第16話 刻まれた午後(とき)
かすかな鳥の声で、リアンは目を覚ました。
窓から差し込む陽光が、カーテンの隙間を白く照らしている。
暖炉の火はすでに消え、部屋の空気にはほんのりと木の香りが残っていた。
しばらくぼんやりと天井を見上げる。
体が重い。頭の奥に、まだ微かな疲労の霞が残っていた。
――けれど、痛みはもうない。
穏やかな静けさが、身体の奥から染みてくる。
椅子の上でうたた寝していたサラが、ゆっくりと身じろぎした。
銀の髪が肩からこぼれ落ち、頬にかかる。
リアンは思わず手を伸ばしかけ――そして止めた。
そのまま、指先を握りしめる。
触れたら、たぶん彼女が起きる。
そう思って、代わりに静かに微笑んだ。
「……おはよう」
声に反応するように、サラのまつげが震える。
金の瞳がゆっくりと開き、焦点が合った。
「……ようやく起きたわね、寝坊助。丸一日寝てたわよ」
「え……一日も?」
「ええ。最初は息してるか確かめたわよ、ほんと」
サラは背伸びをしながら欠伸をかみ殺す。
「……まあ、少しはマシな顔になったわね。死人みたいな顔してたもの」
「それは褒め言葉?」
「半分はね」
そう言って、彼女は暖炉の上のベルを鳴らした。
ほどなくして、宿の従業員が朝食を運んでくる。
焼きたてのパンと、温かい野菜スープ。
香ばしい匂いに、リアンの腹が静かに鳴った。
サラがくすりと笑う。
「はい、どうぞ導き手様。戦場のあとは人間に戻る時間」
「……ありがとう」
リアンはスプーンを取り、ゆっくりと口に運ぶ。
久しぶりに感じる“味”だった。
塩気も、甘みも、生きている証のように胸に沁みていく。
しばらくの沈黙のあと、サラが言った。
「ねぇ、今日は休みよ。街、見に行かない?」
「街?」
「ヴェルダ・クローネ。あんた、ちゃんと見たことないでしょ?」
リアンは少し考え、それから首を横に振った。
「……ごめん。教会に行かないと。報告もあるし」
「もう、真面目ね。セラフィナが言ってたでしょ? 報告は終わってるって」
「それでも、自分の言葉で伝えたいんだ」
その言葉に、サラはため息をついた。
「……ほんと、頑固なんだから。わかったわ、付き合ってあげる」
街は朝の光に包まれていた。
石畳に露がきらめき、鐘楼の影が長く伸びている。
屋台からは焼き菓子の匂いが漂い、子どもたちが駆け抜けていった。
戦場から戻ったばかりの彼らには、それが別世界のように思えた。
教会の白壁が見えてくる。
リアンは少し緊張した面持ちで足を止めた。
サラは隣で腕を組む。
「ほら、行ってきなさい。すぐ終わるでしょ」
リアンが中に入り、数分後に戻ってきた。
その表情は穏やかだったが、どこか考え込むようでもあった。
「どうだった?」
「……セラフィナさんの伝言を聞いた。“守り手ができただろう”って」
サラの眉がぴくりと動く。
「それだけ?」
「“しばらくは導くより休め”って。……それと、“世界を見ろ”とも」
サラはわずかに笑って、肩を叩いた。
「それなら、ちょうどいいじゃない。観光決定」
街の中心には噴水広場があった。
白い石像の周りを子どもたちが走り回り、風に花びらが舞っている。
リアンは立ち止まり、ゆっくりと空を見上げた。
「……世界って、こんなに明るいんだな」
サラは横で手を腰に当てて言う。
「戦場しか見てなかったら、目が曇るわよ。ほら、あのパン屋の匂い、最高」
「サラって、こういうの好きだよね」
「当然。生きてるなら、美味しいもん食べて、笑って、風を感じる。それが普通」
リアンは少し笑い、深く息を吸った。
香ばしいパンの匂い。花の香り。遠くの鐘の音。
それらがゆっくりと胸の奥に染み込んでいく。
「……ありがとう」
「何が?」
「こうして見せてくれたこと」
サラは少し照れたように、空を見上げた。
「礼なんていいわ。どうせまた面倒ごとに巻き込まれるんだから」
「うん。……でも、いまはこれでいい」
リアンの穏やかな笑顔に、サラは小さく息をつく。
風が吹いた。
銀の髪が揺れ、朝の光がそれを包む。
街のざわめきが、ゆるやかに遠のいていった。
――導き手は、初めて“生きている世界”を見た。
その隣に、“死を運ぶ鳥”が微笑んでいた。
昼下がりの風が、街の通りをゆるやかに抜けていく。
屋台の呼び声、焼き菓子の甘い香り、行き交う人々の笑い声。
リアンにとって、それは久しく忘れていた“生きた音”だった。
サラは露店を覗き込みながら、楽しげに言う。
「ねぇリアン、こっち。焼きリンゴの蜜かけ! これ最高なんだから」
「……甘い匂いしかしないけど」
「文句言うなら一口食べてからにしなさい」
そう言って無理やり串を握らせる。
リアンは観念したようにかじり、目を瞬いた。
