第22話 『風が止むとき ―継がれた祈り―』
ギルドでの報告を終えた朝。
リアンとサラは、通路へ紋章を刻むため再び旧市街の外れへ向かった。
白花が咲き残る石段を下りるたび、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
朝靄に濡れた街はまだ眠っており、遠くの鐘楼だけが静かに時を告げていた。
その音が消えるたび、あの夜の静けさが少しずつ戻ってくる気がした。
やがて、通路の入り口が見えてくる。
崩れかけた門の向こう――影が蠢いていた。
「……まだ、終わってないのね」
サラが低く呟き、剣を抜いた。
通路の奥では、灰の騎士が魔物と戦っていた。
黒い瘴気を纏った獣の群れが唸りを上げ、岩壁を裂くように襲いかかる。
騎士はそのただ中で無言のまま剣を振るう。
鋼が火花を散らし、斬撃が霧を裂くたび、英霊たちの影が背後に現れ、彼の動きと同調するように戦場を包んだ。
「……ずっと、誰にも知られずに、ここで戦っていたのね」
サラは息をひそめ、その声の端に深い哀しみと敬意を滲ませた。
リアンは息を呑む。
「彼らは……まだ戦い続けている。守り続けている」
ひと振りごとに空気が震え、冷たい風が頬を切る。
それは、長い時を越えてもなお“使命”だけを生き続ける者の姿だった。
最後の一体を斬り伏せると、騎士は剣を支え、動きを止めた。
瘴気が風に溶けていく。
霧が流れ、静寂が訪れる。
その光景――十二体の英霊たちを従えて、沈黙のままこちらを見つめる騎士の姿は、まるで永遠の記憶のようだった。
朝の光が彼の鎧をかすかに照らし、剣先が一瞬だけ揺らめいた。
リアンは静かに歩み寄り、胸の前で手を組む。
「……終わったんだな」
英霊たちの輪郭がゆらぎ、淡い光が彼らを包み始める。
リアンはそっと《箱舟》に手を触れ、祈るように言葉を紡いだ。
「この光が、あなたの代わりに街を守りますように」
深く息を吸い、石壁に掌を当てる。
指先から、編み上げた紋章が静かにほどけていく。
《盾》の線が走り、外周に《霧》が巻き、中心の小さな環がかすかに脈を打つ。
石に吸い込まれるように定着した紋章は、淡い光で通路全体を包み込み、やがて目に見えない“圧”だけを残して静まった。
サラが隣で目を細める。
「……終わり、なの?」
リアンは少しだけ間を置き、光の消えた壁から手を離した。
「いや、“始まり”なんだと思う」
通路の奥から、朝日が一本の筋となって差し込む。
埃が光の中で舞い、騎士の鎧の縁を淡くなぞった。
リアンは灰の騎士の前に進み、右手の《箱舟》を開くように掌を掲げた。
「……はじめよう」
――浄化。
いつもなら、迷いに触れ、道を示す。ただ、それだけ。
しかし、掌が騎士の額紋に触れた瞬間、胸の底がざわりと揺れた。
(……違う)
鎧の冷たさの奥に、燃えるような温度がある。
長い時を越えてもなお消えない、ひとりの人間の“想い”。
光がわずかに脈動し、リアンの視界の端が滲む。
次の瞬間――映像が流れ込んだ。
乾いた風。薄い陽。
誰かの笑い声。
小さな手が伸び、指先を掴む感触。
低い屋根の家並みに、灯のともる窓。
そして、ひとつの扉。
古い木目に、丁寧に彫り込まれた紋がある。
それは曖昧な輪郭の世界で、ただ一つだけ鮮明だった。
――家紋。
小さな家の扉。
古びた木の表面に、穏やかな意匠が刻まれていた。
盾をかたどる輪郭、その中央に二重の円。
外側を包むように、細い枝が弧を描いている。
扉が、静かに開く。
中からあふれる灯りが、あたたかな橙を落とした。
揺れる光の中で、ふたつの影が重なる。
――淡い茶色の髪をした女性。
その胸に駆け寄る、小さな子ども。
二人の笑い声が、やさしく家の中に広がっていく。
「今日も……生きて帰ってきてくれて、ありがとう」
彼女はそう言って、微笑んだ。
「……愛してるわ、あなた」
その声と笑顔に、すべてが満たされていく。
長い戦いも、傷も、祈りも――すべてがこの瞬間のためにあった。
(……帰ろうとしている)
リアンは理解した。
騎士の“帰る場所”。
守り続けた理由。
それが、いま目の前にあった。
胸の奥が、痛みを伴って熱くなる。
この痛みは悲しみではなく、“誇り”の余韻だった。
映像がゆっくりと薄れていく。
灯りが遠のき、声が風に溶ける。
現実に戻ると、騎士の輪郭は淡い光に包まれていた。
背後の英霊たちが、静かに膝をつく。
まるで、主の旅立ちを見送るかのように。
リアンは言葉を失い、ただ見つめる。
光はひとすじの風となって流れ、
――そして、騎士の胸に刻まれた紋章が、ゆっくりとリアンの右手へ吸い込まれていった。
掌の中に残るのは、微かな熱。
それは確かに“想い”の形だった。
「……託されたのか?」
リアンがそっと呟いた。
その声に応えるように、風が静かに吹き抜けた。
リアンは、胸に手を当て、深く、静かにうなずく。
「……あなたの生き様、しかと受け取った」
《箱舟の紋章》が応えるように、脈打つ光を放った。
風の音が変わった。
霧を引き連れ、通路の奥からかすかな足音が近づいてくる。
重く、しかし確かな足取り。
その合間に、金属が触れ合う微かな音が混じった。
リアンが顔を上げ、サラもそっと身構える。
やがて、霧を裂いて二つの影が現れる。
――炎のような赤髪の女と、巨岩のようにそびえる男。
女の髪が風を裂くたび、光の粒が散った。
その立ち姿だけで、空気が張り詰める。
リアンは息を呑んだ。
(……夢で見た、あの少女……?)
