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異世界恋愛短編集

花を売る令嬢は、呪われ王子に拾われて

作者: 百鬼清風

 朝露をふくんだ草の匂いが、石畳を濡らしている。


 私は、いつも通りに小さな花籠を抱えて、城下町の広場へ向かっていた。まだ朝日が建物の影を引き延ばしている時間帯だ。


 この町では、貧民に落ちた者のことを「しぼんだ花」と呼ぶことがある。かつての私も、そう呼ばれているのだろう。


「花はいかがですか。今朝摘んできたばかりの花です」


 大通りの端に小さな敷物を敷いて、花を並べていく。薄紫のリュナの花、朝焼け色のマレリア、香り高い白のスヴィラ。それぞれ束ねて三銅貨。彩りだけは誰よりも揃えている自信があった。


「リネア、今日も綺麗な花だね。母さんの誕生日に買っていくよ」


「ありがとう。今日はスヴィラが香りよく咲いたから、お母様にぴったりかもしれません」


 顔見知りの少年が小銅貨を渡してくれて、私は笑顔で花を手渡す。


 誰かの記念日、誰かのささやかな幸福。そういうものに、自分の摘んだ花が関われるのは嬉しいことだった。


 でも、心の奥にある黒い塊が、ふと疼く。


 ──あの時、私は花ではなく、呪いの象徴になった。


 かつて私は、侯爵家の令嬢だった。リネア・リュフェリス。刺繍と舞踏を学び、貴族たちの中で穏やかに過ごしていたはずだった。


 けれどある日、王子に言い寄ったと誤解された。


「あなたの婚約は破棄する。令嬢としての立場も、すべて剥奪する」


 短く言い放ったのは、当時の第二王子だった。私の噂を流したのは、彼の周囲にいた公爵家の令嬢。私は真実を口にしようとしたが、誰も耳を貸さなかった。


 こうして、私はすべてを失い町へ落ちた。


 呪いだと笑われた。貴族に災いをもたらす花。貧民に堕ちた貴族令嬢。


 けれど私は笑わなかった。


 涙も出なかった。


 ただ、朝になれば花を摘みにいき、町に立ってそれを売る。


 それだけで日が過ぎていった。


 そして、あの日。風の冷たい晩春の朝に、彼と出会ったのだった。


 長い外套のフードを目深に被った男が、私の花の前に立ち止まった。顔は影に隠れて見えなかったが、彼の声は静かで、少し低く澄んでいた。


「この花は……君が育てたのか?」


「育てたというより、摘んだだけです。でも、選ぶ目には自信があります」


「選ぶ目、か。なら、君はこれも選んでここに置いたのか?」


 彼が指差したのは、リュナの花だった。


「ええ。これは……枯れる前に、最後のひと咲きで色づくんです」


「最後?」


「リュナは短命の花なんです。でも、一番色づくのは終わり際。だから私は、あえてそれを束ねて並べるんです。いちばん美しいときに、見てもらいたくて」


 彼はふと黙った。


 そして、わずかに息を漏らして言った。


「君は、自分のことを花に喩えたことがあるか?」


「あります。呪われた花だと、誰かに言われたから」


「その花を、拾ってみようとした者がいたら?」


「……え?」


「君の呪いと、僕の呪い。交換してみないか?」


 唐突な言葉に、私は声が出なかった。


 けれどその人は、私の前にそっと金貨を一枚落とした。


「そのリュナの花、一束くれ」


 私は無言で花を差し出した。金貨は、ありえないほど価値のあるものだった。銀貨十枚分──いや、それ以上だ。


「……名前、教えてくれませんか?」


「今はまだ名乗れない。でも、いずれ分かる」


 そう言って男は、花を持って立ち去った。


 私はしばらく呆然とその背中を見送っていた。


 春の風が吹いて、私の髪を撫でていく。


 ──呪いのような出会いだと思った。


 

 翌日も、私は広場にいた。


 いつもと同じ時間に、いつもと同じ敷物を敷き、花を並べていく。


 でも、昨日の男のことが頭から離れなかった。


 ──呪いを交換しないか?


