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猫探し 3

 話がまとまり喫茶店を後にする頃には、すでに時間は十五時を過ぎていた。

 大学の最寄り駅から電車で四十分かかるという川谷の実家に着く頃にはもう夕方だ。

 土地勘がないこともあって、初日は全員まとまって動くことになった。

 電車に揺られている間に、地図と照らし合わせながら猫が入り込めそうな場所について細かく話を聞く。

 到着してすぐに動き出すも、ざっと教えてもらった箇所を確認している内にあっという間に日は落ちていった。

 最初から無理をしても仕方ないので、本格的な捜索は明日からにして早々にその日は解散になった。三人で川谷を家まで送ってから帰路についたわけだが、帰り道に不審な人影も後をつけてくるような足音も聞こえない。

 猫もストーカーも気配すらなかったが、初日なんてこんなものだろう。何日かすれば進展もあるはずだ。そう思っていたが、二日、三日、四日目になっても収穫のないまま時間だけ過ぎていった。

 タビは見つからないのに川谷家の近所にいる野良猫とは毎日顔を合わせている。灰色のぶち猫にはとうとうこちらの顔を覚えられた。

 一体何をしているのか尋ねるように鳴かれたので「これこれこういう見た目のタビという猫を探しています」と伝えてみたが、効果があったら少し不思議な現実が存在しているようでいいなと思う。そんな優しくて面白い現実がやってくるわけないけれど。

 ストーカーについては現状手がかりがないため、川谷に気配を感じた時の行動を再現してもらった。

 誠が距離を置いて見張った状態で、川谷一人で歩いてもらったり、ミソラと二人にしてみたりと試す。だが妙な動きをみせる人物は現れない。

 五日目も成果のないまま終わった。

 時間を有効活用しようと思い、暗くなって一緒に探している時に川谷から就活のコツを聞いてみたが、特別なことはしていないと言われた。社会に憎しみがわいた。

 相変わらず就活もまったく進展が無い。ここ数日、往復で一時間二十分もの時間を移動のために余分に費やしているわけだが当たり前に疲労が蓄積している。

 エントリーシートの時点で二社落ちたのはきっと猫探しに体力を取られているせいだ。

 唯一良い点といえば、タビ探しを手伝っているからと、川谷家で夕飯をごちそうになっていることぐらいだ。

 母の味を食べるのは一体何年ぶりだろうか。頂くご飯はどれもとても美味しい。荒んだ心の癒しになっている。

 正直、三日くらいで片がつくと思っていたのでそろそろ焦ってきた。

 途中で放り投げる気も手を抜くつもりもないが、そもそも本気で取り組んだって誠に事件を解決する能力はそなわっていないのだ。

「ミソラさん、分かっていることがあるなら早めに教えておいてよ」

 用事があるとかで茅場が不在だったため、久しぶりに二人きりになった帰り道。疲れた様子を少しも見せない彼女に探りを入れた。

 がらんとした他に乗客のいない車両の窓越しから、まだまだ郊外へと帰宅する人で混雑した反対側の路線が見える。

 隣に座るミソラはこちらの内心なんてまったく意に介さず間延びした声で答えた。

「分かってることなんてないですよお」

 だが彼女の言葉をそのまま受け取るほど短い付き合いではない。

「と言って、全部を理解してるくせに傍観していたことが何度あったと思う?」

「マコトくんの勘違いじゃないですか? そんな性格の悪い真似したことありませんよ」

 ミソラは悪人ではない。

 本当に問題がある時ならば彼女も黙って見過ごしたりはしない。

 他愛ない相談の時は何もせずにふわふわ笑っているが、ストーカー事件の時などはいつも被害を未然に防ぐために動いていた。

 それを見越していたので、誠は今回の件も三日もあれば解決すると思っていたのだ。

 だというのに、この気楽さはなんなのだろう。

 いや、分かっている。

 危険があるなら最短距離で解決しているのだ。そうしないということは、単純に安全だということだろう。

 ならば、川谷が感じていた気配も聞こえていたという足音も気のせいということになる。

 あくまでも最初に頼まれていたのは猫探しだ。

 ストーカーについては相談の流れで請け負っただけ。だが、騒がせた結果なんでもなかったという経験が今後の負い目になってほしくない。

 防災と同じで結果がどうだろうときちんと備えたというのが大切だと思うのだが、人に迷惑をかけたという記憶はためらいを生む。

 川谷は責任感の強い人だ。本来なら何事も自分で解決するタイプのようだった。

 今回はタビが心配だったから人に頼っただけだ。

 ミソラが聞き出さなければ不安であってもストーカーのことを口にしなかった人だ。相談した結果人を振り回したとなれば、もしも次に何かあった時、誰かに相談したりするだろうか。しないだろう、きっと。

