101股目のプロポーズ。捨てられた悪徳令嬢の私に元夫が泣きついてきたんだが???
私の名前は、アリシア・フォン・グレイヴ。
かつて王都一の「悪徳令嬢」と呼ばれ、今では辺境の地で静かに暮らす、ただの未亡人——正確には、離縁された元公爵夫人である。
噂というものは恐ろしい。
人は真実を知ろうとせず、面白いほうを信じる。
「傲慢で冷酷」
「金と権力にしか興味がない」
「夫を操り、裏で悪事を働く女」
それらはすべて、私の“元夫”であるレオンハルト・フォン・ヴァイス公爵が、私を切り捨てるために流した物語だった。
——まあ、今となってはどうでもいい。
私は今日も、辺境の屋敷で紅茶を淹れ、静かな午後を過ごしていた。
この屋敷は質素だが、空気が澄み、夜は星が美しい。
王都のきらびやかさなど、もう恋しくもない。
……はずだった。
「——アリシア!! 開けてくれ!!」
玄関の扉を叩く、聞き覚えのある声。
私は紅茶のカップを置き、深くため息をついた。
「……来ると思っていたわ」
扉を開けると、そこには見る影もなくやつれた男が立っていた。
元夫、レオンハルト。
かつては社交界の花形で、女性たちが列をなして求婚していた男だ。
今は、目の下に濃い隈を作り、服装もどこかだらしない。
「久しぶりね。何の用?」
「……助けてくれ、アリシア」
開口一番、それだった。
私は思わず笑いそうになった。
「助けて? 私を“悪徳令嬢”として追放したあなたが?」
「それは……誤解だったんだ」
「便利な言葉ね」
彼は私の前に膝をついた。
誇り高かった公爵が、地面に額を擦りつける姿は、滑稽ですらある。
「俺は……間違っていた。君が必要なんだ」
「それで? 今回は何股目のプロポーズ?」
彼が顔を上げる。
「……百、……」
「101股目のプロポーズ、ってわけね」
私は冷静に言い放った。
レオンハルトは有名な女好きだった。
結婚中ですら、浮名を流し続け、数えきれないほどの愛人を囲っていた。
私はそれを黙認していた。理由は簡単だ。
——そのすべてが、彼の政治的な失策を覆い隠すためだったから。
私は裏で財政を立て直し、領地を守り、彼の失敗を処理していた。
だが彼は、最後までそれに気づかなかった。
「今さら何を言っても、遅いわ」
「違う! 君がいなくなってから、すべてが崩れたんだ!」
彼は必死に語り始めた。
財政破綻。
領地の反乱。
愛人たちの裏切り。
王家からの信頼失墜。
——当然の結末だ。
「誰も、俺を支えてくれない。君だけだった……」
「そう。やっと理解したのね」
私は彼を見下ろしながら、静かに言った。
「私はあなたを愛していた。でも、それ以上に“公爵家”を守っていた」
「なら……!」
「でもあなたは、私を“使える道具”だとしか見なかった」
その言葉に、彼は言葉を失う。
私は続けた。
「離縁状に署名した日、あなたは言ったわね。“悪徳令嬢は不要だ”って」
「……」
「今さら、泣きついてくるなんて、随分と都合がいい」
私は扉を閉めようとした。
「待ってくれ! やり直そう! 今度こそ、君だけを愛する!」
私は振り返り、微笑んだ。
「無理よ」
「なぜだ……」
「もう、次がいるから」
彼は凍りついた。
——私の背後から、足音がした。
「アリシア、紅茶が冷めるよ」
現れたのは、辺境伯家の次男、エドワード。
静かで誠実な人。
私の過去も噂もすべて知ったうえで、そばにいると決めた男。
「……誰だ」
「私の婚約者よ」
「なっ……!」
私は腕を組み、淡々と告げる。
「あなたは101股目。彼は、最初で最後」
エドワードは軽く会釈し、言った。
「公爵閣下。彼女はもう、あなたのものではありません」
レオンハルトは崩れ落ちた。
「……俺は……」
「ええ、後悔しているでしょうね」
私は扉を閉める。
「でも安心して。あなたがいなくても、私は幸せになれた」
外から、嗚咽が聞こえたが、もう関係ない。紅茶の香りが、部屋に満ちる。
「……少し、強く言いすぎたかしら」
エドワードは微笑んだ。
「いいえ。正当な評価です」
私はカップを持ち上げ、窓の外を見た。
悪徳令嬢と呼ばれた私の人生は、ようやく始まったばかりだ。
——101股目のプロポーズは、
私が過去を完全に捨て去るための、ちょうどいい区切りだった。
レオンハルトが去ってから、屋敷は驚くほど静かだった。
まるで嵐が通り過ぎた後のように、空気が澄み切っている。
「……本当に、終わったのね」
私がそう呟くと、エドワードは暖炉に薪を足しながら言った。
「ええ。彼はもう、戻ってこないでしょう」
「そうね。戻る“場所”が、もうどこにもないもの」
それから数日後、王都から噂が届いた。
レオンハルト・フォン・ヴァイス公爵、爵位剥奪。
理由は財政不正と領地放棄。
かつて彼に群がっていた愛人たちは、一斉に姿を消したという。
「……見事なまでの転落だわ」
私は書簡を閉じ、苦笑した。
だが、不思議と胸は痛まなかった。
同情も、怒りも、もう残っていない。
——私が彼のために使った年月は、
すでに十分すぎるほどの“代償”だった。
さらに数週間後、王都から正式な使者が訪れた。
「アリシア・フォン・グレイヴ様。
王家より、正式にご招待申し上げます」
エドワードが眉をひそめる。
「……行くのかい?」
「ええ。逃げる理由はないわ」