 あの人の声は、あまりにも穏やかだった。その静けさは冬の湖のようで、私の胸に沈んでいた冷たい澱まで撫でるように揺らした。


「おい、リネア。今日は浮かない顔してるな」


 パン屋の少年がパンくずの入った袋を差し出してきた。売れ残りの端切れを時々くれる彼は、私が貧民層に堕ちてから数少ない好意をくれる相手だ。


「ありがとう。でも、ちょっと考え事をしていて……」


「変な男にでも声かけられたか? だったら言えよ。俺、拳だけは自信あるんだから」


「ふふ、大丈夫よ。怖い人じゃなかったわ」


 口にしながらも、自分でもその判断が正しかったのかどうか分からなかった。金貨一枚。それだけの価値を持つものを、花一束に託す男なんて、普通はいない。


 彼は「名乗れない」と言った。


 つまり身分を明かせない理由があるのだ。


 そしてその夜、私は夢を見た。


 長い王宮の廊下。金色の装飾が光を反射し、誰もいないはずの空間に不穏な影が揺れていた。


 闇の中から現れたのは、王子だった。


 私の婚約者だった、第二王子──ではない。


 姿は見えないのに、その人が「王子」であると、なぜか確信できた。


「君は花のように咲き、そして誰にも気づかれずに枯れる運命だった」


 その声に、私は胸を締めつけられる。


「でも僕は、君が枯れてしまう前に見つけてしまった。だから……」


 そこで目が覚めた。


 冷たい汗が背中を伝っていた。


 

 翌朝、私はいつものように広場に向かう。


 そして、昨日と同じ時刻に、あの男が現れた。


 フードを深くかぶり、私の前で足を止める。


「来てくれると思っていました」


「君は嘘が下手だ」


「え?」


「昨日の君は、僕の言葉を理解していなかった。けれど今日の君は、待っていた」


 私は黙って頷いた。


「あなたは……王族ですね?」


 問いは、確信ではなく推測だった。だが、彼は否定しなかった。


「名を名乗ることはまだできない。けれど君の勘は、正しくもあり、間違ってもいる」


「間違っている?」


「王家の人間だった、というべきかもしれない」


 だった、という言葉が、どこか哀しげに響いた。


 私は思いきって尋ねた。


「……呪われているのは、あなたのほうですか?」


「そうだ。僕は王宮で育った。けれどある日、何かを見てしまった」


「何か?」


「それは……まだ話せない。でも、それが原因で、僕は王家から追われた。死んだことにされている」


 私は息を呑む。


「では、あなたは……亡命者のような立場で?」


「立場などない。ただの亡霊さ。けれど、君を見たときに思った。君もまた、王に殺された者なのだと」


 私は目を伏せた。


 王に殺された──それは比喩ではなく、事実だ。王の裁断によって、私は貴族という身分も、家族も、未来も、すべてを奪われたのだから。


「君に頼みたいことがある」


 男が言った。


「この国に、変化をもたらすには力が必要だ。だが、それは暴力ではない。僕は君に、呪いの象徴となってほしい」


「呪いの……象徴?」


「君は貴族に見捨てられ、民に愛されている。君の花を買う者は、君の微笑みを見て癒される。君の声を聞いた者は、心の暗がりに光を見出す」


 私の胸が高鳴る。


「だから……君の存在そのものが、王家への異議となる。希望の花として、もう一度咲いてほしい」


 私はその言葉に、心の奥で何かが弾けるのを感じた。


 まだ怖い。けれど、その先にあるものを見てみたい。


「名前、聞いてもいいですか? あなたが信じてほしいなら、私にも信じるための言葉が必要です」


 男はしばらく黙った後、小さく答えた。


「ディアル。……ただのディアルだ」


 私はその名を、胸の奥にそっとしまった。


 あの日捨てられた花が、再び咲こうとしていた。


 

