初めての出会い
三月に入り、やはり季節的に暖かくなってきたと、僕は肌身に感じた。
家からすぐ行った場所にある、大きくもなければ小さくもない滑り台やブランコといったもののみが置かれた公園に僕はいた。特に理由は無い。ただブラブラとやってきただけだった。
その公園内において、僕は壁と向かいあって、ボールを蹴っていた。僕が持ってきたボールではない。公園に落ちていた、四号級のサッカーボールだ。
すべてが終わり、すっきりとした気持ちになっていた僕は、ほとんど無意識の内にそのボールを壁に向かって蹴っていた。
約半年ぶりに蹴るサッカーボール。一回り小さいボールだったけど、しっかりり空気が入っていたので、よく弾んだ。
最初の方こそキックミスがあったが、五分ほど壁に当てていく内に、徐々に慣れが戻ってきていた。
……けっこう体は動くな。跳ね返ったボールの場所に、思ったよりも素早く動けて、自分自身でも驚いた。多分、受験の合間に行ったランニングの効果だろう。現に僕はまだ体に疲れがやってこなかった。
壁に当たるボールの音だけが、公園内に響き渡る。普段からそこまで使われるような公園ではないが、平日の昼間というのもあるだろう。公園には僕しかいなかった。
体にキレが戻ってきた僕は、ボールをバウンドさせないで、壁打ちしてみることにした。
壁に当て、やまなりとなったボールを、僕は膝を使ってワントラップをし、また壁に蹴り返す。中学時代、一人でボールを蹴っていたときによくしていた練習法だ。
それを何度か成功させていく内に、頭の中が冷静になった僕ははっとなった。
「――って何をやっているんだ僕は!」
今やっていることが、自分の「決意」に反していると気づいた僕は、跳ね返ってくるボールをそのまま後ろに転がせた。
「落ち着け、落ち着け……!」
ボールの勢いが止まり、僕は冷静になろうと頭に手を当て、何度か深呼吸しようと、大きく息を吸おうとした。
「うおっ! すげえなっ!」
だがそれは、背後から聞こえてきた大声によって阻まれた。ハッとなって、僕は素早く後ろを見た。
公園入口近く、そこに僕と同い年くらいの男子がいた。日に焼けた、爽やかな少年だった。男子は肩にショルダーバッグを掲げ、目を輝かせながら、僕の方を見ていた。僕は唖然とした顔でその場で固まってしまった。
「えっと、君は……」
なんとか口から言葉が出る。だが彼はそれを無視してボールのところまで近づいていった。
「へえ、直で見るとけっこう大きいんだな。よっし――!」
僕の言葉を無視し、彼は急にボールの前で、左足を振り上げた。長年の経験から僕は危険を察知し、反射的に目を閉じた。
「――うおっ!」
左足の甲に当たり、前に押し出されるかと思ったサッカーボール……。しかしボールはその場に残ったままで、代わりに風を切り裂く音が聞こえてきた。僕はおそるおそるに目を開けてみる。
「あの……、大丈夫?」
眼前に広がる光景は、ボールのすぐ近くで、仰向けに倒れている彼の姿だった。どうやら彼は勢い余ってこけてしまったらしい。
彼は痛そうに背中をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。
「――っかしいな? どうして当たらなかったんだろう……?」
不思議そうにボールを見つめる彼。彼は少し考え、何かを思いついたのか、ボールから僕へと視線を移した。
「な、なに……?」
「なあ、ちょっと遠くから俺にボール、出してみてくれねえか?」
彼は僕にそんなことを頼んできた。一瞬、意味がわからなかった。
「え、いやその……」
「なんだよ、さっきまでめちゃくちゃ上手く蹴ってたじゃねえか! いいだろ、なあ?」
どうやら彼は、「決意」を忘れてボールを蹴っていた僕の姿を見ていたのだろう。だが、「決意」を思い出した今の僕はもうボールを蹴りたくはなかった。
これ以上蹴ってしまったら、僕の「決意」はおかしくなってしまう……。だから僕は彼にそれは無理だと断ろうとした。
「なあ、頼むって! 」
しかし、彼の熱意は断るという空気をつくらせてはくれなかった。