王城の大広間。
そこに集まっていた貴族たちの視線は、かつてとまるで違っていた。
軽蔑でも、嘲笑でもない。
——警戒と、敬意。
「悪徳令嬢、とは……ずいぶん都合のいい呼び名だったようですね」
王弟殿下は、私にそう言った。
「あなたがいなければ、ヴァイス領は数年前に崩壊していた。
財政再建、交易路の整備、反乱鎮圧——
すべて、あなたの手腕だったと判明しています」
私は一礼した。
「評価が遅すぎますわ」
「その通りです」
殿下は苦笑し、続けた。
「そこで、お願いがあります。
あなたの知識と経験を、王国のために使っていただきたい」
——要するに、引き抜きだ。
私は少し考え、答えた。
「条件があります」
「ほう?」
「私は“夫の影”にはなりません。
名前も、功績も、すべて私個人として扱ってください」
「……承知しました」
その瞬間、大広間がざわめいた。
かつて“捨てられた悪徳令嬢”は、
今や王家直轄の顧問として迎えられる存在になったのだ。
帰路の馬車で、エドワードが言った。
「すごいね。君は」
「いいえ」
私は首を振る。
「ようやく、正しい場所に立てただけ」
彼は微笑み、私の手を取った。
「それでも、誇らしいよ」
——そして、数か月後。
ある寒い朝、王都の小さな教会で、
私は静かな結婚式を挙げた。
派手な装飾も、社交界の喧騒もない。
だが、それが何より心地よかった。
「誓いますか?」
「ええ」
私は迷いなく答えた。
この手は、もう誰かの失敗を隠すために使わない。
誰かの虚栄を支えるためにも使わない。
——自分の人生のために使う。
式の後、ふとエドワードが言った。
「ところで……」
「なに?」
「もし、彼がまた現れたら?」
私は少し考えて、笑った。
窓の外を見つめながら、静かに言う。
「もう、プロポーズの資格すらないわ」
悪徳令嬢と呼ばれた私の物語は、
ここでようやく、“誰にも奪われない形”で完結した。
——捨てられたのではない。
私は、自分で選び直したのだ。
レオンハルト・フォン・ヴァイスの転落は、王都の誰もが知るところとなった。
爵位剥奪。
財産没収。
使用人の即時解雇。
屋敷は王家に接収され、彼は一夜にして「無一文の元公爵」へと成り下がった。
それでも最初のうち、彼はまだ“自分は選ばれる側だ”と信じていたらしい。
だが現実は残酷だった。
愛人だった令嬢たちは、彼が失脚したと知るや、
まるで示し合わせたかのように証言台に立った。
「金銭を受け取っていました」
「公爵家の名を使った取引に関与させられました」
「責任はすべて彼にあります」
彼女たちは泣き、被害者を演じ、
そして全員が——助かった。
助からなかったのは、彼だけ。
裁判の場で、裁判官は冷淡に告げた。
「あなたは、判断力を欠いた無能な当主であり、
同時に、自らの妻に責任を押しつけた卑劣な男です」
その言葉が決定打だった。
——“悪徳令嬢”という汚名は、
正式に、彼が捏造した虚偽であったと認定されたのだ。
数日後、私は王家顧問として、
この件の最終報告書に署名していた。
「……これで、完全に終わりですね」
王弟殿下がそう言う。
「ええ。私にとっては、もう過去です」
そのとき、侍従が一通の書簡を差し出した。
「元ヴァイス公爵より、どうしても本人に届けてほしいと」
私は封を切り、中を一瞥してから、破いた。
そこに書かれていたのは、
謝罪でも反省でもなかった。
——「やり直せるなら、今度は君だけを見る」
思わず、失笑が漏れる。
「……最後まで、自分が“選ぶ側”のつもりなのね」
私は破片を暖炉に放り込んだ。
紙は一瞬で燃え、灰になる。
その翌月、王都の裏通りで、
酒に溺れた男が路上で倒れているという噂が流れた。
元公爵だと気づいた者は、ほとんどいない。
身なりは汚れ、言葉は支離滅裂。
かつて彼が見下していた商人や使用人に、
施しを乞う姿が目撃されたという。
「アリシア……アリシアが悪いんだ……」
そんな寝言を呟いていた、とも。
——だが誰も、立ち止まらなかった。
それが彼の“最終的な評価”だった。
◇
数年後。
私は王国財政改革の責任者として、
正式に爵位を授かることになった。
「グレイヴ伯爵位を、アリシア・フォン・グレイヴに」
大広間に拍手が響く。
“夫の妻”としてではない。
“誰かの影”でもない。
——私自身の名前で。
式の後、エドワードが静かに言った。
「もう、完全に越えたね」
「ええ」
私は頷く。
「彼は、私の人生の一部ですらなくなった」
その夜、私は自室で、昔の書類を整理していた。
離縁状。
偽りの告発文。
悪徳令嬢と書かれた匿名の手紙。
すべて、箱に入れて封をする。
「……もう必要ないわね」
箱は封印され、地下の倉庫へ送られた。
——二度と開かれることはない。
窓の外、夜空には星が広がっている。
「101股目のプロポーズ」
私は静かに呟いた。
十数年前、彼が徴兵されたときのことを思い出す。
「僕は死にません。あなたが好きだから」
彼は本当に死ななかった。
なんだかんだで私より長生きしたらしい。
そういう、くだらない約束を守るところだけは愛してるわ。
生まれ変わったらまた、どこかで会いましょう。
もし最初で最後のプロポーズをするのなら
しばらくは一緒にいてあげてもいいかもね。




