前略~インドの国から
朝、事務所のドアを開けると。
「おはようございます」
そこは── インド料理店だった。
立ちのぼる香辛料の匂いと、こんがりよく焼けた肌を持つ女は、ズルズルした見慣れない衣装を着ている。
孝輔は、とんでもないその光景に、呆然と口を四角におっぴろげていた。
ここは、兄の経営する事務所のはずだ。
従業員は、自分ひとり。
昨日までは確かにそうだった。
「焼きたてのナンです」
いかがですか?
バスケットから飛び出すほど大きなパンを差し出される。
にっこり微笑む唇からこぼれる歯の、白いこと白いこと。肌の色の対比もあいまって、眩しいほどだ。
「あ、いや、あの、あんた……」
まだ、完全に魂を取り戻せないまま、孝輔は何とかそこまで言葉を紡ぐ。
「お、孝輔、きたか~」
奥のデスクを隠すパーテーションの向こうから、見知った顔が出てくる。
にこやかな茶髪メガネ。
「アニキ!」
バスケットを横に押しやるようにして、孝輔は一気に男までの距離を詰めた。
少なくとも、そこのインド娘よりは、得体が知れている相手だ。
そして、この現状の理由を、一番よく知っている相手でもあるだろう。
「何やらかした! これはなんだ!? あの女は一体誰だ!?」
兄を見てほっとするどころか、逆に一気に頭に血が上ってしまった。そのせいで、いかに自分が失礼な表現を使っているかにも気づないまま、インド娘に指をつきつけた。
ゲインッ!
「サヤちゃんに失礼だろうが! このボケ弟がぁ!」
おかげで、兄の熱い鉄拳制裁が下されることになったが。
「ってぇ……サヤちゃんだぁ?」
頭に走る激痛とその名前が、脳内で飛び交う。
しかし、まったくさっぱり聞き覚えがなかった。
「そうだ、吉祥寺サヤちゃんだ。今日から、ここで仕事をしてもらうことになった。ちゃんとヨロシクしとけ」
なのに、兄ときたらごく平然と、いつも通り偉そうにそう言い放つのだ。
吉祥寺サヤ? ここで働く?
女のほうを振り返ると、向こうは最初から孝輔の方を見ていた。
「吉祥寺サヤです、よろしくお願いします」
そして、よどみない笑顔を向けるのだ。
結局のところ。
まだ、何ひとつ答えを得ていない孝輔には、眩しすぎる笑顔だった。
※
「吉祥寺ヤイバを覚えてるか?」
兄──塚原直樹は、怪しげな白い飲み物に口をつけながら、そう切り出した。
給仕したのは、サヤと呼ばれる女だ。
頭のスカーフみたいなのは取り払われ、いまどき珍しい真っ黒の髪が現れていた。綺麗に編み上げられ、頭の後ろの方でまとめられている。
20代半ばくらいだろうか。兄が「ちゃん」づけで呼んだので、もっと若いかと思っていた。
「ヤイバって、えーと」
白いナンを指でちぎって口に放り込みながら、孝輔はその名前を思い出そうとした。
サヤには聞き覚えはなかったが、そっちはあったのだ。
「アニキの友達で同業者だったよな。大学一緒だったっけか?」
かきわけた記憶の中から、ようやく目当てのものを掘り出せて、孝輔はすっきりした。
すっきりしたついでに、自分にも用意されている白い飲み物に口をつけると、甘いんだかすっぱいんだか、なんとも微妙な味わいだ。ヨーグルトジュースとでもいうべきか。
思わず、白く濁った水面を見つめてしまう。
「ラッシーです。お口に合いませんか?」
この国では、既に死滅したのではないかと思われるような綺麗な日本語。
美しい言葉に聞きほれかけたが、そんな悠長な事態ではなかった。
向かいの兄が、突然炎を上げてごうごうと燃え盛り始めたのだ。
「そんな生易しい関係ではないわ! ヤイバは我が心の友!」
ドォン。
強くテーブルにたたきつけられた拳は、その上にあるものを、軽く1センチほど跳ね上げさせた。
行儀悪く、グラスを持ったまま肘をついていた孝輔は、というと。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
心配そうな、やっぱり真っ黒な目に覗き込まれる。
「いやま、えっと、タオルくんない?」
ラッシーなるものを、顔中にまきちらしてしまったのだった。
「そもそも、私とヤイバの出会いはいまから8年前!」
燃え盛りながら、兄はオーバーアクションで、心の友について語り始める。
一方、テーブルのこちら側はと言えば、差し出された綺麗なタオルで、孝輔が顔を拭き始める。
「あんがと」
甘酸っぱく汚れたタオルを、手持ち無沙汰にしながら、孝輔は彼女に礼を言う。
「いえ」
にこー。
微笑みながら、サヤは彼の手からタオルを受け取ると、給湯室の方へ持っていってしまった。
水音が聞こえてくる。
あのタオルがどうなっているのか、考えなくても分かった。
何というか。
世界の違う女性だ。
そう、彼は感じた。
孝輔より少しばかり年上だろうことを省いても、彼女の持っている空気は、現代日本のそれとは違う。
なんともはや、居心地の悪い感触だ。
「そしてヤイバは、私にこう言ったのだ! 『もし、お前の命にかかわるような危機が訪れたなら、俺は必ずお前を助けに行くだろう』と! だから私も……!」
兄の演説は、まだ続いているが、彼は聞いちゃいなかった。
「なあ、アニキ。あのサヤって人……」
そして、自分が聞きたい内容を切り出そうとした。
が。
「聞いてんのか、この愚弟! ここからがいいとこなんだぞ!」
スパコーーンと、孝輔の額を直撃したのは、箱ティッシュだった。
すっかり暑苦しい思い出語りに熱が入り、目的を見失った兄がそこにいたのだ。
「物投げんなボケ! てか、要点だけ話せ!」
朝食も話も──なかなか進みそうになかった。