第15話「導きの夜明け」
馬車の車輪が、ゆるやかな夜道を軋ませていた。
風は穏やかで、遠くの空には雲の切れ間から星が覗いている。
南部戦跡を離れて、まるで別世界のように静かだった。
リアンは座席にもたれ、眠っていた。
頬はまだ青白く、指先はかすかに震えている。
その胸の上下を確かめるようにサラは視線を落とし、ふっと小さく笑った。
――あの戦場で命を削るように導いていた人間とは思えない。
今の彼は、ただの十九歳の青年そのものだった。
対面の席では、他の導き手たちも沈黙の中にいた。
マリアは杖を抱いたまま眠り、イオは腕を組んで目を閉じている。
ルディアだけが窓の外を眺め、戻りゆく星空に微笑んでいた。
セラフィナ・ユールは静かに座り、膝の上で両手を組んでいた。
その白い横顔が、ふとこちらを向く。
「……リアンくんは、久しぶりの現場でしたから。疲れたのでしょうね」
やわらかな声だった。
サラは視線を外し、窓の外に流れる夜の森を見つめた。
「そうね。……まあ、無茶しすぎたわね、あの馬鹿」
セラフィナは口元にわずかに微笑を浮かべる。
けれど、その目の奥にはどこか陰があった。
「リアンくん、感受性が強いのです。導きのとき――魂の“死”をそのまま受け止めてしまう。
本来なら、導き手の紋章には“心を守る防壁”があるのですが……彼は、それを無意識に外してしまうようで」
「……外す?」
「ええ。優しい子ですから。すべてを受け入れようとしてしまうのです。
だから、他の導き手よりも無防備な時間が長い。……それが、彼が以前の守り手を失った原因でもあります」
サラの手がわずかに動いた。
握りしめた拳の中で、革手袋の音が小さく鳴る。
だが、彼女は何も言わなかった。
ただ、眠るリアンの横顔を見つめていた。
セラフィナはしばらく黙り、それから続けた。
「……彼は、自分を責めているのですよ。守りきれなかったのは自分のせいだと。
だから、余計に心を閉ざせない。悲しみも痛みも、全部自分が背負わなきゃって思ってしまう」
「……なんで、私にそんな話を?」
セラフィナは静かに目を細めた。
「守り手だから、知っておいてほしいと思いました。
それに――あなたが守り手なら、問題はないと思いましたから」
「あなたには、“見えるもの”がある。あの子には届かない場所を見ている目だと思う。」
サラの眉がわずかに動く。
だが、セラフィナは言葉を止めなかった。
「ただ、あなたは、気まぐれで守り手になったのかもしれません。
けれど、彼はもうあなたを“信じる理由”にしている。
その重さを、どうか忘れないでください」
サラは何も答えず、窓の外に視線を戻した。
夜の闇を流れる風が、馬車の中へと吹き込む。
その風が、リアンの前髪をわずかに揺らした。
「……あんた、ほんとに面倒な男ね」
サラはそう呟き、ほんの少しだけ笑った。
セラフィナはその横顔を見つめ、静かに目を閉じる。
馬車の揺れだけが、夜を運んでいた。
戦場の熱も、炎の残光も、すべて遠ざかっていく。
――導きの夜は終わり、今はただ、穏やかな帰路の途中にあった。
馬車の外、風の匂いが変わった。
焦げた鉄でも、血でもない。
土と花の匂い。そして、遠くの家々で灯された小さな焚き火の煙。
それは、久しぶりに嗅いだ“生の匂い”だった。
「……もうすぐ、ヴェルダ・クローネよ」
ルディアが窓の外を見ながら小さく告げた。
街の灯が遠くに瞬き、夜の帳の向こうで揺れている。
リアンはその言葉に反応するように身じろぎし、
まぶたをゆっくりと開いた。
焦点がまだ定まらないまま、ぼんやりと天井を見つめる。
「……ここ、どこ……?」
声はかすれていたが、もう熱はなかった。
サラが手を組んだまま、ちらりと横目を向ける。
「街へ戻る途中。……三日分は寝てたわよ」
「……三日?」
「ええ。導いた数、数えてみなさい」
リアンは小さく苦笑し、喉を鳴らした。
「……数えたら、倒れる」
「もう倒れたでしょ」
そのやり取りに、ルディアがくすりと笑い、イオは肩をすくめた。
車内に、微かな暖かさが戻る。
マリアの寝息、車輪の音、外の風。
すべてが、戦場の喧騒とは正反対の静けさだった。
リアンは姿勢を正し、窓の外を見た。
「……夜が、明るい。
この光、みんなの祈りが残ってるみたいだ」
サラは頬杖をつき、わずかに笑った。
「詩人ぶってる余裕があるなら、もう少し寝なさい」
「うん……でも、目を閉じたら、また夢を見そうで」
リアンの呟きに、サラの手がわずかに止まる。
「……悪い夢?」
「……少しだけ、昔のことを」
沈黙。
サラはそれ以上は聞かなかった。
ただ、窓の外に視線を向け、彼の隣で同じ夜を見つめた。
やがてリアンが、ぽつりと呟く。
