狂言誘拐 2
傘をささず霧雨にしっとり髪や肩を濡らされながら、静かな駅前から放射状にのびる並木道を歩く。
高級住宅街だというイメージは前からあったが、いざ始めて来てみると駅前すらごちゃごちゃしておらず本当に景観が整備されていることに驚いた。
家というより邸宅という言葉が似合う立派な建物をついじろじろ眺めながら通りを二つ渡って右に曲がると、あまねの説明通り近代的な洋風の家が多かった中に突如として日本建築の豪邸が現れる。
築地塀を横目に見ながらたどり着いた門の脇の柱にある木の表札に、達筆な文字で「九条」と書かれているので間違いないだろう。
インターホンを押して門扉の前で待つ。すぐにがちゃりと音がし「はい」と女性の声で応答があった。
「すみません。九条あまねさんと同じ大学の真中という者なのですが、あまねさんはご在宅でしょうか」
なるべく好青年に見えるように気をつけて表情をつくった。第一印象は大事だ。
『あまねにどのようなご用事でしょうか』
名前を呼び捨てにしたということは今応答しているのはお手伝いさんではなく、家族だろう。あまねは一人娘だと言っていたから、狂言誘拐の電話を取ったという母親の九条皐月だ。
「実は大学であまねさんの忘れ物を見つけたのですが、彼女にメッセージを送っても返事がなくて……貴重品だったのでお困りになると思いご自宅まで届けに来たんです」
あまねからは財布を渡されていた。
これからどう動くにしろ内情が分かっていた方がいい。どうにかして九条家にあがりこんでください。というミソラの指示に従い、貴重品を届けに来た同級生をよそおうことになった。いきあたりばったり感が否めない。
彼女の家に偵察に行くにしても、ただの同級生が急に家を訪ねるのは不自然だ。だからといって忘れ物を届けに来るというのも普通に考えたら変ではあるのだが、気が動転している相手であれば多少はごまかせる。と、思いたい。
『ご足労いただきまして申し訳ありません。お入りください』
一先ず家の中に通されたことに安心する。門扉を開き、庭内に足を進めると石畳が玄関まで続いていた。視線をめぐらせば、お寺でしか見たことのないような枯山水がある上等な日本庭園が広がっている。
庭にしてはそこそこの長さを歩いて玄関にたどり着き、ごめんくださいと声をかけると待ち構えていたように扉が開いた。
四十代後半くらいに見えるこの女性があまねの母親なのだろう。
立派な日本家屋に住んでいるからといって普段着まで着物ではないようで、さらりとした手触りのよさそうなシャツに品のあるスカートを合わせている。ぱっちりとした目があまねに似ていた。
「わざわざ申し訳ありません」
「とんでもないです。こちらこそ突然お邪魔してすみません」
リュックサックからあまねの財布を出し、皐月に手渡す。
「ありがとうございます。せっかく来ていただいたことですし、お茶でもおあがりになってください」
うちの母親なら多分そうするはず。と言われていた通りの展開だ。
恐縮する雰囲気を出しながら家にあがり、皐月の案内でリビングに向かう。リノベーションでもしたのか家の中は意外にも近代的なつくりだった。
広々とした落ち着きのある色彩のリビングでソファに腰をおろして待っていると、目の前に白地に綺麗な青い花の模様が描かれたティーカップが置かれる。
「あまねがご迷惑をおかけしたようですみません」
「僕が勝手にした行動なのでお気になさらないでください」
深々と頭を下げられたので慌てて止める。別の意味で現在進行形で迷惑をかけられてはいるが、皐月が謝ることではない。
「あの……あまねとは本日お会いになっていたのでしょうか」
「ああ、はい、そうですね。会いましたよ」
「何か、その、おかしな様子はありませんでしたか? あの子に会ったのは何時くらいでしたか? その後どこに行くとか話を聞いていたりはしませんか?」
「どうかなさったんですか?」
「いえ、大したことではないんです。お財布を忘れて困ってるんじゃないかと思っただけで……」
はっと我に返ると固い笑みを浮かべとりつくろう。
子を思う母の気持ちを直視してしまい胸が痛い。
「……あまねさんと連絡がつかないことに関係があったりするんでしょうか」
直接的すぎるかと悩みつつもおそるおそる言うと、不安をおさえられなくなったのか皐月は口を開いた。
