第8話 治療は、成功した
その面会は、記録に残らない。
正式な申請も、承認もない。
ただ一つの“配慮”として、静かに用意された時間だった。
夜明け前の王城。
人の気配がほとんどない回廊。
アリアは、治療院の簡素な外套をまとい、
案内役の沈黙に従って歩いていた。
胸は、静かだ。
昨夜の出来事が、
まるで夢だったかのように。
――でも。
確かに、知ってしまった。
自分が、誰を愛していたのか。
それが、どれほど痛いものだったのか。
「……ここです」
扉の前で、案内役が立ち止まる。
重厚な木製の扉。
見覚えのある場所。
レオンハルトの私室。
扉が、静かに開かれる。
「……アリア」
その声を聞いた瞬間、
胸の奥が、微かに軋んだ。
部屋の中央に立つ青年は、
かつてと変わらない姿だった。
整えられた金髪。
凛とした佇まい。
けれど、その瞳には、はっきりとした安堵がある。
「よかった……」
レオンハルトは、息を吐いた。
「やはり、治療は成功している」
その言葉が、
静かに、しかし確実に、突き刺さる。
「顔色もいい。
表情も、落ち着いている」
一歩、近づく。
「もう、苦しんでいないんだな」
苦しんでいない。
それは、半分は本当だ。
激しい感情は、ない。
泣き叫びたい衝動もない。
けれど。
「……殿下」
アリアは、静かに言った。
「私は」
言葉を、慎重に選ぶ。
「“治りました”か?」
レオンハルトは、微笑んだ。
「ああ」
迷いのない声。
「君は、正しくなった」
正しい。
その言葉を、
昨夜ほど、残酷に感じたことはなかった。
「それは……」
アリアは、彼を見つめる。
「殿下にとって、
“愛しやすい”という意味ですか?」
空気が、張り詰める。
レオンハルトは、一瞬だけ目を瞬いた。
「……どういう意味だ」
「以前の私は」
声は、穏やかだった。
「少し、面倒でしたか?」
彼は、言葉に詰まる。
「そんなことは……」
「嫉妬も、独占欲も、
不安も、期待も」
アリアは、淡々と続けた。
「今は、ありません」
それが事実であることを、
彼女自身が一番よく分かっている。
「それは……」
レオンハルトは、ゆっくりと頷いた。
「良いことだ」
はっきりとした肯定。
「愛は、重すぎてはならない」
その言葉を聞いた瞬間。
アリアの中で、
昨夜の“痛み”が、静かに形を持った。
――この人は。
この人は、
私が壊れることで、安心したのだ。
「殿下」
アリアは、一歩近づいた。
「もし」
声が、少しだけ、揺れる。
「もし、治療を受ける前の私が、
ここにいたら」
問いかける。
「殿下は、
あの私を、選びましたか?」
長い沈黙。
レオンハルトは、視線を逸らした。
それが、答えだった。
「……アリア」
彼は、諭すように言う。
「今の君は、
とても美しい」
優しく、穏やかで、
波風を立てない存在。
「私は、君を守った」
その言葉に、
アリアは、静かに微笑んだ。
「……はい」
頷く。
「守ってくださいましたね」
そして、続ける。
「だからもう、
殿下に、私を愛する理由はありません」
レオンハルトの目が、大きく見開かれる。
「何を……」
「私は」
アリアは、胸に手を当てた。
「殿下にとって、
“治すべき存在”だった」
それは、責めではなかった。
事実の確認。
「そして今は」
一歩、下がる。
「“治った結果”です」
レオンハルトは、言葉を失っていた。
彼の正義は、
ここでは、何も救えない。
「……アリア」
彼は、初めて不安を滲ませた声で言った。
「私は……」
「殿下」
アリアは、静かに遮った。
「これ以上、
私を安心させないでください」
その言葉は、
彼の胸を、確実に打ち抜いた。
「治療は、成功しました」
アリアは、そう宣告した。
「だから」
最後に、深く礼をする。
「失礼いたします」
背を向ける。
扉に手をかける前、
ほんの一瞬だけ、振り返った。
「殿下」
レオンハルトが、はっと顔を上げる。
「私を救ってくださって、
ありがとうございました」
それは、
この世界が望む、完璧な言葉。
扉が、閉まる。
その音は、
一つの時代の終わりを告げていた。
廊下に出た瞬間、
アリアの足から、力が抜ける。
「……っ」
壁に手をつく。
胸が、痛い。
昨夜ほどではない。
けれど、確かに残っている。
「……それで、よかったんですか」
背後から、声がした。
ユリウス。
彼は、蒼白な顔で立っていた。
「……はい」
アリアは、ゆっくりと立ち直る。
「これで、分かりました」
何が。
「殿下は、
私を愛したのではなく」
小さく、息を吸う。
「“正しくなった私”を、
必要としていたのだと」
ユリウスは、唇を噛みしめる。
「……すみません」
「謝らないでください」
アリアは、首を振った。
「昨夜、教えてくれましたから」
胸に手を当てる。
「私が、確かに、恋をしていたこと」
それだけで、十分だった。
治療院へ戻る道。
空は、白み始めている。
夜が終わり、
新しい朝が来る。
けれど、アリアの中では。
――何かが、静かに、始まっていた。
それは、
正しさでは測れない感情。
そして、
決して治療できないもの。
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