第12話 正しさの手触り(レオンハルト視点)
彼女は、完璧だった。
完璧すぎて、手を伸ばすことすらためらわれるほどに。
レオンハルト・ヴァルツは執務室の窓辺に立ち、王都の屋根の連なりを眺めていた。朝の光が石畳を白く照らし、街は平穏を装って動き出している。
平穏。秩序。安心。
それらは、王族が守るべきものだ。
そして彼は――守った。
アリアを《断罪治療》にかけたことで。
「殿下」
侍従が控えめに声をかける。
「治療院より、定期報告が届いております」
差し出された封書を受け取り、レオンハルトは頷いた。
封蝋を割る指は、いつも通り冷静だったはずだ。
――いつも通り。
紙面に並ぶ文字は整然としている。
《患者三二七号 経過:良好》
《情動反応:安定》
《執着傾向:低下》
《社会適応:良好》
良好。安定。低下。
正しい言葉が並ぶほど、なぜか胸がざらつく。
ふと、思い出す。
治療前の彼女の表情を。
硬い微笑み。揺れない背筋。
誰よりも正しかろうとする、その必死さ。
――君は、もう少し楽になっていい。
あのとき彼は、そう信じた。
だから、断罪は“治療”だった。
罰ではない。救いだ。
そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
「……次の予定は?」
侍従へ問いかける声が、自分でも驚くほど硬かった。
「聖女候補エリナ様の祈祷式が正午より。
その後、貴族院の定例会議がございます」
「分かった」
机に報告書を置く。
その瞬間、紙が少しだけ滑り、机の端からずれた。
ほんの些細なこと。
だが、今のレオンハルトには、それが“ずれ”に見えた。
――ずれているのは、紙ではない。
あの夜の密会が、頭をよぎる。
記録に残らない面会。
配慮として用意した時間。
彼女は、丁寧に礼をして、完璧な言葉を選び、最後には礼儀正しく感謝まで述べた。
そして、去った。
その背中が、妙に遠かった。
治療が成功したのなら、もっと近づけるはずだ。
不安も嫉妬も消えたのなら、二人の間には何も障害がない。
それなのに。
彼女の瞳の奥には――何も映っていなかった。
彼女は穏やかだった。
そして穏やかすぎた。
まるで、愛することをやめた人の目だった。
レオンハルトは、拳を握りしめた。
彼女は“治った”。
そのはずだ。
なら、なぜ俺は――安心できない?
正午。祈祷式の場に立つエリナは、清らかな光の中にいた。
白い衣装。控えめな飾り。
民衆が見上げる視線は、まるで神像を見るようだ。
この国は彼女を必要としている。
そう自覚しているからこそ、レオンハルトは守る。
守るために、危ういものを排除する。
それが王族の責務だ。
――アリアは危うかった。
優秀すぎた。高潔すぎた。
だからこそ、周囲が勝手に歪む。
本人に悪意がなくとも、結果として“脅威”になり得る。
レオンハルトは、エリナの祈りを見守りながら、胸の奥で同じ理屈を繰り返した。
正しい。
正しい。
正しい。
だが、祈祷が終わり、エリナが顔を上げた瞬間。
ほんの一瞬だけ、彼女の表情が揺れた。
目線が、どこかを探すように彷徨う。
「……エリナ?」
レオンハルトが声をかけると、彼女ははっとして微笑んだ。
「申し訳ありません、殿下。
少し……ぼうっとしてしまって」
言葉は丁寧で、振る舞いも正しい。
それなのに、胸の奥が嫌な形で鳴った。
――兆候?
ふと、治療院の報告書がよぎる。
《執着傾向:低下》
《情動反応:安定》
執着。情動。
その言葉が、急に身近になる。
「無理はするな。
聖女候補としての負担は大きい」
レオンハルトがそう言うと、エリナは強く頷いた。
「はい。私は……正しく在ります」
正しく在る。
その言葉が、あまりにもこの国らしくて、
レオンハルトは喉の奥に苦いものを感じた。
正しさは、救いだ。
救いのはずだ。
それなのに、正しさが口にされるほど、
レオンハルトは“何かを失っている”気がした。
その夜、執務室に戻ったレオンハルトは、机の引き出しを開けた。
そこには一通の古いメモがある。
数ヶ月前、アリアが彼に渡したものだ。
政治の話ではない。
書式も整っていない。
ただ、短く。
――殿下、いつか私のことを「私」として見てくださいますか。
あのとき、彼は笑って言った。
「当然だ。君は君だ」
言葉としては正しい。
彼女を安心させる、正解の答え。
だが今、その紙片を見つめるほどに、胸が締めつけられる。
俺は――彼女を“彼女”として見ていただろうか。
貴族令嬢。
婚約者候補。
王家の安定のための駒。
危うさを排除する対象。
そして、治すべき患者。
そう呼ぶことは、簡単だ。
正しさの中に置くこともできる。
だが、彼女の問いは違う。
「私」として見て、と。
レオンハルトは、紙片を指先でなぞった。
治療が成功した今、
彼女はもっと“扱いやすい”はずだった。
波風を立てず、従順で、優しい。
国にとっての理想。
王子にとっての安定。
なのに――
彼女が理想に近づくほど、
俺は彼女を失っていく。
不合理だ。
理屈に合わない。
しかし、胸は嘘をつけない。
レオンハルトは立ち上がり、窓を開けた。
冷えた夜風が頬を打つ。
王都の灯りが揺れている。
その灯りの下で、
今夜も誰かが恋をして、嫉妬して、泣いて、笑っているのだろう。
それは、普通のことだ。
人間の営みだ。
――なのに。
アリアの恋だけが、病として裁かれた。
その事実が、今になって喉に刺さる。
レオンハルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺は」
呟きが、夜に消える。
正しかったはずだ。
救ったはずだ。
だが、もし。
もし、彼女が“治った”せいで、
二度と俺を愛さなくなったのなら。
それは救いなのか?
それとも――
取り返しのつかない、敗北なのか。
机の上の報告書に、目を戻す。
《経過:良好》
その二文字が、
この夜ほど冷たく見えたことはなかった。
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