「変な、電話が、あったんです。いたずらだとは思うんですけど、少し心配で……」
「どんな内容の電話だったんですか?」
「娘を、誘拐したと。いたずらだとは思うんですけど、あまねと連絡が取れないから私もだんだん悪い考えが浮かんできてしまって」
「旦那さんには連絡したんですか?」
「ええ、念のため。おかしなことを言い出すなと叱られてしまったんですけど、一応人は手配してくれたようです」
「手配?」
詳しく聞こうとした瞬間にインターホンの音が鳴った。九条父が手配したという人物がさっそくやって来たのかもしれない。
今の時点ならまだ取り返しもつく。もしすでに警察に通報されていたりするなら、あまねには大人しく帰宅してもらわなくてはならない。それだけは妥協してもらうと彼女から言質をとってから誠はここに来た。
「阿田川探偵社からやってまいりました。峯地です」
だが、スピーカー越しに聞こえてきたのは誠も知っている名前だった。
玄関に迎えに行った皐月がリビングに戻って来ると、その後ろから予想通りの人物が顔を見せた。
相変わらず三白眼で目つきの悪い男だ。スーツを着ているため、刑事といわれた方が納得する見た目をしている。
「お前、なんで……!」
「どうも、お久しぶりです」
平静をよそおって挨拶をする。警察よりはましだが、困ったことになった。
「お知り合いなんですか?」
「……はい。知り合いといえば、知り合いですね」
「そうなんですか、すごい偶然ですね」
こんな偶然はほしくなかった。峯地のことはあまり好きではないのだ。
お茶を入れるために皐月がキッチンに姿を消すと、誠から二人分の距離をあけて峯地はどさっと乱暴にソファに腰をおろした。
「メイの連れじゃねえか、なにやってんだこんなところで」
訝しげにこっちを見てくる。最初から何やら疑ってかかってきているようだ。
峯地は、ミソラの叔父である高人が阿田川探偵社に勤めていた頃の後輩だ。その関係で何度か事件現場で顔を合わせたことがある。
「メイじゃなくてミソラさんですよ。薬師寺ミソラさんです。お忘れですか?」
「高人さんの姪だろ。間違ってないだろうが」
この人は高人を尊敬しすぎるあまり、ミソラさんに対してあたりがきつい。
峯地が阿田川探偵社に入る前からミソラは現場をちょろちょろしていたはずなのだが、彼女のことがどうしても気に入らないようで会うたびにつっかかってきていた。
「峯地さんは変わらないですね」
「言っても最後に会ってから一年かそこらだろうが、早々劇的に変わるかよ」
高人がいなくなってからは、事件に関わるよりも大学での相談事にのる割合の方が多くなったので、この男に会うこともなくなっていた。
「メイはどうした。お前らいつもセットだろ」
「セットじゃないですよ。僕とミソラさんは別々の人間です」
「相変わらず面倒くさいやつ」
「峯地さんは相変わらず色々と雑な人ですね」
繊細さに欠ける。だから峯地はろくな推理ができないのだ。
それが良いのか悪いのかはともかく、ミソラは人をよく見ている。
人の感情に異常に興味を持っている彼女は、とくに事件という非日常の空間でしか見ることのできない人の憎悪や愛情、悲嘆や妄執。剥ぎとられる本性には目ざといのだ。
事件を起こすのはいつでも人だ。人間がコンピュータのようにはなれない限り、そこには感情があり、それによってうまれる道筋がある。
人間の思考を分析していれば、行動を洞察していれば、手法も見えてくる。結論にたどり着ける。
ミソラにはそれができる。
困っている人を救いたいだなんて高尚な気持ちは彼女にはないし、興味が引かれない限り動いてくれないが、事件を解決できるのが探偵であれば探偵会社に属していなくとも彼女は探偵だ。
「正義がないと警察にはなれないけど、正義がなくとも探偵にはなれる」とは高人の言だが、まさにそうなのだろう。
そして職業欄に探偵と書くことができたとしても、峯地は本質的には探偵ではないのだ。
「誰が雑だ。俺の調査仕事は丁寧って評判なんだぞ」
そういえば、推理力がない代わりに峯地は情報収集だけは突出していると高人から聞いたことがある。
探偵といえば推理力に期待したいところだが、今や民間企業であるし、色んな人材がいた方がいいということなのだろう。
「それは知りませんでした。訂正してお詫びいたします」
「お前、慇懃無礼って言葉知ってるか?」
楽しくない会話を交わしていると皐月がリビングに戻って来る。
