花談義
桜の花も盛を過ぎ、薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちる。その優美で絢爛たる舞いは、輝かしく緑萌える季節の到来を祝うようだ。
不意に一陣の風が吹き、花びらを舞い上げた。その桜吹雪の向こうに、軽く片手を上げながらこちらへ歩いてくる青年の姿が見える。
「やあ、久しぶり」
「大学の卒業式以来だから、一年ぶりだな」
そんなありきたりな挨拶を交わして、僕たちは桜の舞い散る小路を歩き出した。
彼は大学時代の友人で、卒業後は郷里を離れて都会の大企業に就職した。久しぶりに帰ってきたので、会って花見でもしないかと、電話で彼に誘われたのだった。
互いの近況に始まり、世間話や思い出話など、取り留めもなく話しながら、桜の景勝地として有名な日本庭園をそぞろ歩きする。庭園の奥まったところまで来て、僕はふと足を止めた。桜並木が途絶えたところにある、常緑の広葉樹が鬱蒼と葉を茂らせた薄暗がりに僕の目は釘付けになっていた。
この桜のない一角には花見客の足も向かないようで、辺りは心地良い静寂に包まれている。そこにはもう花盛りを過ぎた椿がひっそりとたたずんでいた。深い緑色の葉の上に、もう色褪せて今にも落ちそうな花を申し訳程度に乗せている。
しかし僕はその足元にある鮮烈な色彩に心奪われ、足を止めたのだった。椿の足元に敷き詰められるように生えた苔が、木々の隙間から差し込む陽光で、まるでスポットライトを当てられたように蛍光の緑色に輝いている。その上にぽとりと落ちた椿の花。それは色褪せているからこそ、瑞々しい真紅の花にはない美しさを秘めていた。自らが光を放つようなどぎついピンク色の花が、開ききった花弁もしどけなく、蛍光の緑の上にその身を置いている。
ああ、これは初枝だ。その姿を見ていて、僕はふとある女性のことを思い出していた。
あれは三月の半ば頃だった。地元の不動産会社に勤める僕は、ある日、山間の別荘地にある物件を訪れた。築百年ほどの由緒ある日本家屋だが、その分値段も高く、なかなか買い手がつかないのだ。普段は年老いた管理人が手入れをしているのだが、急病で入院してしまったため、代わりに社員が交替で風通しなどをしにくることになった。
しかし今さら悔いても仕方のないことだが、方向音痴の僕に不動産屋の仕事は向いているとは言い難い。初めて足を運ぶ物件など、何度道に迷って上司に叱られたことか知れない。まして山間の別荘地など、似たような別荘の建物の他には目印になるようなものがほとんどないのだ。案の定、僕は道に迷い、まだ花もない季節の閑散とした別荘地を歩き回る羽目になった。
小一時間も歩き回った末、やっとそれらしい日本家屋にたどりついた。僕は安堵の溜息を吐くと共に、さっさと仕事を終わらせてしまおうと、背広のポケットから鍵を取り出し、古びた格子戸の鍵穴に差し込む。しかしどうしたことか、鍵が回らない。試しに引き戸に手をかけてみると、あっけなくそれは開いた。
訝しく思いながら前庭に足を踏み入れると、不意に奥の方から女の声が聞こえてきた。たまに空物件に忍び込んで悪さをする輩がいるものだ。まさかとは思いながらも、そっと足音を忍ばせて声のする方へ向かった。
空物件にしては綺麗に手入れされた庭を抜け、建物の裏に回りこむと、今度ははっきりとその声は聞こえた。
「ああ、桜が満開。綺麗……」
子供のようにぱちぱちと手を打ち鳴らしながら、か細い声で言っている。まだ麓の桜も咲いていないというのに、それほど標高は高くないとはいえ、こんな山中の桜が満開などということがあるのだろうか?見ると確かに桜の木はあるのだが、蕾がつき始め、梢をほんのり赤く染めてはいるものの、やはり花の咲く気配すらなかった。僕は不思議に思って声のする方を見た。
