2.火は危険
平原に囲まれた小さな農村――ポイナ村。
その外れに、ミラがひとりで暮らす、こぢんまりとした小屋が建っていた。
家の裏手には、家族三人が自給自足できる程度の畑と、手作り感あふれる温室がある。
両親がまだ生きていた頃は、ミラもよく一緒に畑仕事をしていた。
しかし今では、その広さがかえって寂しさを際立たせる。ひとりで手入れするには、少々広すぎる。
その畑から少し離れた場所に、地面にぽっかりと口を開けた洞穴がある。
そこは年中ひんやりとしていて、作りすぎた野菜を保管するにはぴったりの天然の冷蔵庫だ。
けれど、母親からは「奥には行くな」ときつく言われていた場所でもあった。
両親を失ったショックで呆然自失だったミラは、その言いつけを破って、洞穴の奥へと足を踏み入れてしまった。
そこで出会ったのが、アルビンカ――竜だ。
後にわかったことだが、その洞穴は、巨大な鍾乳洞の入口の一つに過ぎなかったらしい。アルビンカ曰く、その洞窟はあらゆる場所と繋がっているという。
そこは、まるで異界のような空間で、ミラはアルビンカの元に足繁く通うようになった。
◇ ◇ ◇
まだ雪こそ降っていないものの、冷気は確実に忍び寄っていた。
小屋の中だというのに、吐息が白い。
暖炉に火を灯すと、ミラは床にクッションを並べ、その上にストールをぐるりと円形に敷きつめた。
その即席のベッドの中心に、問題の『卵』を放り投げる。
アルビンカに見られていたら、きっと「扱いが雑だ」と怒られていたかな、とミラは苦笑を浮かべる。
でも、触るだけでも、脳が締めつけられる程に不気味な感触なので、申し訳ないけど仕方がない。
ヌルヌルした液を滴らせながら、卵は簡易ベッドにすっぽり収まっている。
アルビンカはあれを肌で温めていたが――。
「まあ、私の肌よりは居心地よさそうだし……。
このベッドで大丈夫よね。きっと」
同年代の女性より、ミラは少し背が低めで、少々やせ型だ。アルビンカのように肌で温めようとしても、サイズが合わない。
ミラはそう呟きながら、持ち帰る道中で、卵の液がべったり服に染みこんだ服を脱ぎ始めた。
鼻をつく生臭さに、思わず顔をしかめる。
「うっ、くさっ……これ、意外と粘っこい」
裏口から外に出て、井戸の水を汲み上げ、服を洗う。
冷たい水に指先が凍えるが、頭上には満天の星空が広がっていた。
その光景に、ふとアルビンカの姿が思い出される。
壮麗で、優しく、そして――どこか寂しげだった竜。
だが、その竜が託した卵は、あまりにも不気味で、あの姿からは想像もつかない。
「ふふっ……なるほど。だから、今まで見せてくれなかったのね」
星空に向かって、そっとつぶやく。
「大丈夫よ、アルビンカ。あなたの子供、ちゃんと育てるから」
アルビンカの『形見』とも言える牙の欠片は、皮ひもを結んで首から下げている。
体の中から、彼女の力が伝わってくるような温もりを感じる。
竜にとって力を分け与えることは、番への愛情表現だと言っていた。
離れていても、ミラの中にはその想いが、今も確かに残っていた。体から溢れる程の、卵を慈しむ想い。
洗い終えた服をロープにかけ、両頬を軽く叩く。
「いつ孵化するかわからないけど……気持ち悪いとか言ってる場合じゃない、か。
アルビンカの子供が生まれるんだもの。ちゃんと、お世話しなきゃ」
約束通り、飛竜へと擬態させてみせる。
意気込みを新たに小屋へと戻ると――。
暖炉の前から、パキンと異音が聞こえた。
「……え? な、何の音?」
急いで簡易ベッドを確認すると、
「ど、ど、どうしたの!?」
卵がガクガクと震えていた。
しかも、さっきまでヌルヌルしていた表面が、カチカチに固まっている。
「きゃああ!? なんで!? ちょっと待って、どういうことなのっ!?