 自分一人でどうにかしようとしてしまうだろう。

 次こそ勘違いではなかったら? 悪質な相手だったら? 考えたくもない最悪な結果が訪れてしまったら? もしもを並べ立てても仕方ないけれど想像してしまう。

 無理をしてまで助けるほどの関係性ではない。

 やって来るとも限らない最悪の想像よりも自分の就活の方が大事だ。一日だって無駄にするべきではない。

 川谷は友人も多そうだし、誠たちじゃなくても力になってくれる人はいるだろう。

 気を回しすぎたってお節介なだけだ。

 他人のことよりも自分の都合を優先するべきだ。けれどそう思う以上に、誰かの日常が理不尽に壊されるのが、嫌だ。

 回避できるものなら回避したい。

 肺をからっぽにする勢いで息を吐く。

 積極的に動く気のないミソラをやる気にさせるのは誠には難しい。それに、彼女はちょっと感覚が人とずれている。自分の懸念を伝えたところで、どうにかしてくれるとは思えない。

 人の少ない電車内には、がたごと線路を進んでいく音だけが響く。

 考え事にはうってつけの空間で最寄駅までの短くはない時間を熟考に費やしても、良い考えはちっとも思い浮かばなかった。


 ミソラと別れて家に帰ってからも、翌日になって大学の講義を受けている間も考えていたが時間を無駄にしただけだった。

 物事を思い通りに運ぶのが、つくづく向いていないのだと痛感する。実行するどころか思いつきもしないのだ。

 どうしたものかと悩みながら講義終わりに食堂に向かって歩いていると、見知った小柄な後姿を見つける。

「茅場さん、こんにちは」

 すぐに追いついたので挨拶をすると、名前を言った瞬間に彼女の両肩が飛び跳ねた。

 驚かせてしまったようだ。誠から一歩距離を取るために後ずさった姿はちょっと猫に似ている。

 昨日を除けば四日間連続で一緒にタビ探しをしていたのに、まだ誠の存在に慣れていないらしい。

「………………こんにちは」

 視線を合わせてはくれないが、蚊のなくような声で返事はくれた。挨拶もしたくないレベルで嫌われてはいないようだ。

「僕、今から学食で昼ご飯食べるけど一緒にどう? ミソラさんも来るよ」

 美味しいかと聞かれれば返答に困るが、値段が安いので誠は学食が好きだ。

 お金に困っていないが食にこだわりがないミソラは、一番近いからという理由で学食を使う。

 偶然の結果だが、約束をせずとも会うので、二人は昼ご飯を共にするようになったのだ。

 そういえば、彼女と始めて会ったのも学食だった。

「いや、わたし、お昼は、コンビニ、なので……すみません」

 俯きすぎて首の角度が直角になっている。

「そうなんだ。誘ってごめんね。……えっと、確か今日は来るんだよね? じゃあ、またあとで」

 かもしだされる近寄らないでほしいという雰囲気に臆し、心持ち早口で立ち去る旨を伝えると素早く彼女に背中を向けた。

「あの……昨日、も、見つからなかったんですよね」

 しかし背中に投げかけられた声が食堂に向けた足を止める。

「……うん、そうだね」

 振り返ってみると茅場は俯いたままだった。

「いつか、本当に、見つかるんでしょうか?」

 距離を詰めると逃げられる気がしたので、ぼそぼそつぶやかれる小さな声をその場でどうにか拾う。

「どうだろうね。見つける気でいるし、見つけたいとも思っているけど、努力とか感情でどうにかなるものでもないから絶対に見つかるとは言えないかな」

 なんの気負いもなく言うと、茅場が急にバッと顔を上げた。眼鏡の奥の目を大きく見開いている。

「なんか、あの、冷たい、ですね」

 オブラートに包まないあまりにも直球の感想に笑いがもれそうになった。しかしここで面白がるような反応をしては余計に疑いの目で見られそうなので、意に介していないような、すました顔つきをする。

