11.芽生え
夜が更けても、イスミルはまだ帰らなかった。
「イ、イスミルさん。帰らなくていいんですか?」
「あれ、帰らなくてはいけませんか?」
ボジョはもう少し湿らせた方がいいということで、まだ濡れた布の上に寝かせている。
この先、番のいないミラが何をしでかすかわからない。
イスミルとしては、側にいた方が安心できる。
実際、ミラもアルビンカの助言を覚えていないので、イスミルがいてくれた方が安心できる。
(安心は、できるけど……っ)
男性である以前に、他人が家に居るだけで落ち着かない。
困惑するミラをからかうように、イスミルは少し意地悪く笑った。
「では、私はここで帰りましょうか。
まぁ、帰れというのですから……この後は、分かりますよね?
身体が濡れたままで放っておくと、しばらくすると膨れてきますけど」
「えっ?」
「膨れた身体を元に戻す方法は? 食欲が落ちたときの対処は?
今夜は寝ずに看病する必要がありますよね?」
「うっ……うぅ……、その、いてください……」
「ええ、もちろんです」
小屋とはいえ、元々家族三人が暮らしていた家だ。
余っている部屋はある。
項垂れるミラを見て、イスミルは勝ち誇ったように微笑んだ。
◇
……そして、ミラは困惑していた。
(ど、どういうこと!? この人の距離感、どうなっているの!?)
暖炉がないと冷えるだろうと、イスミルに抱き上げられるようにして座らされ、一枚の毛布に二人で包まれていたのだ。
「あ、あの……ちょっと、近すぎませんか?」
「そうですか? 寒いですし、仕方ありませんよね?」
さらりと答えるイスミルの吐息が、耳にふわりとかかる。
それだけで、くすぐったくて胸がざわめいた。
「イスミルさんって、いつもこんな感じなんですか?」
「いつも……? いえ、別にそういうわけでは。
ただ、こうしていないと、ミラさんがボジョに何をするか分かりませんので」
(……やっぱり、変な人)
そう思いながらも、不思議と嫌とは感じない。
むしろ胸の奥がほんのり温かくなっていく。
アルビンカの翼に包まれて眠った時のような安心感――。
その感覚に似ていて、気づけば瞼が重くなり、ウトウトと眠気が忍び寄る。
(アルビンカが、いてくれたら……)
と同時に、アルビンカを思い出して、視界がじんわりと滲む。
「えっ、ど、どうしたんですか!?
す、すみません。そこまで疑っているわけじゃ――」
慌てるイスミル。だが、ミラは首を振る。
「ちがいます……その。イスミルさんと一緒にいると、竜を思い出してしまって」
「私が……竜、ですか?」
瞬間、イスミルの表情が強張った。
自分の正体を知る者は、育ての親となった老婆ただ一人。
捨てられる覚悟で打ち明けたあの時、老婆は息子として受け入れてくれた。
もし、ミラに告げたら――?
恐れられるのか。それとも、ボジョのように愛してくれるのか。
ふと、自分の気持ちに違和感を覚える。
(……私は、この人に嫌われたくないのか?)
番を失い、幼竜を必死に育てていた、人間の娘。
その無知さに苛立ったこともあった。だがその無知であった理由を知った今となっては、むしろ別の感情が生まれてくる。
「あ、いえ、イスミルさんが竜っぽいとか、そういうのではなくて……。
ただ……暖かいなって」
「暖かい……?
……ミラさんは、そもそも、竜が怖いと思ったことは、ないのですか?」
恐る恐る尋ねるイスミルに、ミラがもう一度首を振る。
「最初は驚きましたけど……でも、竜って、とても優しくて、穏やかで。
本当に、素敵で……ずっと一緒にいたかったです」
「そうですか……そう、ですよね。
番、となっていたくらい、ですし」
突然、胸の奥をかきむしられるような悔しさが走る。
もし出会いが違っていたなら、その言葉は自分に向けられていたのだろうか。
「ふふ、番になれたら、よかったんですけど……」
ミラはアルビンカにそうしていたように、イスミルの胸へ顔を埋めた。
まるでそこにアルビンカがいるかのように。
「……ごめんなさい、嘘です。本当は、違うんです。
番では、ない、です」
「違う?」
「はい。怖くて……ずっと嘘ばかりついていました。
竜は……親友なんです。ボジョは、その子ども」
「で、でも、あなたからは竜の力が――」
間違いなく、ミラから竜の力が感じられる。しかも、かなり強力なものだ。
ミラは静かに告げる。
「ボジョが自分の姿に擬態できるように……竜がわたしへ、最期の力を移したんです。
だから……責任を持って育てなくちゃって」
「……はぁ!?」
その言葉に、イスミルは衝撃を隠せない。
竜が、番でもない人間に力を託すなど――考えられない。
「ふふ。驚きますよね。でも、母は強し……なのかな。
素敵だけど……番を失って、寂しそうな竜……でした」
「は……。ま、待ってください。母!?」
本当に、ミラはただ親友のために、残された子を守るため翻弄していた。
その健気な優しさに、イスミルの胸が熱くなる。
「……そんな」
「でも、全然だめでした。
本当に、色々育て方を聞いていたはずなんですけど……忘れちゃいました。
でも……イスミルさんがいてくれるから……安心、です……」
やがて、ミラは静かな寝息を立て始めた。
(番ではなく、ただ親友のために……か)
自然と、ミラを抱く腕に力がこもる。
どこかで「番がいなくてよかった」と思ってしまう自分に気づき、苦笑した。
ミラの頬を、そっと指先で触れてみる。
「……っ」
その瞬間、心臓が熱を帯びて、血が逆流するような衝動が全身を駆け巡った。
「……ああ、そうか。
私は……あなたを、番にしたい――」
そして、はっきりと自覚する。
――この女性に、愛されたいのだと。