「……ありがとう、サラ。守ってくれて」
「……当たり前でしょ」
短い返事。けれど、その声はどこか柔らかかった。
「君がいなきゃ、俺は多分……」
「言わなくていい。生きてるなら、それで十分よ」
ランプの灯が揺れる。
風が帷を揺らし、星の光が馬車の中にこぼれ落ちる。
その光がリアンの指先に触れ、
サラはふと、その手を見つめた。
傷の跡がまだ赤く残っている。
「ほんと、面倒な男」
小さくそう呟いて、サラはランプの火を少し絞った。
街の輪郭が見えてきた。
高い塔と、銀の鐘楼。
夜の帳の向こうで、微かに祈りの音が聞こえる。
リアンは再び目を閉じた。
今度は安らかな顔だった。
サラはその隣で目を細める。
「……おかえり、導き手」
馬車の音が石畳を叩き、
夜明け前の街へと溶け込んでいった。
夜明けが、街の屋根を照らし始めていた。
瓦の上で光が跳ね、鐘楼の影が伸びる。
ヴェルダ・クローネ――瘴気地帯に浮かぶ“生の島”。
戦場の夜から戻った彼らを包む空気は、どこまでも静かだった。
馬車が教会の前で止まる。
白い石の壁に朝日が反射し、聖環の印章が淡く輝いた。
リアンは眠たげな目をこすりながら降り、深く息を吸った。
焼けた血と鉄の匂いは、もうなかった。
代わりに、花の香りと祈りの声が微かに流れていた。
セラフィナ・ユールがゆったりと馬車を降り、
振り返ってリアンに柔らかく微笑む。
「報告は私がしておきます。……今日は、ゆっくりお休みなさい」
リアンは小さく首を振る。
「でも、俺も報告しないと――」
その袖を、後ろから引っ張る手があった。
サラだ。
「いいの。今は喋らないの。ほら、行く。」
「え、ちょ……ちょっと!」
リアンが慌ててついていこうとするのを、サラは軽く引きずるように歩き出す。
彼女の外套が朝の光を反射して、銀に光った。
そんな二人の背を見送りながら、セラフィナは目を細めた。
「……リアンくん」
呼びかけに、リアンが振り向く。
「少し、この世界を見なさい」
彼女の声は、静かで、どこか祈りのようだった。
「世界は、優しさだけでできてはいません。
けれど――あなたの導きが、それでも意味を持つように。
“導くとは何か”を、あなた自身の目で見てください」
リアンはしばらく黙り、
何かを噛みしめるように息を吸った。
「……わかりました」
セラフィナは静かに頷き、背を向ける。
白衣が朝の光を受けて揺れ、そのまま教会の扉の向こうへ消えていった。
残されたリアンは、しばしその場に立ち尽くしていた。
その袖を、再び引く手がある。
「ほら、何考えてんの。行くよ」
「……ああ」
サラは何も言わず、リアンの腕を引いたまま歩き出した。
石畳に二人の足音が響く。
行き交う人々のざわめき、屋台の香り、鐘の音。
どれも、戦場にはなかった音と匂いだった。
強引に引かれ、リアンは半ば引きずられるように街を歩く。
夜明けの風が二人の外套を揺らし、街灯の光が金と銀を交互に照らしていた。
⸻
宿は街でも上位の高級宿だった。
磨かれた石造りの廊下、香木の匂い、柔らかな灯。
受付の女がサラの姿を見てすぐに頭を下げた。
「レイヴェル様、いつものお部屋をご用意しております」
「ええ。助かるわ」
そのまま案内され、二人は奥の部屋へと向かった。
重厚な扉が開くと、暖炉の火がやさしく迎える。
リアンはきょろきょろと室内を見渡し、目を瞬かせた。
「……すごい。俺、こんなとこ泊まったことない」
「当然でしょ。あたしが護衛なんだから」
サラは外套を脱ぎ、埃を払う。
リアンはその後ろ姿を見て、ふと気づいた。
ベッドが――ひとつしかない。
「……あの、サラ。部屋、間違えてない?」
「ん? 間違ってないわよ。何よ、気にしてんの?」
リアンは顔を赤くして視線を逸らす。
「い、いや……その……」
サラは肩をすくめ、あきれたように笑った。
「一緒にいた方がいいに決まってるでしょ。
あんた、また夜中にうなされたりするでしょ」
「……っ」
リアンは言葉を詰まらせ、少しだけ目を伏せる。
サラはベッドに腰を下ろし、靴を脱ぎながら言った。
「ほら、早く寝なさい。今日くらい、頭を空っぽにしなさい」
「……はい」
リアンは隣の椅子に腰を下ろし、暖炉の火を見つめた。
炎がゆらゆらと揺れ、サラの横顔を照らす。
その金の瞳が、一瞬こちらを見た。
「導き手も、人間なんだからね」
「……うん」
サラが視線を外し、髪を束ね直す。
その仕草に、リアンはどこか安心するように微笑んだ。
外では、夜明けの鐘が静かに鳴る。
炎の音と重なり、やがて小さな寝息が部屋に満ちた。
銀の髪が揺れ、炎の影が壁に映る。
その夜、二人は久しぶりに“戦場以外の眠り”を得た。