「そう? でも、わざわざ人に頼んでまでペット探しをするような人の気持ちに順位はないよね。どの人も本気で自分のペットを心配してるし、愛してる。けど、迷子になったまま事故にあったり、どれだけ探しても見つからない場合だってある。そこに差ってあるかな? きっとないよね。なら、過程にこだわるべきではないんだよ。どれだけ頑張ったかなんて関係ない。見つかる時は見つかるし、見つからない時は見つからない。時間も知恵も尽くしているなら最後に結果を決めるのは運だよ。運や偶然を自分の意思で選べる人はいない。だから僕は絶対見つけられるとは言えないね。それに、不確定なはずのものをできると言い切る人間って怪しくないかな?」

 ミソラはともかく、誠は本当に普通のただの大学生だ。変に期待されても困る。

 説明を惜しむ気はないので、長々と自分の考えを述べると、茅場は形容しがたい表情になっていた。

「真中さんってよく分からない、ですね」

「え? そんな変なこと言った?」

 普通に普通のことしか口にしていないはずだ。

 もしかしたら、ここ数年ミソラと行動をともにしすぎたせいで、いつの間にか自分も平凡から逸脱してしまったのだろうか。

 まさかとは思うが内定が取れないのも、知らぬ間に妙な言動をしてしまっているからなのだろうか。

 恐ろしい。

「変、というか。真中さんって鋭いのか、そうじゃないのか、どっちなんだろうって……」

「鋭い? え、なに僕って頭良さそうに見える? 仕事できそうに見える? 一緒に働きたいなって思う?」

 就活に惨敗し続けている悲しい生き物の性でつい反応してしまい勢い込んで言うと、茅場が威嚇された小動物のようになった。せっかく会話が成り立っていたというのに台無しだ。

「すみません」

 さっと冷えた頭で咄嗟に謝る。誠が狼狽している様を見て落ち着いたのか、小さく息をつくと茅場は話を続けた。

「なんというか、あの、見つかる、当てが、あって、川谷さんのお願いを引き受けたのかと、思ってたんですけど、見つかる様子が、ないので……、ああ、ただ普通の人なんだと、思って、でも話すと、普通の人とは、ちょっと違うような、気もして、だから、真中さんが、よく、分からないです」

 彼女が何を言いたいのかこちらもよく分からなくなってきた。

「えっと、とりあえず僕はすごく平凡な人間だよ。推理で猫を見つけるとか、そんなことは到底できない普通の大学生」

 成績だって平均だし、運動が得意というわけでもない。コミュニケーションに優れてるわけでもなく、就活だっていつまでも内定が取れなくて困っている普通の学生だ。

「……そう、なんですね。あの、学食、行くんですよね。ごめんなさい引きとめて、行ってください」

「時間はまだあるし、急いでないから大丈夫だよ。茅場さんは、なんていうか、川谷さんのことが心配なんだよね? 期待に添えなくてごめんね」

「いえ、あの、真中さんが、悪いわけではないので、その……」

「猫探し、大変だよね。慣れてないなら尚更そうだ。友達のためとはいえ、毎日進んで手伝いに来る茅場さんはすごいね」

「……だって、全部、川谷さんのおかげなんです」

「え?」

「あの、もう、失礼しますね」

 首だけで礼をすると、ぱたぱたと軽い音をたてながら茅場は小走りで走り去っていった。

 結局のところおそらく彼女はタビが見つかるかどうかが聞きたかったのだろう。このまま見つからなくては川谷が悲しむと思ったのかもしれない。

 女友達の友情だ。羨ましい。ここ数年の誠とは無縁の麗しさだ。

 ミソラには無さそうな感情だな。などと失礼なことを考えながら食堂に入ると、ちょうどカルボナーラを口に入れようとしているミソラと目があった。いつもは入口に近い席には座らないのに珍しい。