 城下町のはずれ。地図にも載っていない廃屋の裏に、その温室はあった。


 蔦が這い、ガラス窓の半分は割れていたけれど、中に足を踏み入れると、そこは別世界だった。


 色とりどりの花が、所狭しと咲いている。見たこともないような品種も混じっていた。小さな花びらが空気を揺らすたび、匂いが心の深いところを撫でていく。


「すごい……」


「僕の隠れ家だ。かつて王宮で育てられていた品種も、いくつか持ち出してここで世話をしている」


 ディアルがしゃがみこみ、小さな青い花に触れる。


 彼の指先はとても丁寧だった。剣を握るよりも、こうして植物に触れている方が似合うように見える。


「君に、ここを託したい」


「え?」


「君には“育てる目”がある。選ぶ力も、咲かせる力もある。僕がこの場所を手放すわけじゃない。けれど、この花たちは君のものであってほしい」


「……理由を、聞いてもいいですか?」


 ディアルは少しだけ考えるような素振りをした後、口を開いた。


「君は、自分の人生を“呪われた”と思っている。でも、呪いは恐れられるだけじゃない。使い方によっては、守りになる。抗いになる」


 私は黙って耳を傾ける。


「王宮では、声を上げる者は叩かれる。だから人は黙り、形ばかりの笑顔を貼り付ける。けれど君は、声を失わなかった。花を売るときの君の言葉は、誰よりも優しくて、まっすぐだった」


 目を見開いた私に、彼はそっと言った。


「君の言葉で、救われた者がいる。少なくとも僕は、あの日救われた」


「……あの日?」


「君の前を通りかかったとき、心が濁っていてね。何もかもどうでもよかった。でも、君が言った。“いちばん美しいときに見てほしい”と。それが、僕にとって救いだった」


 私の胸に、静かに何かが灯った。


 知らなかった。誰かの心に、そんな風に届いていたなんて。


「ありがとう、ディアル」


「僕の方こそ。君が、いてくれてよかった」


 温室の天窓から、陽の光が差し込む。


 舞い降りた花粉が光を帯びて揺れていた。


 

