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チャプター 09:日曜日に

 薄暗い射撃場の中で、消音器にかき消された独特の発射音が延々と響いていた。

 時刻は午前十時。日曜日であれば、多くの人間は未だ床へ就いているか、ようやく起床

する時間だ。しかし、菜々にとって日曜日の早朝練習は習慣であり、平日より早く起きる

事も当たり前だった。

 ワルサーのグリップを射撃台の上に置き、右手で前髪をかき上げると、訓練プログラム

の結果を見ながら大きなため息をつく。五百メートル以内での弾丸命中率は七十五パーセ

ントを超え、次弾の発射までも五秒以内に対応している。多くの戦場では十分な射程距離

であり、命中率も上級者に分類される数値ではあるが、菜々は満足できる結果でないと判

断していた。

 今までならば、これだけの力があれば十二分に戦えていた。だが、仮想の敵に部長が追

加された事で、自分の弱点が次々に露呈する。

 敵を捉えるまでの時間、照準する速度、そして、気取られない為の立ち回り。

「ふう…………」

 再度、大きなため息。誰も居ない射撃場で、それは一際大きく聞こえた。上級者ともな

れば、弱点一つ改善するだけでも多大な労力を要する。現状では、少なくとも三つ以上の

問題を解決しなければならない。ほぼ完成されている状態にある菜々でさえ、唯と戦う為

にはそれらが不足していた。菜々はデジタル表示の時計へ目を流し、そこで初めて十時を

回っている事に気がついた。四時間近く射撃訓練を行っていた事に驚きつつ、そろそろ連

絡が来る頃だと、アバターから降りようとした瞬間。

 顔の前に通話のウインドウが表示される。携帯電話からの着信を受けつつ、近くの椅子

に腰を下ろす菜々。

「よう、瑞希。おはようさん」

「おはよう、菜々ちゃん」

 光で形作られた仮想のスピーカーから、瑞希の声が聞こえてくる。電話越しであっても、

彼女の明るさが感じられる声色だ。

「きりをつけた所だ。もう落ちるよ」

「うん。私もお風呂へ入って、準備をするわ」

 一言返事を返すと、通信を切る菜々。

 今日の結果をもう一度反省しつつ、視界の端に置かれた終了ボタンを押し込むと、アバ

ターからの感覚が消えていった。



 瞼から光を感じ、そっと目を開くと、半透明のシェルキャビネットが見えた。右手でス

イッチを探り、目的の箇所を押下してシェルを開く。上体を起こした菜々は、未だに寝巻

き姿のままだった。足を下ろした床には十時とは思えない冷気が垂れ込んでおり、大きく

身震いをする。クローゼットから下着や着替えを取り出し、それらを素早く身に着けた。

今日の着合わせは、綿でできたベージュのシャツとオリーブ色のデニムパンツだ。女性に

は不似合いな筈のそれらも、ボディバランスが抜群に良い菜々が着るとそれなりに見えて

しまう。

 化粧用のポーチに手を伸ばし、ジッパーを開こうとするも、朝食の後でも良いと思い直

し、そのまま部屋を出る菜々。

 階下からは、お馴染みの紅茶の香りが立ち上っていた。リビングには、相変わらず仲の

良い両親が一緒に朝食を摂っている最中だ。菜々が十時に降りて行くのも、日曜日の朝食

が用意される時間だから、という理由である。

「よう、菜々。おはようさん」

 菜々が降りてきた事に、先に気がついたのは千代だ。左手で歴の髪を弄りつつ、右手は

せわしなく朝食を口へと運ぶ。

「おはよう、菜々。今日の朝ごはんは和食にしてみたんだ」

「ああ、おはよう。頂くよ」

 千代の手をどけながら、菜々へ挨拶をする歴。自分の椅子へと掛けると、早速とばかり

に、茶碗へ米をよそう。まるで漫画のような山盛りの白飯を盛り付けた菜々は、味噌汁を

すすりながら米を掻き込んだ。漬物や海苔も一緒に口へ放り込み、次々に食べ物を飲み込

んでいく。自分の父親をあまり好いていない菜々だが、彼の作る洋菓子と料理に関しては、

胸を張って自慢できる事だとも思っていた。

 男も真っ青の食べっぷりを披露した菜々が、両手を合わせて箸を置く。その姿に、千代

はほくそ笑んだ。

