猫探し 4
机につっぷして眠ったせいで首と肩が痛む。帰宅ラッシュにはまだ早いが、電車内は席が埋まっていた。
迷惑にならない程度に吊革につかまりながら肩を回していると、斜め前の座席に座る川谷がそわそわと落ち着かない様子なのが見えた。
まだ到着まで三十分くらいかかる。気持ちは分かるが、ずっとその調子では疲れてしまうだろう。
時間にすればたった二十分ほど前のことだ。
仮眠により心持ちすっきりした頭で、誠はミソラと並んで大学の最寄り駅で川谷たちを待っていた。
片道四十分という移動時間にはもうだいぶ辟易していたのだが、早晩解決すると分かればなんてこともない。終わりが見えた気軽さで次に出すエントリーシートのことなんかを考えていた。
そこに頬を紅潮させ、逸る気持ちを表すように猛スピードで走って彼女はやってきたのだ。
「タビの情報をのせてたアカウントにDMが届いたの」
挨拶よりも前に、川谷はスマホの画面を誠たちに見せる。
送信相手のアイコンは初期設定のままで、横には「篠原」と名前が表示されていた。
特徴や首輪が同じだと思うんですがどうでしょうか? というメッセージとともに写真も添付されている。確認しても誠にはハチワレ模様の黒猫だということしか分からなかったが、飼い主の目から見ると間違いなくタビだそうだ。
喜びのあまり川谷は学校から駅まで走ってきたらしい。
これまでまとわりついていた不安が消え、はにかみながら汗をハンカチでぬぐう彼女の姿は爽やかで凛々しかった。
どうしてミソラがこの事態に感づいていたのか誠にはさっぱりだが、川谷の嬉しそうな表情にくらべればそんなことは些細なことだ。
近い内に解決するというミソラの指摘通りに、猫探しは終わりを迎えようとしていた。
川谷の家から少し歩いたところにある公園で十六時にタビの受け渡しをするというので、三人で向かうことになった。
猫探しは解決したが、まだストーカーの件が残っている。ここまで関わったのなら最後まで見届けるべきだと思っての行動だ。
それに相手が善意の第三者であればいいが、そうでなかった場合は彼女一人で会うのは問題がある。
茅場はタビが見つかったと連絡を入れると、課題があるので後はお任せしますと返信が来たため不在だ。彼女もやはり多少の無理はしていたのだろう。
ちょうど小学生の下校時刻のようで、公園にはランドセルをベンチに放り出して遊ぶ子どもたちの姿があった。
まだ約束の十分前だったが、指定された公園のブランコには段ボール箱を持った男が座っている。
「カワタニさん、っすか?」
三人で向かうと事前に連絡を入れていたからだろう。近づいてくる三人組に気づくと男は言った。
誠たちとそう変わらない年齢に見える男は、どこかだらしない雰囲気の人物だった。
「あの、タビ、うちの猫を見つけたって連絡をくれた篠原さんですか?」
「え? あー、そうですそうでした、篠原。で、これなんすけど」
男は、ブランコに座ったまま両手で持っていた箱の中身を川谷に見せる。
両腕でかかえられる程度の大きさの段ボールには通販サイトのロゴが印字されていた。
「タビ……!」
近寄って箱の中身をのぞきこんだ川谷は喜びの声をあげた。目元が少し涙ぐんでいる。
「ありがとうございます、あの、お礼をさせてください」
タビが入った箱を川谷が受け取ると、男はブランコから立ち上がった。
用事はもう終わったとでも言わんばかりにそのまま立ち去ろうとする様子をみせたので、川谷は慌てて呼びとめる。
「いや、いいっすよ」
だらんとした中身の詰まっていない声だった。
「でも、」
「いや本当に大丈夫。俺ここに居ただけだし」
じゃ、確かに渡したから。と言って男は公園から出て行った。
「行っちゃった……」
「本人がああ言うんだから気にしなくていいと思いますよ。良い人でよかったですねえ。ところでタビちゃんは怪我などはしていませんでしたか?」
「まだぱっと見ただけだけど、大丈夫みたい。元気そう」
段ボールの中で、すやすやと気持ちよさそうにタビは眠っていた。
散々こちらをやきもきさせたというのに、のんきなものだ。だが、それでこそ猫らしいなとも思う。
片腕で箱を支えた川谷は、右手で慈しむように優しくタビの背中を撫でた。
「見つかってよかったね」
安堵と愛情があふれる姿を見たら、純粋にそう思った。
