男の仕事
孝輔は、昼食も食べずにコンピュータに向かっている。
帰ってきてから、ずっとそうだった。
まるで狂ったように、解析に打ち込んでいるのだ。
「ああなったら、ほっといていいんだよ」
直樹は、笑いながら食事を口元に運んでいる。
「これはダメです」
孝輔のために準備したエリアまで手を伸ばそうとしてきたので、料理を食器ごと彼から守った。
作業が終了したら、きっと彼はおなかをすかせているだろう。
それが何時になるかは分からないが、その時までこれをとっておいてあげたかったのだ。
「どうせ夜中までかかるさ…それに」
サヤの抱えている届かない料理に、それでも往生際悪く手を伸ばそうとする直樹。
体格の割には、非常に食欲旺盛だ。
「それに、もしE値の解析が完成したら…」
彼女は、自分の分の料理を直樹の方へと押し出した。
食べるなら、こっちをどうぞ、と。
だが、彼は首を横に振って、どうしても孝輔の料理へと執着を見せるのだ。
「解析が完成したら……あいつは喜びと興奮で、絶対何か食べられる状態じゃなくなるって」
兄の私が保証する~。
だから~。
だから──孝輔の料理をくれ、と。
あんまりしつこくせがまれるので、サヤは発想の転換をすることにした。
避難させていた孝輔の料理をイケニエに差し出すと、直樹は即座に奪い取り、すばやく自分の口に押し込み始めた。
「ん~、うまいうまい」
満面の笑み。
そんな二人のやりとりにも、まったく反応もせずに、孝輔はキーボードを叩いている。
壊そうとしてるんじゃないかと思うほど、強く叩きつけられる指。
「大丈夫」
弟の料理をむさぼりながら、直樹はニヤリと笑う。
「あいつは天才だ…今日中に見つけるさ」
え?
初めて、彼が孝輔を褒めた気がした。
弟の耳には、届いていないだろうそれ。
「まあ、私はその天才を、最大限に酷使できる『神』、だがな!」
ハハハハハ。
塚原直樹──彼は、安易に神をかたる、恐れ知らずのリアリスト。
※
いけない。
はっと、サヤは身体を起こした。
知らない間に、うとうとしていたらしい。
時計を見ると、23時。1時間近く眠っていたことになる。
彼の席の方を見ると。
そこに、猫背の姿はなかった。
え?
ディスプレイはついているから、帰ったわけではないだろう。
一体どこに行ってしま──コーヒーの匂い。
「ん?」
給湯室から、そんな声が聞こえる。
「起きたんなら、コーヒー飲むか?」
孝輔だ。
「あ、はい…」
まだ、寝ぼけてるのかな、私。
余りに静かな現状を、サヤはうまく把握しきれていなかった。
直樹は、定時になると『そいつ気にしないで帰っていいからね』と言い残して去っていった。
それでも、どこか去りがたくグズグズしている内に、時計だけが進んでいってしまったのだ。
孝輔は、E値を探るためにずっとコンピュータの前に座りっぱなしで、うつらうつらする直前まで、不協和音キーボードを演奏していた。
「ほい」
戻ってきた彼の手には、二つのマグカップ。
そのうち一つを、サヤに差し出してくれる。
「どうもありがとうございます」
サヤは、応接セットのソファに座ったまま。孝輔は、背もたれの部分によりかかるように立っている。
すごく静かだ。
もしE値が見つかったなら、孝輔は喜びと興奮でいっぱいになっているだろう。
それは直樹のお墨付きだったはずだ。
それなら。
この静かな空間は、どういう意味なのだろうか。
「あの…」
コーヒーに口をつけないまま、サヤは慎重に唇を開いた。
「ん?」
ちょうどマグカップを口にあてていた孝輔は、そのまま鼻先だけで反応する。
「お仕事…はかどってますか?」
あえて、曖昧に聞いてみた。
彼にプレッシャーを与えないように、これでも気をつけてみたのだ。
すると。
孝輔はゆっくり、マグカップを口から離した。
両手ではさむようにそれを持って、少し顎を上げ──天井を見る。
「…見つかった」
激しい喜びや興奮の色はない。
でも。
達成感をゆっくり噛み締めている、男の顔がそこにはあった。
「それは、よかったですね。おめでとうございます」
あぁ。
サヤにも、じわじわそれが押し寄せてきた。
「あー」
孝輔の顔が、かすかに緩んだ。
天井を見たまま。
唇の端を押し上げる。
「あー…メチャクチャうれしい」
心の底から吹き出した、喜びの声。
いつものムッツリとした表情は、そのどこにもなかった。
本当に。
ただ本当に、純粋に、幸福の声を上げるのだ。
そのおすそわけは、サヤにも届いた。
胸の中に、温かさが広がっていく。
胸がいっぱいとは、きっとこのことを言うのだろう。
「ほんと、よかったですね」
だから。
だから、サヤは忘れてしまっていた。
紙袋の中に残していた、昼食の存在を。
仕事の終わった孝輔に食べてもらおうと思って、自分の分をとっておいたのに。
昼食ぬきの二人は、本当に胸がいっぱいで──食べ物のことなんて考えられなかったのだ。
コーヒーが砂糖抜きだったのに気づいたのは、すっかりそれが冷え切った後だった。