無様な結末
知らなかったのだ。
サヤは、何も知らなかった。
彼らの言う『削除』というものが、こんなものなんて。
S値とは、霊の思念の力のことをいう。
短い仕事時間の間でも、それは何となく理解できた。
サヤが『感じる』ことを、数値として測っているのだ、と。
削除とは、そのS値を消してしまうのだ。
何ともいいがたい、冷たい気を手袋は吹き出している。
死の手袋。
それで、九十九神を存在の根元から消そうとしていた。
やめて。
S値は、サヤに感じ取ることが出来るものだった。
たとえそれが、マイナスであれ。
彼女にとって、あの手袋は恐怖そのものだ。
自然では、ありえない気配を振りまいている。
消される──ただ、それが分かった。
「ま、待ってください!」
違う。
この削除に、彼女は同意できなかった。
「やめて…お願いです。そんな消し方をしないで」
あの壷にいるのは、悪霊でも何でもないのだ。
ただ、主人に愛されたがった九十九神。
突然のサヤの声に、塚原兄弟は驚いたのか動きを止めてしまった。
「どういうことかね」
不審に思った依頼人が、口を挟んでくる。
「あ、いや…なんでも」
直樹がこの場を取り繕おうとしていたが、サヤの目にはしっかりと依頼人が焼きついた。
そうだ。
あなたが。
そう。
あなたが。
噛み締める。
もっと、簡単な方法があるではないか。
削除なんかしなくても、あの九十九神が穏やかでいられる方法が。
「あの壷は……」
兄が頭をよぎる。
今から自分が言おうとしているのは塚原式ではなく、吉祥寺式だ。
正確には、ヤイバ式。
自然の流れに逆らわず、元ある姿に──
「あの壷は……大事な壷ですか?」
古い壷。
サヤに骨董的価値は分からないが、存在感のあるそれ。
「あ、ああ…あれは母が嫁入りの時にもってきた逸品じゃ。それが何か?」
依頼主の声の影で、パチンという音を聞いた。
孝輔だ。
端末から完全に手を離し、サヤの方を見ている。
何かを推し量るかのような目で。
マイナス値が、この部屋から完全に消えたのが分かった。
削除を途中でやめてくれたのである。
「壷を別室に移して、そして毎日愛でてあげてください…それだけで、この幻影はきっと消えます」
つい最近まで、あなたがこの壷を愛でていたように。
それは、九十九神を消すという根本的な解決方法ではない。
漢方薬のように、じわじわと効いていくゆっくりした方法だった。
「この壷の九十九神は……あなたに愛されたがってます」
愛を知らなければ、壷は愛を欲しがらない。
だから、きっと新しい壷が来るまでは、老人はあれを特別扱いしていたのだろう。
そうサヤは感じたのだ。
「…………」
主人は、目を細めて古い壷を見た。
検分するかのように。
愛情を注ぐ瞳には感じなくて、サヤを脅えさせた。
九十九神など、どうでもいいと言いそうだった。
が。
「ふん、なんじゃ…悋気しておっただけか」
悋気──今風の言葉で言えば、嫉妬。
依頼主は、呆れたようなため息をついた。
「はい、あなたを新しい壷に近づけたくなかったんです」
光が、見えた気がした。
もしかしたら、と。
「ふん、壷も女も変わらんのぅ…新しい女ができると、すぐキーキー言う」
直樹を押しのけるように、老人は古い壷の前に立った。
「バカもんが」
小さく呟くや、彼は突然その壷を抱え上げた。
「お館様! 私めらが!」
使用人が一斉に駆け寄ってきて、老体から壷を受け取ろうとする。
「このくらい、問題な……」
グキ。
言いかけた言葉の途中で、大きく骨が鳴るような音。
「お館様~!!!」
使用人の二人は壷を、もう二人は主人を抱えるハメとなったのだった。
「ワシの寝室の枕元に飾っておけ」
腰を押さえながらも、依頼主は厳しくそれを指示した。
しかし、どうやら彼もまた、一緒に寝室へいかなければならないだろう。
そのまま。
壷と老人は、抱えられたまま部屋を出て行こうとした。
「もう、あんたたちは帰っていい…金なら振り込んでおく」
ドアのところで、依頼主はそう言った。
表情は見えなかったが、やわらかく温かいものが伝わってくる。
ああ。
サヤは、嬉しくなった。
あの九十九神が、彼に愛されたいと思った気持ちが、何となく分かったからだ。
ぶっきらぼうだが、きっと大事にしてくれる。
これこそ、幸せな結末ではないか。
上機嫌で、物語の最後に『完』をうとうとしたサヤだった。
だがしかし。
「おーい」
皮手袋の手を、お化けスタイルにゆらゆらさせている直樹。
「ぶははははっ、ザマァねえな」
端末の前で、笑いで突っ伏している孝輔。
ハッ!
そして、思い出した。
サヤは。
彼らの仕事をメチャクチャにしてしまったのだ。
あーー。
兄弟の視線がいたたまれずに、サヤは新しい壷の陰に隠れてしまいたかった。
もう。
着物の少女はいなかった。




