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理の翻訳(ワールド・コンパイル)〜無能職の翻訳士、古代の理を読み取ったら神話レベルの仲間ができたのだが〜  作者: さくらば
2章

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11話 竜からの依頼

 石碑の前に座り込んだカインの背中は、もはや自分でも気の毒に思えるほど丸まっていた。

 

 洞窟の奥は、昼も夜もなく、風もない。あるのはどこかから滲み出てくる淡い燐光と、水の滴る音と、やたらと腹に響く自分の胃の叫び声だけだ。

 

 そして。

 

「なあ、まだか」

 

 低い唸りが腹に響く。漆黒の鱗を纏った巨大な体が、薄明かりの中で微かに動いた。猫が丸まるように翼を畳んで横たわっているネロの金色の瞳が、カインを捉えて、急かす。

 

「まだです」

 

 返事は短くした。余計なことを喋る体力が、もったいなかった。

 

 ネロ――本来の名をアビスガルド。かつて世界を震わせたという漆黒竜が、今やっていることといえば、少年の背中に顎を乗せるようにして「まだか」「腹が減った」「早くしろ」と繰り返すことだ。


 確かに、千年の封印の中、一切食事をしていないというのだから、空腹で食べ物を急かすのも致し方ない。それを加味してもだ。この竜が最初に発した言葉は、「腹が減った」。ひどく拍子抜けな存在であるということに、カインは気づいてしまった。

 

 それでも、岩壁を埋め尽くす幾何学模様には、笑えなかった。

 

 無数の線が、まるで生きているかのように岩の表面を這い回り、そこから細い糸のようなものが伸びている。


 最初は見間違いかと思った。だが何度見ても、それはやはり糸ではなく、光を凝縮させたような魔力の鎖だった。その先端はネロの四肢に、翼の付け根に、首筋に巻きついていた。見えない枷。千年間、この巨体をここに縫い留めてきた呪縛の正体だ。

 

 カインは石碑に視線を落とす。

 冷たい岩の表面に刻まれた文字たちは、今日も沈黙していた。


 この洞窟に落ちてきたのが、もう随分前のことのように感じる。実際には、まだそれほど経っていないのかもしれない。感覚が麻痺してくると、時間というものが溶けて、形を失う。

 

 傷が塞がったのは、最初の奇跡だった。

 ぐちゃぐちゃに潰れたと思っていた右肩が、目を覚ましたら嘘のように動いた。骨が砕けた感触を覚えていたのに。打ち付けた腰の痛みも、皮膚の裂け目も、綺麗さっぱり消えていた。

 

「なんで俺の傷が治ったんですか」と訊いたのは、ネロと言葉が通じることを確認してすぐのことだったと思う。

 

 ネロは少し考えるように目を細めてから、こう言った。

 

「泉を見たか?」

 

 洞窟の隅、岩の割れ目から湧き出している小さな泉のことだろう。倒れた時に浸かっていた泉だ。

 

「あれはただの水ではない。我の魔力と、この結界の魔力とがぶつかり合う場所でな……長い時間をかけて、岩に魔力が染み込んでいった。魔光結晶、とでも呼ぶべきか。それが洞窟の水と混ざり合って、あの泉になった」

「つまり……」

「天然のポーションじゃ。それも、市井の薬師が作るような代物とは、桁が違う。お主が生きているのは、あの水のおかげだ」

 

 カインは振り返って、ぼんやりと泉を見つめた。透明で、何の変哲もない水面に見える。だが言われてみれば、飲むたびに体の奥から何かが満ちていくような感覚があった。餓死だけは免れている、というのも、おそらくそのせいだ。死なないていどに、体を保たせてくれている。

 

 ありがたいのか、ありがたくないのか。

 空腹は、ちゃんと感じる。食べ物を口にしていないのだから当然だ。胃が締め上げられるような痛みは、しっかりと、一切の容赦なく続いている。

 

「食料を取ってきてくれ」とネロが言い出したのは、それからしばらくしてからのことだった――。


「無理です」

「なぜだ」

「外に出たら、シャドウウルフに食われます」

 

 入り口付近をうろつく獣の唸り声は、洞窟の中にまで届いていた。カインの全身能力で言えば、あれと正面からやり合うのは、まず死を意味する。餌取りが餌になっていては話にならない。

 

「ならば誰か他の者を呼んでこい」

「外に出た瞬間に、私が食われると言いましたけど」

「……ぬ」

「あなたが取りに行くことはできないんですか、ネロ」

 

 少し間があった。

 

「……お主、我の話を聞いていなかったのか? 結界のせいで外に出られんと言っておるだろうが。出られるもんなら、とっくに出ておるわ!」

 

 低い唸りに、岩が微かに震えた。カインは肩をすくめる。そうか、結界のせいか。と視線を岩壁へ向けて、初めてあの幾何学模様の意味を理解した。糸のように伸びる魔力の鎖が、ネロの体を縫い留めている。

 千年間、ずっと。

 

「ああ、せっかく飯にありつけると思ったのに! 無駄に期待させおって!」

 

 ネロは盛大に拗ねた。

 カインは笑いそうになって、すんでのところで堪えた。これが世界最凶の漆黒竜か。漆黒竜が、食事のことで駄々をこねている。恐ろしい存在であるはずなのに、この竜には不思議と、どこか哀れを誘う何かがあった。

 

 いや、感傷に浸っている場合じゃない。

 

 このままでは自分も死ぬ。いや、泉のおかげで肉体的な死は迎えずに済むだろう。だが、空腹と閉鎖的な空間のせいで、精神的に壊れる。おそらくそれは、死と同一視できるもののはずだ。

 

「……ひとつ、聞いていいですか」とカインは言った。


「この結界を解除できれば、あなたはここから出られるんですよね」

「……お主、脳みそも底辺なのか? ヒト族ごときが古代結界を解除できるわけないだろう」

 

 いちいち言葉が刺さる竜だ、とカインは内心で思った。

 

「実は」と、カインは続ける。


 「ここに来るとき、入り口に結界が張られていたんです。その文字を解読して、解除してきました」

 

 沈黙。

 それまで常に何かを言っていたネロが、初めて黙った。金色の瞳が、わずかに見開かれる。

 

「……入口に、結界が?」

「ええ。だから普通は誰も入れない場所だったはずです。でも翻訳の能力があれば、古代の文字も読める。解除できるかどうかは、内容次第ですが」

「……どおりで、誰もこの場所を訪れないわけじゃな」


 ネロは低く呟いた。

 

「にしても……翻訳士とは、皆そのような力を持っているのか?」

「もし全員そうなら、あなたはとっくに解放されていたと思いますよ」

「……確かに」

 

 ネロはゆっくり頷いた。千年封印されたままというのはおかしい。解除できる者がいくらでもいたなら、話が合わない。

 

「では、お主は特別な翻訳士ということか」

「どうでしょう。俺にはわからないです」

 

 本当に、わからなかった。自分の能力が特別なのか、それとも運がよかっただけなのか。判断する材料がない。

 

「ともかく」カインは立ち上がった。


 「もし結界が解けるなら、俺を安全なところまで連れていってほしい。それを条件に、試みます」

 

 ネロの目が細くなった。しばらくの間、品定めをするような沈黙。

 

「……よし、お主に懸けた。この結界を解いてくれ」

千年も食事ができないという、想像すら困難、いや不可能な苦行。

一応、結界と漆黒竜アレフガルドの魔力によって生み出された泉によって、餓死は免れているわけですが。


気は狂いますね。普通に。

よく耐えていると思います。それだけ、竜は凄いということです。

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