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断罪された悪役令嬢は、恋をした罪で治療される ~恋は、治らない~  作者: 月影 すずり


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第9話 消えた名前

 治療院の朝は、いつも同じ音で始まる。


 鈴のような起床合図。

 廊下を渡る足音。

 規則正しい生活音。


 変わらないことが、正しさの証明だとされている場所。


 アリアは、静かに目を開けた。


 胸は、落ち着いている。

 昨夜の密会の記憶も、すでに薄い膜を被っている。


 ――これで、いい。


 そう思おうとした、そのとき。


 理由の分からない違和感が、胸の奥で小さく鳴った。


「……?」


 寝台から起き上がり、視線を巡らせる。


 部屋は、昨日と同じ。

 何一つ変わっていない。


 なのに。


 机の上に置かれた一冊の記録帳が、

 なぜか目に留まった。


 昨夜までは、

 確かに無かったはずのもの。


 灰色の表紙。

 装飾も題名もない。


 ――誰が、置いたの?


 その疑問すら、感情を伴わずに浮かぶ。


 アリアは、ゆっくりと近づき、

 記録帳を開いた。


 中には、整った文字が並んでいる。


 《治療経過記録》


 見慣れた書式。

 日付、処置内容、評価。


 だが――


「……?」


 指が、止まる。


 名前の欄が、空白だった。


 患者番号だけが、淡々と記されている。


 三一九号。

 三二〇号。

 三二一号。


 そして。


 三二七号。


 ――私。


 背筋に、ぞくりとしたものが走った。


 それは恐怖ではない。

 違和感だ。


「……名前は?」


 ページを遡る。


 どの記録にも、

 患者の名前は書かれていない。


 まるで、最初から存在しなかったかのように。


 治療内容は、驚くほど似通っていた。


 《症状:特定人物への過度な感情依存》

 《処置:感情抑制、記憶調整》

 《経過:良好》


 その文字列を見た瞬間。


 胸の奥で、

 小さく、はっきりと、何かが拒絶した。


 ――過度、とは。


 どこからが、過度なのだろう。


「……失礼します」


 ノックの音に、

 アリアは反射的に記録帳を閉じた。


 扉の向こうに立っていたのは、

 ユリウスだった。


 白衣姿。

 いつもの、医師の顔。


「体調はいかがですか」


「問題ありません」


 自然に、そう答える。


 けれど、視線は、机の方へ向いてしまった。


 ユリウスの目が、わずかに揺れる。


「……それを、見ましたか」


 確認ではない。

 ほとんど、断定だった。


「これは」


 アリアは、記録帳に手を置いた。


「私のものでは、ありませんよね」


 ユリウスは、しばらく黙っていた。


 そして、静かに息を吐く。


「……過去の記録です」


「過去?」


「あなた以前の、治療対象者」


 その言葉が、

 胸の奥に、重く落ちた。


「……何人、いたのですか」


 問いは、淡々としていた。


 感情が伴わないからこそ、

 残酷なほど真っ直ぐだった。


「……正確な数は」


 ユリウスは、目を伏せる。


「把握されていません」


「把握、されていない?」


「記録は、一定期間で整理されます」


 整理。


 それは、破棄という意味だ。


「治療が完了すれば、

 社会的な問題は解消されたと判断される」


 淡々とした説明。


 制度の言葉。


「だから……」


 アリアは、続きを促した。


「だから、

 その人たちは……?」


 ユリウスは、はっきりと答えなかった。


 答えられなかった。


「……アリア」


 彼は、低い声で言った。


「これ以上は、

 あなたにとって、必要な情報ではありません」


 必要。


 その言葉を聞いた瞬間。


 アリアは、はっきりと理解した。


 ――私は。


 ――「次」なのだ。


「……先生」


 アリアは、静かに言った。


「私は、

 何人目ですか?」


 ユリウスの顔が、凍りつく。


 沈黙が、答えだった。


 その沈黙の中で、

 アリアの胸に、初めて“恐怖”が生まれた。


 消えることへの恐怖ではない。


 同じことが、繰り返されてきたという事実への恐怖。


「……私は」


 声が、わずかに揺れた。


「治されれば、

 ここから、いなくなるのですか?」


 ユリウスは、拳を握りしめる。


「……社会に戻ります」


 それは、嘘ではない。


 だが、真実でもない。


「名前は?」


 アリアは、続けた。


「戻るとき、

 私は……アリアのままですか?」


 長い沈黙。


 そして。


「……治療が完了すれば」


 ユリウスは、苦しそうに言った。


「役割は、不要になります」


 役割。


 その言葉で、

 すべてが繋がった。


 ――悪役令嬢。


 それは、

 一人の人格ではなく、

 “役割”だったのだ。


 アリアは、記録帳を閉じた。


 手は、震えていない。


「……分かりました」


 そう言って、微笑む。


 その微笑みを見て、

 ユリウスは、息を詰めた。


「先生」


 アリアは、穏やかに言った。


「私は、

 治療を続けます」


 予想外の言葉に、

 ユリウスは目を見開く。


「……なぜ」


「知りたいからです」


 その答えは、

 あまりにも静かだった。


「私の前に、

 何があったのか」


 そして。


「私の後に、

 誰が来るのか」


 その瞬間。


 ユリウスは、

 はっきりと理解した。


 ――この人はもう、

 “患者”ではない。


 観測者だ。


 部屋に残された沈黙の中で、

 アリアは、心の中で呟いた。


 ――私は、何人目の悪役令嬢なのだろう。


 その問いは、

 もう、恋よりも重かった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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