五日目
「はぁっ……はぁっ……」
あぁ、最悪な夢だったなちくしょう。いきなり見知らぬ男から胸を一突き。それで殺された。そんな夢を見た。すごく怖い夢だったな。ったく、なんだってこんな夢を。
「うにゅーん。お兄ちゃん、おはよ」
……小夜が俺の胸にしがみついていた。
さっきの夢は小夜のおかげか。胸が苦しいと嫌な夢を見るっていうもんな。
「おはよ。小夜」
「お兄ちゃん、起きて起きて。遊ぼっ!」
「顔洗うから、少し待っててな?」
小夜は朝から元気一杯に階段を駆け下りて行った。
「おはようございます」
「ああ、おはよ」
美月はベッドの横で奥ゆかしく正座して丁寧にお辞儀した。また何か企んでやがるのか?
「私は一晩中悩みました」
「は?」
「とぼけないで下さい。プリンか皿うどんかという話しです」
ああ、そんなことを言っていた気がする。一晩中て、こいつもとことん暇だな。
「私は悩みました。本当に食べたいものはどちらか。とろーりパリパリの未知の食感。プリンを食べたときの幸せそうな小夜さんの顔。どちらも捨て難い。しかし、楽しみにしていたにも関わらず手の届かなかった……ってどこ行くんですか!」
何やら熱弁していたけれど、小夜が待っているんだ。朝飯も食いたいし。
「別に、俺はどっちでもいいし」
美月は両手を上げて驚愕の表情で後ずさりした。
「あなたがどちらか選べと言ったから! 一晩中、本当に一晩中! 悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩み抜いてやっと出た私の結論を聞きたくはないのですか!?」
必死で訴える。どうしてそんなわけのわからんプリンか皿うどんかの考慮結果を長々と演説されにゃならんのだ。小夜も待ってるんだし。
「で、どっちなんだ? プリンか皿うどんかで答えてくれ」
「ぷ、プリンです」
「よしわかった。解決だな」
「い、いや、何故プリンを選んだかというとですね?」
「食べたいからだろ? 小夜が待ってるから行くぞ」
「は、はい……」
美月はしょぼくれて追ってきた。
今晩にでも子守唄代わりに聞いてやろうか。
起きて居間に行くと、朝飯が用意されていたので小夜を待たせることになってしまった。
「ごめんな。何して遊ぼうか?」
「お兄ちゃん、『桟橋』行こう!」
『桟橋』か、懐かしいな。『桟橋』っていうのは島との連絡船の船着き場にある売店の通称だ。本当の名前はなんとか商店っていうんだけど、気がついたら『桟橋』って呼んでいた。小夜はそこに売られている一口まんじゅうが大好きで、俺がこっちにいた頃は、小遣いをもらえばまんじゅうを買いに行っていた。一袋十個入りで二百円なんて、安いだろ?
小夜はひまわりが控え目に描かれたノースリーブの白いワンピースに身を包み、赤いリボンが巻かれた麦わら帽子を被っていた。帽子は去年あげたもので、少しだけ、色褪せていた。
家の前の階段を駆け下り、小道を駆け抜け、車の間を避け抜け『桟橋』に到着。
「おはようございまーす」
小夜の元気なご挨拶。『桟橋』のおばあちゃんが、おんやと顔を覗かせた。俺は一年はここに来ていない。
おばあちゃんは顔をくしゃくしゃにして笑い、
「おはよう小夜ちゃん。今日はお兄ちゃんと一緒だねぇ。久しぶり、渉くん」
「あ、お久しぶりです」
こんなかしこまった喋り方はしてなかったんだけどな。
「おばあちゃん、おまんじゅうちょうだい!」
小夜はいつもにこにこ笑顔を振りまく。我が妹ながら感心するな。
「はいよ」とおばあちゃんからまんじゅう袋を二つ受け取った。
『桟橋』を出て、小夜にジュースを買ってやり、海岸沿いの散歩を始めた。
船着き場は二ヶ所あって、その間を往復する。まんじゅうを頬張りながらの、それがいつものコースだった。