誠はペットを飼った経験は一度もないが、ペットが見つかった時の飼い主の反応を見るたびに本当に家族同然に大切な存在なのだと感じる。
「……うん。手伝ってくれて本当にありがとう」
「僕らが見つけられたわけではないので、お役に立ててはいないんですけどね」
「ううん、一人で探してたらきっと途中で気持ちが折れてたと思う。一緒に探してもらえてとても心強かったよ」
「どういたしましてです」
ちゃっかりお礼の言葉を横取りするとミソラは続けて「さて」と言った。
「あとはストーカーの件だけですね」
「……えっと、それなんだけど」
川谷はさっと表情を曇らせた。
「数日間なにもなかったし、やっぱり私の勘違いだったんじゃないかと思うんだよね」
「ストーカーはいますよ」
反論の余地を与えさせないきっぱりとした言い方だった。
「どうしてそう思うの? だって、薬師寺さんたちが一緒の時は本当に何も起こらなかったじゃない」
「どうしてと言われましても、いるものはいますから」
ミソラはわざわざ説明するのがあまり好きではない。彼女にとっては自明の理であり、分からないことの方が理解し難いからだ。
「川谷さん、実際どうかはともかく簡単に決めつけてしまったせいで危ない目にあったりしたら全部が水の泡だよ。だから今すぐ結論をださなくてもいいんじゃないかな」
ミソラのフォロー要員でもある誠は、きっちりとバイト代分の仕事をするべく働いた。
「けどタビも見つかったしこれ以上まだ迷惑をかけるわけには……」
「迷惑なんかじゃないよ。むしろここで手をひいたせいで川谷さんに何かあったら僕らはめちゃめちゃ後悔する。だからお願いだよ、解決するまで関わらさせてほしい」
「……物好きだね」
ごめんなさいもありがとうもどこかそぐわないからだろう、川谷はそう言って苦笑した。
連絡はすでにしていたようだが、川谷の母たちも早く無事を目で見て確認したいはずだ。
安心させるためにも、落ち着いて話をするためにも、一先ずタビを家に帰らせようということになった。
家で帰りを待ち受けていた川谷の母は、ただいまを言い終わる前にリビングから飛び出してきてタビの無事を確認した。
泣いて喜ぶその姿に、見つかってよかったなと再び純粋な気持ちが浮かぶ。
やはりペットだって家族なのだ。
お礼をしたいもてなしたい夕飯も食べていきなさいという川谷母の申し出を丁重に断り、一段落したあと誠たちは駅に向かった。
なんだかんだと時間が過ぎていたようで、空はすっかり蜜柑色に染まっている。
帰宅時間ということもあり、駅の改札前は定期的に放流されていく人波でごった返していた。
通りすぎていく人たちの邪魔にならないように位置案内の大きな地図の前で三人は立ち止まる。
「薬師寺さん、ここで一体何が分かるの?」
言われるままについてきたが、さすがに疑問がおさえられなくなったようだ。
「もしもストーカーが改札から出てくるとしたって後ろ姿すら見たことないんだよ。どうやってこの中から見つけるの?」
彼女の指摘は当然のものだ。それに、彼女にとってミソラはこれまでただの大学の友人だった。人の相談にのる奇特な趣味があるにしても、ほがらかでマイペースな子くらいの認識だっただろう。
「すぐに分かりますよ」
今、川谷にはミソラがどのように見えているのだろう。
もしかすれば少し不気味とすら思えているのかもしれない。
電車が到着するたびにどっと人が増えて流れていく様を見送っていると、何度目かのタイミングで急にふらっとミソラが改札に向けて歩きだした。
「こんばんは」
改札から出てきたばかりの人の前にミソラが立ちはだかる。
ミソラよりも身長が低いのかこちらからでは彼女の背中に隠れて相手が見えなかった。
「……こんばんは、まだ、いたんですね」
だが川谷と連れ立って近づくと、聞き覚えのある消え入りそうなか細い声が聞こえた。
「ええ、茅場さんはどうされたんですか? 課題があるって言ってましたよね?」
大きな赤縁眼鏡をかけた小柄な女性――後はお任せします。そう言っていたはずの茅場がそこにいた。
「や、あの、やっぱり気になって、それで、」
「タビちゃんが本当にちゃんと家に帰れたのか見にいらしたんですね、なるほど」
「でもいきなり訪ねても迷惑になるかなって思って……それ、で、」
