7話 挑発と無知
湿地帯は水棲魔物の棲家だ。一見、沼地に埋まった苔の岩にしか見えないものが、巨大な亀型魔物ということもある。蛙型魔物は長い舌で冒険者を捉えては、大きな口の中に放り込む。吐き出す霧で幻覚を見せる樹もある。
だが幸い、依頼先の湿地にはスライムしかいなかった。Fランク依頼なのだから、当然なのかも知れない。それでも魔物は魔物。湿地帯のスライムは、粘液で冒険者の体に絡みつき、沼へとひきずり込もうとする。
スライムをより楽に倒すためには、ちょっとしたコツと裏技がある。剣には、ムギ粉を塗す。パンの原料となる粉だ。そうすると、通常よりも刃が通りやすくなる。更に、その剣で突き刺す。切り裂くのではなく、突く。体内に刺さってから、横に引き裂く。そうすれば、簡単に倒せる。
「さて、スライムも一通り排除したし、早速ミズヨモギの採取をしよっかな」
目的のミズヨモギは、湿地の底に生える。
泥の中に膝まで浸かり、両手で引き抜く。根が深い。一本抜くのに十数秒かかる。それを束にして、ようやく依頼達成の最低ラインに届く。
カインは泥だらけの手を川の水で洗いながら、今日の収支を頭の中で弾いた。
ミズヨモギ採取、十五束。報酬は銅貨十五枚。宿の屋根裏部屋の家賃が銅貨十枚。三枚で今日の食事を賄う。パンと、安い干し肉を二切れ。それで明日の朝まで保たせる。残り二枚は装備品のメンテナンスなどのために残しておく。
Fランク冒険者の現実は、思っていたよりずっと泥くさかった。
ゴブリンより弱いスライムの生息域での採取依頼が、今のカインには一番手堅い。危険が少なく、体力さえあればこなせる。それでも収入は微々たるもので、月が変わるたびに家賃が重くのしかかってくる。
Fランクソロ冒険者の最低報酬は、翻訳士と比べても断然少ないのだ。生活ギリギリの収入。だが、依頼をこなせばランクは上がり、収入も増えていく。もう少しの辛抱。そう思えるのが救いだった。
ギルドに戻り、受付でアムルに束を渡す。報告を済ませ、カウンターの隅で明日の依頼票を眺める。ミズヨモギ採取。またミズヨモギ採取。森の外縁部での魔物の巣の確認——これはFランクソロには少し荷が重い。そして、またミズヨモギ採取。
流石に、もう少し報酬の良い依頼を受けるべきだな……。
「はぁ……」
ため息をついた瞬間、ギルドの扉が開いた。
空気が変わった。騒がしかった声が、わずかに止む。誰かが「おい、雷光の騎士団じゃないか」と呟いた。
現れたのは、五人の冒険者パーティー。
先頭を歩くのは、見覚えのある金髪だった。重剣士らしい意匠の凝った重装鎧は、実用より威圧感を重視した造りだ。隣には、褪せた麦藁色のクロークを羽織ったバンズがいた。薄手の軽装に、腰の左右へ短剣を一本ずつ。ジルの半歩後ろに引いて立つ癖は、昔から変わっていない。その後ろに、黒を基調とした派手なローブを纏った黒魔道士の男が続く。装飾品がじゃらじゃらと鳴り、テンションが顔に出ていた。隣に動きやすそうなレザーアーマーの軽剣士の男。
最後尾に、白を基調とした神官服の女性が一人。清潔感のある出で立ちで、他の四人とは少し距離を置くように歩いていた。
金髪の男——ジルが、ロビーの中央で立ち止まった。周囲の女性冒険者たちが我先にと声をかけてくる。ジルは得意げに金髪をかきあげ、愛想よく応じた。
黒魔道士が「ジル羨ましいぜ!俺にも譲ってくれよ!」とテンション高く騒ぐ。剣士が「ほんとそれな!」と続いた。
「お前らには無理だろ」バンズが鼻で笑った。
「なんせ、色気がないからな」
「お前には言われたくねえなぁ!」
男たちの言い合いを、神官服の女性が冷めた目で見ていた。やがて呆れたようにジルの袖を引く。
「早く依頼受けましょうよ。引き継ぎ登録してからまだ一度も依頼受けてないんだから」
ジルはそれを軽く手で払った。
Aランク昇格の箔付けのため、より高難度の依頼が集まるルーデルへ移籍してきた——そんな噂は先週にはもうギルド中に広まっていた。今、Aランクに一番近いBランクパーティーとして、彼らの注目度は高い。
俺には関係ない――。
カインは、自身の彼らへの注視を断つべく、視線を依頼票に戻そうとした。
その時、ジルの視線が止まった。
止まって——それから、口端が引き上がった。
「お前……カインか」
懐かしい感じは湧かなかった。懐かしむ余裕など、なかった。
「久しぶりだなあ、役立たずの翻訳士さんよぉ」
バンズがその隣で、品定めするように目を細めた。
「お? こんな場違いなところで、何してるんすか?」
カインは依頼票を持ったまま、二人を見た。泥の乾いた匂いがまだ手に残っている。
「依頼の確認をしてた」
「……へえ」
ジルが仲間たちを振り返った。カインの紹介をする。
