第11話 夢に出てくる名前
その夜、アリアは久しぶりに、はっきりと夢を見た。
白い廊下。
治療院と同じはずなのに、少しだけ違う。
壁が、近い。
天井が、低い。
息が詰まるような空間を、
アリアは一人で歩いていた。
足音が、やけに大きく響く。
――誰か、いる。
確信だけがあった。
「……だれ?」
問いかけると、
前方の角から、かすかな声が返ってきた。
女の声。
若い。
けれど、ひどく疲れている。
「……こっち」
導かれるように、曲がる。
そこにあったのは、
例の“封鎖病室”だった。
夢の中なのに、
扉の傷まで、現実と同じ。
アリアは、ゆっくりと中へ入る。
寝台の脇に、誰かが座っていた。
輪郭が、曖昧だ。
顔が、よく見えない。
「……あなたは」
声をかけた瞬間。
「――私の名前を、呼んで」
はっきりとした言葉が返ってきた。
胸が、きゅっと締まる。
「……マルグリット?」
その名を口にした瞬間。
世界が、音を立てて揺れた。
座っていた少女が、顔を上げる。
淡い栗色の髪。
泣き腫らしたような目。
けれど、その表情は、安堵に満ちていた。
「……覚えてくれたのね」
その声は、
昨日、紙片から感じた“気配”と同じだった。
「……あなたは」
言葉が、続かない。
「私は、治った人」
マルグリットは、微笑んだ。
その笑顔は、
なぜかひどく、痛々しい。
「正しくなって、
誰にも迷惑をかけなくなった」
その言い方は、
どこか、覚えがある。
「……それで」
アリアは、恐る恐る尋ねた。
「それで、幸せですか?」
マルグリットは、答えなかった。
代わりに、胸に手を当てる。
「ここがね」
指先が、心臓の辺りをなぞる。
「何も、感じないの」
その言葉に、
アリアの中で、はっきりと恐怖が形を持った。
「……じゃあ」
喉が、かすれる。
「どうして、私の夢に?」
マルグリットは、少し首を傾げた。
「分からない」
正直な答え。
「ただ……」
一歩、近づいてくる。
「あなたが、
私と同じところに立っている気がしたの」
距離が、近い。
その目を、直視できない。
「……私は」
アリアは、拳を握りしめた。
「あなたの代わりには、なりません」
その宣言に、
マルグリットは驚いたように目を見開き、
それから、微笑んだ。
「……そう言える人が、
まだ残っていたのね」
安堵と、諦めが混じった笑顔。
「なら……お願い」
マルグリットは、静かに言った。
「次の人を、見て」
胸が、どくんと鳴る。
「次?」
「もう……始まってる」
その瞬間。
夢の風景が、ひび割れた。
白い廊下が、崩れ落ちる。
「――待って!」
アリアが手を伸ばした瞬間。
「アリア!」
現実の声が、重なった。
目を開ける。
見慣れた天井。
治療院の部屋。
ユリウスが、寝台の脇に立っていた。
「……夢を、見ていましたね」
それは、問いではなかった。
アリアは、ゆっくりと起き上がる。
胸に、嫌な汗。
「……先生」
声が、少し震えた。
「私、名前を呼びました」
ユリウスの表情が、強張る。
「……誰の」
「マルグリット」
その名を出した瞬間、
彼の顔から、血の気が引いた。
「……どこで、その名を」
「夢で」
アリアは、まっすぐに見つめる。
「彼女は、
“次がもう始まっている”と言いました」
沈黙。
重い沈黙。
やがて、ユリウスは低く息を吐いた。
「……あなたには、
ここまで来てしまった」
それは、諦めに近い言葉だった。
「先生」
アリアは、静かに言った。
「次は、誰ですか」
ユリウスは、答えなかった。
答えられなかった。
その代わり、
視線が一瞬だけ、扉の方へ向いた。
アリアは、その視線を見逃さなかった。
胸の奥が、冷たくなる。
――エリナ。
名を口にする前から、分かってしまった。
「……もう一度、聞きます」
アリアは、はっきりと言った。
「次は、誰ですか」
ユリウスは、ゆっくりと目を閉じる。
「……まだ、確定ではありません」
逃げだ。
「ですが……」
続きを、絞り出す。
「兆候が、出ています」
その言葉で、
すべてが、繋がった。
夢の中の言葉。
記録帳。
治療院の静けさ。
「……私は」
アリアは、深く息を吸った。
「彼女と、話します」
ユリウスが、はっと顔を上げる。
「正気ですか」
「正気です」
静かな断言。
「正しい人ほど、
ここに連れてこられる」
それが、分かってしまったから。
「……アリア」
ユリウスは、低い声で言った。
「あなたは、もう患者ではありません」
その言葉に、
アリアは小さく笑った。
「では、何ですか」
ユリウスは、答えられない。
代わりに、
彼は、初めて“医師”ではない目で、
アリアを見た。
「……観測者、です」
その答えに、
アリアは静かに頷いた。
胸の奥に、
新しい決意が芽生える。
恋を取り戻すためではない。
誰かを守るためでもない。
――この繰り返しを、
終わらせるために。
その夜、
アリアはもう一度だけ、
心の中で名前を呼んだ。
マルグリット。
あなたの声は、
確かに、ここに届いた。
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