口ごもる茅場の肩に改札から出てきた人の鞄がぶつかった。小柄な彼女はぶつかられた勢いに負けてよろける。
ぶつけた相手はスーツを着た男だった。通行の邪魔をするような位置にとどまっているこちらに迷惑そうな視線を向けてきたが、何も言わずに立ち去っていく。
「場所をうつしましょうか」
戸惑う茅場の手をつかんでミソラは彼女を引っ張っていった。わけが分からないが、誠と川谷も粛々と後を追いかける。
ミソラは、タビの受け渡しをした公園まで三人を連れていった。さっきまで遊んでいた子どもたちは夕方になり家に帰ったのか、もう姿がない。
「ここなら他の人に迷惑もかからないですね」
心なしか青ざめている茅場も、当惑の表情を浮かべている川谷のことも意に介さず、ミソラはいつも通りのおっとりした調子だ。
穏やかさは日常であれば好ましいものだが、差し迫った状況でも調子を崩さない場合には一種異様に見える。
「薬師寺さん、あの、これって、どういう」
微笑みだけを川谷に返すと、ブランコに腰をおろしたミソラはやっと茅場の手を離した。
それまで手を引かれていた茅場は所在を失い、ミソラがブランコをゆらゆら揺らすかたわらに立ちつくす。
これから何がはじまるのか薄々察しながら、誠は川谷と二人でブランコの周りを囲う柵の手前で立ち止まった。
「ねえ、茅場さん。信用できない相手に託すのは心配でしたよね」
「え?」
「あの男性、SNSで報酬を提示して頼んだんですか? 駄目ですよお、失言が多すぎました。手を回すのならもっとちゃんとしたところに頼まないといけません。レンタル彼氏とかレンタル家族とかあるじゃないですか。あるものはもっと活用した方がいいです」
あの男性、とはタビの入った段ボール箱を持ってこの公園にいた篠原のことだろう。
「なにを、言ってるんですか?」
「あなたのやったことはどれもこれも詰めが甘いとお伝えしています」
「だから、一体、なにを、」
「この数日間、タビちゃんはあなたの家にいたんですよね?」
川谷の喉からひゅっと息をのむ音が聞こえた。
「なん、なんで、なんでそんなそんなことだってずっと一緒に探してたじゃないですか、川谷さんと薬師寺さんと真中さんと私とで毎日頑張って探してたじゃないですか、もしも本当に私の家にタビちゃんがいたなら、そんなことしないですよ。やめてくださいよ変なこと言わないでください。薬師寺さんなに考えてるんですか、急にこんなとこまで無理矢理引っ張ってきて、変なこと言いだして、ちょっとおかしいですよ」
途中から茅場はこれまで聞いたことのない強い口調で非難し始めた。
必死な様子の彼女をちっとも気にせずにミソラは言う。
「おかしいですか? 茅場さんの方がよっぱど不自然な行動をしていると思いますけど」
「私はおかしなことなんてしてない」
「面白いことを言いますねえ、あなたはそもそも最初におかしな行動をしていたのに」
最初というと、ミソラに呼ばれて川谷と初めて会った喫茶店でのことだろうか。
あの時は確か、トレイを持った茅場が空いている席がないか探していたところに遭遇したはずだ。
「私たちがあの時いた店は、席についてから注文するのではなく、カウンターで注文して飲み物などを受け取るタイプのお店でしたよね。それなら、注文する前に席を確保するのが普通の行動だと思いませんか? ましてやあの時は席がだいぶ埋まってました。うちの学生なら普段から利用してるはずの店で、注文したはいいけど肝心の席がなくて焦るなんて、中々しませんよねえ」
「そ、そんなのぼうっとしててうっかり忘れてた場合だってあるじゃないですか。あの時もそうだったんだったんですよ、ちょっと寝不足で疲れててうっかり……だいたいなんなんですかさっきから、証明もできなければ証拠もないのにまるで本当のことみたいに言わないでください」
「証明や証拠がなんだっていうんですか? だって、私がそう思ったんですよ。それが全てです。事実であるのは間違いないのに何が問題なんですか? 証拠があろうとなかろうと事実はそこにあるだけです。あなたがどんな弁明をしようともそれが揺らぐことはありません」
軽快に語りながらミソラは大胆にブランコをこぎだす。
とりつくしまのない彼女の物言いに茅場は茫然としている。
「タビはあなたの家にいた。それが真実です」