 その日から、私は温室に通うようになった。


 市場で売るための花とは違う。ここで育てるのは、命を見届けるための花。


 ディアルは植物の知識に詳しかった。水のやり方、根の伸ばし方、風通しの調整。どれも本で学んだものではなく、手で覚えた知恵だった。


 時折彼の手が私の指に触れると、少しだけ胸が高鳴った。


 けれど、彼は決してそれを意識している様子はなかった。


「リネア」


「なに?」


「王家に、恨みはあるか?」


 唐突な問いに、私は土の上で止まっていた指を止めた。


「……あります。とても」


 素直に答えると、ディアルは小さく頷いた。


「なら、復讐したいと思うか?」


「……分かりません。怖いです、正直。でも、何もしないままでいることも、苦しいんです」


「その気持ちがあれば十分だ。君の存在だけでも、あの腐った王家にとっては十分な棘になる」


 私は首をかしげた。


「私が、棘……?」


「そう。花は美しい。だが棘のある花ほど、強い意味を持つ」


 ディアルはそう言って、一本の白い薔薇を摘んで私に手渡した。


 棘が指をかすめたけれど、不思議と痛くなかった。


「でも私は、棘になんてなりたくなかった。ただ、誰かに見てもらいたかっただけ」


「それでいい。棘であることは、傷つけることではなく、“触れる者に覚悟を問うこと”だから」


 その言葉に、私は深く頷いた。


 そう、私はもう、ただ咲いて散るだけの花ではない。


 選ばれず、踏みにじられ、なおも咲いた者として。



 温室に通うようになって、何日が過ぎたのだろう。


 町の花売り娘としての私の暮らしは、誰の目にも以前と変わらなかったが、夜ごとにディアルと過ごす密やかな時間が、確かに私の心を変えていった。


「……リネア、君に一つ話しておきたいことがある」


 その日、温室の奥、蔦の覆う一角でディアルは低く言った。夕方の光が斜めに射しこみ、彼の顔の半分が影に沈む。


「いいわ、聞くわ」


 私は花ばさみを置いて、まっすぐ彼の瞳を見つめた。


「僕は“ディアル”という名でここにいるが、本当の名は──ディアラン・オルテス・セリオール。先代王妃の遺児で、王位継承権第三位だった人間だ」


 その名を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。


 セリオール。それはかつての私の婚約者、第二王子リヴェールと同じ姓。つまり彼は、王子だった──いや、「本物の王子」と言うべきなのか。


「数年前、王の命により毒を盛られた。母と共にね。母は亡くなったが、僕だけは生き延びた。……陰謀に巻き込まれたんだ」


「なぜ……生きていられるの?」


「偶然だった。毒に耐性があっただけ。瀕死の僕を匿ったのが、王家に仕える古い従者だった。その人の手で姿を隠し、名前を捨て、ここで生きてきた」


 彼の言葉には、怒りも嘆きもなかった。ただ、事実を語るように淡々としていた。


「……あなたの顔に傷がないのは、仮面のようね」


「そうだ。王宮にいた頃の僕を知る者が、今の僕を見ても気づかない。髪の色も変え、話し方も変えた。だが、僕は生きている。生きて、この国の腐敗を見てきた」


 私は何も言えなかった。


 彼は王子だった。そして殺されかけた。


 私もまた、王子の言葉一つで全てを奪われた。


 違う場所で、違う形で、私たちは同じように“殺された”のだ。


「リネア。君には選んでほしい」


「選ぶ……?」


「このままここで、静かに花を育てて暮らす道。あるいは──僕と共に、あの王家を断罪する道を」


 彼の声が低く、胸に突き刺さる。


「危険なことよね」


「もちろんだ。命を懸ける覚悟がなければ、選ばなくていい」


「でも……あなたは、私に力があると言った」


「ああ。君は人を惹きつける。貴族に潰されたにもかかわらず、町の人々は君を好く。それは、君の花に宿る力だ。美しさと、優しさと、意志の強さ。君が立ち上がれば、きっと誰かが共に立ち上がる」


 私は唇を噛んだ。


 怖い。


 また何かを失うのが怖い。


 けれど。


 何も変わらないままでいる方が、もっと怖い。


「……分かった。私も立ち上がるわ」


 ディアルが目を細めて頷いた。


「ありがとう。君の決意、無駄にはしない」


 

 その夜、温室の裏に小さな扉が開かれた。


 そこには、古い地下道があった。湿った石の匂い、壁に刻まれた古代文字。誰も使わなくなった王宮の抜け道だという。


 「ここからなら、誰にも知られず王城へ通じる。かつて母が逃げるときに使った道だ」


 ディアルの言葉に、私は背筋が震えた。


 彼は、本気で王家に挑もうとしている。


 王座を奪い返すために、でも、それだけではない。


 「変えたいんだ。この国を。声を上げる者が殺されずにすむ国に」


 その言葉に、私は強く頷いた。


 

 それから数日後。


 町に噂が流れ始めた。


 「花売りの令嬢が、貴族に逆らったらしい」「彼女の花は呪われているらしい」「いや、あの花は希望の印だ」


 噂は尾ひれをつけて広がり、誰かが町の壁に詩を書いた。


 《呪われた花よ、咲き誇れ。誰もが踏みにじったその色で、王を試せ。》


 私はその言葉を見て、目を閉じた。


 誰かが、私たちのことを見ている。


 そして、少しずつ、変化が始まっている。


 ディアルの手が、私の肩に触れる。


「これが、“呪い”の始まりだよ」


 その声は、確かに笑っていた。



 王城の裏門から百メートルほど離れた石壁に、小さな黒い花が挿されていた。


 それは合図だった。


 反逆の始まりを告げる、ささやかで、しかし確かな印。


 私はその花を見上げながら、深呼吸を一つした。


「準備はいいか、リネア」


 隣で囁いたディアルの声は、あいかわらず落ち着いていた。彼はいつも冷静だ。でも、私にはわかる。この静けさは、長い間胸に押し込めていた怒りの熱が、今ようやく静かに燃え始めた証なのだと。