幾度も夢に現れ、何かを伝えようとしていた“赤髪の少女”。
今、目の前の女にその影が重なる。
年齢も気配も違う。だが――まなざしだけが同じだった。
遠くを見つめ、決して揺らがない意思。
そして、隣の男は異様だった。
身の丈は二メートルを超え、鎧の胸には肉を裂いたような紋章。
縫い目の隙間からは肉芽と蔓が蠢き、脈を打っている。
癒えるのではなく、生え続けて再構成される肉体。
――《再肉の紋章》。
リアンはすぐにそれと察した。
破壊されてもなお、再生し続ける“異常な力”。
女は一歩、前へ出た。
言葉はなく、ただリアンを見据える。
巨躯の男が冷ややかに視線を流し、低く言った。
「……何をした」
「我々があの紋章を奪おうと、魔物を送り込んだのに……すべてが無駄になった。ふざけた真似を」
女は黙したまま、指を伸ばしリアンを指す。
その仕草には怒りも迷いもなく――まるで確信のような静けさがあった。
巨躯の男の口角が吊り上がる。
「なるほど。守り手を亡くし、ひとりで浄化を行う導き手か。
守り手もおらず、冒険者のふりとは……隠れ歩くはずだ」
声の底には侮蔑。
だが、その奥にほんの一滴の興味が滲む。
リアンが口を開くより早く、サラが前へ出た。
「……ガリム……!」
声が震える。怒りと憎悪と、何かを押し殺すような響き。
彼女の両手の紋章が脈打ち、炎が噴き上がる。
紅蓮の光が霧を裂き、熱が空気をねじ曲げた。
サラの炎は怒りそのもの。
その眼に映るのは――ただ倒すべき敵。
ガリムの目が、ゆっくりとリアンからサラへ移る。
瞳の奥に笑みの気配が滲んだ。
「……久しいな、サラ=レイヴェル」
その声は岩を擦るように低く響く。
「戦場でお前を見なくなって、少しばかり――退屈していたところだ」
鎧が軋む。巨体が一歩、踏み出す。
その音が、大地を鳴らした。
「さて――こんな混沌の世で守りの任か?
お前の居場所は、そんな場所ではなかったはずだ」
嘲りを含んだ声。
「違うか? ……“死を運ぶ鳥”よ」
サラの瞳が一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに静けさを取り戻す。
「……私は、リアンの守り手だ」
その言葉に、ガリムの表情がわずかに動く。
「導き手の傍に立つか……なるほど、それもまた美しい選択だ」
無骨な指が、背の戦斧に触れる。
刃が鈍く軋み、紋章が血のように光を漏らした。
「――よい」
低く、地の底から響くような声。
「騎士の紋章も、奪う。
そして、貴様らの紋章もだ」
足元が震えた。
霧が渦を巻き、風が逆流する。
大地が息を呑むように沈黙する。
「貴様と再び刃を交えられるとは……今日は、実に良き日だ」
唇が吊り上がり、獣の笑みが覗いた。
一歩。
また一歩。
世界が、呼吸を止めた。
風が止まり、霧がわずかに裂けた。
リアンは低く息を吐き、サラの横顔を見た。
「……あいつは?」
問いかけに、サラは視線を外さず答える。
「コレクターの幹部よ」
声は冷たく、それでいて奥に焦りが混じっていた。
「知ってるでしょ? 紋章を奪う連中」
リアンは小さく目を見開く。
コレクター――紋章を“収集物”として狩り、他者の力を奪う者たち。
導き手にとっては、最も忌むべき存在。
サラが一歩前へ出る。
炎が彼女の肩を撫でるように揺れた。
「……あんた、まだ紋章を探しているの?」
彼女の声には怒りではなく、どこか哀しみが滲んでいた。
ガリムは短く息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「探しているとも」
その声は低く、まるで地の底から響くようだった。
「――あれは“大切なもの”だ」
リアンは眉をひそめる。
「……奪ってまで、か?」
ガリムは笑った。
笑みというよりも、傷跡のような歪みだった。
「奪う? 違うな。奪われたのは俺たちのほうだ」
目の奥に宿る光は、怒りとも悲しみともつかぬ色をしていた。
「紋章は記録だ。祈りであり、記憶だ。
だが――この時代の誰がそれを正しく扱っている?」
沈黙。
霧が再び流れ、彼の背の《再肉の紋章》が不気味に脈打った。
「俺は取り戻す。
奪われた“意味”をな」
その言葉の余韻が、通路全体を震わせる。
リアンは言葉を失い、サラの肩越しにその巨体を見つめた。
炎のゆらめきと霧の白が交じり、光と影の境界が揺れる。
そして――ガリムの笑みが再び、鋭く裂けた。
「さあ、“導き手”。
その手で何を守れるか……見せてもらおう」
風が止まり、霧が裂ける。
――戦いの幕が、静かに上がった。