「――わかったよ。けど、一回だけだからね」
仕方なく僕はボールを蹴ってやることにした。彼は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「――よっしゃ! ありがとな! ……えっと」
「アキって名前だよ」
なぜか馬鹿正直に、自分の名前を口にしていた。
「おお、アキっていうのか! じゃあ俺のことは『龍児』って呼んでくれ」
同様に彼も自己紹介をした。龍児くんはボールを手に持って、壁のある位置からほぼ真横にボールを置いた。……壁をゴールに例えるなら、ボールのある位置はコーナーキックの場所だった。
「じゃあ、よろしく頼むぜ!」
壁近くにまで戻ってきた龍児くんは、僕の肩を叩き声をかける。僕は駆け足でボールのある場所に向かった。
――どこかで体験したような感覚だった。僕はボールの位置を調整し、彼の姿を確認する。彼はその場で足踏みをしながら、僕から出されるパスを待っていた。彼はボールのある場所から斜め後ろに下がった位置に行く。
「じゃあ出すよ。それ」
できるだけ優しくというイメージを持って、僕は彼にボールを出した。
ボールは彼の足元の少し前という、ボールを蹴るには絶好のコースに、軌道を描きながら転がっていく。我ながら、いいパスを出せたと思った。
「待て待て!」
だが彼は、そのボールをあろうことか手で掴み、僕に投げ返した。
「ど、どうしたの? 良いボールだと思ったけど……」
胸でトラップし、足元にボールを止めて、僕は龍児くんに疑問の声を投げかける。龍児くんはブンブンと首を振る。
「いや、そういうのじゃなくて、さ……。なんていうの、その……そう! こうふわーって感じの、浮いたボールを蹴ってくれねえか?」
手を使いその様を表現しようとする龍児くん。
「浮いた……ボール?」
「そう! で、そのボールを俺が壁に『シュート』すっから! よろしく」
そういうことか。僕は彼の要望を理解した。
「じゃ、もう一度頼むぜアキ!」
龍児くんは長年連れ添った友を呼ぶように、僕にそう言って再びボールを待つ。簡単に言ってくれる……。僕はボールに目をやりながら、そう思った。
コーナーキックから上げられたボールを蹴る……。龍児くんのしたいことは、蹴る側も蹴り上げる側にも技術が要せられることだった。
半年以上サッカーから離れていた僕に、そんな上手いボールが上げられるわけないだろ。――いや、半年のブランクが無くても、難しい。
距離としては二十メートルほどばかり。仮にボールが届いたとしても、ぴったり彼に合わせたボールを蹴るのは、至難の業だった。
ミスしたらやり直せばいいじゃないか。
僕の中にそんな思いも生まれてきていた。
けど、何度も蹴っていけば僕の信念は確実に揺らぐと思っていた。だからこそ、僕は一発で決めなければならない――。僕は助走をつけるために、ボールから距離を取る。
立ち止まり、彼の姿を視認する。彼は期待した目をして、僕から飛び出るパスを待っていた。
――どうなっても、これで終わりだ。僕は結果がどうなろうとも、このキックを「最後」にしようと決意した。
「最後」ならば、成功させよう……。僕はゆっくりとボールに向かって走りこみ、ボールの横に右足を踏み込んだ。
「―――ふっ!」
力強く息を吐き、僕はボールを蹴り上げた。左足親指の、付け根に当たった感触だった。
少し回転がかかりながら浮いたボールは、ゆるやかなカーブを描き飛んでいく。
「――よっしゃ、これだ!」
彼のいた場所の少し手前に、ボールはゆっくりと落ちていく。彼はそこに走りこんだ。龍児くんはタイミングを図るようにして、落ちていくボールに対し、足を振り上げた。しなりのある、柔軟性が見える足の振り上げだった。
「――おっしゃっ!」
かけ声とともに、龍児くんは弓矢のように左足を振り切った。
そのキックに、いつの間にか僕は見惚れていた――。
破裂するんじゃないかというくらいのキック音が聞こえてきた。彼の左足は今度は見事、ボールの真芯を捉えていた。