「ええ。遅すぎるくらいよ」


 私は答える。


 私たちは今日、王家の手足である“内密院”の屋敷へと向かっていた。


 内密院──表の政治とは異なり、王家の意向を裏から実現する密偵機関。その存在を知る者は少ない。だが、彼らの“口封じ”によって、数多くの人々が泣き寝入りをしてきた。


「私の父も……きっと、あいつらに」


「……ああ。君の父親は、最後まで君を守ろうとしていた」


 ディアルは過去の記録を調べていた。私の家が潰された経緯も、父がいかにして圧力に屈せずに抗ったかも、すべて知っていた。


「父が残した家の本棚には、鍵のかかる小箱があったの。開けたら、告発の証拠が入っていた。……あの人、死ぬまであきらめなかったのよ」


 私の声がわずかに震える。


 でも、泣かない。もう泣かないと決めた。


 泣いても、父は戻らない。だったら、彼が守ろうとした“真実”を、この手で届ける。


 

 内密院の屋敷は、町外れの石畳に囲まれた静かな邸だった。外見はただの古い商会跡のように見えるが、扉の前に立っただけで、背筋に冷たいものが走る。


 正面から入ることはできない。私たちは温室から繋がる抜け道を使って、地下の隠し扉から屋敷に忍び込んだ。


 静まり返った地下の回廊に、私たちの足音だけが響く。


 やがて、鉄の扉の前に辿り着いた。ディアルが用意した小さな器具で鍵を開ける。


「昔、王宮で鍵開けの訓練をさせられた。今になって役立つとは思わなかったけど」


「皮肉ね」


「でも、少しだけ愉快でもある」


 扉が開く音は、まるで誰かの眠りを覚ますかのように、鈍く響いた。


 部屋の中には、書類棚が並んでいた。どれも埃をかぶっていたが、その下に潜むのは、王家が覆い隠してきた悪意だった。


 私は父の名を記した記録を探す。そして、あった。


「これ……間違いないわ。私の父を監視していた記録」


 そこには、父の発言、動向、訪問先、密談と目された内容までが記されていた。そして、最終ページにはこうある。


 ──“貴族令嬢リネアの処分に伴い、対象家系の削除を実行。父親は自害と偽装”──


「……やっぱり、殺されたんだ」


 手が震える。けれど、私は記録を抱えて立ち上がった。


「ディアル。これを、世に出そう。町の人たちに、花の束に紛れて」


「そのつもりだよ。君の“花籠”を、反逆の手段にしよう」


 

 それからの数日間、私は普通の花売り娘として振る舞いながら、王家の裏の顔を記した紙を、花の束に一枚ずつ挟んで配った。


 告発の言葉に気づいた者たちの中には、涙ぐむ者、怒りを噛みしめる者、そして、無言で握りしめる者がいた。


 私の花が、誰かの心に火を灯していた。


 それは静かな火種。けれど確実に、広がり始めていた。


 

 夜。


 温室で私とディアルは再会した。


「……やったね」


「まだ始まったばかりだ。でも、君の花は人を動かす。それは事実だ」


 私は微笑んだ。


 もう、かつての私ではない。


 踏みにじられ、笑われ、捨てられた花ではない。


 私は、誰かの希望を灯す花。


 ──棘を持つ、美しい花。


 

