10.幼竜
――生まれて初めて目にしたのは、燃え盛る火の海だった。
遠くで空を裂いて争うのは、二匹の竜と人間達。
その竜こそが、自分の母と父であることを、本能で理解した。
――逃げろ。
――生きろ。
卵を破った瞬間から、親竜の願いが胸の奥に響いていた。
だが、殻を出たばかりの身体は乾き、ひび割れそうだ。
重たい身を、短い手足でどうにか持ち上げ、ベタベタと這って逃げた。
◇
しとしとと降り注ぐ雨に触れると、ひび割れた皮膚が剝がれ落ち、代わりに身体が膨張して動けなくなる。
雨のあいだは、大きな葉の裏に潜り込み、ただ震えていた。
◇
日陰を選びながら少しずつ進み、ようやく小さな村の輪郭が見えた。
どれほど歩いたのか、分からない。
振り返れば、遠くにまだ赤黒い炎が揺らめいている。
親竜はまだ、戦い続けているのだろう。
――この先、自分はどうなるのか。
――生き延びることができるのか。
そんな思いに心を奪われ、つい油断した。
木陰を外れ、陽光に触れてしまったのだ。
全身がパリンと硬化し、肺が凍りついたように呼吸が止まる。
必死に声を絞り出すが、親に届くはずもない。
――これで終わりか。
生まれてわずかで、命は尽きるのか。
そう思った刹那――
「あら……蛇が鳴いたのかい? ……いや、手足があるからトカゲかねぇ。
あの戦火で乾いちまったのかい、かわいそうに」
柔らかな声と共に、浮遊感に包まれた。
◇
助けてくれたのは、一人の老婆だった。
干からびた身体に偶然にも水を注がれ、命を繋ぎ止める。
老婆には家族がなく、長く孤独に暮らしていた。
竜の幼子だとは知る由もなく、ただ弱った小さな命を憐れんだ。
怖かった。人間は恐ろしい。
だが、この人の前では、震えが止まった。
奇跡的に老婆が飲んでいた温かな豆乳を求めると、不思議そうに笑いながらも与えてくれた。
それがきっかけで、老婆は寂しさを埋めるように、自分を家族として迎えてくれた。
◇
柔らかく煮た大豆を指先で摘みながら、老婆はよく語った。
竜と騎士団の戦は終わり、多くの命が失われた。
だが、二匹の竜は討伐され、都では盛大な凱旋式が開かれているという。
「犠牲を出してまで、竜と戦う必要があったのかねぇ……。
竜も生き物だよ、可哀そうに。邪教徒だけを取り締まればよかったんじゃないかねぇ」
そう呟き、老婆は静かに墓を見やった。
庭には二つの小さな墓が並んでいた――夫と、一人息子のもの。
老婆の手は、寂しさを滲ませながらも優しく頭を撫でてくれた。
◇
やがて、竜の血が疼き、擬態の刻が訪れた。
生きるために、竜は周囲に合わせて姿を変える。
老婆の目の前で、エラは溶けるように消え去り、骨格がきしみ、やがて人の姿へと収まった。
擬態は体に馴染むまで繰り返されるというが、その瞬間、自分の中で『形』が定まり、この姿こそが居場所だと直感した。
老婆は驚きに息を呑んだが、やがて震える手で頬を撫でた。
「……あの子に似てる。これは女神さまの祝福だ」
涙を流して、失った息子の影を重ねて喜んだ。
竜であることを告げると、老婆はしばし沈黙した。
だが、追い出すことはせず、ただ泣きながら抱きしめて言った。
「もう一度、私の子になっておくれ」
こうして、自分は老婆の息子として育てられることになった。
息子の名を譲り受け、「イスミル」と呼ばれるようになった。
竜の血を抱えながらも、人間の愛と共に育った――それが、自分の始まりだった。