「……うまい」
「でしょ?」
サラの笑みは、どこか得意げだった。
そんな他愛ないやり取りのあと、ふとリアンは足を止めた。
通りの喧騒を抜けたその先――
光と影のあわいに、一軒の小さな建物がひっそりと佇んでいた。
「……ここ、何か感じる」
露店のざわめきが遠のき、空気が少しだけ柔らかくなる。
セラミックの窓枠には繊細な紋章装飾。
扉には羽根を模した彫り込みと、さりげなく飾られた季節の小花。
どれも控えめだが、不思議と温もりを宿していた。
風に揺れる看板が、静かにきらめく。
⸻
【紋章工房 アトリエ・セラ】
——“あなたの想いに、形を。”
⸻
「ふーん。職人系のお店かしらね」
サラが首をかしげたその瞬間、扉の向こうで小さな鈴が鳴った。
ちりん、と。
その音と共に、扉がわずかに開く。
現れたのは、柔らかなブラウスと革のエプロンを身につけた少女だった。
背中まで届く栗色の髪は三つ編みに編まれ、額の羽根型ヘアピンがきらりと光る。
まだ幼さの残る笑顔。けれどその瞳は、芯の強さを宿していた。
「いらっしゃいませっ、店主のセラです」
少し緊張した声。けれどまっすぐだった。
次の瞬間、足元から白銀の毛並みがふわりと現れる。
「……にゃ」
「わっ、猫!」
サラがしゃがみこむ。猫は金色の瞳でリアンをじっと見上げ、ゆっくりと擦り寄った。
その毛並みは光を含み、まるで銀の霧のように滑らかだった。
「この子は……?」
「フィルです。うちの看板猫で……少し紋章に敏感なんです」
少女は恥ずかしそうに笑う。
「お客様の持つ紋章に反応したのかも。とても優しい波長ですね」
「……君、いい“線”を描くね」
リアンはふと、部屋の中央に漂う微かな“気配”に目を向けた。
空気の層がわずかに揺れている。
光の粒が細い糸のように重なり、そこには人の手ではなく、意志そのものが描いた軌跡が残っていた。
それは、今まさに“想い”が形になろうとしている瞬間の残響だった。
セラが瞬きをする。
「線……ですか?」
リアンは微笑を浮かべ、静かに頷く。
「紋章を刻んだ“意志の軌跡”さ。目には見えなくても、空間に残る。
君のそれは、まっすぐで、丁寧だ。
力で押さえつけないで、ちゃんと“対話してる”」
「……っ」
セラは驚いたように目を見開いた。
その瞳の奥に、わずかに震える光。
「……もしかして、あなたも――」
「紋章師だよ」
リアンは軽くうなずいた。
「思いを形に、刻む側だった。今でも、その感覚は忘れてない」
その声には、懐かしさと、少しの痛みが混じっていた。
戦場で導く日々の中でも、彼の中の“職人の手”はまだ生きている――そう感じられるほどに。
セラの表情が、やわらかくほどけた。
「やっぱり……そうでしたか。
“紋章を見る目”が、普通の人と違いました」
サラが腕を組み、肩をすくめる。
「なるほどね。道理でこの店、見つけた瞬間から空気が変わったわけだ」
リアンは小さく笑い、視線を巡らせた。
「この場所、静かだ。魂が落ち着く。
たぶん、君が刻んだ“想い”が、この空気を作ってる」
セラはその言葉に頬を染め、少しだけうつむく。
「……私の紋章は、まだ未熟です。
でも、“想い”を形に残したいんです。
強さよりも、優しさや祈りを」
リアンの眼差しが、穏やかに揺れた。
「それでいい」
静かな声。けれどその奥には、確かな信念があった。
「“刻む”っていうのは、戦うための力じゃない。
心を記録して、誰かが忘れないようにする行為だ」
その言葉は、まるで“刻印”のように空気に沈み込んでいく。
セラは目を瞬かせ、やがてゆっくりと微笑んだ。
「……あなたも、そう思うんですね」
リアンは少し視線を落とし、右手の甲に触れる。
そこには《箱舟の紋章》――魂を還す者の証。
「俺も、“記録”を扱ってる。
刻む対象が生きているか、亡くなっているかの違いだけだよ」
窓辺を通り抜けた風が、カーテンをやさしく揺らした。
花の香りが淡く混じり、午後の日差しが床に斜めの線を描く。
棚の上のフィルが尾を揺らし、静かな音をひとつだけ立てる。
サラはその様子を見て、ぼそりと呟いた。
「……あんた、ほんとこういう穏やかな場所にいると別人みたいね」
リアンは苦笑して、肩をすくめる。
「戦場よりは、ずっと息がしやすい」
セラが微かに笑った。
「またいらしてください。今度は、“あなたの線”を見せてください」
リアンは少し驚いたようにして、それから静かに頷いた。
「……ああ。約束しよう」
そのとき、微かな風が工房を満たす。
光がわずかに揺らぎ、彼の右手――《箱舟の紋章》が淡く光を返した。
魂を導く者と、想いを刻む者。
二つの“線”が交わったその午後、
世界は確かに、ひとつの新しい形を刻み始めていた。




