チャプター 18:安堵と不安と
菜々のスペースに設けられたシアタールームで、菜々と創は映画を楽しんでいた。二人
が見ているのは、日本が転移する以前の世界で作られたものだ。物語は既にエピローグで、
画面が暗くなると、音楽と共にスタッフロールが流れ始める。
余談ではあるが、こうした映像コンテンツや音楽は、日本国の保有するデータサーバー
に残っていたものである。それらを、HTMIシステムが仮想世界用に販売している。
「中々、面白かったな」
呟いた創の方へ目を向けた菜々が、満足した表情を見せる。
「創は初めて見たのか?」
目を閉じた創が、無言で二度頷いた。そして、ゆっくりと目を開き、菜々へと視線を送
る。
「仲間を助ける為に敵地に乗り込んで、最後には宿敵すら倒してしまうスーパーヒーロー、
か。憧れるよな。こういうの」
「うん」
エレキギターの激しい音楽を聴きながら、二人は無言でスクリーンを眺めていた。菜々
は時計に目をやり、そろそろ創が帰ってしまう時間だと寂しさを覚える。それに気がつい
たのか、創は菜々の手をそっと握る。
「そんな顔しないでくれよ。明日も明後日も、会えるだろ?」
「ああ…………」
創の困ったような顔に、菜々は苦笑で応え、創の手に自分の手を重ねた。しおらしい菜
々に興奮しているのか、創はそっぽを向きながら目を流す。
そして、暫くぼんやりしていた創が、何かを思い出したかのように菜々を見る。
「…………ああ、そうだ。久しぶりに菜々の狙撃を見せてくれよ。考えてみれば、もう一
年以上見てない、かな? ほら、お兄さんに成果を見せてみなさい」
「ククク……兄貴面しやがって! ……いいよ。あっちに行こうか」
指で扉を指し示しながら、ソファから立ち上がり歩き始める菜々。本心では、調子を崩
している自分の姿は見せたくなかったが、創からのアドバイスが貴重な事もよく知ってい
た。
扉を二枚くぐり射撃場へ入ると、慣れた手つきでワルサーを用意する菜々。
「それじゃあ、いくぞ」
「どうぞ」
訓練用のプログラムを起動し、射撃姿勢に入る。
「…………ふう」
大きく息を吐き、全身をリラックスさせ、菜々はいつものようにトリガーを引いた。
弾丸は次々に吐き出され、青白く光るマンターゲットへ穴を穿つ。
六発目の弾丸がチャンバーに送り込まれた瞬間、手早くマガジンを抜き取ると、左方に
並べられた新しいものを掴み、淀みなく本体へと差し込む。瑞希と同じように、チャンバ
ー内が空になることを避ける為のリロードタイミングだった。これらの動作を、菜々は二
秒足らずで行っている。マガジン位置が特殊なワルサーにしては、驚異的な速度である。
同じように狙撃と再装填を繰り返し、計三十発の弾丸を発射した菜々が、グリップを静
かに下ろし、創を見た。視線を送られた創は目を見開き、口をあんぐりと空けて菜々を見
つめている。
「菜々…………一体何があったんだ。別人みたいに上手くなってるじゃないか!」
「そう、かな」
菜々は、創がお世辞を言わないと知っている。しかし、鹿野に劣っている事実が、菜々
の心に疑いを持たせた。
「うん。本当に上手くなってる。それも、うちの狙撃手といい勝負が出来るレベルだ」
「な……冗談はよしてくれよ!」
創の率いるチーム〝ブレイブ〟は、全てのプレイヤーが最高クラスの戦闘力持っている。
狙撃手も例外ではなく、狙撃精度だけなら全国十指に数えられる名プレイヤーだ。菜々は
大げさなお世辞と取り、つい声を荒げてしまう。
「いや……その、本当に勘弁してくれよ。今はそういうの、悔しいだけだから」
菜々の反応に、創はばつの悪そうな表情と共に頭をかく。
「俺も、からかうだとか、お世辞で言ってるわけじゃないんだが……しかし、な」
右手を頭から離し、菜々から視線を外した創が、訓練プログラムのマンターゲットへ目
を向けた。
「これだけ上手い菜々が敵わないとなると、菜々の言う鹿野雄二ってプレイヤーはとんで
もない化け物だな。一体どんな男なのか……興味がある。一度会って話がしたい」
沈黙を守る菜々へ、創は再度視線を向ける。
「それと、菜々。もう狙撃技術はこれ以上伸びない、と思う」
「…………え?」
心の中へ渦巻く絶望感。それは菜々にとって、鹿野という男に勝てないと宣告されてい
る事に等しい。
「いや。誤解させるような言い方でごめん。菜々はもう、技術云々のところをクリアして
しまっているんだよ。他に伸びるところはまだあるさ」
菜々を見つめていた創が、デジタル時計が表示されているらしい場所へ視線を向け、眉
を上げる。
「もう、時間だ。チームのミーティングに行ってくる」
菜々は、今生の別れのように儚い笑みで応えた。
「そう、か。わかった。いろいろありがとう」
「何もできなくてごめん…………ああ、そうだ。一つだけ」
テレポーターに向いた足を止め、振り返った創は優しく微笑む。
「たまには、周りの大人にも頼ってみろよ」
