第42話 「風を継ぐ者たち」
風が去ったあと、場には静寂だけが残っていた。
観客席では、一部の観戦者がようやく息を吹き返したようにざわめき始めていた。
だが、多くはまだ呆然と立ち尽くしている。
実況を務めていた者は意識を失ったまま、担架に乗せられて運ばれていく。
戦場のような闘技場に、ようやく人の気配が戻り始めた。
参加者たちは傷を抱えながらも、互いを支え合い、回復の紋章を光らせる。
熱と血の匂いに混じって、少しずつ“安堵”の色が広がっていく。
サラはその光景を一瞥するだけで、ゆっくりとレイナの方へと歩を進めた。
靴底が砂を踏む音が、やけに大きく響く。
「……止めるつもりだったの?」
問いは静かに、しかし鋭く。
レイナはその金の瞳を真正面から受け止め、ゆっくりと頷いた。
「ええ。止めたかったのよ」
息を整え、短く続ける。
「“あの子の命”をじゃなくて――あなたがそれを“当然”と思う未来を」
サラはわずかに眉を動かした。
一瞬だけ、風が二人の間を抜けていく。
「……罪があっても、命を絶つことだけが“罰”じゃない」
レイナの声は低く、けれど確かな芯があった。
「それを見失ったら、きっと誰も、救えなくなる」
サラは立ち止まる。
しばし、何かを測るようにレイナを見つめ――そしてふいと視線を逸らした。
「……甘いんだか、眩しいんだか。ほんと、よくわかんないな、あんた」
「じゃあ、どっちもってことね」
レイナが微かに笑う。
その笑みに、かすかに涙が滲んでいた。
観客席の上段では、セラが二人のやり取りを見つめていた。
目を細め、風の流れを読むように呟く。
「……いい風ね。人を殺す風じゃない」
セラはただ微笑み、瞳を閉じた。
サラはレイナに一瞥を返し、踵を返して歩き出す。
向かう先は――リアン。
彼はまだ立ち尽くしていた。
空へ昇っていった風の残滓を見送りながら、
拳を強く握りしめたまま、何も言えずに。
サラは彼の前に立ち、少し屈んで目線を合わせる。
「……よく頑張ったね」
その声は、戦場の喧噪をすべて洗い流すように優しかった。
「怖かったでしょ。でも、あんたは逃げなかった。
“導き手”としてじゃなく、“リアン”として、立ち向かった。
……それだけで、十分だよ」
リアンの瞳に、わずかに光が滲む。
唇が震え、言葉がこぼれ落ちる。
「……ありがとう」
ぽつりと、それだけ。
それが限界のように。
だが――次の瞬間。
「……で?」
サラの声色が変わった。
リアンの背筋が凍る。
「なんで、あんた――紋章、使わなかったの?」
「えっ……? だ、だって……大会では紋章使用が禁止で――」
「――はあ!?!?!?!?」
轟く怒号。
観客がびくりと肩をすくめるほどの声量だった。
「ちょ、ちょっとサラ!? 落ち着いてっ!」
リアンは慌てて両手を上げる。
だがサラの眉間には、盛大な青筋が浮かんでいた。
「リアン……あんたさぁ……」
サラは額を押さえ、ぐっと深呼吸をする。
「“大会”じゃなくて、“襲撃”よ? あの血まみれの女も、その仲間も、
“試合”なんかじゃなくて“殺し合い”してたでしょ!」
リアンは完全に固まった。
口を開いても、声が出ない。
「ルール、ルールって言うけどさ……」
サラは拳を握り、歯を食いしばる。
「その“ルール”を守ってた奴、どこにいたの? いたの!?」
「……っ」
「もし、私が止めなかったらどうなってた? ねえ、リアン!」
リアンは言葉を失い、唇を噛み締めた。
静かな怒気が、痛いほどに胸に響く。
「“命を導く”って言葉、覚えてる? それは――
“自分の命も繋ぐ”ってことなんだよ」
静まり返る空気。
その言葉の重さが、戦場の砂にまで沈んでいく。
リアンは拳を握りしめ、目を閉じた。
悔しさと安堵が入り混じるように、喉が詰まる。
サラはしばらく黙って彼を見つめ、
やがて小さく息を吐いた。
「……でも。まあ」
怒気が抜け、声に柔らかさが戻る。
金の瞳がわずかに穏やかに揺れた。
「そうやって、ちゃんと“迷える”のは、悪くない。
馬鹿だけど――人間らしい」
リアンは顔を上げた。
その目に浮かんだ涙を見て、サラは苦笑した。
「ほら、泣くな。泣くと余計に馬鹿に見えるよ」
「な、泣いてない……!」
「嘘つけ」
サラは小さく笑い、リアンの頭をぽん、と叩いた。
「いい? 次は――迷っても、守るために動きなさい。
“導き手”としてじゃなく、“リアン”として」
