8話後編 亡者の森02
冷静な頭が、それを事実として受け止めようとしていた。
Fランクになって、まだ日も浅い。初陣で、偽造依頼で、死地に送り込まれて。それもまさか、幼馴染に仕組まれるなんて——笑えない話だ。
岩肌を撫でる。冷たい。ああ、俺もあと少しすれば、この岩肌のように熱を奪われ、残骸が腐葉土の奥に還っていくのだろう……。その時――。
左手に、奇妙な感触があった。
岩壁の表面。泥と苔に覆われた、ただの岩肌——ではない。線がある。自然の削れ跡にしては、整いすぎている。均等な間隔。繰り返す記号。
文字だ。
掌で記号を撫で、感触だけで文字を読み取る。翻訳士として備わっている能力だ。この世界で利用価値のないスキルと呼ばれるもののひとつ。
「俺の唯一の牙は……知識だ」
いくら、そうであっても、だ。敵から少しでも意識をそらすなど自殺行為。いや、この状況ではどのみち助からないのだから、自殺行為という表現が的確なのかは不明だが。
いずれにせよ、何故この状況で、わざわざ”それ”を確認しようと思ったのか。それは、当人にも分からない。窮地の人間が取る行動など、えてして常識を逸脱しているものだ。
苔をこすり落とす。右腕がだらりと力をなくし、体のバランスが崩れている。左手だけで、岩壁を引っ掻くように苔を剥いでいく。古代の結界文字が、少しずつ姿を現した。
掌で全文を撫でる。脳内で翻訳が走った。
直訳はすぐに出た。
「汝、日は沈み、石は眠る。静寂の拍動が刻を叩くとき、道は開かれん」
夜の静寂を称えた叙景詩。あるいは誰かの日記の断片。
昔の人が遺した、他愛のない文章ーー。普通の翻訳士なら、そう解釈する。もしくは、そこから踏み込んだとしても、この文が本来意味している、内に隠れた言葉にはたどり着けないだろう。
だがカインの目には——景色が見えた。
「言葉の裏に、景色が見える」
声に出していた。自分でも気づかなかった。
「汝、日は沈み」は夕暮れじゃない。俺の視界が沈む……つまり暗くなる、今この状態だ。大量出血による意識の混濁。
「石は眠る」は静寂じゃない。
眠石――「石のように静かな捕食者」を指す古代の隠語だ。同時に「石のように動かぬ、息をしない獲物」という隠語でもある。
シャドウウルフが群れで獲物を狩るその瞬間、今までの咆哮が嘘のように止む。そして、群れ全体から確実に「獲物」として認識されたその瞬間、隠語は2つの意味で重なる。
「静寂の拍動」は——己の鼓動。
これは詩ではない。起動条件だ。
「道は開かれん」――道(扉)を開ける条件が、今この瞬間、全て揃っている。
視界は暗転しかけている。狼は今、完全に沈黙している。あとは——。
カインは古代文字に、手首を押し付けた。これでもかというほどに。
脈が最後の悪あがきをしている。ドクン、ドクン……と、岩肌に伝わっていく。
同時に、シャドウウルフの群れが牙を剝き、飛びかかってきた。血の滴る最高の獲物に。
朦朧とした意識のなか、カインは息を、止めた。
刻が――止まった気がした。
何が起こったのか、カインには理解できなかった。
黄金の幾何学模様が走り、石の表面が光の網に変質した。
固体だったはずの岩が、触れれば透過できる何かへと変わっていく。狼の牙が空を切った。カインの体は、岩の内側へ——吸い込まれるように、消えた。
——。
カインの目の前に広がっているのは、洞窟だった。
背後で、何かが壁に激突する音がした。
シャドウウルフの咆哮、やがてそれらも消えていき、静寂だけが残った。
カインは床に崩れ落ちた。
冷たい石の感触が頬に触れた。右肩が痛い。左手が震えている。呼吸が浅い。鮮血が留まらず流れる。
それでも——生きている。
外の喧騒が嘘のように静かな空間。天井が高く、奥に向かって続いている。
意識が薄まるなか、カインは無意識に歩いた。何かに導かれるように。
そして——。
先には、見たこともないような美しい泉と、それをより一層煌びやかにさせる光。光源などない。洞窟の岩肌から、淡い青白い輝きが滲み出るように広がっていた。
泉は、地下泉だろうか。とにかく、美しい。何か魔法で清められたのかと思うくらいに。
最期に、こんなに美しい景色を見られたのは、ご褒美と受け取ってよいものか。
「ははっ……。初陣で、このざまかよ……」
自嘲が、息と一緒に漏れた。笑おうとして、うまく笑えなかった。右肩の感覚が完全になくなっていた。視界の端が黒く滲み始めている。
走馬灯というものは、本当に走るのだな、とカインは思った。翻訳事務所の薄暗い部屋。黄ばんだ古書のページ。ギルドマスターの硬くて温かい手。
意識の外で、光がかすかに揺れた気がした。
……何かが、いる。
その思考を最後に、カインの意識は——静かに、落ちた。