言い残し、背中越しに手を振ると、創の身体は光の中へ消えて行った。
また一人になってしまった射撃場で、創の言い残した台詞を反芻する。
「大人、か」
菜々は大きく深呼吸をすると、意識をアバターから切り離した。
午後八時半。霧海家のリビングには、母子の二人が向かい合って座っていた。菜々は天
井をぼんやりと眺め、母は女性向けのファッション雑誌を見ながら、難しい顔で腕を組ん
でいる。
「なあ……お袋」
「うん? なに?」
問いかける菜々もはっきりしない口調で、受ける千代も雑誌に視線を落としたままだ。
「あたしは……どうしたらいい、のかな」
菜々の消え入りそうな声に、千代は顔を上げ娘を見た。
「どうしたんだ。アンタらしくもない」
ため息と共に仰向けの頭を起こし、一瞬母へと視線を移した菜々が、直ぐにテーブルを
見つめる。
「FPSの事なのか?」
千代の問いかけに、菜々は無言で頷いた。
「他人に意見を求めるとは……相当参ってるな?」
娘が悩んでいると言うのに何故母はこんなにも嬉しそうなのか、菜々は内心むっとした。
いかにも嫌らしい笑みで菜々の顔を見つめる千代に、菜々は目も合わせられずに視線を漂
わせる。
お互いが無言のまま数秒経ち、俯いたままの菜々が目だけを千代へと向けた。
「あたしが落ち込んでて、そんなに嬉しいのかよ」
これでも菜々は怒りを隠しているつもりだが、どうやら千代には感づかれているらしい。
「そんな目で見るなよ。アンタを怒らせたくて笑ってたわけじゃない」
「じゃあ何だよ」
頭を起こし姿勢をただした菜々と、逆にテーブルへと視線を落とす千代。
「少し、嬉しいんだよ。アンタは何でも自分で解決したがる。だから、歴やあたしは寂し
いのさ、本当の所は。こうして少し頼りにしてくれるだけで嬉しいもんなんだよ。親って
生き物はな」
あまのじゃくな母が時折見せる、素直な心。菜々はそれに対してどのように反応して良
いのかわからなかった。
「いや、悪い。一時の気の迷いだ。忘れてくれ」
「本当に、いいのか?」
思わぬ問い返しに、菜々は千代の顔を凝視する。彼女には、その言葉の意味する所が理
解できなかったからだ。
「あたしが……狙撃の達人を紹介できる、と言っても?」
「…………何だって?」
菜々にはとても信じられなかった。電脳化を行っているのは十代後半から二十代中盤ま
でが最も多く、新しい技術だけに、四十代以降の人間は電脳化処理を受けている可能性が
零に等しい。千代が自分達と同年代の若者と接点があるようには思えなかった。
思案する菜々を他所に、携帯電話を取り出し、何処かへ電話をかけ始める千代。静かな
部屋の中に、コールする音だけが零れ出す。
「……もしもし、姉貴か?」
ただ無言で、菜々は耳を澄ませる。
『貴女が掛けてくるなんて珍しいわね』
応答したのは、千代よりも若干声色の柔らかい女。しかし、母と似た声質から、親類で
ある事は想像できた。
そうかな、と笑う千代。
「頼みがあるんだが、いいか?」
『それは内容によるわね』
母も、相手の声も、何処か楽しそうだった。仲の良い姉妹なのだろう、と菜々は思った。
「うちの娘を、見てやってくれないか?」
『…………菜々ちゃんを?』
「ああ。お願いできるかな」
相手は何を、とは聞き返さなかった。まるで、千代が何を見ててやって欲しいのか既に
わかっているかのように。
数秒の沈黙。後に、電話から小さく息を吸う音が漏れる。
『それは会ってから決めるわ。それでもいい?』
「構わない」
『わかったわ。それなら……明日の午後が空いてるから』
蚊帳の外である菜々へ、千代は黙ってアイコンタクトを取る。話はわからないが、自分
が強くなれる可能性があるなら、と、無言で頷いてみせる菜々。
「それでいい。ありがとうな、姉貴」
『ふふ……私が見るのは、菜々ちゃんが教えるに足ると認めたら、の話よ?」
千代は発作が起こったように突然笑い出した。
「それは全く心配ない。自慢の娘なんだから」
『そうね。会うのを楽しみにしてるわ』
それじゃあ、と一言発し、通話終了のボタンを押すと、千代の視線が菜々へと向けられ
る。
「一体全体どういう事なんだ。お袋の姉さんがFPSプレイヤーなのか?」
菜々が最も強く感じた疑問だった。有名なプレイヤーならば、自分が知らない筈は無い。
プロの中でも、彼女が本心から巧いと感じた選手は十指にも満たない。それら全てが男の
狙撃手だった。
「いや? 姉貴は電脳処理を受けていない」
プレイヤーでもない人間が一体何を教わると言うのか。菜々の疑問はますます膨らむ。
「プレイヤーでもないならなんで――」
「エイコ」
菜々の台詞を、千代の言葉が遮る。その名詞は、菜々を黙らせるのに十分な力を持って
いた。
「エイコ、だって?」
「ええ」
随分と性質の悪い冗談だと笑い飛ばそうとした菜々は、母の目を見るや息を呑む。目が
笑っていなかった。
「本名、畝火英子。あたしの姉貴だ」