少しだけ風が強くて、小夜は麦わら帽子のゴム紐をしっかりと顎に結ぶ。その様子を微笑ましく思いながらまんじゅうを一つ口に放り込む。甘さは控えめで何個でもいけそうだ。例のごとく美月が俺のシャツを引っ張るので小夜に隠れて一つ。憎たらしい奴だが嬉しそうに頬張る姿もまた微笑ましい。
「ねーねーお兄ちゃん、ここ覚えてる?」
海岸沿いのブロック塀の切れ間で、小夜が海を指差した。引き潮の時は海底が顔を出すので、そのときは子供らの遊び場になっていた。
「覚えてるさ。あの時は大変だったからなぁ」
昔、ここで遊んでいた時に小夜が海に落ちた。ちょうど潮が満ちていておぼれてしまったんだ。それから小夜は水を少し怖がるようになった。海でも川でも深いところへは行かない。水辺で、涼むくらいに水に浸るしか遊ばなくなった。
「でもね、小夜もう泳げるようになったんだよ」
「へーっ、浮き輪つけてだろ?」
「違うもん! ちゃんと学校のプールで練習したんだもん!」
そうか、中学から水泳の授業が始まったんだ。小夜もしっかり成長してるんだな。
「わかった。今度みんなで海か川に行ったとき見せてもらおうかな」
なんて、できもしないこと言うもんじゃないな。
「うん!」
それでも小夜がこんなに嬉しそうに笑うなら、必要な嘘なのかもしれない。
小夜は「足も早くなったんだよー」とその辺りを走り始めた。
「小夜さんは知らないのですから、あなたがそんな顔をすることはないと思います」
美月は小夜を眺める俺の横に立ち、同じように小夜を眺めていた。
「罪悪感を感じる必要はありません」
顔に出ていたのかな。しっかりしないと。
最後まで、いいお兄ちゃんでありたい。
「まったく、たまーに気を効かせたこと言うと気味が悪いぞ」
「なっ……! たまにではありません!」
「どうだかな」
だけど少し、美月の言葉に救われた気がした。
ありがとうな、美月。
「そう思ってるなら素直にそう言えばいいのにぃ」
「なっ……!」
美月はいつの間にか俺に触れていて、本当に、憎々しいくらいに意地悪そうに笑っていた。
そして俺はすぐに顔が熱くなるのを感じる。これは怒りか? 羞恥心か?
「照れちゃってー。このぉ、ツ・ン・デ・レ♪」
と愉快に笑って俺の額をちょんと押す。
……間違いない。これは、怒りだ。憤怒だ!
「美月。お前泳げるか?」
「はい? さぁ、泳いだことないですから」
「そっか、安心した」
俺は瞬時に美月の腕を掴み自分を軸に二周半、海に向かって美月を投げ飛ばした。
「うわにゃああああぁあああぁぁぁあぁあぁぁぁ!?」
本当に誰にも届くことのない愉快な悲鳴を上げて、海へダイブ。大きな水しぶきが虹を作った。
美しい。ああ、なんて清々しい気分だ。
あいつは死神だからな、死にはしないだろ。
「お兄ちゃん、何か海に落ちた音が聞こえたんだけど」
「お兄ちゃんには聞こえなかったぞ? さぁ、そろそろ戻ろうか」
「待ちやがれです」
背後から俺を呼ぶ海の妖精の声が聞こえた。復活早いなぁおい。
振り返ると水にも濡れていない、傷一つ負っていない美月がたいそう恐ろしい眼光を放ち立っていた。その口はぴくぴく引きつった笑みを浮かべている。
(泳げたのか?)
(底を歩いてきましたとも)
(たくましいな)
(死ぬかと思いました)
(死神なら死なないだろ)
(捨てられました)
(それは認めよう)
(…………)
(…………)
「お兄ちゃん?」
「お、おう、何でもないぞ。さぁ帰ろう」
歩き出そうとするものの、美月の奴め腕を離さない。
(後にしろ)
(プリン二つです)
(やなこった!)
(動けなくして海に沈めますよ?)
(アイスもおまけだ! もってけ泥棒!)
