10話 強き竜の願い
頭頂から尾の先まで、全身を覆う漆黒の鱗。一枚一枚が磨き上げられた鉄のように鈍く輝いて、青白い泉の光を受けるたびに深海の色を帯びる。翼は折りたたまれているが、広げれば洞窟の天井を埋め尽くすだろうと直感でわかった。爪が岩盤を踏むたびに、ひびの走る音がした。
カインの身体は、もう動かなかった。
逃げろ。思うのとは裏腹に、足がそれを受け付けない。生物としての格が、あまりにも違いすぎた。人間と虫ほどの差。いや、それ以上か。
死ぬ。食われる。今すぐここで――。
……だが。
竜の目が、カインを見下ろした。
縦に割れた金色の瞳。その奥に渦巻いているものに、カインは気づいた。ただの勘か、それとも翻訳士としての能力か。感情の上っ面を読み取った。
敵意では、なかった。
憎悪でも、捕食の衝動でも。
あの瞳の奥にあるのは――焦りだ。何かを求めて、けれど届かなくて、持て余しているような。
……なんだ、これ。
二度目の咆哮が来た。
「グォォォ――ッ!!」
今度は覚悟していたぶん、カインは耳を塞ぎながらも意識を手放さなかった。音の洪水の中で、翻訳士の本能が――何かを探し始めた。
これは音じゃない。
音の形をした、別の何かだ。
言葉を長年扱ってきた翻訳士だけが持つ感覚。文字や声の奥にある、本来の意味を探る本能が、勝手に動き始めていた。咆哮をバラバラに分解して、再構築して、ノイズを削ぎ落として――。
……た……す……け……。
「――え?」
た・す・け・て。
カインの背筋が、ぞくりとした。
恐怖などではない。もっと純粋なもののように思えた。頭の中で、ノイズが薄れていく。音の層が剥がれていく。そして――。
言葉が、聞こえた。
竜の思念が、そのままカインの脳内で言語として像を結んだ瞬間、カインは自分の中で能力が拡張されるのを感じた。
生命の発する意志そのものを、翻訳できる。それは、平たくいえば、通訳と呼べるものだった。
俺には、これができる。
震える膝を叱り飛ばして、カインは立ち上がった。目の前の漆黒の巨体から視線を逸らさず、耳を――いや、脳の全てを、竜の思念へと開く。
「……助けを求めているのか?」
咆哮が、止まった。
竜の金色の瞳が、細くなった。驚いているのだと、今なら読める。
沈黙が数拍続いて、やがて洞窟に声が満ちた。今度は音波ではなく、直接頭の中に流れ込んでくるような声で。
「……ヒトの子。なぜ我の言葉がわかる?」
「俺が聞きたいくらいです」とカインは言った。声が少し裏返ったが仕方ない。
「助けを求めてましたよね。何を助けてほしいんですか」
また沈黙。
竜は低く、うなるような声を漏らした。何かをためらっているのが、思念の揺れから伝わってくる。自信家の何かが、口にするのを渋っている。
やがて。
「……腹、減ったぁ!! 食べ物をくれー!!」
カインは数秒、固まった。
「…………は?」
抜けた声が、小さく溢れた。
腹が、減った?
「ぬ? やはり聞こえなかったか? 腹がぁ! 減ったぁ! ……おい、わかるか?」
「ええ、わかります」
「何も食べておらぬのだ! 千年もじゃぞ!? 結界のせいで外に出られぬし、洞窟には獲物もおらぬし! ああもう! 食べ物! 食べ物! 食べ物ぉ!」
言葉に詰まった。
国家規模の軍勢を相手取れる災厄。王国所有の古書に幾度も「人類の天敵」として記されたとされる漆黒竜が、餓死の危機に瀕して助けを求めていた。自分に。しかも、駄々をこねる子供のように。
「……食べ物」
「そうじゃ食べ物じゃ!」
カインは荷物袋に手を突っ込んだ。ふやけた干し肉が二切れと、パン二個。これが全財産だ。
差し出すと、竜は鼻先でそれを確かめて、沈黙した。
「……これは」
「俺の全食糧です」
口の大きさに合わぬ極小の欠片(食べもの)を、チョンと摘んで放り込む。すぐに飲み込むのを躊躇い、一応の噛み砕く仕草をして、何とか味わおうと試みているようだ。
「……歯に詰まる」
「わかってます」
「これだけか」
「これだけです」
竜のため息が、洞窟に満ちた。人間のため息とは比べ物にならない風量で、カインの前髪がまとめて吹き飛んだ。
「外に出て獲物を捕ってこい」
「無理です」
「なぜじゃ」
「外にはシャドウウルフがいるんです。さっき群れに突っ込んで瀕死になったばかりです」
竜の金色の目が、カインの頭頂から爪先までをゆっくりと眺め下ろした。俯瞰というより、観察する眼差しだ。値踏みするような、それでいてどこか呆れたような。
「……お主、ヒト族の中でも最底辺なのか?」