「おいおい、女ならもう少しおしとやかに食べたらどうだ? あたしが若い頃はな」

 言いかけた千代の横で、歴が派手に噴き出した。あまり大きな声を出さない父親の珍し

い姿に、菜々も驚いた様子だ。

「くくく……よく言うよ。千代だって、ご飯はものすごい勢いで食べていたじゃないか」

 早速ばれた嘘に、流石の千代もばつが悪そうに目を流した。その顔が、滑らかに不敵な

笑みに書き換えられると、流れていた目が歴へと戻る。

「だけどさ。そういうところに惚れちまったんだろう?」

「…………うん」

 次に目を逸らしたのは歴だった。身体が縮こまり、顔を赤らめて俯く。四十を過ぎた父

の姿とは思えない、と言うのが菜々の本音だ。

 その流れから、またもやスキンシップをとり始めた両親を置いて、洗面台へ向かう菜々。

去り際に、冷ややかに視線も忘れない。そして洗顔と歯磨きを済ませ、自室へと戻る。

 時計を見つつ、時間に余裕があることを確認した菜々は、化粧用ポーチを手にとって、

のんびりと準備を始めた。彼女の場合は睫を整え、髪を束ね、桃色のルージュを引くだけ

だ。菜々の肌は、化粧を施す必要がない程きめ細かく、美しかった。

 いくら時間をかけたくとも直ぐに支度が済んでしまう菜々にとって、待つ、と言う動作

は非常に困る時間だ。瑞希の入浴は、少なく見積もって三十分はかかると予想していた。

現在の時刻が十時二四分。いつも、何か出来ないものかと思案し、結局はHTMIのシェ

ルへ入ってしまう事になる。今日も同じように、少しだけでもと、端末に手を伸ばした時、

鞄の中から優雅なメロディが流れてきた。菜々の携帯電話の着信音だ。もう準備が済んだ

のかと携帯電話を開くと、そこには『一羽 (いちばはじめ)』と表示されていた。スピ

ーカーのついたディスプレイを引き出し、本体をそっと耳へあてる。

『もしもし。菜々、元気にしてる?』

 男の声だった。こもりが少なく、抜けの良いはっきりした声。

「久しぶりだな、創。私は元気にしてるよ。もちろん瑞希も」

 菜々は、滅多に出す事のない、角の取れた丸く優しい声で応えた。

『ごめん。ここのところすっかり連絡してなかった』

 申し訳なさを感じさせるのには十分な声色と回答。

「いや、責めてるわけじゃないんだが…………いいよ。気にしてないとまでは言わないが、

年中忙しいだろう? プロのプレイヤーは」

 受話器の向こうから、自嘲気味のから笑いが聞こえた。

『それが、な。メンバーの中で何人か、調子が悪くなってさ。残りで戦えない事もないん

だけど、ここのところ連戦だったから、一月休まないかって提案してみたんだ』

 その瞬間菜々は、心の底から喜びが湧き上がってきていた。かれこれ一年以上逢ってな

い幼馴染の彼が帰ってくるとなれば、喜びも一入だ。女らしい行動の少ない彼女も、恋に

関してはやはり女だった。

「そうか、そうか。それで、いつ帰ってくるんだ?」

 創が帰ってくる事を想像し、心を躍らせながら問いかける菜々。

『そうだな……一週間は新しいオペレーションの提案と、メンバーの現状確認をしたい。

あとは、次の大会に向けた訓練もしておきたいから、帰れるのは一週間ぐらいだな』

「うん…………そうか」

 菜々は、一週間では少々短いとも考えたが、それでも一緒にいられるのは素直に嬉しか

った。

「わかった。楽しみにしてるよ、親父の紅茶を用意してな」

 菜々の耳に、マイクに息が掛かった音が入る。台詞を聞き終わらないうちに、創がふっ

と笑っていた。

『おいおい。おじさんをあんまり泣かせないでくれよ? 歴さんのとっておきなんて、滅

多に淹れてくれないって親父も言ってたぞ?』

「程々にしておくよ。親父がショックで倒れかねないからな」

 受話器の向こうで、再度創が噴き出していた。息が落ち着くと、大きく深呼吸をする音。

『そろそろ行かないと。ごめんな。また帰る前に電話する』

「ああ、待ってる」

 じゃあ、と、通話が途切れる。

 そして機を見計らったかのように、玄関の呼び鈴が鳴らされた。

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