あっ、火!? 火がだめなの!?」
慌てて暖炉に水をかけて火を消し、卵を引き離す。
表面は乾いて石のようになっていたが、持っていた所から表面がパリパリと剥がれて、中からまだヌルヌルの層が現れた。
「……よ、よかった、大丈夫……じゃないけど。
でも、どうして……?
竜の卵って乾燥に……弱い……の? ……あ」
不意に。
混乱するミラの脳裏に、記憶の奥から呼び起こされたアルビンカの声が響き渡る。
『――何だ、卵が見たいだと?』
あれはいつの話だっただろうか。
まだアルビンカと出会って間もない頃だったかもしれない。
そうだ。あのとき、アルビンカはこんな事を言っていた。
『竜の卵は繊細で、乾燥には極端に弱い。
卵は竜水という栄養を含んだ液体で満たされていてな、それが殻から染み出し、膜となって卵を守っているのだ』
『だが、膜は空気に触れればすぐに水分を失い、火に当たれば一瞬で固まってしまう』
「膜……そうか、このヌルヌルが、アルビンカの言っていた膜?
これが卵を守っていたんだ。
って、あれ、あれ? なんだか小さい?」
改めて見ると、卵が二回りは縮んでいる。
思い返せばミラが卵を受け取って、ずっとボタボタと汁が垂れ続けている。
これが卵の殻から染み出た竜水だとしたら、染み出た分、中身が減って萎むのは当然のこと。
『竜水が無くなれば栄養が足らなくなり、中の子は成長ができぬ。
ゆえに、竜水を減らさぬよう常に肌で包み込まねばならぬのだ』
『肌で包むのが難しくないか、だと?
クク……実はな、雌の竜には、卵を温めるための袋がある。
気が向いたら、お前にも見せてやろうか』
竜のお腹に袋。
物珍しさに、何度か見せて欲しいとお願いをした事すらすっかり忘れていた。
「あっ、結局、袋見せてもらえてない!?
じゃなくて……わたしったら、そんな大事なこと、なんで忘れてたのよ!?」
記憶をたどれば、アルビンカとは色々な話をしている。
けれど、あまりにも雑談が多すぎて、大事な情報が埋もれてしまっていた。
「こ、これ以上小さくなると流石に危険よね。
ああ、ごめんなさい。命に危険を感じて震えていたの!?
何とかしないと……でも、わたしが肌で温めるなんてどうやっても無理……。
そうだ……えっと、防水できる袋……!」
物置に駆け込み、革製の袋を探し出す。
それに卵をそっと押し込むと、麻紐でしっかり腹に巻きつける。
その上から、ゆったりとした服を何枚も重ね着した。
「これで、どう?」
さっきまで派手に震えていた卵が、ようやく静まっていく。
「ああよかった……これなら」
と思いきや、今度は卵が小刻みに震えはじめた。
暖炉の火を落としたので、部屋の気温は一気に下がっていた。
ミラもその寒さにぶるりと身を震わせる。
「もしかして、あなたも寒い?」
試しにそう声をかけてみると、卵が応じるようにぶるりと揺れた。
「……反応した?
あなた、私の声がわかるの?」
まさか、と思いつつも、ミラは急いで台所で小さく火を起こし、別の皮袋にお湯を入れて腹に当てる。
じんわりとミラの体とともに温まっていく卵が、徐々に落ち着きを戻していく。
「そっか、寒かったね。
……こわかったね」
そっと服の上から卵を優しく撫でる。
卵の中から――確かに感じる。
命の鼓動が、ミラの体を通して響いてくる。
ここにあるのは気持ち悪い球体じゃない。アルビンカの子供だ。
「ごめんね。
……大丈夫。絶対、守るから」
アルビンカに、この命を託されたのだから。