 さすがの彼女も心を読む能力など持っていないはずなのに、無言で咀嚼しながらじっと見られると先程考えていたことが伝わったような気がして、動揺する。

 心を落ち着かせるためにも一先ず唐揚げ定食を頼みに行った。

 注文を終えトレイを受け取ると、いつもよりそこそこ人がいる中をするする歩いてミソラの正面に座る。

 別に約束はしていないが、わざわざ離れた席に向かうのも後ろめたさを表明するようでばつが悪い。

 こういう時は堂々としているのが大事だ。しれっと普通に振る舞うのが肝心だ。

「茅場さんとのお話は弾みましたか?」

「どこから見てたの?」

 ポーカーフェイスが一瞬で死んだ。

「廊下で立ち話してたんですから通りすがりでも普通に見えますよ」

「通りすがってたんだったら声をかけてよ」

「せっかく女の子とお話してるのを邪魔しては悪いかと思いまして」

「どう見ても気まずい空気が流れてたよね?」

 カルボナーラをくるくるフォークで綺麗に巻き取ってミソラは口に運んだ。

 育ちが良い彼女は食べ物を口に入れている時は話さない。返答を待つ間に誠も唐揚げを一つ口にする。揚げたてなので美味しい。

 だいたいのメニューがそこそこの味の学食だが唐揚げ定食は安定した美味しさを保っている。

「そこから始まる何かもあるかもしれないじゃないですか」

「ないよ」

 唐揚げをのみ込む瞬間に反射で否定したのでちょっとむせた。やはりミソラは色々とずれている。

「可能性を簡単に捨てるのは愚かな行動ですよ」

「良い感じの言い方をしても納得しないよ?」

 プラスチックのコップを掴み水を飲んでむせた喉を落ち着かせる。彼女がふわふわしたそれっぽい言動で煙に巻くのはいつものことだ。

「タビは見つけられますかって聞かれただけだよ」

「ああ、なるほど」

「川谷さんのこと心配してるんだね。いいよね、友情って」

 大学生になると突然大人にでもなったような振る舞いをする人が多いが、大切なものをないがしろにするくらいなら子どものままでもいいんじゃないかと誠は思う。

「マコトくんは単純でいいですよね」

「いきなり馬鹿にされてる?」

「ほめてます」

「ミソラさんのその笑い方は馬鹿にしてる時の笑い方だよ」

 彼女が口元だけでなく目もしっかり笑っている時はだいたい何か含みがある時だ。

「へえ、そうなんですか」

「他人事だね」

「特に支障がないのなら他人事と大差ないですよ」

「…………そう」

 のれんに腕押しをしても仕方ない。さっさと諦めることにした。ミソラや高人のような人と関わっていくコツは些末事にこだわらないことだ。

 人生諦めも肝心。良い言葉だ。

「茅場さんは心配性なんですねえ」

「そうなんだろうね。気が弱そうだし、これから苦労しそうだ。ああ、そうだ。それと、僕のことをよく分からない人だって言ってたよ」

「でしょうね」

 歯切れよくすぱっと肯定された。心外だ。冗談まじりに口にするはずだった言葉をぼそぼそと言うしかなくなった。

「……僕は見て分かるように普通の大学生だよ」

「そうですね。あなたはいつまでたっても内定が決まらずに嘆いている普通の大学生です」

「一言どころじゃなく余計な言葉が多いよ」

 ツッコミを気にすることなく、誠が来た頃にはもう残り少なかったカルボナーラの最後の一口を彼女は口にした。

 無理に会話を続けたところで流されるだけなので、吐き出すはずだった言葉ごと自分も再び唐揚げと米を口の中に詰め込む。

 金曜日は二人とも午後は授業を入れていない。

 急ぐ必要はないのだが、気持ち早めに食事を進めた。猫探しに行く前にミソラから聞きだしておきたいことがあるのだ。

 茅場も心配していたが、誰よりも川谷がずっと不安な気持ちのまま毎日過ごしているだろう。こんなもの長引かせない方がいい。

 彼女たちは同級生の薬師寺さんしか知らないだろうから、聞けるのは自分しかいない。

 すでに昨日軽く聞いてかわされてはいたが、今日こそは明確な答えをもらえるまで問い続けよう。

 唐揚げを三つ黙々と食べながらどう切り出すか考えたが、探りを入れたところでどうせ勝てないのだと開き直りストレートに言葉をぶつける。

「ねえ、ミソラさん。猫はいつ見つかる?」

「いつでしょうねえ」

 食後にペットボトルのカフェラテを飲むミソラはのほほんと笑っている。想像通りの返しだったので、問いを続けた。

「川谷さんには申し訳ないけど、ストーカーは勘違いでいないんじゃないかと僕は思っているんだけど、どうなのかな?」

「残念ながらストーカーはいますよ」

「ならどうして何もしないの」

「どうしてでしょうねえ」

「これまではストーカーはすぐに対処してたよね。今回だけ黙っているのはどうして?」

「どうしてだと思いますか?」

「分からないから聞いてるんだよ」