 最初は、ただの噂にすぎなかった。


 「貴族が一人、屋敷を手放したらしい」「南の街区で、王家を糾弾する詩が壁に書かれていた」「市民の間に、得体の知れない紙が流通している」


 けれど、王宮にとってその噂は、心地よい酒の席の話題ではなかった。


 内密院が何者かに襲撃されたという報告が、侍従たちの間を走る。記録が持ち出され、何人かの密偵が行方不明になった。さらに、城下の小さな広場で売られている“花”の中に、王家の過去を暴露する文書が紛れていたという報告が複数寄せられた。


「反逆の兆しですか?」


「いえ……ただのいたずらかと。花売り女が何かやっているようですが」


「名前は?」


「リネア、と」


 その名を聞いたとき、第二王子リヴェール・セリオールは、眉間に皺を寄せた。


「あの女か……まだ生きていたのか」


 彼にとってリネアは、過去の失敗の象徴だった。


 貴族の思惑に巻き込まれ、軽率に婚約を破棄し、すべてを押しつけた“あの時”を、彼はずっと心の奥底で忌々しく思っていた。いまさら彼女が浮上してくるなど、思いもよらなかったのだ。


「構わん。処理しろ。町の騎士団に命じて、花売り女を拘束しろ」


「……承知しました」


 そう命じたその日、王宮の裏庭の小道には、また一本の黒い花が挿されていた。


 

 その頃、私はディアルと共に温室の奥に設けた小部屋で、今後の計画を練っていた。


 「いずれ動いてくる。そう簡単に見逃す王家じゃない」


 ディアルはそう言いながら、手紙の山を仕分けしていた。それは町の人々から届いた密かな声──応援の言葉、告発の報告、かつて虐げられた記憶。いずれも匿名だったが、読み進めるうちに、胸が震える。


「こんなに、たくさんの人が……」


「誰かが声を上げれば、それに続く者が出てくる。君の花は、その“声”の代わりなんだ」


「……私に、そんな力があるなんて、思ってもいなかった」


 けれど、同時に不安も湧いてくる。


「ディアル。もし、私が捕まったら?」


「助けに行くよ」


 彼の答えは即答だった。


「でも、王子だってバレるかもしれない」


「そのときは──この命と引き換えに、君を逃がす」


 私は息をのんだ。


「だめ。そんなの、いや」


 ディアルは笑わなかった。ただ、私の手をそっと包んだ。


「君は、王家を変える光だ。僕はその灯を、何としても守りたい」


 胸が痛かった。涙が浮かびそうになったけれど、ぐっとこらえた。


 私は、もう泣かないと決めたから。


 

 翌朝。


 いつもと同じように、私は花を売っていた。


 いつもと同じ場所、同じ笑顔。


 でも、その日だけは、空気の張り詰め方が違っていた。


 男たちが数人、広場を歩いてくる。騎士団の紋章。剣の柄に手をかけたまま、視線を私に向けてくる。


 ──来た。


 私は立ち上がった。


「リネア・リュフェリス。王命により、拘束する」


「理由は?」


「貴族誹謗の罪、および反逆の文書流布」


 彼らの目は、ただ命令を遂行する者のそれだった。情など一切ない。


 私は、逃げなかった。


 自分の足で、静かに騎士たちに従った。


 でも──私の目は、しっかりとひとつの場所を見据えていた。


 温室のある丘の方角。


 きっと、あの人が見ている。


 私の覚悟を。


 

 連行されたのは、王城の地下だった。


 薄暗い石造りの牢屋。


 冷たい床に腰を下ろし、私は呼吸を整える。


 きっとディアルは、私を助けに来る。


 でも、それを待つだけではいけない。


 私はもう、守られるだけの花じゃない。


 この身をもって、咲き誇ると決めたのだ。


 たとえ、ここが牢の中でも──花は咲く。


 

