1.竜の卵
「あーぁ。あなたが雄だったらよかったのに」
ミラは大きくため息を吐き、横に蹲る美しい竜の翼の下にもぐりこんだ。
この老いた竜の名は、アルビンカ。
彼女は小さな生き物を愛おしげに見つめながら、ふっと表情を崩す。
「たとえ雄であったとしても、我には別の番がいたであろうよ」
アルビンカは、天井に群生する光苔を懐かしそうに見上げた。
光苔が、鍾乳石に沿って垂れ下がる様はまるで光のカーテンのようで、幻想的な光が、洞窟内を柔らかく照らしている。
「そもそも、人間など我の趣味ではない」
クックッ、とアルビンカが楽しそうに喉を鳴らす。
長い睫毛が揺れ、漆黒の翼でそっとミラを包み込む。
ミラはそんなアルビンカを見るのが大好きだった。
まるで綺麗な宝石を眺めているかのように、思わず顔が綻んでしまう。
竜は、一般的に恐れられる存在だ。
だがその竜であるアルビンカと共にいると、不思議と心が落ち着いていく。
「今わたし、フラれたの? つれないなぁ……」
不貞腐れたように頬を膨らませると、アルビンカが呆れたように鼻息を鳴らす。
「そうは言うが、お前には人間のコンヤクシャがいるのであろう?」
「コン……婚約者。……い、いるにはいるけど……ね」
ミラが言葉を詰まらせる。
たしかにミラには婚約者がいる。
小さい頃、ミラは事故で両親を亡くしている。両親と懇意にしていた村長が、身寄りのないミラを不憫に思い、同い年だった次男との婚約を取り決めてくれた。
最初、二人とも婚約という言葉の意味すら分かっていなかった。
それでも共に成長し、お互いを意識するようになり、このまま結婚するのだ、なんて。
……まあ、素直に信じていた時期もあったかもしれない。
「はぁ……婚約って、何なんだろ」
ミラは、アルビンカの翼の付け根に顔を埋める。
そこだけは鱗が柔らかく、温かくて、とても心地よい場所だ。
アルビンカはくすぐったそうに体を捻じると少しバランスを崩し、ゆったりと体制を整えた。
「ふ、やめろ。くすぐったい。我の卵が割れたらどうする」
「こんなことで、割れないでしょ?」
そう言いながら、ミラはさらに顔をぐりぐりと押しつける。
この洞窟でアルビンカと出会って、もう何年も経つ。
アルビンカは、ミラと会う前からずっとここにいるらしい。番に先立たれて以来、ここで卵を温め続けているという。
「もう何十年も卵を温めてるのよね?
……私が生きてる間に、生まれてくれるかな」
「ああ、そうだな」
アルビンカが天井を見上げ、目を細める。
ミラには伝えていないが、実は卵を温めてから、すでに千百三十五年が経っていた。
竜の卵が孵るまでには個体差があり、いつ生まれるかはアルビンカにも知る由がない。
卵を温めている間に、番には先立たれ、自身も老いてしまった。
「いつ生まれるか……我にも分からぬ。今日かもしれぬし、数年後かもしれぬな」
もしかしたら、数十年、数百年かかるかもしれない。
おそらくそのとき、アルビンカ自身すら、もうこの世にいないだろう。
アルビンカは深く息を吐いた。
だがミラは気づかず、胸の前で手を組んで、楽しそうにくるくると回る。
「あぁ、楽しみ!
アルビンカの子供だから、きっと美しくて、かわいい竜ね!」
そんな無邪気なミラの姿が、アルビンカの心を癒していた。
彼女の明るさは、老いた竜の不安すらも溶かしてしまう。
アルビンカが意地悪そうに笑う。
「かわいい竜か。それはないな」
「ない? え、ないの?」
「ああ、ない」
もう一度、きっぱりと断言する。
アルビンカは知っている。
この卵から『美しくてかわいい竜』が、まず生まれないことを。
「竜は生まれた直後、みな一様。
美しいとは真逆……そうだな、手足の生えた蛇、に近い」
「へ、へび?
でも、成長したらアルビンカみたいな素敵な竜になるんでしょ?」
アルビンカは聖書に記述されているような、それはもう見事な飛竜で、その美しい姿は見る者全てを圧倒するだろう。
「いや、成長はするが、それだけで姿は変わらぬ。妙な姿のままだ。
竜は『擬態』を通じて姿を整えていくのだ」
「擬態って……あの、虫とかがやるやつ?」
「ああ、そうだ。
飛竜、水竜、翼竜、応竜……その名を聞いたことはあるか?」
ミラはこくこくと頷いた。
昔から伝わる物話には、様々な種類の竜が登場する。
「実はな、どの竜も、孵化直後は全て同じ姿をしているのだよ。
幼竜は周囲に合わせて自身を変化させ、やがて最も馴染む姿に落ち着くのだ」
竜は畏怖の対象であり、謎多き存在。物語や聖書に登場する事はあっても、その生態はほとんど書物に記されていない。
その神秘に、ミラの目がキラキラと輝く。
「ってことは、アルビンカもそうだったの?」
「ああ。我もかつては幼竜だ。
そして、親である飛竜に擬態してこの姿となった。
本来なら、竜の姿は親から子へと継がれていく……のだが」
アルビンカは首をミラに巻きつけるように抱き寄せ、再び深く息を吐く。
鱗はよく見ると乾いていて、ところどころひび割れていて痛々しい。
「このままでは、飛竜は我の代で絶えてしまう。
我の命は、もう半月すら持たぬであろう」
「……え?」
老衰が進んでいることには気づいていたが、それほどとは思っていなかった。
ミラが言葉を失うと、アルビンカは優しく語りかける。
「実はな……今、生きている飛竜は、我ただ一人なのだ。
我が死ねば、子に飛竜の姿を継がせることができなくなる。
だが、我は、どうしても飛竜の姿を残したい」
それは、アルビンカの悲願でもあった。
「ミラよ、お前に頼みがある。
我の残された力を、お前に託したい。
そして、我が子を……代わりに……育ててくれ」
「ア、アルビンカ……?」
「お前の生がある間に、孵化が間に合うかは分からぬ。
だが、我に残された時間よりは、確実に長いであろう?」
アルビンカが、ぎゅっとミラを抱きしめる。
「ま、待って、アルビンカ!