「……ええ、まあ否定はしないですけど」
ここでいう底辺は、冒険者としての位置だ。人としての底辺を問われたわけではない。そう言い聞かせ、カインは質問を受け止めた。
「シャドウウルフのう……。そんなヘタレ犬っコロと戦って瀕死になるとは、今までどうやって生きてきたんじゃ」
「翻訳士なんで戦闘は専門外ですし」
「ほんやく、し?」
「文字とか言語を扱う仕事です。戦えません。剣も魔法も人並み以下です」
竜はしばらく黙った。理解しようとしているのか、呆れ果てているのかは、さすがに読み取れなかった。
「……それで我の言葉がわかるのか」
「たぶん、そういうことになります」
また沈黙。
カインも黙って、巨大な漆黒の竜を見上げた。この距離で冷静に観察すると、鱗の黒に微細な模様が走っているのが見えた。まるで夜空の星座のように、見る角度によって光の筋が変わる。恐ろしいほど美しかった。
「竜……だよな」
独り言のつもりだったが、竜の耳には届いたらしい。すっと首が持ち上がり、威厳を取り戻した声が洞窟に響いた。
「我の形を見て、それ以外の何に見えるというのだ?」
やはり、そうだった。竜――この大地で最強の魔獣の一種。
例えば、炎竜や氷竜。十数年前にも、王国に炎竜が出現したという記録がある。1匹で小さな町を壊滅寸前に追い込んだのだとか。遅れて到着したAランク冒険者パーティーによって討伐されたが――。
「あなたは、炎竜クラスの竜――最強竜の一種と見ました。私なんかに頼る意味がわかりません」
カインの言葉が気に食わなかったのだろう。明らかに不貞腐れている。食べ物の恨みは怖いというが、見ず知らずのヒトに餌とりを頼んで、断られたら機嫌が悪くなるなど、我儘にも程がある。
本来は恐怖の対象であるはずの竜だが、今のカインにはその類の感情は湧いてこなかった。むしろ、会話を介して、竜の性格が少しずつ垣間見えてきた気がしていた。
しかし――竜の答えに、本能の中に眠る恐怖が逆流してきた。そんな気がした。
「……炎竜? あんな雑魚と一緒にされては気分が悪い」
雑魚? 今、炎竜のクラスを雑魚扱いしたのか。いや、そのレベルの竜など、この世には……まさか――。
「我は――漆黒竜アビスガルドであるぞ」
古書の記述が脳裏に蘇る。
あらゆる国家戦力を以てしても討伐困難とされるSランク以上の脅威。神話の時代に伝説の勇者と死闘を繰り広げ、どこかの洞窟の奥深くに封印されたとされる、地上最大の「災厄」漆黒竜アビスガルド。
「アビスガルド……」
「そう、アビスガルドじゃ」
その存在が今、腹を空かせて、干し肉とパンを、未だ口の中で転がしている。あまりにシュールな光景だ。
しばし眺めていると、先ほど逆流してきた恐怖という感情は、すっかり腹の中に収まっていた。
「……ネロ」
「あ?」
「あ、いえ、アビスガルドって呼びづらいので。古代語で黒を表す『ネロ』って呼んでも良いですか?」
竜は一瞬きょとんとした顔をした。金色の瞳が丸くなると、どこか小動物めいた雰囲気が滲む。
「……それで呼ぶつもりか」
「ダメですか」
しばらく待った。ネロが口の中で転がしていた干し肉とパンを、胃の中に収めた。
「……まあ、よい」
「ありがとうございます」
「礼などどうでもいい。腹が減ってるんじゃ。さっさととってこい」
ネロは残っていた最後のパンを、器用につまみ取り、今度はあっさりと飲み込んだ。そして再び、ため息をついた。今度の風量は少し控えめだった。
「……足りん」
「わかってます」
「本当に最底辺なのじゃな、お主は」
「ええ、まあ」
カインは洞窟の壁に背をもたせかけて、漆黒の巨体を見上げた。翻訳士としての能力が通訳のコツをつかんできたようで、ネロの思念の波は、だいぶ安定してきていた。空腹は変わらないが、焦燥の色が薄れている。
泉の水が、指先に触れていた。青白い光が、ふたつの影を柔らかく包んでいた。
これがどこへ向かうのか、カインにはまだ何もわからなかった。
ただ、この洞窟の底に、自分が理解できる言葉を持つ存在がいる。
それだけが、今は確かだった。
翻訳とは、意図を読み取ること。
それは文字からだけではない。音に意図があるのなら、竜の発する意図も理解できる。
というわけで、通訳という力の発見に至ったわけですけど。
この能力は、今後別のところでも生きてきそうですね!
あー、いろいろ考えていたら腹が…減った……!
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