手を離して妄想の世界に旅立つ美月。涎を拭け。みっともない。誰にも見られないけど。
家に帰ると、昼食の準備をまた手伝わされた。今度は小夜も一緒だったから、思い出にはなったかもしれないな。
昼飯の時に父さんは現れず、聞くと、プラモデル作りに熱を入れているらしかった。
片付けをして、実家を出る支度をして、父さんの部屋に向かった。
昼二時のバスに乗らないと帰りが夜中になるから、そろそろ挨拶しないといけない。
それに、行かないといけない場所もある。
「父さん、そろそろ帰るよ」
一旦手を休め、汗だくの顔で俺の方へ振り向く。
「何だ、もう帰るのか」
「ああ、またあそこ寄ってくから」
父さんは、それに渋い顔をした。
「なあ渉、お前のせいじゃ……」
「わかってるって」
「ならいいが。夏休みには帰って来るんだろ? どうだ、夏休みには一緒に大作を完成させようじゃないか」
俺は「……うん」と気のない返事をした。
「よし、じゃあ楽しみにしてろよ。新しいの買っておかないとな」
「作る時はせめて別の部屋で作ろうよ。それと、買い過ぎて母さんに怒られないようにしなよ?」
父さんは痛いところをつかれたのか苦笑いをして頭をかいた。
「じゃあね、父さん」
俺もそれに苦笑で返事をして、父さんの部屋をあとにする。
居間に戻ると、小夜がむすくれた顔で座っていた。
「お兄ちゃん、もう帰っちゃうの?」
「ごめんな、またすぐに帰ってくるから」
「お兄ちゃんのすぐなんていつかわからないよ。夏休み前に絶対もう一回帰って来てよ?」
ぶぅ、頬を膨らませる小夜の頭を撫でていると、母さんが重そうに何かを抱えてきた。
「あんた、これ持って行きなさい」
「い、いいよ。荷物になるだろ」
それは十キロの米だった。近くの農家からもらったものなのか、精米もせずにビニール袋に入れてある。
「いいから。持って行きなさい」
強引に十キロの袋を持たされる。暑いんだからこんな荷物は勘弁してもらいらいんだけど、これも母さんなりの気遣いなんだろうな。「ご飯の炊き方が甘かったわ」なんて、最後まで嫌味ったらしさは変わらない。
そして、玄関先で母さんと小夜に見送られて実家を出た。階段を下り、小夜にいつものように『また』とは言わず「バイバイ」と手を振り返して、今度は振り返ることなく坂を下った。
ほんの少しだけ、いつもと違うお別れだった。
坂を下りて、小道を抜け、表通りに出る。それから、バス停とは反対向きに足を向けた。
それにしたって米が重い。
「美月ー」
「はい。まずはプリンですね♪」
何かとあればそれか。
「この米、お前の髪の裏に入れられないか?」
「はいはいどうぞ♪」
従順だな。
美月は髪を翻して米をブラックホールのような空間に放り込んだ。便利だ。
「では、まいりましょう」
「その前に、寄るところがあるんだ」
「えーっ……」
美月はぶつぶつぼやきながら俺のあとをついてくる。少しくらい我慢してもいいだろ。まぁ、俺もあんまりおあずけを喰らわせ過ぎてるもんな。
「どこに行くのですか?」
「墓参り」
実家に来た帰りにはいつも寄る墓参り。表通りから墓地に入り、少し坂を上ったところにうちの墓はある。草が無造作に生えている道を抜けて、墓地の一角。
俺が毎回そこに寄るのは、別にご先祖様を崇めているわけじゃない。俺が墓参りするのは、生まれてこられなかった命の眠る墓。
途中で備え付けのバケツに水を汲んで、森田家の墓の前に立った。一度その前で手を合わせ、横に視線を向ける。小さな、ペッドボトルくらいの大きさの墓。それが、すぐ横にある。俺はその小さな墓の前に膝をつき、水をかけて軽く掃除をした。
「あの、あなたの家のお墓はそちらでしょう?」
俺が一息つくと、美月が首を傾げて我が家の墓石を指差した。
「そうだよ。この小さな墓は俺が作ったんだ。別に何か埋まってるってわけじゃないけどな」
「ペットか何かのお墓ですか? あれ? あなたの家でペットなんて飼ってましたっけ?」
「これはな、美月の墓だ」
そう言うと、美月はきょとんとして自分の顔と小さな墓を交互に指差した。