ティーカップが前に置かれると、峯地は居ずまいを正した。
「九条さんのご依頼ではいたずら電話があったとのことでしたが間違いないでしょうか」
「……はい、おそらくそうなのだと思います」
「おそらく、とは?」
「本当に誘拐されたと思っているわけではないんですけれど、電話があって以降あまねと連絡がとれていないので無事かどうか確認できていないんです」
「大学生の娘さんとのことでしたが、彼女の今日の予定はご存知ですか?」
「逐一予定を聞いているわけではないので詳しくは知りません。十九時頃までには帰ってくるとしか……」
「前にもこのようないやがらせがあったことは?」
「ありません。誰かから恨まれるような覚えもないです」
「旦那さんの九条冬吾さんは経営者でいらっしゃいますよね。失礼ですが会社関係で何かトラブルがあった話を聞いたことは?」
「ないと……思います」
皐月は少し言い淀んだ。
「本当に?」
「……夫は、家では仕事の話をしません。ですので私が知っていることはありません」
「そうですか」
「あの、どう思われますか? これは本当にいたずらなんでしょうか。まさか本当にあまねが誘拐されていたりはしないですよね」
不安が許容量を超えたのか、それまできちんと受け答えをしていた皐月が矢継ぎ早に尋ねる。
「現状ではまだ判断できません。昼前に電話があってからまだ三時間ほどですよね? 用事があってスマホを確認できていないだけかもしれません」
彼女を落ち着かせるためだろう、楽観的な意見だけを口にしている。
皐月がどうにか気持ちを整えた様子を見せると、峯地は矛先をこちらに向けてきた。
「ところで彼はどうしてここに?」
「娘の大学の同級生なんです。あまねが忘れた財布をわざわざ届けにきてくれました」
「……へえ」
あからさまに疑いが滲んでいる。
「本当ですよ、学生証見せましょうか」
「別にそれは疑ってない」
ということは、別の何かを疑っているようだ。
「彼がどうかしましたか?」
「いえいえ一応参考までに聞いただけですよ。ちなみに真中くんは娘さんとはどういう関係なのかな?」
はじめて峯地から名前を呼ばれた気がする。似合わなさすぎて鳥肌がたった。
「ただの大学の友人ですよ」
「ただの友人が家まで財布を届けにきたりする?」
「知らない相手だったら大学の事務局に預けましたけど、連絡先を知っている友人だったので」
あまね自身の狂言誘拐だと気づいているかは分からないが、何かしらの関与を疑われているようだ。それはそうだろう。誠だってたまたまただの同級生がこんな場面で訪ねてきていれば怪しく思う。
危ない橋は渡りたくない。退出してしまおう。そしてあまねに家に連絡を入れるように進言しよう。
大丈夫だ。ミソラだって最初は他の方法もあると言っていた。狂言誘拐にそこまで乗り気だったわけでもない。
「あの、僕そろそろ……」
しかし辞去しようとした瞬間に、九条邸の電話が鳴り響いた。
空気がぴりっとし、峯地がソファから立ち上がる。
「出てもらえますか」
リビングの片隅に設置されている固定電話を連れ立って確認しにいく。
木目調の台に置かれた電話機のディスプレイには非通知と表示されていた。
「スピーカーに切り替えてから出てください」
言われた通りに操作してから皐月は電話に出た。
「もしもし」
『九条冬吾を家に呼び戻せ。要求は九条冬吾に伝える』
ボイスチェンジャーを使用した声がリビングに流れた。
「あの、あなた誰なんですか? いたずらなんでしょう? どうしてこんな真似をするんですか?」
『警察に通報すれば九条あまねの無事は保証しない』
「いたずらじゃないなら、あまねの声を聞かせてください」
懇願を意に介さず電話は無情に切られた。
電話の主はあまねか、それともミソラか。どちらにしろ冗談ではすませられなくなってきた。
「これは、本当にいたずらなんでしょうか。あまねは、あまねは無事なんでしょうか」
ゆるやかに蓄積されていったものが爆発したように皐月は不安をぶつける。
「落ちついてください九条さん」
彼女をなだめながら峯地はちらりとこちらに視線をよこした。白状することがあれば今の内に言えということなのだろう。
「すみませんこのままいても場違いだと思いますので、僕そろそろお暇しますね」
状況をしっかり把握した誠は迅速にソファから立ち上がり、脱出を試みた。