「ああ、同郷の幼馴染だよ。冒険者を夢見る、健気な翻訳士のカインだ」
黒魔導士がにやりとした。軽剣士が声を上げて笑った。神官服の女性だけが笑わず、ジルの袖を軽く引いた。
「前のギルドから引き継ぎ登録をしたんだから、早く依頼を受けましょう」
ジルは、煩わしくそれを手で払う。
カインはまっすぐジルを見た。彼に一番伝えるべき言葉を探して、伝えた。
「一応、夢の一歩目は叶えたよ」
ジルの表情が、一瞬だけ固まった。だが、すぐに表情を元に戻す。
「なんだぁ? お前、受付担当にでも採用されたのか? それにしては剣なんか似合わない物持ちやがって」
ジルが、高らかにわざとらしく笑う。それに呼応するように、バンズやメンバーの男たちも大声で笑い始めた。
「違うよ、冒険者になったんだ」
その答えに、ジルは笑い声を止めた。遅れて、仲間たちの笑い声もかすれていく。
ジルが目を細めた。さっきとは違う目だった。冷たい目をしていた。
「おいおい、嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をつけよ。翻訳士は冒険者になれない規定があるって知らないのか?」
バンズが横から口を挟む。
「本当っすよね。ルール知らないと、受付人にもなれないっすよぉ?」
カインはポケットからカードを取り出した。ギルドマスターから手渡された、Fランクのライセンスカード。まだ新しい。使い込んだ形跡もない、ぴったりとした四角い板。
二人の目が、それに向いた。
ジルの口が、かすかに開いた。
「……お前、どんな汚い手を使いやがった。お前程度の力で、冒険者が務まるわけないだろ」
声が低かった。さっきまでの軽さが、どこかへ行っていた。
カインは淡々と答えた。
「ルールにも例外があるだろう? 特例試験だよ。正々堂々と、試験を受けて通ったんだ。そんなに疑うんなら、ギルドに直接確認すればいいじゃないか」
「カイン、本当に冒険者になったんなら、証明して見せろ」
「いや、だから証拠はこれ――」
ジルが言葉を遮るようにして、懐から紙を取り出し、カインの目先に突き出した。
「冒険者なら、せめてこれくらいの依頼は達成できないと話にならないな」
Fランクの依頼書だった。この依頼を達成してみろと、ジルは挑発的な態度でけしかける。
ロビーの視線が集まっていた。
カインの中で、何かが音を立てた。怒り? いや、そんな単純な言葉では表せない。もっと根本的な――自身の生い立ちから滲む何か――が、心の奥底で眠る核に火をつけた。
「わかった。受けてやろうじゃないか」
カインは、依頼書を乱雑に引き取った。
依頼書にはすでに印が押され、受理されている。なら、向かう先は受付ではなく、依頼書が示す場所だ。誰の依頼であろうが、自分はもう冒険者。同ランクの依頼なら、達成できないはずはない。
カインは、扉を押し開けた。夜風が頬を撫でる。泥の乾いた匂いに、夜の草の青い匂いが混ざった。
依頼書を握り直す。
やってやる、という気持ちだけが、今のカインにはあった。
――扉が閉まった。
ロビーに、静寂が落ちた。
バンズがジルを見た。ジルは扉の方を向いたまま、しばらく動かなかった。
ジルの背後から、バンズが耳元で声をかける。
「……あれ、本当はCランク依頼書っすよね? さっき『装飾の魔液』で偽造しろって言われたから、こっそりやりましたけど。流石にやばいっすって。ランク偽造もそうだし、依頼譲渡はルール違反――」
「うるさい、少し黙ってろ!」
低い声だった。ロビーの何人かが振り返った。ジルは一度、息を吐いた。
「……大丈夫だ。Cランクの依頼だと言っても、入り口付近の魔物は、動きの遅いEランクばかりと聞いている。Fランクのカインには太刀打ちできないが、逃げ切ることはできるだろう。その時に間違いなく、こう思うさ。俺には冒険者なんて無理だってな。そうすれば、依頼書はこっちに戻ってくる。偽造も譲渡もなかったことになる」
「なるほど! あいつが冒険者になれるわけないっすもんね!実力なんて、ないくせに!」
バンズが笑った。黒魔導士が追随した。軽剣士が「そりゃそうだ」と膝を叩いた。
ジルは笑わなかった。
「そういうことだ。あいつは――冒険者なんかじゃない。役立たずの翻訳士だ」
吐き捨てるように言って、カウンターへ歩き出す。
神官服の女性だけが、扉の方をもう一度だけ見て、すぐさまジルの後を追った。
装飾の魔液。不思議な力を持つ液体。
偽造したい文字の上に、数滴たらして、元の文字を消す。そこに新たな文字を書くと、元の筆跡に似せた偽造文字の出来上がり。
完全万能液ではないので、よく確認すれば見破れるのだが、冒険者になりたてのカインは気づくことができなかった、という設定です。
評価・ブクマ、よろしくお願いします!




