5話 泥だらけの熱意
冒険者ギルドに通い始めて、数日が経った。
最初の頃は、カインが重い扉を押し開けるたびに笑い声が上がっていた。「また来やがった」「懲りない翻訳士だ」「次はいつ諦めるか賭けようぜ」。品のない声が四方から飛んでくる野次を、無防備に浴びていた。
それが今では——沈黙だ。
笑いもしない。野次もない。ちらりと視線を向けて、すぐにそらす。それだけだ。
認められたわけではない。からかうのに飽きた。それだけのことだ。石畳の向こうで酒を傾ける冒険者たちの目に宿っているのは、敵意でさえなかった。砂地獄でもがく虫を眺めるような——静かな、冷笑的な優越感だった。
カインはそれを知っていて、気にしていなかった。
正確には、気にしている余裕がなかった。
今日も受付カウンターへ向かう。剣油と燻し革の混ざった強い匂いにも、すでに慣れた。篝火が壁を照らし、影という分身だけが自分を励ましているようだ。
受付の向こうで、アムルが一度だけ小さく息を吸った。淡い金髪をひとつに束ねた若い受付嬢は、初対面の頃と同じ困ったような表情を作ろうとして——今日は、作れなかった。幾度も彼と接している今ではもう、彼を無碍に扱えない気持ちになっていた。
「……カインさん」
「はい」
「何度申し上げても、規定上——」
「アムルさん」
カインはアムルの言葉を静かに遮った。ただ真正面から彼女の目だけを見て、ゆっくりと言葉を渡した。
「俺には……時間がないんだよ」
誇張ではなかった。翻訳士の稼ぎは細く、貯えはもう底をついている。ここで立ち止まる理由は何もなく、引き返す道も既にない。それを知っているから、カインの目には怒りも哀願すらもなかった。あるのは、静かに研ぎ澄まされたもの――覚悟の名を冠した、刃のような意志だ。
アムルはしばらく、その目を見つめていた。
ロビーの喧騒が、遠く聞こえる。
やがてアムルは、ゆっくりと目を伏せた。
「……分かりました」
絞り出すような声だった。
「ギルドマスターに掛け合ってみます」
アムルはそういうと、羽根ペンが書類の上を転がした。乾いた音が届く。その書類は、すぐさま他の職員に渡され、消えていった。
「あ?」
それと同時に、低い声が背後から降ってきた。
カインが振り返るより先に、その声の主はもうカウンターの傍まで来ていた。ゴーラス。ここ数日で顔と名前を覚えた大男だ。Cランク冒険者、仲間と徒党を組んで酒場でつるむタイプ。カインより頭ひとつ以上は背が高く、首も、指も、特に拳が太い。
「おいおい、ちょっと待てよ」
ゆっくりと近づいてくる。その足音を聞きつけて、ロビーのあちこちから視線が集まる。面白いものを見る目だ。
「ギルドマスターに掛け合うってのは、聞き捨てならねえな。翻訳士如きに務まるわけないだろう? 他の冒険者らにも示しがつかないじゃあねえか?」
男の太い首筋に怒りの血管が浮き上がり、血走った目には、アムルの心を押し潰してしまうかと思うほどの圧があった。戦う術を持たぬ弱者への「特別扱い」は、死線を越えてきた者たちの誇りを踏みにじる、彼にとって許しがたい冒涜だった。
「おいお前、前にも言ったよなぁ? ここはな、命を張れる奴が来る場所なんだって。お前みたいな——書類ばっかいじくってる奴がうろつく場所じゃねえんだよ」
怒りの刃は、受付嬢のアムルから、ことの張本人であるカインに標的を変えていた。
「ご意見として承ります」
カインは平静を保った。今は、それしかできなかった。事を荒立てず、嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
「承りますぅ?」ゴーラスの口端が引き上がる。後ろに控えた仲間たちがくくっと笑った。
「気に入らねえな、その口の利き方が。……二度と来られない身体にしてやろうか」
拳が持ち上がった。
カインは身を固めた。避けられない。受けたら折れる。アムルが息を呑む気配が伝わってきた。
——その瞬間だった。
音が、止まった。
ロビーの全員が、一斉に息を止めた。ゴーラスの仲間の笑いも、遠くの卓を囲む話し声も、杯が擦れ合う音でさえも。水を打ったような静寂が、唐突に空間ごと落ちてきた。
誰かが、入ってきた。
感じた、というより——重さを受けた。空間そのものが収縮したような感覚。カインも含めて、その場にいた全員の体が、本能で認識していた。
扉の枠に、巨大な獣が立っていた。
もちろん比喩だ。だが、それが表現として的確だと思わせるほどだった。
背丈はゴーラスに並ぶかそれ以上、横幅はさらにある。老いてなお筋肉が鎧のように張り付いた身体、顔に刻まれた無数の傷跡は、装飾ではない——生き残ってきた証明だ。一本一本が、カインには想像もできない修羅場の刻印だった。
男が、一歩、踏み出した。
ただそれだけで、ゴーラスの巨体が——かすかに、震えた。
「何をしている?ゴーラス。こいつが何かしたのか?」
声は低く穏やかだった。怒鳴ってもいない。責めてもいない。なのにロビーの空気が固まった。この男は怒鳴る必要がない——カインはそれを直感した。
「いや、何かというか……翻訳士が来るような場所じゃないって、教えてやってるところでして……」
ゴーラスの声が、さっきとは別物になっていた。か細く、弱々しく萎んだ。
男はわずかに間を置いた。その沈黙が、評決のように重かった。
「まあ、間違いではないなあ。が、説教は後にしてやってくれないか? 今からこいつに用があるんでな」
「こいつ」というのが自分を指しているのだと、カインは一拍遅れて理解した。
男の視線が、カインに向いた。
「さっき外で、職員からこの書類をもらってな」
先ほど、アムルが筆を走らせていた書類――おそらく、推薦書の類か――をヒラヒラと宙に踊らせた。
怖かった。だが、その理由を探ろうとしても、明確な答えは出てこない。怒っているわけでも、蔑んでいるわけでもない。ただ、心の奥の何かを強烈に締めあげるような、有無を言わさぬ怖さだった。
男はカインを見て、短く言った。
「カイン、だったか? まあ、心意気は認めてやる。だが、死を急ぐ奴は好きじゃねえ。……と言っても聞き入れるタマじゃないらしいな。用がある。こっちへ来い」
結局、折れざるを得ないアムルさん。
よくある「今、上の者と代わりますので」的なやつですね。
ちなみに、タイミングよくマスターが登場してしまいましたが、一応話の裏では次のことが起こってます。
アムルさんが書いた書類を、別の職員に渡す→至急マスターへ渡さないと、アムルさん面倒なことになりそうという予感(ゴーラスが近くにいるし)→外出先から帰ってきたマスターに運よく遭遇→書類を渡す→登場。的な。
……わざわざ尺とって放り込むほどのことでもないかなと思い、入れませんでした。
それと、ゴーラスの小物感でてますが、単純にマスターがヤバいだけ。たぶん。




