第10話 記録に残らなかった令嬢
その扉は、誰にも使われていない。
治療院の廊下には、同じ形の白い扉が規則正しく並んでいる。
けれど、そこだけは違った。
取っ手が古い。
金具が擦れて、鈍い色をしている。
そして何より――
扉の前に立つと、空気が少しだけ重くなる。
アリアは、そこに足を止めていた。
昨夜、ユリウスが見せた記録帳。
患者番号だけが並び、名前が一つもない紙束。
その中で、たった一度だけ、
“消しきれなかった痕跡”があった。
紙の端に、かすれた文字。
《……グリット》
姓も肩書もない。
けれど、その欠片が、胸の奥をくすぐる。
――マルグリット。
確信はない。
だが、名前を思い浮かべた瞬間、
自分ではない誰かの息遣いが、背後にあるような錯覚がした。
廊下の奥から足音が近づく。
「……何をしているのですか」
低い声。
ユリウスだった。
白衣姿で、いつもより険しい顔をしている。
「先生」
アリアは振り返らずに言った。
「ここは、何の部屋ですか」
ユリウスの足が止まる。
「使用されていない病室です」
昨日と同じ答え。
短く、切り捨てるような。
「……嘘ですね」
アリアは、穏やかに言った。
「ここだけ、空気が違います」
ユリウスは一瞬、何か言いかけて、口を閉ざした。
「戻りましょう」
「戻りません」
拒否の言葉は、驚くほど静かだった。
「先生」
アリアはようやく振り向き、彼を見た。
「この部屋にいた人は、どこへ行ったのですか」
ユリウスの目が揺れる。
「……アリア」
名を呼ぶ声が、苦い。
「それは、あなたの治療に関係ない」
「関係あります」
アリアは淡々と答えた。
「私の前にいた“役割”の人です」
役割。
その単語を出した瞬間、ユリウスの顔から血の気が引いた。
長い沈黙。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「……ついてきてください」
言葉は、敗北のようだった。
ユリウスは扉の鍵に触れ、魔力を流す。
古い封印が、微かに光った。
カチリ。
音がして、扉が開く。
中は、驚くほど普通の病室だった。
寝台、机、椅子。
白い壁。
ただ一つ違うのは、
“人がいた痕跡”が消しきれていないこと。
机の角。
爪で削ったような傷。
壁の下部に、
薄く残る文字の跡。
アリアはゆっくりと近づき、指先でなぞった。
削られ、塗り潰され、
それでも残った線。
そこに浮かび上がる言葉。
――恋をした私は、病気でしたか?
胸が、きゅっと締まった。
感情ではないはずなのに。
痛みとして残る。
アリアは壁を見つめたまま、囁く。
「……彼女は」
「……マルグリット」
ユリウスが、観念したように名前を言った。
その瞬間、
アリアの背中に、ぞくりと寒気が走った。
名前が出た。
この世界の中で、
存在した証明が、今、声になった。
「彼女は、どんな人でしたか」
ユリウスはしばらく答えない。
そして、やっと吐き出すように言った。
「……よく笑う人でした」
その言い方が、逆に残酷だった。
「治療前は、気位が高いと言われていた。
言葉も強かった。
でも……」
ユリウスは目を伏せる。
「本当は、とても不器用だった」
アリアの胸に、妙な確信が降りた。
――この人も、見てきたのだ。
削られていく人間を。
「彼女は、治療が終わって……どうなったのですか」
ユリウスの肩がわずかに震えた。
「……記録上は、社会復帰です」
「記録上は?」
「……それ以上、私は」
言葉が途切れる。
アリアは、寝台の脇に置かれた小さな箱に目を留めた。
医療用の備品箱に見えるが、鍵がかかっていない。
ゆっくりと蓋を開ける。
中には、紙片が一枚だけ入っていた。
折り畳まれ、
何度も開いて閉じた跡。
アリアは、慎重にそれを広げた。
短い文章。
ただし、最後の行だけが、強く書き殴られている。
――お願い。誰か、私の名前を覚えて。
息が止まった。
アリアは紙片を握りしめた。
感情が薄いはずの自分の中で、
はっきりと“怒り”に近いものが立ち上がる。
――名前を奪うことが、治療なの?
「先生」
アリアは、低く言った。
「この世界は、
治療が終わった人を、どうするのですか」
ユリウスは、唇を噛みしめた。
「……あなたは、知ってはいけない」
「知りたい」
アリアは即答した。
「私は、次だから」
その言葉に、ユリウスの瞳が大きく揺れる。
アリアは続けた。
「私は、彼女の次で、
このあとも、誰かが続く」
紙片を胸に当てる。
「それを知らないまま、
“正しくなる”ことなんてできません」
ユリウスは、しばらく沈黙していた。
そして、ようやく言った。
「……治療成功者は」
声が掠れる。
「“治った証明”として、
王城の外に移される」
「移される?」
「名前を消され、家系からも消え、
社会からも消える」
アリアは、壁に残された文字を見た。
恋をした私は、病気でしたか?
「……それが、救いですか」
ユリウスは答えられない。
答えの代わりに、アリアの手から紙片をそっと取り、折り畳んで戻した。
「この部屋は、見なかったことにしてください」
「できません」
アリアは、静かに言った。
「私は、彼女の名前を知りました」
それだけで、
世界の歯車が一つ、ずれた気がした。
「マルグリット」
アリアは、もう一度声に出す。
「あなたの名前は、ここにあります」
ユリウスが、目を閉じた。
その表情は、祈りに近かった。
部屋を出るとき、アリアは扉に手を置いた。
古い木は冷たく、
その冷たさが、確かに“誰かの不在”を語っていた。
廊下に戻ると、治療院の空気はすぐに「いつもの白」に戻った。
規則。
静けさ。
正しさ。
アリアは、その中で微笑んだ。
優良患者の顔で。
そして心の中でだけ、
新しい誓いを立てる。
――私は、消えない。
――次の誰かも、消させない。
恋のためではない。
誰かを愛した証を、
病として葬らせないために。
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