばかりで、このまま生活していたら同じように
なってしまわないかと本気で心配し始める菜々。
だが、直ぐに前日の事を思い出した菜々は、舌打ちをすると顔をしかめた。会話が途切
れ、黙ったままの菜々が何を考えているのか察したのか、瑞希はうんうん唸りながら何か
思案しはじめる。
暫く無言のまま歩いていた二人だが、遂に怒りが沸点を超えたのか、腹に溜まった蒸気
を吐き出す菜々。
「クソッタレが…………昨日のあいつだよ! あいつ!」
やっぱり、と言わんばかりの苦笑で左を歩く菜々を見上げる瑞希。
「ブツブツ文句だけ垂れやがって! 自分が弱いだけだろうが! おまけに何だ? 挙句
雑魚を何人も連れてきて勝負だ? あたしら二人相手によ。男のプライドってもんはない
のかよ。情けねえ。大体――」
「な、菜々ちゃん。ちょっと落ち着いて」
駅に近づいている事もあり、歩道にはスーツ姿の社会人や、電車通学らしい学生が多く
歩いていた。困惑した表情で菜々の袖を握る瑞希。
「ふん。そうは思わないのか、瑞希? あいつが弁護できるような性格か? 口に見合っ
ただけの腕があるのか?」
「それは、その……あの…………あ、あんまり、良い人ではない、かも……」
弁の立つ方ではない瑞希は、反論する材料がなくしどろもどろになる。
「良い人じゃない、だ?」
言葉を包んだオブラートも菜々には薄すぎたらしく、不快感を三割り増しにした瞳が、
ギロリと瑞希を見下した。
「ひっ……」
駅の改札口が見えてきた所で、八つ当たりに近い態度をとっていると気がついた菜々は、
ばつの悪そうな表情と共に、右手でボリボリと頭をかく。
「わ、わりい。瑞希に言ったってしようが――」
しかし既に遅かった。横を見た菜々の視線の先には、肩を小さく震わせながら泣く瑞希。
「い、いや、その、な? あたしが怒ってるのは瑞希じゃないぞ? お前は何も悪くない。
ああ、えっと――」
冷や汗をたらしながら、身振り手振りで瑞希を宥める菜々。こうした状況はしばしば起
こり、そして菜々は、この状態になってしまった瑞希を慰める、唯一の方法をとらざるを
得なくなった。
「よしよし。もう泣くな」
駅を利用する人間も数多く歩くそこで、瑞希の身体をそっと抱き寄せ、頭を撫でる。公
衆の場では憚られる行為だが、菜々はとびきりの美人で、瑞希は愛くるしさを人の形にし
たような美少女だけに、その様は妙に絵になっていた。とは言っても、幼馴染を抱く菜々
に、羞恥心がないわけではない。辺りからの視線を感じた菜々の顔も、僅かに赤くなる。
気分は完全に、我が子をあやす母親だった。
暫く、黙って頭を撫でられていた瑞希だが、菜々の胸から顔を離し、相手を見上げた。
「……もう、怒ってない?」
「怒ってない、怒ってないから泣くな。ほら、行くぞ」
小さく返事をし、涙で濡れる瞳を自分の鞄から取り出したハンカチでふき取る。菜々に
手を引かれ、半身だけ先を歩く菜々が改札をくぐり、瑞希もそれに続いた。
電車を待っている間、静かにベンチに腰を下ろす二人。瑞希が、親しい相手に対して特
にデリケートな事を知っていた菜々は、無言でそっと手を握った。
「瑞希がそうしたいのはわかるが……もっと怒って良いんだぞ?」
慰められる瑞希は黙って首を振ると、ゆっくりと座り直し菜々を見た。
「もう大切な人に、怖い言葉を浴びせられたり、嫌われたりするのは嫌だもの」
「そうか…………」
菜々は、相槌しか返す事ができない。
プラットホームに電車が入り、開いたドアへと進む二人。平日の朝だけあり、車内は会
社員や学生で一杯になっていた。隙間を見つけた菜々はそこへ瑞希を誘導し、自分が壁と
なって小柄な瑞希を守る。
前に立つ菜々を見上げ、満面の笑みを浮かべる瑞希。
「菜々ちゃんって、やっぱり優しいね」
瑞希を見下ろしていた菜々の視線が右へ流れる。口を尖らせ、本人は照れているのを隠
しているようだ。
菜々の態度にすっかり安心したらしい瑞希は、笑顔のまま鞄の中から手帳を取り出した。
一部の技術はめざましい進歩を見せる現代も、ペーパーツールは現役だ。
数枚めくったそこに書かれた項目を、左から右へ確認して行く瑞希。一通り見終わった
後に、もう一度菜々を見上げる。
「今日は、単位の取得方法と施設の説明だけみたいだから、お昼には帰れると思うわ。午
後からはどうしようかしら。学内の見学でも――」
「いや」
目を逸らしていた菜々だが、会話に割り込み視線を瑞希へと合わせる。不気味な笑いを
浮かべ、眼光は日本刀のように鋭かった。
「挨拶に、行こうじゃないか」