 王城の地下は、昼も夜もわからぬ静寂に包まれていた。


 分厚い石壁が音を吸い、外の世界との隔絶を強く感じさせる。だが私は、怯えていなかった。


 鉄格子の向こうから聞こえる足音は、一日に何度も、決まった時刻にやって来る。食事と見回りだけ。


 誰も話しかけてはこない。拷問もなければ脅しもない。ただただ沈黙の時間が流れていく。


 けれど、私は知っていた。


 その沈黙こそが、彼らの狙いだ。


 孤独に押しつぶされるのを待つように、心を折るためだけの静寂。


 だが、それは通じなかった。


 私は、孤独ではなかったから。


 胸元に忍ばせた乾いたリュナの花弁が、静かに存在を主張していた。


 これは、私の意志。私の信念。


 私が何者で、何のために立ったのかを忘れぬための印。


 そしてもうひとつ。


 彼が来ると信じていた。


 

 一方、城下の温室では、ディアルが剣の手入れを終えていた。


「準備は、すべて整った」


 独り言のように呟いた彼の目は、決して揺れていなかった。


 温室の棚には、王家の罪を記した文書の複製が丁寧に束ねられ、それぞれ信頼のおける仲介人たちへ配布される準備が済んでいる。


 そして地下道へと続く秘密の扉の前。


「君は、決して散らせない」


 その言葉とともに、彼は立ち上がった。


 

 王城の警備は厳重だった。


 だが、内部の構造を知り尽くしているディアルにとって、それは困難ではなかった。


 むしろ、知識よりも必要だったのは“覚悟”だった。


 リネアのいる地下牢に近づくにつれて、彼の呼吸は次第に深くなっていく。


 抜き身の剣を握る手に、ほんのわずかな汗が滲んだ。


 目の前にいた衛兵二人を、彼は一太刀で黙らせた。


 誰も殺しはしなかった。彼は命を奪うことで正当性を失いたくなかった。


「リネア」


 囁くような声に、私は目を見開いた。


「ディアル……」


「迎えに来た」


「遅いわ」


「ごめん。でも、必ず来ると約束した」


 鉄格子の鍵が開き、彼が私に手を差し伸べる。


 私はその手を迷わず取った。


 

 脱出は容易ではなかった。


 警報の鐘が鳴り響く。騎士たちの怒声、足音、剣戟の音。


 地下道まであと少し──というところで、私たちは追手に囲まれた。


「ここまでか」


 ディアルが前に出る。


「いいえ、ここからよ」


 私は彼の手を強く握った。


「花は、土の中でも咲くの。踏みにじられても、陽が当たらなくても、水を奪われても。それでも根は生きてる。私たちも、同じ」


 その言葉に、彼の目が見開かれた。


「……本当に、強くなったね」


「あなたが育ててくれたのよ」


 

 剣を構えるディアルの背を、私は守った。


 投げつけた花籠が床に転がり、中から一枚の紙が舞い上がった。


 それは──“王家の罪”を記した告発の文。


 騎士たちの中に、その文を見て足を止める者がいた。


 「これは……」


 「本当なのか……?」


 数秒の逡巡。だが、それで十分だった。


 ディアルは騎士たちの隙を突いて前へ出た。


 私は彼の背を追いかける。


 ──逃げるのではない。伝えるために。


 私たちが見たもの、知ったもの、そして、変えたいと願ったものを。


 

 地下道を抜けたとき、夜明けの光が丘の上を照らしていた。


 その光の先に、温室の屋根が見えた。


 あの日と同じように、花々が風に揺れていた。


 私は、立ち止まらなかった。


 この歩みは止まらない。


 彼と私が手を取り合った瞬間から──変革は、もう始まっていたのだ。


 

 それから、ひと月が過ぎた。


 王都は、静かな混乱のさなかにあった。


 市民の間で広がった告発の文書──王家が行ってきた隠蔽、粛清、密命──は、一部の貴族や神殿関係者、騎士団までも巻き込んで、小さな反発の波を次々と起こした。


 誰もが恐れて口に出さなかった「真実」が、今や花とともに町のそこかしこで囁かれている。


 “呪われた花売り娘”の名は、もはや都市伝説のように広まり、同時に、人々の心に希望として咲き始めていた。


 

