第19話 引き継ぎ
その夜、治療院の空気は異様に静かだった。
鐘は鳴らない。
定期巡回の足音も、どこか遠い。
アリアは、自室の椅子に腰かけ、
膝の上に置かれた一枚の書類を見つめていた。
《治療最終段階・確認書》
署名欄は、空白のまま。
これに名を書けば、
彼女は「治った」ことになる。
治って、
消える。
――でも。
扉が、ノックされた。
「……入って」
入ってきたのは、ユリウスだった。
白衣ではない。
もう、この時間に医師である必要はない。
「……エリナは」
アリアが尋ねる。
「眠っている」
短い答え。
「感情抑制を、
軽くかけた」
“軽く”。
それが、
どれほどの意味を持つか、
二人とも分かっている。
「……番号は」
「三二八号として、
正式に仮登録された」
アリアは、目を閉じた。
胸の奥で、
小さく、何かが音を立てて外れた。
「……では」
目を開ける。
「順番は、
私の次で、止まりますね」
ユリウスは、答えなかった。
答えられなかった。
「先生」
アリアは、書類を持ち上げた。
「これは、
“引き継ぎ書”ですか」
ユリウスの視線が、
その紙に落ちる。
「……そうだ」
低い声。
「君が、
最後の“受け皿”になる」
受け皿。
悪役令嬢。
感情の器。
「……随分と、
優しい言い方ですね」
皮肉ではなかった。
ただ、確認。
「私は」
アリアは、立ち上がる。
「役割を、
受け取ります」
ユリウスの喉が、鳴った。
「だが……」
「条件があります」
アリアは、遮った。
迷いのない声。
「感情を、
完全には消さない」
ユリウスは、拳を握る。
「……それは」
「分かっています」
アリアは、頷く。
「制度上、
想定されていない」
だからこそ。
「想定外として、
ここに残ります」
感情を持ったまま。
愛を知ったまま。
悪役令嬢として。
「……エリナには」
ユリウスが、絞り出す。
「どうする」
「彼女は」
アリアは、静かに言った。
「“未治療”のまま、
ここを出します」
ユリウスの目が、大きく見開かれた。
「正気か」
「正気です」
即答。
「彼女が壊れる前に、
順番を消します」
アリアは、書類に視線を戻す。
「私が、
ここに居続ける限り」
最後の番号が埋まらない限り。
「次は、来ません」
ユリウスは、
長い沈黙の末、口を開いた。
「……君は」
声が、掠れる。
「救われないぞ」
それは、
忠告でも、懺悔でもあった。
「ええ」
アリアは、微笑んだ。
「でも」
一歩、近づく。
「誰かが、
救われなくていい役を
引き受けなければ」
その言葉で、
すべてが決まった。
ユリウスは、ゆっくりと頷いた。
「……共犯だ」
「はい」
アリアは、ペンを取る。
名前を書く。
アリア・エル=セリス
その瞬間。
胸の奥に、
熱が走った。
怒り。
嫉妬。
愛。
すべてが、
消されずに、そこにある。
「……感じますか」
ユリウスが、低く尋ねる。
「ええ」
アリアは、息を吐く。
「全部」
それでいい。
それが、
引き継ぎだった。
翌朝。
エリナは、
治療院の門の前に立っていた。
「……ここを、出ていいのですか」
不安そうな声。
アリアは、彼女の前に立つ。
「はい」
はっきりと。
「あなたは、
治療対象ではありません」
「でも……」
「“分からない”ままで、
外へ出てください」
それが、
彼女を守る唯一の方法。
エリナは、涙ぐみながら、
深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
アリアは、
その言葉を受け取らなかった。
受け取れば、
役割が揺らぐ。
門が、閉まる。
エリナが、去る。
三二八号は、
欠番になった。
その日、治療院の記録には、
こう記された。
《患者三二七号
経過:要継続観察》
完了、とは書かれなかった。
それが、
制度に生じた、
最初の“ほころび”だった。
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