雨①
千秋楽が近づく頃、ひよりはある予定を立てていた。そろそろ御影にも相談しようと思っていたら、ちょうど帰ってきたので玄関まで出迎える。
「おかえり御影。今日は大丈夫だった?」
「家の周りは問題ない。ずっと陽一がついてたからな、美琴もまとめて帰ってきた。劇場周りがまだ改善されていない、晴日がバッティングしてる」
「そっか、術の効き目はどう?」
「夜は薄くなるな。継続は長くなってきたぞ。少しはな」
小さく鼻で笑われながら上着を脱いでソファにどっかりと座った御影に、ひよりは適当な返事をして“迎え酒”を差し出した。イヅナを使役した後に与えるご褒美のようなもの。時間が合わないときは本人に任せているが、なるべく手ずから注いであげるようにしている。
「この公演が終わったらさ、御影は次の作品まで時間があるでしょ?あっても単発イベントくらいで」
「そうだな」
「私さ、一週間くらい本家に帰ろうと思ってるの」
「お前がそう決めたのなら帰ればいい」
イヅナと術者はある程度同じ範囲で生活することが望ましいとされる。古い時代では呪術的な媒体でイヅナを遠方に飛ばしていたこともあったと言われているが、その分の“跳ね返り”もありよくない事と伝わっていた。
だからひよりは御影に移動の許可を取った。とは言っても主はひよりなので、御影の言うことは最もだった。
本家というのは長野県にある玖綱家が生業とする飯綱権現の神社がある土地でキエが晩年過ごしていた家である。孫の立場からすれば、ひよりも陽一も長期休みに行く『おばあちゃんの家』がここにあたるのだ。つまり、二人がイヅナを受け継いだ場所。
「美琴のオーディションは陽兄が見届けるって言ってたし、御影も出演決まってる作品だから結果がどうなっても勉強にはなるかな……」
「歌は俺が仕込んでやったから、大丈夫だろ。会社が求めるものかは知らないが」
くいっと何杯目かを飲み干したようで、耳と尻尾がいつの間にか戻っていた。
「辛いなら元の姿に戻ってもいいよ、あと二公演だもん」
「そうだな。移動がペット用のキャリーケースなんでごめんだからな。せいぜいそうする」
「気を遣ってくれてありがとう」
御影は本来の白い獣の姿に変わると、普段自分が使っているクイーンサイズのベッドへと潜り込んで枕の付近で動きが止まった。静かに目を閉じて、丸めた身体が呼吸で上下している。ひよりはそっと近づいて、指の背で眉間のあたりを撫ぜた。この姿の時は存外触ることを許してもらっていることを知っている。
「ふふ、まっしろ」
「……」
「おやすみなさい」
***
先代のキエを一言で表すなら、ミカゲはこう言う。
「あれは“雨”のような女だった」
恵みの雨を待ち望むように、天の気まぐれのような愛を注ぐ、そんな女。時に受け止めきれないような量を注ぐくせに、こちらが望む時には与えてはくれない。稲荷信仰の家の生まれの中では珍しく正真正銘の“雨女”であった。あいつが望めば雨が降る。まさに五穀豊穣にふさわしいチカラ。
人間には『七つまでは神のうち』という言葉がある。
ミカゲからしたらそれは、自分が本来仕える神の所有物のひとつに“人間の子供”が含まれる。だからイヅナはその年まで手が出せない。そうしてキエはイヅナの望むまま、八歳の誕生日を迎えると同時に八代目継承者として契約を結んだのだ。
ミカゲは後から自覚したことだが、七代目の最期が唐突だったのは年月とともに強くなる自分の力が災いしてああなったと思っている。
自分が主を無自覚に《《呪い殺した》》、と。強く願えば願うほど、自分の思い通りになってしまう。いうなればそれは神に等しいチカラだった。
それを自覚したとき、ミカゲは血が騒いだような気がした。自分のチカラが確実に強くなっている。そしてそれは主に牙をむくことができると。飯綱使いの契約において、主人を殺すことはご法度である。あくまでも天寿を全うしなければ、イヅナは得を積むことが叶わない。でも逆に《《主を思い通りにできる》》としたら?
そんな邪な考えは、キエに継承されてすぐに破綻した。彼女自身の力が強いことと、主神の加護が強すぎることにあった。まるで主神から『お前が手を出さないように』と手垢を付けられているような気分だった。最悪だった、あれは俺のものにしたかったのに。
「ねぇミカゲ、抱っこして!……きゃはは!高ぁい!ミカゲは背が高いのね!」
「おいで、ミカゲ!これで合ってる?え、鈴がうるさい?」
「いつも綺麗ね、髪を梳いてもいい?」
「ねぇ!いま貴方が歌ったの?もう一度聞かせて!」
先の主を呪い殺した自分に向けられる無垢な感情に戸惑いながら、ミカゲはキエという少女の側にいることで許されているように錯覚した。
甘露のような優しい雨だった。それが、キエとミカゲの二人だけの世界。