すると誰もいないはずの家屋の縁側の戸が開け放たれ、はめ殺しの格子にしがみつくようにして裏庭を眺めている女の姿が見えた。それはなんとも可笑しな女だった。年の頃は30代半ばといったところだろうか、艶々した長く美しい黒髪に、色白でこころもち面長のなかなかの美人だ。しかしその格好がまったく歳には不釣合いなものだった。若い娘が着るような花柄の真っ赤な振袖を着て、これまた瑞々しい真っ赤な口紅をひいている。ただ、しどけなく肌蹴た着物の裾から覗く、白く細い脚は妙に艶めかしく見えた。
とりあえず女ひとりのようだし、踏み込んでも危険はないと判断して、僕は彼女の前に進み出た。しかし僕が声をかけようとした途端、彼女は突然大きな声をあげる。
「ああ! 礼二さん! やっぱり来てくれたのね! 嬉しいわ! ずっと待ってたのよ!!」
そして格子の隙間から細い腕を伸ばし、いきなり僕の左手の袖を掴む。僕は慌ててその手から逃れようと腕を引いたが、彼女の力は思いのほか強く、簡単には振りほどけない。
その間にも彼女は甲高い声で何か喚きながら、もう片方の手も格子の間から伸ばし、両手でがっしりと僕の腕を掴む。彼女は、必死で逃げようとする僕の手に、逃すまいと爪を立てる。何か硬いものでも引っ掻いたように、彼女の爪は割れて尖っていた。その爪に裂かれて僕の手の甲には幾筋も血が滲む。ふと彼女の顔を見ると、その目は狂気が宿ったように爛々と光っていた。
「初枝さま! 初枝さま! どうなさいました!?」
部屋の奥から別の女の声と共に、慌しい足音が聞こえてきた。そして奥の襖を開けて、地味な洋服に前掛け姿の女が飛び込んでくる。
「あら、大変! 初枝さま! 落ち着いてください! この方は礼二さんではありませんよ!」
50代そこそこで小太りのその女は、前掛けのポケットから鍵を取り出すと、慌てて部屋の中にもある格子の鍵を開ける。それを見て僕は初めて気がついた。初枝と呼ばれた女がいたのは、縁側に張り出すような形で作られた座敷牢だった。
小太りの女が初枝を羽交い絞めにして、ようやく僕から引き離す。しかし初枝は再び彼女の腕を振り切って、狂ったように奇声を上げながら僕のいる方の格子にしがみついた。しがみつき、夜叉のごとき形相で爪を立てて叫ぶ。
「ああ! やっぱりあの女のところへ行くのね!! 殺してやる! 殺してやる!!」
閑静な別荘地に木霊するその声を聞きながら、僕は驚きと恐怖と、やっとその魔手から逃れた安堵で、腰が抜けてその場に座り込んでしまった。そこへ小太りの女が裏口から出てきて、僕の元へ駆け寄る。
「申し訳ありません。初枝さまはご病気なのです。驚かれたでしょう?」
彼女はそう言って深々と頭を下げる。それから僕の手の傷に気がつくと、もう一度丁重に謝って、傷の手当のために僕を家の中へ案内した。
「いや、お恥ずかしいです」
奥の座敷へ通され、手当てを受けながら聞いたところ、僕は大きな間違いをしていたことがわかった。僕が行かなければならなかった物件は、ここからもう少し山手へ入ったところにあるというのだ。つまり僕は間違えてここへ来て、ここの正当な住人を侵入者だと思い込んでいた。どうりで鍵が合わないはずだ。
「このあたりでは古い日本家屋なんて珍しいですからね。たまに間違える人もいますよ」
家政婦だという小太りの女は、決まり悪そうに頭を掻く僕を見て、可笑しそうに笑った。元もと話好きな性質なのか、こんなひと気のない別荘地に初枝と二人だけで暮らす寂しさがそうさせるのか、彼女は傷の手当をしながらも、ずっと一人で喋り続けている。僕は少しうんざりしながらも、なかなか席を立つことができず困っていた。