リアンは強く頷いた。
その瞳に宿る光は、さっきよりずっと強かった。
⸻
少し離れた場所で、セラがその光景を見ていた。
風を感じながら、静かに呟く。
「……ねぇ、レイナ。あの子たち、ちゃんと“風を継いでる”ね」
セラの隣に戻ってきていたレイナは小さく頷いた。
「ええ。眩しすぎるくらいにね」
セラは目を細め、金の髪を風に揺らした。
「導きと守り。あの二人、やっぱりいい組み合わせだわ」
サラがくしゃみをひとつ。
「……誰か噂してる?」
リアンが慌てて首を振る。
「い、いえ!? 俺は何も!」
「……ふん、まあいいわ」
サラは小さく笑い、空を見上げた。
夕陽が差し込み、風がふたたび穏やかに吹く。
「風は、まだ止んでない。
――ね、セラ」
観客席の上で、セラが微笑んだ。
「ええ。止むはずないわ。だって、あの人達が吹かせてるもの」
サラは肩をすくめ、リアンに向き直る。
「さ、帰るわよ。
怒られるのは……たぶん、これからだからね」
リアンが青ざめた。
「え、えぇっ!? 今ので終わりじゃないのか!?」
「甘いわねぇ。――レイナ、あとは任せるわ」
レイナは腕を組み、半眼でサラを見る。
「了解。あとは私が拾っておく。
……でも、あなたも反省しなさいよ?」
「へいへい」
サラは軽く手を振り、風を起こす。
リアンの外套が揺れ、灰色の砂が夕日に煌めいた。
騒ぎがひと段落し、闘技場の中央に再び静けさが戻る。
崩れた観客席は修復の紋章でゆっくりとかさなり合い、継ぎ目が光の縫い目となって消えていく。
担架が行き交い、回復の光が断続的に瞬く。喧噪は安堵のざわめきへと変わりはじめていた。
その中で、リアンはブラムの傍に膝をついていた。
「……ごめん、守りきれなかった」
傷だらけのブラムは、片腕に包帯を巻かれながらも、にやりと笑う。
「何言ってんだ、坊主。お前がいなきゃ、今ごろ俺はただの死体だ。……十分すぎるさ」
「でも、俺は――」
「いいから胸張っとけ。立ってる奴の顔じゃねぇぞ、それ」
リアンは俯いたまま、唇を噛みしめる。
そのとき、足音がふたりのもとに近づいてきた。
ふらりと歩いてきたサラが、無言でリアンの前に何かを差し出す。
淡く光る、一片の紋章。
――《砂縛の紋章》。
ザイルが使っていたあの紋章が、今はただ静かに、掌の中で揺らめいている。
「ほら。これ、ブラムに渡しておいて」
「……え?」
リアンが顔を上げると、サラはわずかに口元をゆるめた。
「大会、中止になったでしょ。ブラム、紋章狙ってたんじゃないの? 代わり……ってことで」
「サラ……いいのか?」
ブラムが目を細める。
「借りは作らねぇ。後で何でも一つ、だ」
「じゃ、二つね」
「増えたな!?」
リアンは短く息を呑み、ゆっくりと手を伸ばす。
掌に触れたその瞬間、紋章はかすかに震え、彼の中の“導き”に応えるように静かに馴染んだ。
リアンは深く息を吸い込み、ブラムへと向き直る。
「……刻むよ」
「ああ。頼む」
ブラムは静かにうなずき、包帯の巻かれていない左肩を少し開く。
汗ばむ皮膚に、戦場の熱がまだ残っていた。
リアンは立ち上がり、そっとその肩に手を当てる。
その瞬間、周囲の空気がかすかに揺れた。
――紋章と魂の接続。
リアンが持つ、紋章師としての“刻印”の力がひっそりと発現する。
紋章は掌から静かに溶け込み、ブラムの肩に淡く光る砂の意匠を刻んだ。
砂粒が風に舞うように紋がたわみ、きらりと光って――やがて、確かな存在として根づく。
「……終わった」
リアンが手を離す。
ブラムはぐっと肩を回し、痛みに顔をしかめてから、口角を上げた。
「……あいつの力か。皮肉なもんだが……悪くねぇ。
重さもいい。立つのが楽になった」
リアンは安堵の笑みを零す。
「よかった……!」
サラはそのやりとりを後ろで見て、ふっと目を細める。
「はいはい、感動の抱擁は外でやって。血の匂いがまだ残ってる」
「お、おう……すまねぇな、姐さん」
「誰が姐さんよ」
肩をすくめると、サラは何も言わずに背を向けた。
彼女の役目は、もう終わっていた。
一方、レイナは大会関係者に囲まれ、矢継ぎ早に指示を飛ばしている。
「負傷者の搬送は北門へ。報告書はコレクター分を優先、目撃者は別室で。
……ええ、回復班は第二陣を回して。サインはあとでまとめてする」
ふと視線だけを横に投げ、リアンたちの姿を遠目に確かめる。
「(――楽しそうね。……よし)」




