19.水竜
イスミルはボジョを背負い、暗く湿った森をひたすら駆け抜けていた。
濃い霧のような湿気がまとわりつき、息を吸うたび胸が焼ける。
「本当にこっちなんだろうな!?」
「ああ、間違いねーよ」
ミラが常に身につけていたアルビンカの牙の欠片――そこから漂う親竜の気配を、ボジョは確かに感じ取っていた。
二人はそのわずかな痕跡だけを頼りに、何日も森を走り続けている。
ボジョはイスミルの首にしがみつき、震える指先で方向を指示していた。
いつもの悪態もなく、ただ焦燥だけが滲んでいる。
イスミルも、枝に頬を切られようが気に留める余裕もない。
ただ、ミラを取り戻すためだけに脚を動かしていた。
「……この先は――」
視界がぱっと開けた。
重い森を抜けた先には、月光を反射して銀色に輝く広大な湖が広がっていた。
湖の中心には小島が浮かび、その輪郭が夜闇の中でぼんやりと浮かんでいる。
ここはスロア国の国境付近。
以前、イスミルがミラに「いざという時の逃げ先」として伝えた場所で、小島には古い竜教の聖堂がある。
「たぶん、あの島だ……」
「まさか……竜教が、ミラさんを?」
ミラが消えてゾルコを疑っていたが、竜教とは無縁だろう。ミラの持つ古代竜の力がどこかで知られてしまい、竜教に狙われていたのかもしれない。
「考えても仕方ありません。まずは助け出すのが優先ですね。
日が昇る前に、島に近づきましょう」
イスミルはボジョを小脇に抱え、躊躇なく湖へ飛び込み――。
次の瞬間、二人ともぶくぶくと沈んでいった。
◇
「はぁ、はぁ……お、お前……泳げないなら……格好つけずに言えって!」
ボジョに岸へ引き上げられたイスミルは、ぐったりと地面に転がった。
「す、すみません……。そもそも泳げないことを、今知りました……」
「お前なぁ、そんなんで飛び込むなよ!?」
「はは……ミラさんの前に、私が救出されるとは……」
呆れるボジョも、力尽きてイスミルの横に転がっている。
「子供に無理させんなよ……お前、焦りすぎ」
「ええ、お互い様ですね。……でも、ありがとうございます。頭も冷えました」
イスミルは起き上がってボジョの濡れた頭を撫でると、手早く木を集めて焚火を起こした。
火がぱちぱちと弾け、ようやく状況を整理する冷静さが戻ってくる。
「……とりあえず、服を乾かしましょう。
島へ渡る手段を考えるのは、明るくなってからですね」
湖の向こうでは、大きな影――水竜が水しぶきを上げている。
だが味方かもわからない以上、今はできるだけ近づかない方がいい。
転がったままのボジョのお腹が、ぐぅと鳴った。
「なんか、おなかすいたな」
「そうですね、食事にしましょうか。
準備をするので少し待っていてください」
服を脱いだイスミルの体は見事に引き締まっており、焚火の光にその輪郭が浮かびあがる。
慣れた手つきでてきぱきと調理を進める姿を、ボジョはじとっとした目で眺めていた。
「お前さ、実は人間相手にいくらでも番を見つけられるだろ。
ミラじゃなくていいんじゃねーの?」
ミラは優しく可愛いらしいが、特別際立つ美貌をもっているわけでもない。
見た目だけならサーシャの方が上だ。
イスミルは仕上げた温かいスープをボジョに渡し、静かに答えた。
「人間に混ざって生活をしたら、そんな事言えなくなりますよ?」
育ての母が老いて亡くなった後、竜への恐怖が渦巻く人間に紛れ、誰にも正体を明かせず、竜を憎む『ふり』を演じて来た。
そんなイスミルの世界に現れた、竜をまっすぐ愛していたミラ。
その存在は、凍りついたイスミルの心を溶かすには十分だった。
「ボジョは最初からミラさんも私もそばにいましたからね……私に比べると、かなり恵まれているんですよ」
スープを啜りながら、ボジョがぽつりと呟く。
「だったら……スロアを出ればよかったんじゃねーの?
他の国なら、竜も普通に暮らせるんだろ?」
イスミルが困ったように笑う。
「そうですが……スロアに迷い込んでしまう竜が一定数いますからね。
私の両親も人間に見つかって騎士団に敗れて……そのとき、人間側にも多くの犠牲が出たそうです。……なかなか、放っておけないでしょう?」
「……お前の両親、人間に殺されたのか?」
「ええ。幼竜状態で独り残されて。あれは本当に地獄でしたよ?
ボジョはミラさんや私がいなくて、独りで生き残れる自信あります?」
青褪めたボジョが、ぶんぶんと首を横に振る。
「そうでしょう? ……さて、水竜たちに気づかれないうちに、火を消しましょうか」
イスミルは焚火を消すと、ボジョを抱え毛布にくるまった。
走り続けた疲労が一気に溢れたのか、すぐに静かな寝息を立て始める。
(こいつ……ずっと起きてたもんな)
ボジョはイスミルの背中で何度か眠ってしまっていた。
それでもイスミルは文句を言わず、休憩もとらず、ただ走り続けていた。
幼竜の頃、何度も助けてくれたのはイスミルだったし、最初はそれでミラに厳しく当たっていた。
(……悔しいけど、いいやつだよな)
ボジョはそっと毛布を抜け出し、決意を宿した目で湖を見つめた。
◇
――翌朝。
ひんやりした空気の中で目を覚ましたイスミルは、抱えていたはずのボジョがいないことに気がついて飛び起きた。
「ボジョ!?」
血の気が引いて周囲を探すと、湖面から顔を出した一体の水竜と目があった。
「っ! 水竜!?」
「エッエッ」
水竜が尻尾で水面を叩いている。
下瞼を上げて笑う独特な顔と、その鳴き声には覚えがあった。
「っ!? まさか……お前、ボジョ……か?」
水竜は得意げに水中で旋回し、勢いよく跳ね上がってみせる。
尻尾をゆらゆら揺らして、島まで連れて行ってやると言っているようだった。
「お前、な、何してるんだ!?
水竜に近づいたのか!? 危ないだろう!?」
叱るイスミルに、ボジョが不服そうに下瞼を上げる。
一度魚に擬態して水竜に近づいたから、水竜にはバレていないはずだと地面に図を描いて説明する。
「阿呆か、そうじゃない! お前の身にまで何かあったらどうするんだ!」
イスミルがボジョを抱き上げると、長い胴体が伸びてぶらぶらと揺れる。
蛇にも魚にも似た胴体には手足の代わりに立派なひれが生えており、泳ぎは得意そうだが、地上では役に立ちそうもない。
「どうして、水竜に――まて、まだ擬態できるんだよな?」
ボジョがニンマリ笑って頷く。
『お前が泳げないんだから仕方ねーだろ』と悪態をついているようで、イスミルから力が抜けた。
「はぁぁぁ……これ以上心配させるなよ」
「エッエッエッ」
ボジョが懐かしい声で笑うと、嬉しそうに尻尾を振った。