しかし世間話の種も尽きたのか、ようやく口数も減ってきたところで、僕は暇乞いをしようと腰を浮かせかけた。するとそれを察し、引き止めるかのように、再び彼女が話し出す。
「ここだけの話ですけど、初枝さまは可哀相なお方でね……」
こういった手合いの「ここだけの話」というのは、そう言いながらも誰にでも話すような、秘密でもなんでもない話だ。大っぴらに話すわけにはいかないけれど、話したくて仕方がない。そんなところだろう。しかし僕は初枝の、その大っぴらに話すわけにはいかない身の上というものに、少なからず興味を引かれた。僕はまんまと家政婦の罠にはまって、再び座布団の上に腰を落ち着けることになった。
それはもう十年も前のこと、当時二十五歳だった初枝は幸せな毎日を送っていた。いわゆるお嬢様で、何の苦労も知らずに育ち、親の決めた相手と結婚し、それに何の疑問も持たずに平穏な日々を暮らしていたのだった。
しかし不幸は突然訪れた。初枝にとっては突然だった。夫の礼二にとっては結婚前からもう三年も悩み続けた末の決断だった。
初枝の父親から買い与えられた、郊外の趣ある和風の邸宅。庭に植えられた桜の花が満開だった。すっかり暗くなった庭に面した縁側で、初枝は夜桜を眺めながら、帰りの遅い夫を待ち侘びていた。
生垣の向こうを見慣れた車が通るのが見えた。そして家の脇にある車庫に入っていく。初枝は夫が帰ったとみると、いそいそと立ち上がって台所へ向かう。すっかり冷えてしまった味噌汁に火を入れ、食卓を整える。いつもならそろそろ夫が玄関までたどり着く頃合いだ。初枝は夫を出迎えるために玄関へ行った。
春とはいえ夜はまだ冷え込む玄関に立ち夫を待つが、しかしなかなか扉は開かない。代わりに扉の向こうから、何やらひそひそと話す声が聞こえてきた。初枝は訝しく思いながら、そっと扉を開けてみた。するとそこには驚いたような顔で初枝を見る夫と、その隣でこころもち青ざめた顔で俯く女性の姿があった。初枝よりも少し年下だろうか、小柄で栗色に染めたゆるいウェーブの髪がよく似合う、華やかで可愛らしい感じのする女性だった。
「おかえりなさい。どうしたの? お客様?」
そのまま黙って彼女同様に青ざめた顔で俯く夫に、初枝は笑顔を絶やさずに言う。しかしその笑顔はどこかぎこちなく、二人に対する不審がありありと表れていた。気まずい沈黙の後、突然夫が玄関の土間に膝をつき、冷たいコンクリートに額を擦り付けるようにして言った。
「初枝、すまない。僕と別れてくれ」
「ちょ……ちょっと、あなた。いきなり何なの? どういうこと?」
あまりに突然のことに驚いて、初枝は裸足のままで土間に下り、ひれ伏す夫の肩を揺さぶった。すると今度は隣にいた女性まで夫に並ぶようにして土下座をする。
「お願いします。礼二さんを私に返してください! お願いします!」
女性は感情の昂ぶりを押さえきれなくなったように、涙を流しながら哀願する。しかし初枝には、いったい何が起こっているのかすぐには理解できなかった。
「彼女とはお前と結婚する前からの付き合いだったんだ。でも君のお父さんから君との縁談を強引に進められて、ついに断りきれなかった。僕が悪いんだ。申し訳ないと思っている。頼む。僕と別れてくれ」
寒々とした玄関に妙に響く夫の声を聞きながら、初枝はやっと理解した。確かにあの傲慢で尊大な父ならあり得ることだ。どちらかと言えば気の弱い夫が、上司の強引な勧めを断れなかったのも想像はできる。しかし頭では理解しても、そうそう簡単に納得できる話ではない。
「嫌よ! どうして急に今さらそんな……!」