「なっ、なななっ、こ、こんなところに来て私を殺すつもりだったのですか! そんなにプリンを食べさせたくなかったのですか! わ、私は簡単に消えませんからね!」
と、セミも鳴き止む大声で怒鳴り散らす。発見、虫には美月の声が聞こえるらしい。
「勘違いするな。これはお前の墓じゃないよ。そもそもプリンくらいで殺すかアホ」
「あ、アホとは何ですか! あなたが今、私のお墓と言ったでしょう!」
「たしかに美月の墓とは言ったがな、これは妹の美月の墓なんだ」
「……妹? あなたの妹は小夜さんしかいないはずです。妹好きにもほどがあります」
「黙れ。妹は妹でも、生まれてこられなかった、双子の妹の墓なんだ」
「生まれてこられなかった?」
「だからデータにもなかったんじゃないのか?」
「それなら……納得もできますが……」
美月が考える横で、俺は墓の前で手を合わせた。
悪いな、こんな奴にお前の名前つけちまって。
二卵性双生児。
妊娠が確認されて、無事に成長して生まれてきたのは俺だけだった。原因が何かは聞いていない。俺が妹の美月の話しを詳しく聞いたのも、一度だけだった。父さんも母さんも、俺が気に病むかもしれないと、隠していたことらしい。父さんは俺のせいじゃないって言っていた。そんなことわかってる。だけど、俺が生まれてきたせいで、妹の美月は生まれてこられなかったのかもしれないと、そう思ってしまう自分もいる。こうしているのも、ただの自己満足で、小さな罪滅ぼしかもしれない。
「たしかに……美月という名前を見つけました。あなたが小さい頃のことなので、気にかけていないところでしたね」
美月はいつの間にかデータを広げていた。
「ああ。美しい月が映る湖を渉る。そういう意味らしい。そして小夜はその周りの小さな夜だ。まったく、あんな両親に似合わないよな」
「素敵じゃないですか」
美月は微笑んで、小さな墓の前にしゃがみ手を合わせ目を閉じた。
死神が墓の前で手を合わせるなんて、おかしな話だよな。
俺も、美月に合わせて目を閉じた。
しばらくは、セミの鳴き声だけが響き渡っていた。
「あなたが小夜さんを大事にしているわけがわかりました」
「別に美月のことがあったからじゃないさ。そうでなくても小夜は可愛いからな」
「……やはり妹萌え」
「違う!」
「冗談ですよ。私を美月と呼ぶのなら、もう少し優しくして下さいな」
「ははっ、それこそ冗談だろ」
「ひどい人ですねー。あなたは地獄行きです」
「じ、冗談だよな?」
「さぁ……」
「ぷ、プリン買いに行くか!」
「はいっ♪」
美月はご機嫌に鼻歌を歌いながら大きく腕を振って歩いていた。もし妹の美月が生まれてきていたならこんな感じだったのかなと、想像してしまう。もしかしたら、俺の中で隣に妹がいたらなんて、そんな願望が密かにあったから美月って名前をこいつにつけたのかもしれない。美月が優しくしてくれって言ったのも、もっともなことかもな。なんて。
死んだらどうなるんだろう。死んだら、あいつに会えるのかな。たしかに、少しの間だけでも芽生えた命に。あいつも俺と同じように大きくなっていたりするのかな。向こう側も同じような暮らしなのかな。
「なぁ、死んだら美月に会えたりするのか?」
ふと、疑問に思った。天国とか地獄とか、本当に存在するのかって。
「私にですか?」
「ああ……まぁそれでもいい。知り合いがいるのは何かと心強いし」
美月は大きく深呼吸して、寂しそうな目で俺を見た。
「残念ながら、死後にそういうことはできません。と言うより、存在自体が消滅してしまうのです」
それって、つまり俺が消えてしまうってこと?
「肉体から切り離された〝ゼン〟は浄化されるのです。つまり、生前持っていた記憶などを全て消して、新たな命へと生まれ変わらせるのです」
「じゃあ、今の俺は……」
「消える。無になるのです。それは誰しも同じです。ですから私に、もちろん妹の美月さんにも会うことはありません」
「そっか……なんか寂しいな、それ」
美月は小さく「そうですね」と呟いた。
お空の上から小夜を見守るなんてこともできないんだな。
………………あれ、でも、それってどうなんだ?
