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3.婚約者

 ミラが竜の卵を温め始めて、四日が経った。


 最初よりかなり小さくなってしまった卵から、かすかな振動が伝わってくる。

 まるで中の命が、殻を打ち破ろうと足掻いているようだった。


 ……もしかすると、竜水が足りずに苦しんでいるのかもしれないけれど。

 あえて『孵化の時が近いのかもしれない』という、楽観的な想像に縋るようにした。


 願わくば、このまま誰にも知られず、静かにこの命を抱きしめ続けたい。



 ――だが、そうはいかなかった。


「ミラ、最近顔を見ないけど……大丈夫か?」

「ダ、ダニエル……どうしたの? ちょっと、忙しくて……」


 小屋の戸口から顔を覗かせたのは、ミラの婚約者、ダニエルだった。


 色白の肌に、柔らかい茶色の髪。伏し目がちな優しげな目元。

 その穏やかな雰囲気は、かつてのミラにとっては、唯一の安らぎだった。


 幼馴染として長い時間を共に過ごし、このまま結婚するのだと、何の疑いもなく、信じていた。


 ――ほんの、先月までは。


「病気でもしてるんじゃないかって、うちの父さんも心配してさ」


 笑顔のつもりの表情には、ぎこちなさが滲んでいる。

 ミラも笑顔を返そうとしたが、口元が引きつったままだ。


「……そう。心配、してくれたのね」


(……本当に、『何』を心配していたんだか)


 ミラは心の中で静かに呟く。


 最後にダニエルと会ったのは、花祭の日。


 女神の祝福を受けた者を讃える、神聖な祭りだった。

 村の広場では、色とりどりの花弁が風に舞い、焚かれた火がゆらゆらと夕暮れの空を照らしていた。


 人混みの中で逸れたダニエルを探していた、そのとき――


 ベンチの向こう、見慣れた背中が、別の女と抱き合い、唇を重ねていた。

 相手の女はミラに気づかなかったようだが、ダニエルとはしっかりと、目が合った。


 お互い目を逸らせないまま、数秒が過ぎて――


 ミラは、何も言わず、後ずさりして、その場から逃げた。


 あれから、一度も会っていなかった。

 今日こうして来たのも、きっとダニエルの意志ではない。彼の父親が気を遣って無理に送り出したのだろう。


「あ、あのさ……あの時なんだけど……その、ご、誤解なんだよ」


 口火を切ったその言葉に、ミラは内心で舌打ちする。


(わたし……何も、言ってないけど)


 それはまるで、自分から罪を認めているようなものだ。

 けれどミラは、何も言わず、ただ静かに答える。


「そう……なんだ。よかった」


 声は震えていたと思う。

 本当は、よくなんかない。むしろ、何もかもが壊れてしまった。


 でも、どう言葉にしていいのか、ミラにはもう分からない。



 幼い頃に両親を亡くして以来、ミラは人一倍、人の顔色をうかがいながら生きてきた。

 寂しくても、悲しくても、笑っていた。


 ミラの気持ちを汲んで、唯一まっすぐに受け止めてくれたのは、アルビンカだけだ。


 そんなミラでも、今、目の前の浮気男に何を言えばいいのか、どう笑えばいいのか、本当に分からない。



 ――その沈黙を、扉を叩く音が打ち破る。


「もーう! またあたしだけ仲間外れにしてっ!」

「サ、サーシャ……?」


 勢いよく扉を開け、巻き髪を揺らして入って来たのは、サーシャだ。


 ミラ、ダニエル、そしてサーシャ――三人は昔から一緒に過ごしてきた幼馴染だった。


 サーシャは唯一無二の親友、と。信じて疑わなかった。

 これもまた、先月までは、の話だ。


「ダニエルがミラの家に入っていくのが見えたのよ!

 最近ミラ、全然見かけないしぃ、すごく心配してたんだから!」


 サーシャは明るい声でそう言いながら、いきなりミラに抱きついてくる。


 サーシャは最近、女神イネスから祝福を受け見習い巫女になったらしい。

 先日の花祭は、まさにサーシャの祝福を祝う祭でもあったのだ。


「ちょ、ちょっと……体調が悪くて」


 ミラは反射的に卵を庇い、サーシャから距離を取る。


 竜は、この国では女神の敵とされる存在。

 竜の卵を温めているなどと知られれば、邪教徒として断罪されかねない。


 サーシャはそんな事情などお構いなしに、突然バランスを崩して尻餅をついた。


「きゃっ……いたぁいっ! そんなに強く突き飛ばさなくても……!」

「だ、大丈夫か、サーシャ!? ミラ、君……親友なんだろ? 何てことを!」


 ダニエルがサーシャの肩を優しく抱く。

 その視線は、冷たく、ミラを責めるように突き刺さっていた。


「ダニエル……ありがとう。大丈夫よ。あたしが、悪いの……」

「サーシャ、君は悪くない。ミラ、謝るんだ」


(……嘘。今、触れてもいなかったもの)


 ミラは唇を噛み、俯いた。

 でも、この場を収めるには、謝った方が早い。


「ご……ごめんなさ……」


 花祭の日、ダニエルがキスをしていた相手。


 それは、このサーシャだった。



 あの日――


 ミラが二人を見つけたとき、サーシャは気づかぬまま、甘ったるい声で囁いていた。


『ミラって、自分が祝福を受けられなかったのが悔しかったみたい』

『最近ずっと冷たくて、ちょっとしたことで叩かれたりもして……』


 そう言って捲った袖には、青あざがあった。

 身に覚えのないそれに、ミラは息を飲んだ。


『ずっと……嫌がらせを受けてたの』

『でも、ミラを責めないで。あたしたち、親友だから……』



 そんな事実は、一つもない。

 ただ――思い返せば、ミラへの態度が急に冷たくなった村人もいた。


 何か言われていたのだろうか。きっと、ずっと前から。



「ダニエル、ミラは本当に悪くないの。

 あたしが、勝手に転んだだけ……二人の邪魔をしたから……」


「サーシャ……!」


 サーシャが小屋を飛び出し、ダニエルは慌ててそのあとを追っていく。


 静寂が戻った小屋の中で、ミラは小さく肩を落とした。

 もはや、悲しみよりも、一人になれた安堵の方が勝っていた。


◇ ◇ ◇


「ねぇ、ダニエル。どうしてミラの家に行ったのよ?」


 その声には、甘えるような響きと、刺すような棘が混ざっていた。


「仕方ないだろ。親父が心配してたんだから。

 ……それに、婚約解消するまでは人目のある場所でベタベタするなって言っただろ。会うなら、いつもの場所で……な?」


 ダニエルは満面の笑みを浮かべて手を振り払うと、背中を向けて去っていく。

 その背中を睨みつけながら、サーシャは爪を噛みしめた。


「……婚約解消、してくれないじゃないっ……!」


 何度もお願いしているのに、ダニエルはまだ両親にサーシャのことを話していない。


 『加護』を受けたのは自分。

 『愛されるべき』は自分のはずなのに。


 それでも、ダニエルはミラを完全には捨てきれていない。


「ミラさえ……いなければ」


 その言葉が、サーシャの中で炎のように燃え上がる。

 ミラがいなければ、ダニエルは自分のものになる。

 一生牢獄にでも入ればいい。いっそ――


「そうだわ……いっそ、あの子の罪を捏造してしまえばいいのよ」


 ニンマリと、サーシャは笑った。

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