僕の蹴った軌道から、彼の力強いキックによって、壁に向かって軌道が変わるボール。ボールは撃ちだされた弾丸のようだった。
決まった――! 壁をゴールに例えるなら、彼の蹴り出したボールは、間違いなくゴールしていただろう……。僕はそう確信した。
……だけど、現実はそうはいかなかった。
まっすぐ壁に向かって飛んでいったボールは、壁の手前で方向を変えた。
「――嘘?」
「モノは下に落ちる」という、地球の重力に反するかのように、ボールは上空へと軌道を変化させ、ホップした。
ありきたりかもしれないけど、それはまるで自由に空を飛び立とうとする、鳥のようだった――。
ボールはそのまま壁を越えていき、公園の外に出て行ってしまった。
上空を舞っていたボールの威力が弱まり、今度こそボールは地球の重力に従って落ちていく。目測だが、その距離は四十メートルはあった。
「ちっくしょー! ちゃんと壁には当たらなかったか……」
彼は残念そうな声を上げる。僕は興奮しながら彼に近づき、何だかよくわからないけど、声をかけようと思った。
――そこで、「バリン」と大きな音が、壁の向こう側から聞こえてきた。日常生活において、あまり聞きたくはない……その、ガラスが割れるような音だった。
「………」
僕は立ち止まり、ロボットのように首を音のした方向――壁を越えた先に向かわせた。
この壁の先は、大きな畑があった。入口側の住宅地とは違い、家一つない、この辺りにしては広大な畑だ。
だから、僕はてっきり……彼の蹴ったボールは畑のどこかに落ちたものかと思って、そこまで心配はしていなかった……。
だが、その畑の先にはその畑の持ち主が住んでいる、昔ながらの木造の大きな家がある。
――嫌な予感がした……。
「こら、誰だー!」
その家の方から、僕らの方に向かって怒声が響いてきた。僕は心臓の鼓動を一気に跳ね上がらせた。
「………あれ、まずくね?」
壁の向こうから、足音が徐々にこちらに近づいてくる。龍児くんもやっと事の次第に気づいたようだった。
「やっべ! おい、逃げるぞアキ!」
龍児くんは公園の隅に置かれたカバンを手にして、僕に声をかける。
「え、いや……!」
しどろもどろになっている僕に、龍児くんは苛立ちを見せた。龍児くんは物凄い速さで、入り口へと走った。僕はまだ、固まったままだった。
「お前も早く逃げろよ! ……あ、それと」
入り口付近で止まった城島くんは、僕の方を向き、大きな声を放った。
「楽しかったぜ! またやろうな!」
そして城島くんは、公園を出て左に曲がって走りだした。そこで、僕はやっと我に返った。僕は最後に蹴ったボールの感触を思い出していた。
気持ち、よかったなあ……。僕は本心からそう思った。
また蹴りたい……そんな感情に支配されそうになりながらも、僕はブンブンと首を振って、自分の「決意」を思い出す。
――今日は特別だ。仕方なかったんだ……! 僕は何度も自分にそう言い聞かせた。ノーカウント、ノーカウント……。
「すう……はあー……!」
『二度とサッカーはしない』
僕は半年前に決意したその意志を、頭の中で最確認させ、大きく深呼吸をした。
調子に乗って蹴ってしまったけど……今日で最後だ。もう僕はサッカーはしない……!
「―――よし、大丈夫大丈夫っ!」
「何が大丈夫なんだってえ?」
覚悟を決めた僕の目の前に、強面の大男が、先ほど龍児くんが蹴ったボールを持って、立っていた。
「あ、あの……!?」
引きつった笑いを見せ、誤魔化すような素振りを見せる僕に、男の人はにこっと笑みを浮かべてくれた。……ただし目が笑っていない笑顔を、だ。
「坊主、窓ガラス代、キッチリ請求させてもらうからな」
――彼の言うとおり、さっさと逃げるべきだった。律儀にも、男の人は僕にボールを返してくれた。一応、弁明しようとしたけど、上手い言葉が出てこなかった。
のちに僕は、両親にこっぴどく怒られた。そして中学卒業&高校入学記念に、春からの通学用に買ってもらうはずであったマウンテンバイクの件は、窓ガラス代へと消えてしまった。
――これが、僕と城島龍児の出会いであった。