「なぁ、つまらないこと聞いていいか?」
美月は訝しげに俺を見たあと「どうぞ」と頷いた。
「幽霊ってさ、いるの?」
おうおう、そんな面倒臭そうな顔で見ないでくれよ。気になったんだから。たしかに唐突だけどさ。心霊写真とかあるけど、存在が消えるっていうならあれってどうなんだよ。
「それもすなわち〝ゼン〟のことです」
「つまりいると?」
美月はふむ、と小さく溜息をついた。
「本来存在してはいけないんですけどね。我々の誰かが仕事をさぼったおかげでこの世を彷徨うことになる〝ゼン〟もあれば、強い思いで我々の干渉を拒否してこの世に留まる〝ゼン〟もあります。そうなってしまえば我々にはどうしようもできなくなってしまうのです。この世に残ってしまった〝ゼン〟。それが幽霊と呼ばれるものの正体ですね」
「ふーん、強い思いがあれば消えないのか……」
不意に呟くと、美月が鋭い目つきで俺を睨んだ。
「変なことは考えないで下さい。強いと一言で言っても、それは我々の干渉を拒否してしまうほどの強い思い。しかもそれは恨み、妬み、悔みなどの負の感情がほとんど。私の力で簡単に動きを封じられてしまうあなたにはそんな強い思いの力はありません」
真っすぐに俺を見て、窘めるように、言い聞かせるように言った。
「そ、そんな怖い顔するなって」
「それに〝ゼン〟単体ではこの世に長く留まることはできません。肉体も〝ゼン〟も持ちつ持たれつの関係なのです。この世に残った〝ゼン〟はいずれ消滅してしまいます」
そこまで言って、美月は儚くも優しい笑顔を見せた。
「輪廻転生という言葉があるでしょう。〝ゼン〟は生まれ変わるのです。それすらできなくなるなんて、もっと寂しいことだと思いませんか?」
その笑顔に、俺は思わず頬をぽりぽり掻いてしまう。
「あー……悪かったよ。一瞬、この世に残れるかもなんて思っちまった」
「いいえ。さ、プリンプリン♪」
〝ゼン〟が消えるってことは、それこそ命が消えてしまうってことなんだ。
命に対する概念が違うだけで、命を大切にするっていう意味では、美月も俺たちと同じことなのかもしれない。
そう思っただけで、美月が近い存在に思えた。
小さな背中の黒髪の死神を、駆け足で追いかけた。
帰りのバスの中、俺が持つ箱の中にはプリンの空が三つ転がっていた。美月はすでに四つ目のプリンに手をつけようとしている。
「おいおいおい、もういいだろ」
「いいじゃないですか。まだあるんですからぁ」
結局、ケーキ屋に残っていたプリン六つを全部買うことになった。美月がショーケースにへばりついていたまではよかったものの、ケースをすり抜けてその場で食べようとしやがった。幸い、気付いたのが俺だけでよかったものの、誰かに見られていたら怪事件発生の大騒ぎだ。仕方なく、残っていたプリンを全部買うことで美月を落ち着かせた。
「ダーメーだ。どうせまたあとで食べたくなるだろ」
「う~~……意地悪ですぅ」
泣きそうな顔してもダメなものはダメ。大体俺の金だっつーの。意地悪とか言う前に感謝してもらいたい。
美月は手に取ったプリンを渋々箱に戻し、その後は俺が持つ箱を舐めまわすように見ていた。ガーディアンにでもなった気分だったな。
アパートに着くと、美月はさっそく俺が持つ箱を狙ってきた。
「冷やした方がおいしいぞ」
そう言うと、流れるような無駄のない動きで俺から箱を奪い冷蔵庫へ押し込んだ。
美月は冷蔵庫の前でずっと、プリンが冷えるのをまだかまだかと待っていた。パタパタパタパタ冷蔵庫を開け閉めする音が忙しなくやかましい。
「そんなことしてたら冷えるの遅くなるぞー」
「し、しかし、目の前にあるのに手が出せないもどかしさで私は、私はもう……!」
冷蔵庫のドアに頬ずりして腰をくねらせて悶える。奇妙な生き物がそこにいた。揺れるミニスカートがうひょう、なんて思わない。
美月が悶えっぱなしのところを横目に夕食を済ませ、浴槽にお湯を溜める。昨日の実家の風呂が気持ちよかったので、久しぶりにお湯を溜めてみることにした。
食器を片付ける間にお湯は溜まり、さっそく風呂にする。美月は風呂場まで入ってくることはなく、相変わらず冷蔵庫の前で待ち構えているようだった。職務怠慢だな。
滅多にお湯を溜めない浴槽に浸かると、どこか新鮮な気持ちになった。入浴剤などは常備しているはずもなく、ただのお湯だけどなんとも気持ちが良い。
「あ~~~~……」
なんとなく、声を出してみる。ちゃぷんと、お湯が返事した。
明日は学校だ。二日通えば、俺はいなくなる。
その前に、明日美に気持ちを伝えなくちゃならない。
