第4話 優しい令嬢
治療院を出るのは、思っていたよりも早かった。
「本日は、社会適応の初期テストを行います」
ユリウスはそう言って、アリアに外套を手渡した。
柔らかな生成り色。飾り気はないが、品のある仕立て。
以前なら、選ばなかった色だ。
「……城へ、戻るのですか?」
「短時間だけです。
あくまで“観察”ですから」
観察。
自分が、人としてではなく、結果として見られているのだと分かる。
それでも、不思議と抵抗はなかった。
馬車に揺られながら、アリアは窓の外を眺める。
曇っていた景色は、今日ははっきりと見えた。
王城の塔。
広場。
行き交う人々。
懐かしいはずなのに、胸は静かなままだ。
城の控えの間に通されると、すぐに数人の貴族令嬢が気づいた。
「……まあ」
「アリア様?」
さざめきが、ゆっくりと広がる。
以前のような、探る視線はない。
代わりに向けられるのは、安堵と好意。
「お加減はいかがですの?」
「お元気そうで、安心しましたわ」
自然に、アリアは微笑んだ。
「ありがとうございます。
おかげさまで、穏やかに過ごしております」
その言葉は、淀みなく口をついた。
――ああ。
周囲の空気が、柔らぐのを感じる。
誰も、緊張していない。
誰も、警戒していない。
「やっぱり、治療は正しかったのね」
誰かが小声で言った。
別の誰かが、頷く。
「前は、少し近寄りがたいところがありましたもの」
「今は、とても優しい雰囲気で……」
優しい。
その評価に、アリアはわずかに首を傾げた。
――私は、何も変えていない。
ただ、何かを失っただけだ。
「アリア」
聞き慣れた声が、背後から響いた。
振り向くと、そこに立っていたのは――
レオンハルト・ヴァルツ。
彼は、彼女を一目見るなり、目を見開いた。
「……よかった」
その声は、心から安堵していた。
「顔色もいい。
無理をしている様子もない」
一歩、近づいてくる。
以前なら、その距離に、胸が高鳴ったはずだ。
けれど今は。
「お久しぶりです、殿下」
アリアは、完璧な礼を取った。
丁寧で、隙のない所作。
レオンハルトの動きが、一瞬止まる。
「……ああ」
彼は、微笑んだ。
それは、かつて何度も向けられた笑顔。
けれど、どこか緊張が滲んでいる。
「無理をさせていないか?」
問いは、ユリウスへ向けられたものだった。
「段階は順調です」
ユリウスは、医師としての声で答える。
「感情の安定も確認できています」
「そうか……」
レオンハルトは、ほっと息をついた。
「これで、安心だ」
安心。
その言葉が、アリアの胸に落ちる。
――何が?
自分が壊れなかったこと?
それとも、自分が“問題でなくなった”こと?
「アリア」
彼は、優しく彼女の名を呼んだ。
「君は、もう大丈夫だ」
その瞬間。
胸の奥で、微かな違和感が生まれた。
大丈夫、という言葉が、
なぜか“終わり”を意味している気がして。
「……はい」
アリアは、そう答えた。
それが、正解だと分かっているから。
周囲の貴族たちは、二人を見て微笑んでいる。
まるで、元の位置に駒が戻ったかのように。
「やはり、お似合いですわ」
「これで、城も落ち着きますわね」
落ち着く。
秩序が、回復する。
それが、何より大切なのだ。
レオンハルトは、満足そうに頷いた。
「少しずつ、元の生活に戻れるだろう」
元の生活。
その言葉を聞いても、
心は、少しも揺れなかった。
――戻る、とは。
自分は、どこから来たのだろう。
控えの間を出たあと、
アリアはふと、足を止めた。
「殿下」
呼び止めると、レオンハルトは嬉しそうに振り返る。
「どうした?」
言葉を、探す。
以前なら、迷わず聞けたはずの問い。
「……私は」
一瞬、言葉が詰まる。
「殿下のことを……」
“好きでしたか?”
その言葉が、喉まで上がってきて、消えた。
代わりに出たのは、別の言葉。
「……お役に立てていますか?」
レオンハルトは、目を見開き、
それから、はっきりと微笑んだ。
「ああ」
迷いのない声。
「君は、正しくなった」
その言葉を聞いた瞬間。
アリアの胸の奥で、
はっきりと、何かが冷えた。
――そう。
私は、正しくなった。
だからもう、
この人の隣に立つ理由はない。
理由がないことに、
悲しみすら湧かない自分が、少しだけ怖かった。
治療院へ戻る馬車の中。
ユリウスは、ずっと黙っていた。
「……先生」
アリアは、静かに口を開く。
「皆、とても安心していました」
「……そうですね」
「それは、良いことなのですよね」
ユリウスは、答えなかった。
代わりに、ぎゅっと拳を握りしめる。
――誰も、不幸ではない。
そう、見える。
なのに。
胸の奥に残る、この小さな冷たさは、
いったい何なのだろう。
それでもアリアは、微笑んだ。
優しい令嬢として。
誰にも、波風を立てないように。
その微笑みを見て、
ユリウスだけが、目を伏せた。
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