初枝は取り乱して、土下座する夫の肩と言わず頭と言わず、握り拳で力いっぱい殴りつけた。しかし夫は初枝のなすがままに、ただただひれ伏したままだった。
「嫌よ! 嫌、嫌!!」
完全に正気を失って、初枝はけたたましく叫びながら家の中へ走っていく。修羅場は覚悟していたものの、彼女のその徒ならぬ様子に驚いた夫も、慌ててその後を追う。相手の女性は土間に座り込んだまま、呆然とその背中を見送っていた。
必死に初枝をなだめようとする礼二の声。初枝の泣き叫ぶ声と物が倒れたり壊れたりする音。それがしばらく続いた後、何か激しく言い争う声がした。
「よせ! 初枝!!」
礼二の恐怖に引きつった声の後、長く引き摺るような呻き声。そしてその後には恐ろしい程の静寂があった。
どのくらいの時間が経ったのか、女性は物音すらしなくなった屋内に、恐る恐る足を踏み入れた。薄暗い廊下を抜けて、煌々と明かりの灯る居間に入る。そこに繰り広げられている光景を見て、彼女は絶句した。居間と台所の境目辺りに仰向けに倒れて動かない礼二。その腹や胸には無数の刺し傷があり、背中の下には真っ赤な血溜まりができていた。
初枝はといえば、開け放した縁側に腰を下ろし、何やら楽しげに桜の木を見上げている。全身に返り血を浴びているというのに、まったく気にする様子もなく、血まみれの手で長い髪を弄びながら呟く。その足元には血に染まった包丁が落ちていた。
「ああ、礼二さん、早く来ないかしら」
その後初枝の心は、もう現実の世界に帰ってくることはなかった。遠い昔の春に満開の桜を眺めながら、夢の中をさ迷っていた。まだ何も知らない娘だった頃の初枝が、許婚の礼二が自分を迎えに来るのを待ち侘びているのだ。いつ礼二が迎えに来てもいいように、毎日美しく着飾り、赤い口紅をひいて、恋しい人の訪れを待っているのだった。
その話を聞いて、僕は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。狂ったように泣き叫んでいた初枝の声は、いつの間にか聞こえなくなっている。
「ああ、礼二さん、早く来ないかしら」
奥の座敷牢から、ふとそんな声が聞こえた気がした。その声はやっとそこを出て、目的の別荘にたどり着いても、仕事を終えても、僕の耳にこびりついて離れなかった。
「椿ってのはなんだか陰気な花だな。落ちるときも花ごとぼとりと落ちて汚い。せっかくの花見日和だ。こんなところにいないで、向こうへ戻ろう」
そんな友人の声で僕は現実に引き戻された。僕は曖昧に返事をして、再び桜並木の方へ向かう。薄紅色の可憐な花びらが、ひらひらと舞うように降り注いだ。
「やっぱり桜はいいなぁ。華やかで品があって、儚げに散っていく様がこの上なく美しい」
彼は目を細めて、咲き誇る桜を見上げながら言った。それに応えるともなく僕はひとり呟く。
「そうかな。僕は椿も好きだな。落ちてさえ、まだ花であり続けようとする。女の情念みたいなものを感じる花だよ」
「なんだ? お前、ずいぶん渋いことを言うんだな。しかし俺には女の情念なんて、なんだか恐ろしく聞こえるよ。椿かぁ……。俺にはわからんな」
そう言って笑う友人と同じように、僕も笑った。確かに女の情念は恐ろしい。しかしその恐ろしい毒の味に、僕は心奪われてしまったのかもしれない。
桜の花が咲くたびに、落ちてゆく椿の花を見るたびに、僕は初枝のことを思い出さずにはいられない。
私は椿と言う花が好きではありませんでした。しかし、作品冒頭の、落ちた椿の情景を実際に目にしたとき、初めて椿を美しいと感じました。落ちてさえ、花であろうとするその姿に感動したのです。そんなところから着想した物語でした。