 あの日、私とディアルは温室を出て姿を隠した。


 反逆者としての烙印は避けられなかったが、追っ手は徐々に姿を見せなくなっていった。


 それはすなわち、王家の中で「何か」が崩れている証でもあった。


「……兄が動いたらしい」


「兄?」


「第一王子。王宮に残された唯一の“まともな血筋”だ。かつて僕の母を案じていた人物でもある」


 ディアルはその事実を淡々と口にしたが、その声の奥にあった静かな決意を私は聞き逃さなかった。


「王を退け、王子が“正義”を代弁する。その流れを、僕たちは作った。君と、僕の花で」


 

 その数日後、王の病状が急変し、公には“譲位”というかたちで王位が次の代へと引き継がれることが発表された。


 リヴェールではなかった。正統な王位継承者は、ディアルの兄──公には隠されていたが、王の異母弟であり、ディアルの義兄にあたる人物であった。


「つまり、クーデターが成立したのね?」


「誰も血を流さずに。それが僕たちの勝ち方だった」


 

 広場に戻ったのは、初夏の風が吹く日だった。


 かつて花を売っていた場所。


 今は別の娘が、私の古い籠を使って、そっと花を並べていた。


「……リネアさん?」


 声をかけられ、私は微笑む。


「籠、よく似合ってるわ」


「えっ、あ、あの、これは、その、拾ったというか……! でも、お花が綺麗で……!」


「大切にしてくれてありがとう。それがいちばん嬉しいわ」


 娘の瞳が潤んだ。


 私がこの場所にいたことを、彼女は知っていたのだろう。


 それだけで、十分だった。


 

 その晩、王宮から一通の書簡が届いた。


 新王の名で、ディアル・オルテス・セリオールに「王家への復帰」が命じられたのだった。


「どうするの?」


「……拒否したいけど、君が行けと言うなら行く」


「私は、花を咲かせることしかできない。でも、あなたは、その花に水をやり、守ることができる」


「……つまり、行けということだね?」


「うん。でも、私は一緒に行く。王宮でも、どこでも、私はあなたの隣にいる」


 ディアルが笑った。


「それなら、怖くない。……ありがとう、リネア」


 

 その春、王宮の庭園に新しい花壇が作られた。


 名もなき花を育てるその一角には、かつて城下町で売られていた小さな花たちが咲き誇っていた。


 リュナ、マレリア、スヴィラ──


 貴族が見向きもしなかったそれらの花が、今は王宮の風に揺れている。


 人々はその花壇を「再生の花園」と呼んだ。


 かつて呪われたと笑われた女と、死んだはずの王子。


 ふたりが咲かせた花は、ついに国を照らした。


 

 私は今も、朝になると庭へ出る。


 土の匂いをかぎ、指先でつぼみの柔らかさを確かめる。


 何ひとつ変わらぬ時間の中で、たった一つだけ変わったものがある。


「リネア、今日は何の花にする?」


「マレリア。あなたが最初に買ってくれた花よ」


「じゃあ、僕の胸元に飾ろう。今日は式典だからね。……王子と妃として」


「ほんとに、信じられないわ」


「花売り娘が、王妃か。呪いって、案外いいものだと思わない?」


「……そうね。二人で育てた“呪い”なら」


 ふたりで笑い合うその背後に、静かに風が吹いた。


 小さな白い花弁が、ふわりと舞い上がる。


 それはまるで、私たちの物語の続きを、天に告げる合図のようだった。

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また、ディアルのキャラクター造形も魅力的。王族としての宿命を背負いながらも、剣ではなく信念と花で変革を目指す姿に、王道の“理想のヒーロー像”が宿っています。最終的に花が王宮を彩り、かつて呪われた者たち…
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