「待て」
「……なんでしょうか」
後ろから肩をがしっとつかまれる。錆びたロボットのような動きで振り返るとぎらぎらした目が待ち構えていた。
「九条あまねさんとは今日会ったのか?」
「……会いましたよ」
「いつ?」
「一限目のあとだったから十一時前とかそれくらいですね」
昼前に電話があったと言っていたからおかしくないはずだ。
「会った時はどんな様子だった」
「おかしなところは、なかったですよ。いつも通りでした。あの、もういいですか。僕がこのままここにいても邪魔になるだけですよ」
「時間からいって最後に彼女と会った可能性のあるやつを、そうですか分かりましたといって帰すと思うか?」
肩をつかむ手の力が強くなった。
「ですよね……」
観念して誠はソファに座り直す。
皐月が夫に連絡をいれると言ってリビングから出ていくと、さっそく尋問が始まった。
「で、何を隠してんだ。吐け」
「何も隠してませんよ」
目をそらしたり動揺しては駄目だ。ミソラを見習って薄い笑みを浮かべて誠は答えた。
「九条あまねとお前は知り合いなんだろう。その知り合いが誘拐されたってのに冷静にじゃあ僕は帰りますとかいうやつがいるかよ。いいから大人しく本当のことを言え」
今更どんな態度をとっても無駄だった。逃げ出すことを優先したせいで完全にばれている。
ごめんなさい九条さん。と一応心のなかで謝罪してから誠は白状した。
「……あまねさんは無事です。でも僕にはそれしか分かりません。それしか話せることがありません」
お見合い結婚が嫌で狂言誘拐を企てました。なんてことが家族にばれれば余計にあまねの自由は無くなるだろう。
彼女の気持ちを慮って結婚を撤回してくれるような相手であればそもそもこんな馬鹿げたことはしでかさない。
「そうか。じゃあ、いい」
意外にも、峯地はそれだけの説明であっさり納得した。
「え、いいんですか」
これまで会うたびに「素人が現場をうろつくな」と口煩く言われていた。
だから全て話すまで追求されるだろうし、話したら話したで馬鹿馬鹿しいと一喝されると思っていた。
「しょうもない理由だったら許さねえけどな」
「しょうもなくは、ないですね。いたずらでも嫌がらせでもないです」
やり方はどうかと思うが、彼女にとっては切実な問題だろう。
誰だって自分の人生を他人に勝手に決められたくはない。
「ならいい。九条さんからの依頼は、どうせいたずらだろうが不安がっている妻の話を聞いてやってくれとのことだったからな。依頼料は払われるし、九条あまねが無事なら問題はない」
「なるほど……でも、そんな簡単に僕の言うことを信じていいんですか?」
「お前のことは高人さんが信頼している。じゃなけりゃお前にメイを任せたりしない。だから、俺もある程度はお前のことを信用してやる」
高人に対する信頼が高すぎる。ここまできたら盲目の域だ。
「そもそもお前は犯罪をおかせるような性格じゃないだろ」
「性格なんかで犯罪に手を染められるかどうかなんてわからないじゃないですか」
善人だからこそ犯罪をおかしてしまうことだってあるのだ。
「うるっせえな。とにかくいいんだよ」
峯地は乱暴に話をしめくくった。一先ず最悪な状況は乗り越えたが、今後のミソラたちの動向は誠ですら知らない。現状報告も兼ねて連絡をとりたかった。
「どこ行く気だ」
しかしソファから立ちあがっただけで制止の声があがる。
「お、お手洗いに……逃げたりはしないので……」
人質ならぬ物質として自分のリュックサックを差し出す。
早く戻って来いよ。と言って峯地は顎をしゃくった。こちらを信用している人間の態度とは思えない。
あたりをつけて広い家のなかを素早く移動し洗面所に入ると、即座に電話をかける。
ミソラたちは誠と別れたあと、聞かれて困る話もできるようにとミソラの家に向かった。
さすがに会ったばかりの相手を家に招くのはどうなのだろうと思ったが、あのマンションにはコンシェルジュもいるし、彼女なら自分でどうにでもできるだろう。心配しすぎても仕方ない。
戻るのが遅くなれば峯地への説明が面倒になる。ワンコールでつながった電話にさっそく本題から切り出した。
「ミソラさん、依頼があって九条家に峯地さんが来てる」
『あら、そうなんですか』
「だから解決するまで僕そっちに戻れそうにないんだけど、どうなの? これからどうするか決まった? これ以上厄介なことになる前に早く帰りたいんだけど」