いまさらながら恥ずかしい、なんて思ってる場合じゃないんだよな。このまま終わるなんて嫌だ。ただ、伝えられればいいんだ。だけどそれがどんなに難しいことか。
昔からずっと好きだった。
何から話せばいいのか、どんなふうに話せばいいのか。明日美のことしか見てこなかった俺は、当然告白なんてしたことはなく、何もわからない。テレビドラマのようにロマンチックな場所で夜景をバックに、とか、それなりのイベントで勢いで……なんて、そんなもんがあるわけない。
明日だ、明日伝えるんだ。最後の日は、何があるのかわからない。
どうせ死ぬんなら……死ぬんなら当たって砕けろじゃないか。結局、そこに行きつくんだよなぁ。自分らしく、自分の言葉で、ただ一言。
しばらく頭の中で明日のシミュレーションを敢行して、風呂から上がった。何度しても、逃げ出す自分しか想像できなかったわけだけど。
風呂場から出ると、いまだ冷蔵庫の前で悶えている美月がいた。
「まだやってたのかよ」
「まだですかねぇ、プリンまだですかねぇ~」
今にも泣きそうな声だ。自分で見てみりゃいいのに。
「確かめてないのか?」
「開けると冷えるの遅くなるって言ったじゃないですかぁ」
そう恨めしそうに言われても。美月も単純っていうか素直っていうか……。
「もう冷えてると思うけどな」
「ほ、ほんとですか!?」
美月はそう聞くやいなや冷蔵庫のドアを開ける。
その時だった。
「ようやく会えましたねプリンちゃ……うっ……ああっ!」
美月は突然うずくまり頭を抱え込んだ。
まさか気付かぬうちに食べててありませんってオチじゃないだろうな。そこまでいくと病気だよ。
そう思いつつ、うずくまる美月の上から冷蔵庫を覗く。箱は残されていて、プリンもちゃんと三つ残っている。
「何だ、あるじゃないか」
箱を取り出し、美月に渡そうとするけれど、どうにも様子がおかしいことに気付いた。
「あっ……あっ、あっ……」
「美月?」
頭を押さえ、歯を食いしばり、苦しんでいるように見える。
「お、おい、どうした?」
呼びかけるものの、答えられないほど苦しいのか、美月はさらに体を丸め込む。
「お、おい! 美月! 美月!」
「あ、頭が……」
「頭が痛いのか!?」
ど、どうするどうする? 人間の薬なんか効かないだろうし、病院に……ってダメだ! 美月の姿は誰にも見えない。とにかく、ああいや、とにかく寝かせないと!
美月の体を抱える。小さく震えて、額には汗が滲み出ている。意識もはっきりしていないのか、時折開ける目はうつろで、視線は定まっていない。
急に、何が起こったんだよ。
「そ、そんなっ……!」
突然、美月が大きく目を見開いた。
「ど、どうした?」
「い、いえ。もう大丈夫です」
「大丈夫ったって、お前、すごく苦しそうだったぞ?」
でも、見る限りでは、少し呆けた顔をしているが平気そうだった。意識もはっきりしていて、俺の声も聞こえているようだ。
「ほんとに大丈夫なのか?」
「はい。すみません。ご迷惑おかけしました」
一体何だったんだ。ほんの少しの間だったけれど、焦ったな。
美月は軽く頬笑んで、俺を見上げた。
「お姫様になった気分です」
「え? あ、悪い」
「このままくちづけを……」
唇を寄せてきたのでベッドに放り投げた。一応気を遣ったつもりだ。ベッドだから。
「な、何て事するんですか!」
「もう平気なんだろ?」
「ある意味殿方の強引さを感じますが何て事するんですか!」
「なぜ言い直した……」
「欲情したのならばそうと……あーーーーーーーーっ!」
いきなり何かを指差して叫んだ。指先を目で追うと、放置されたプリンの箱。
「せっかく冷やしてたのに……」
ガクッと、力無くベッドに崩れ落ちた。何か、もう見慣れた形だな。
「出してからそう時間も経ってないから大丈夫だって。大事に食べろよ?」
俺は箱からプリンを一つとって「冷えてるだろ?」と手渡した。
美月は冷えているのを確かめて、目を細めて笑った。さっきの名残か、頬が少しだけ赤い。
「うーん、おいしい! 最高です!」
「ははっ、何だよ、泣くほどにおいしかったのか?」
美月の目には涙が浮かび、そして留まることができなくなった涙は頬を伝って流れ落ちた。
「え? あはは、何でしょうね。ずっと待ってましたから」
「ふふ、変な奴」
「えへへ……」
なんだろう。
美月が笑って、安心している俺がいた。
声が聞こえた。
笑うことも、悲しむことも、怒ることも、喜ぶことももうなくなる。
それでいいのだ。
それが本来の姿なのだ。
何も考えることなく、忠実に命令を実行する。
永遠に理解できないことならば、理解しようとしなければいい。
それはわかっているつもりなのに。
私はただの……