私が育てても、飛竜にはならないわ!それなら……最期まで……」
ミラはただの人間だ。
アルビンカが口元をゆがめて笑うと、鋭い牙がちらりと光る。
「だからこそ、残された我のすべてを、お前に託すのだ。
我の力と、我の一部をもってすれば、子も飛竜の姿に擬態できよう。
竜は、目に見える姿ではなく、『命』に擬態するのだ」
「そうじゃない、そうじゃないの!
アルビンカがいなくなるなんて、いや!
それならすこしでも長く、一緒に――」
声が掠れる。
ミラの叫びは、心の底からのものだった。
人との付き合いが苦手なミラにとって、アルビンカは初めて心を許せた友人でもあった。
「くくっ。ああ、我もだ。
不思議なものよな。お前とは、妙に離れがたい」
「だ、だったら!」
「だからこそ、お前に託させてくれ」
アルビンカの大きな口が、そっとミラの額に触れる。
その瞬間、温かな力が流れ込んでくる。
それが、命であることを悟ったミラは、大粒の涙をこぼした。
「待って、そんな事をしたら、アルビンカは――」
「待てぬ。我には、もう時間が無い。
次、お前に会ったら……と決めておった」
その力は有無を言わさずミラへと注がれる。
ミラにアルビンカの力が流れ込むにつれ、アルビンカ姿が徐々に薄れていく。
「いや……いやよ! 勝手に決めないで!
わたし、アルビンカと、もっと一緒にいたい!
あなたのことが、好きなの! 大切なの!」
「そうか……ならば、いいことを教えてやろう、ミラよ。
これはな、本来は『番』への愛情表現でもあるのだ」
「……番?」
力の授受、それは竜による番へのマーキング行為でもあった。
「ああ……愛していたよ、ミラ。
小さな、我が親友……」
涙でぐしゃぐしゃのミラの頬が赤く染まる。
その最後の言葉は、洞窟の奥に溶けるようにかき消えていった。
気がつくと、ミラの手には小さな牙の欠片が残されていた。
おそらくそれが、飛竜の姿を継がせる『鍵』なのだろう。
けれど今のミラには、ただの形見にしか思えない。
「そんな……勝手に……。
アルビンカの、ばか……ぅっ」
涙が止まらなかった。
初めてできた、大切な友人。そして大好きな人。
大事な卵を託し、一方的に去っていった、愛しい存在。
「うぅっ……バカ……」
◇ ◇ ◇
しばらく泣きじゃくったあと、徐々に心が落ち着いていく。
アルビンカが自分に託したのは、長い時間をかけて彼女が守り続けていた卵だ。
このまま見殺しになんてできない。
「そ、そうだわ。卵……卵はどこ?」
洞窟は涼しく、アルビンカはいつも卵をお腹の下で温めていたため、ミラはまだその姿を見たことがない。
「竜の卵って……大きいのかしら。
家まで持って帰れるかな……」
竜にとっては過ごしやすい環境かもしれないが、ミラは洞窟で生活なんてできない。とりあえず家まで卵を持って帰る必要がある。
光源は光苔だけ。地面は薄暗く、手探りで探すと――
「……ぶにっ?」
妙な感触に触れた。
「あ、あった!? これだわ!」
喜んで持ち上げた次の瞬間、
「ひゃあああああ!? ちがうっ!」
ひんやりとして、ぬるぬるして、ぶよぶよしていた。あまりにも気持ち悪く、思わず叫びながら、ソレを投げ飛ばす。
しかしその物体は、まるで意思があるかのように跳ね返り、ぼよんぼよんと戻ってきて、再びミラの手に収まった。
「き、きもちわるっ。
ちょ、ちょっと……なに、なにこれ」
ヌメヌメとした感触。
触れただけで脳がキュッと締めつけられるような、不快な衝撃。
指の隙間から、ぬるりとした汁が滴り落ちる。
「ひ、うええっ……本当にきもちわるい……!」
汁から逃げるように後ずさりながら、ミラは気づいてしまった。
その気持ち悪い物体から、確かに小さな鼓動が伝わってくることに。
「え……ま、まさか……」
これが、竜の卵──
このヌルヌルしたとんでもないモノを温めて孵化させて欲しい。それがアルビンカの願いだ、と。
そう気づいた瞬間、ミラは叫ばずにはいられなかった。
「絶対無理! アルビンカの、ばかァァァァァ!!」