『そうですねえ。先程お二人の馴れそめを聞いていたんですが』
「は?」
要求内容を考えるのではなかったのか。サークルの飲み会終盤の会話を何故今しているのだ。
『あまねさんに一目惚れした孝成さんが途中からサークルに入ってきたそうですよ。見かけによらず行動力がありますねえ』
「ミソラさん?」
『奥手のくせに精一杯勇気をだした行動だそうで、本当に可愛いよね。とあまねさんが言っていました』
「ミソラさん僕の話は聞いてた?」
『聞いてますよお。峯地さんがいらしたんですよね?』
「そうそうそう。まあ峯地さんについては一先ずどうにかなったんだけどさ。ああ、それでさっき九条家に電話かけてきたよね。九条冬吾に要求は伝えるって言ってたけど、あまねさんの父親のことだよね? 要求決まったの? 僕はどうすればいいわけ?」
『……ああ、はい。なるほど。では、マコトくんは峯地さんの力を借りて九条冬吾氏について調べてください。作業をさせていれば峯地さんへの目くらましになりますし、何か面白いことも分かるかもしれません』
「面白いことって?」
『それは調べてみないと分かりません。よろしくお願いしますね』
「ミソラさ、待っ」
言いたいことだけ言うと電話は切られた。結局要求内容を聞けていない。
リビングに戻ると峯地が一人でソファに座っていた。
「あれ? まだ九条さん戻ってきてないんですか?」
「旦那の説得に時間でもかかってるんだろ。いたずらだって頭から決めてかかってたからな」
「……峯地さん。九条冬吾氏と面識はあるんですか?」
「俺はない。どうかしたのか?」
他にできることもない。ミソラの指示通りに動くしかないだろう。
「九条氏について知っていることってありますか?」
「基本情報くらいしか知らん」
「例えば?」
「九条冬吾。四十九歳。男性。九条グループの現社長。家族関係、妻、娘、前社長の父、母は他界、弟。これ以上は部外者には話せねえな」
「奥さんは知らないって言ってましたけど、会社でトラブルがあったことは本当にないんですか?」
知らないとはいっても、彼女はそもそも会社について何も情報をもっていないようだった。
「おい話せねえって言っただろうが」
「高人さんからの指示なんです」
「現在はとくに目立った話はなかったな」
この人このまま探偵職を続けてていいのかと心配になる変わり身の早さだった。だが都合がいいので使わせてもらおう。
「過去に何か問題は?」
「調べようと思えばどうにかなるけど、なんか意味あんのか」
「高人さんからの指示なんです」
「一時間で戻ってくるから九条さんに説明しとけ。もしも何かあったらすぐにここに連絡しろ」
名刺をぽいっと投げ渡し峯地が調べ物のために出ていってからしばらくして、憔悴した顔の皐月がリビングに戻って来た。
必要な調査のため外出したが一時間ほどで帰ってきますと伝えると、冬吾も夕方前には一度帰宅する旨を教えられた。
現状報告のメッセージをミソラに送っても既読はついても返信がこない。
やきもきしながら皐月を励ましつつ待つこと一時間と少々。宣言通り峯地が戻って来た。
まだ作業があるので、冬吾が帰宅するまでの間しばらく休んでいてくださいと皐月を自室に行くように促す。
気兼ねなく話せるようになった広い空間で、峯地はファイル片手につらつらと情報を口にした。
「調べてみてもここ数年の間に目立った問題は起きていなかった。理不尽なリストラもないし、企業間のトラブルもない」
「九条グループは親族経営ですよね。親族間で問題が起きていたりはしないんですか?」
金があるところには問題が起きるものだ。遺産相続による骨肉の争いなどが顕著な例だろう。
「そっちも強い恨みをいだくほどのことは起きてないな。普通の親子喧嘩や兄弟喧嘩くらいはしているだろうが、父親とも弟とも特別仲が悪いなどの噂は流れていない。まあ傍から見た限りではってだけだが、家族の問題は表沙汰になるまで外部からはわかりようがなかったりするからな」
会社関係でも、家族間でもあまねの見合い結婚以外には問題はなし。ミソラの言っていた面白いこととはなんだったのだろう。
どうやら彼女に報告できるようなことはなさそうだ。そう思った時、ただ――、と続いた話に耳を疑った。
「え?」
伝えられた情報を一つ残らず誠はミソラに伝えた。