兄弟の食卓
吉祥寺サヤは、紙袋を提げて出勤する。
職場につくと、まず朝食から始まるのだ。
料理はいつも、知り合いのインド料理店の厨房を使わせてもらうので、どうしても内容がそっち方面のものばかりになってしまう。
サヤ自身も、5年もインドにいたせいで、日本料理よりも得意になってしまったのだが。
「おはようございます」
事務所のドアを開けて、ぺこりと頭を下げる。
自分以外には、二人の男の人がいた。
「おはよーさん~」
新聞を、顔の前から取り払って笑顔を向けてくれるのが、塚原直樹。
この事務所の所長で、兄の親友だ。
帰国したてのサヤを雇ってくれた、優しい人である。
茶色い髪とメガネと背広。中肉中背、背筋のきっちり伸びたインテリタイプだ。
「はよ」
眠そうな顔で出てきたのが、塚原孝輔。
所長の弟で、技術担当をしている。
ちょっとハネぎみの短い髪(毎朝セットして、わざとハネつかせているらしい)と、ラフなシャツとジーンズ姿。
背は直樹より高いくらいだが、少し猫背なので逆に低く感じてしまう。
「今日は薄手の小さいナンを焼いてきましたので、具を巻いていただきましょう」
接客用の大きめのテーブルに、紙袋の中身を取り出す。
直樹はいそいそと。
孝輔はのそのそと。
兄弟でも、行動パターンが全然違う。
サヤと兄のヤイバも全然違うが、それは男女だからしょうがないと思っていた。
「野菜もありますし、ほぐしたチキンもありますよ」
猛烈な勢いで食べ始める直樹。
あーとかうーとか唸りながら、ゆっくりと動き始める孝輔。
「ところで、孝輔」
弟の方が、チキンに手を伸ばしかけた時、直樹がそれをさえぎった。
「なんだよ」
結構太い関節の指が、空中で止まる。
「E値は発見できたかね?」
直樹の言葉に、その指がぴくっと震える。
「きょ、今日中には見つけるさ」
ぷるぷる。
空中の指が、何かを抑えきれないような揺れを見せる。
「そーかそーか、そのセリフは昨日も聞いた気がするが…ほー、今日中に、ね。明日がゴーストバスター・ディだから、それまでには頼むよ」
ニヤニヤ。
心底、からかう笑み。
「このクサレアニキ! そう思うんならてめーでやりやがれ!」
そして、突然始まる兄弟ゲンカ。
だが、サヤは見てしまった。
孝輔が取ろうとしていたチキンのフレークは、この瞬間、直樹に大量に掠め取られていたのだ。
「私は、営業・接客・請求処理までやっているからそんな暇はない。何なら仕事を入れ替えてみるか?」
お前に営業が出来るならな~~。
カッカッカ。
昔見た、時代劇の偉いお爺さんのような笑い方で、直樹は勝ち誇った。
性格上、弟にそれが出来ないと分かっているのだ。
ぐぐぐぐぐ。
空中の孝輔の指は、拳になって震えた後、ようやく引かれていった。
おそらく彼はもう、チキンの行方のことは忘れているだろう。
クスッ。
おかしくて、サヤは笑みをこぼしてしまう。
完全に、直樹が主導権を握っている。
弟の扱い方を全て熟知しているのが分かった。
だが、チキンを取るためだけにそんな話を持ち出したというのなら──直樹は、何とも人が悪い。
孝輔は、ここ数日事務所にこもって持ち帰ったデータを解析し続けているというのに。
昨日着ていた服と同じだから、多分彼はここに泊まったのだろう。
E値とかS値とかR値とか、この事務所に入って初めて聞いた言葉だった。
ヤイバから、直樹は変わった除霊をするとは聞いていたが、サヤの予想がまったく追いつかないほど遠い世界だ。
コンピュータを使い、霊を数値として扱う。
それには、まだサヤは慣れていない。
見知らぬ世界を、はたから見ているだけの気分だった。
※
本来、霊との関わりは、神聖かつ慎重に行わなければならない。
自分の力の及ばぬ霊には、決して手を出してはならない。
力ずくではなく、自然の流れに逆らわず、霊を還してやるのが自分たちの仕事だ、と。
自分の能力に気づいた時、サヤは兄からそう教わった。
しかし、直樹も孝輔も霊能力はなく、神聖も慎重もそこにはない気がした。
あまつさえ、霊の感情を数字で探そうとしているのだ。
ヤイバの教えから、全て背いている気がする。
だが直樹は、兄の親友だ。
この事務所が、どういう主旨のものかを知って自分を預けたというのなら、何らかの意味があるのだろう。
それならば、サヤは彼らをもっと知るべきだった。
この、機械的で数値的に処理される世界を。
「えーっと…さ」
食事が終わった後。
給湯室で朝食の後片付けをしていたサヤは、背後に孝輔がいるのに気づいた。
何ともはや、微妙に複雑な表情をして。
「この後、ちょっと付き合ってくんねー?」
「はい?」
弟くんの言ってる内容というよりは、その表情に「?」がついてしまった。
そんなに言いにくい話なのだろうか、と。
だが。
「もう一回、壷を調べたい」
そう言った孝輔の顔ときたら。
さっきの、朝食の直樹でも思い出したのだろうか。
忌々しさと怒りと苦さが大激突だった。
「あ、はい、私でお役に立てるなら」
頑張ります。
役に立つといっても、感じるものをそのまま伝えるだけしかサヤには出来ない。
孝輔は彼女の言葉からヒントを得ようとするかのように、いろいろ質問してくるが、それにうまく答えられないのだ。
何しろ、そう『感じる』だけなのだから、それに理由などなかった。
そのせいで、仕事が難航しているようで。
サヤは自分の出来る限り、彼に協力したかった。
「そっか、助かる」
少しほっとしたように、孝輔の表情のこわばりがほぐれた。
こうして見ると、彼は自分より年下のように感じる。
難しい顔をしてパソコンに向かっている時は、そうは感じないのだが。
「じゃあ、片付け終わったらすぐ用意しますね」
そんな表情を見ると、サヤもつられて顔がほころぶ。
うまくなじめるか不安だったが、E値の件で関わることが増えてきて、少しずつ彼を理解できるようになってきた気がする。
いまの孝輔の表情は、よい方向の証だ。
「オーケ……ぐえ!」
そのまま向きを変えようとした彼は、突然カエルを踏み潰したような声をあげた。
「昼飯までには、サヤちゃんは返せよ」
ひょっこりと。
給湯室の入り口から、メガネの男が覗いていたのだ。
「立ち聞きしてんじゃねーよ!」
またも勃発した兄弟ゲンカに、サヤはおかしくて笑ってしまった。
一緒に、洗い物の水も笑った。