表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

男の仕事

 孝輔は、昼食も食べずにコンピュータに向かっている。


 帰ってきてから、ずっとそうだった。


 まるで狂ったように、解析に打ち込んでいるのだ。


「ああなったら、ほっといていいんだよ」


 直樹は、笑いながら食事を口元に運んでいる。


「これはダメです」


 孝輔のために準備したエリアまで手を伸ばそうとしてきたので、料理を食器ごと彼から守った。


 作業が終了したら、きっと彼はおなかをすかせているだろう。


 それが何時になるかは分からないが、その時までこれをとっておいてあげたかったのだ。


「どうせ夜中までかかるさ…それに」


 サヤの抱えている届かない料理に、それでも往生際悪く手を伸ばそうとする直樹。


 体格の割には、非常に食欲旺盛だ。


「それに、もしE値の解析が完成したら…」


 彼女は、自分の分の料理を直樹の方へと押し出した。


 食べるなら、こっちをどうぞ、と。


 だが、彼は首を横に振って、どうしても孝輔の料理へと執着を見せるのだ。


「解析が完成したら……あいつは喜びと興奮で、絶対何か食べられる状態じゃなくなるって」


 兄の私が保証する~。


 だから~。


 だから──孝輔の料理をくれ、と。


 あんまりしつこくせがまれるので、サヤは発想の転換をすることにした。


 避難させていた孝輔の料理をイケニエに差し出すと、直樹は即座に奪い取り、すばやく自分の口に押し込み始めた。


「ん~、うまいうまい」


 満面の笑み。


 そんな二人のやりとりにも、まったく反応もせずに、孝輔はキーボードを叩いている。


 壊そうとしてるんじゃないかと思うほど、強く叩きつけられる指。


「大丈夫」


 弟の料理をむさぼりながら、直樹はニヤリと笑う。


「あいつは天才だ…今日中に見つけるさ」


 え?


 初めて、彼が孝輔を褒めた気がした。


 弟の耳には、届いていないだろうそれ。


「まあ、私はその天才を、最大限に酷使できる『神』、だがな!」


 ハハハハハ。


 塚原直樹──彼は、安易に神をかたる、恐れ知らずのリアリスト。



 ※



 いけない。


 はっと、サヤは身体を起こした。


 知らない間に、うとうとしていたらしい。


 時計を見ると、23時。1時間近く眠っていたことになる。


 彼の席の方を見ると。


 そこに、猫背の姿はなかった。


 え?


 ディスプレイはついているから、帰ったわけではないだろう。


 一体どこに行ってしま──コーヒーの匂い。


「ん?」


 給湯室から、そんな声が聞こえる。


「起きたんなら、コーヒー飲むか?」


 孝輔だ。


「あ、はい…」


 まだ、寝ぼけてるのかな、私。


 余りに静かな現状を、サヤはうまく把握しきれていなかった。


 直樹は、定時になると『そいつ気にしないで帰っていいからね』と言い残して去っていった。


 それでも、どこか去りがたくグズグズしている内に、時計だけが進んでいってしまったのだ。


 孝輔は、E値を探るためにずっとコンピュータの前に座りっぱなしで、うつらうつらする直前まで、不協和音キーボードを演奏していた。


「ほい」


 戻ってきた彼の手には、二つのマグカップ。


 そのうち一つを、サヤに差し出してくれる。


「どうもありがとうございます」


 サヤは、応接セットのソファに座ったまま。孝輔は、背もたれの部分によりかかるように立っている。


 すごく静かだ。


 もしE値が見つかったなら、孝輔は喜びと興奮でいっぱいになっているだろう。


 それは直樹のお墨付きだったはずだ。


 それなら。


 この静かな空間は、どういう意味なのだろうか。


「あの…」


 コーヒーに口をつけないまま、サヤは慎重に唇を開いた。


「ん?」


 ちょうどマグカップを口にあてていた孝輔は、そのまま鼻先だけで反応する。


「お仕事…はかどってますか?」


 あえて、曖昧に聞いてみた。


 彼にプレッシャーを与えないように、これでも気をつけてみたのだ。


 すると。


 孝輔はゆっくり、マグカップを口から離した。


 両手ではさむようにそれを持って、少し顎を上げ──天井を見る。


「…見つかった」


 激しい喜びや興奮の色はない。


 でも。


 達成感をゆっくり噛み締めている、男の顔がそこにはあった。


「それは、よかったですね。おめでとうございます」


 あぁ。


 サヤにも、じわじわそれが押し寄せてきた。


「あー」


 孝輔の顔が、かすかに緩んだ。


 天井を見たまま。


 唇の端を押し上げる。


「あー…メチャクチャうれしい」


 心の底から吹き出した、喜びの声。


 いつものムッツリとした表情は、そのどこにもなかった。


 本当に。


 ただ本当に、純粋に、幸福の声を上げるのだ。


 そのおすそわけは、サヤにも届いた。


 胸の中に、温かさが広がっていく。


 胸がいっぱいとは、きっとこのことを言うのだろう。


「ほんと、よかったですね」


 だから。


 だから、サヤは忘れてしまっていた。


 紙袋の中に残していた、昼食の存在を。


 仕事の終わった孝輔に食べてもらおうと思って、自分の分をとっておいたのに。


 昼食ぬきの二人は、本当に胸がいっぱいで──食べ物のことなんて考えられなかったのだ。


 コーヒーが砂糖抜きだったのに気づいたのは、すっかりそれが冷え切った後だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