 感情に訴えたところでミソラには通じない。調子を整えるためにも一つ息をついた。喋りやすくするために喉に水を流し込む。

 ストーカーはいると彼女が言うのなら、実体は見えなくとも川谷に危害を加える可能性がある誰かが確かにいるということだ。ならば、尚更早く対処しなくてはならない。

「僕には何が起きているのかは分からない。けれど、少しでも川谷さんに危険があるのなら何かするべきだと思う。ミソラさんが動かないのはストーカーが存在していないからだと僕は思っていた。安全だから何もせずに傍観しているのだと思ってた。猫についてもそうだ。どこかの誰かにもう保護されていたりするんじゃない? それが分かっているから何もしないんだ。相変わらずちょっと趣味が悪いなって思っていた。でも、そうじゃない。さっき君はストーカーはいると言った。なら、今回だけ何もしないというのはおかしい。ミソラさんは人が困っているのを眺めて楽しむちょっと性格に難のある人だけど、人が犯罪に巻き込まれるのを楽しむほどに性格がねじ曲がっているわけではない。そんな君が何もせずにいるのならそこには理由があるはずだ。百パーセント安全だというのなら僕はとやかく言わない。でも、そうじゃないなら危険を未然に回避するためにその理由を教えてほしい」

 これでどうだ。意気込んでミソラを見ると、彼女は関心するように目を少し見開いた。

「たくさん喋りましたねえ」

「……どうも」

 頭をフル回転させて疲れたところに気の抜ける言葉を返されたので脱力する。学食の固い椅子に体重をかけてよりかかった。だらしない体勢のままコップを掴み水を飲む。緊張しながら長々と話したので喉が渇いた。

 ミソラはいつもの薄い笑みを浮かべると、一先ず言いたいのは。と、前置きして話を切り出す。

「とうとう私の性格に難があるってはっきり言いましたね」

「普通の女子大生は事件現場に積極的に首をつっこみに行ったりしないからね」

 今更否定したところで手遅れだ。それに、ミソラの性格に難があると誠が思っているのは事実なのだからごまかしたところで仕方ない。

「事件現場とまではいかなくとも世の中には裁判を見るのが好きな人だっているんですよ。それだけで性格に難があるというのは暴論では?」

「君は理由が問題なんだよ」

 げんなりしながら言うと、まあそれはどうでもいいとして。と、ミソラは話を投げた。

 彼女が居ずまいを正すと、いつも浮かべている笑みがすっと消えた。

 色素の薄い儚げな容貌の彼女は笑っているとたおやかな美少女に見えるが、表情が消えると陶器でできた冷たい人形のようになる。笑顔一つでぱっと印象が変わるのだ。

「マコトくんは私に期待しすぎだと思います」

 話すテンポは変わっていないのに、声音から温度がなくなっている。怒っているのではなく、ただ飾るのをやめただけだと知っているので雰囲気に臆せずに食い下がる。

「でもミソラさんならどうにかできるでしょ?」

 防げたはずの犯罪を見逃すことは別に罪にはならない。けれど、被害者からすれば憎悪の対象になるには充分すぎる所業だ。

「能力のある人間には、人を救う義務があるとでも?」

「義務とは言っていない、倫理観の話だよ」

 目の前で子どもが誘拐されそうになっていたのなら、阻止する。

 目の前で一方的な暴力が振るわれているのなら止めようとする。もしくは通報する。

 個人の能力に関わらず、それが普通の行動のはずだ。

「一歩進めば穴に落ちてしまう人がいるのなら、危ないですよって声をかけるのは当たり前の行動のはずだ。黙っている理由の方がない」

「声をかけるだけならそうでしょうね。でも、対応する労力が自分が損をするレベルになるのならどうでしょう。人は無関係の他人のためにはそこまで労力を割きませんよ」

「川谷さんはミソラさんにとって他人?」

「彼女は私を友人だと言ってくれましたので、他人ではないかもしれませんね。親も他人と呼ぶのなら他人ですけど」

「まわりくどい定義の話はしなくていいよ」

「簡潔に言うなら友人です」

「友達の川谷さんのためなら労力を割ける?」

 そうですねえ、とミソラは少し考えるようなそぶりを見せた。

「赤の他人よりは何かしようという気にはなるかもしれません。そこには関係性が存在していますから。名前のない誰かが死んだって本当の意味で感情は動かないけれど、それがたった一度でも関わりがあった個人ならやるせなさや悲しみが芽生える。人に感情がある限りこの世は平等にならないという分かりやすい証明ですね。友人のためなら、損も厭わず労力を割ける。赤の他人なら見捨てるかもしれなくとも、友人なら助ける。友情とは素晴らしいですね。世間で称賛されているのも納得です」

 友情とは素晴らしいですね。と言いながらも、感情がまったくこもっていないのでただの文字の羅列にしか聞こえなかった。

「けれどマコトくん。あなたは友人のためにどこまでのことができますか?」

「どこまでって?」

「友人を助けるためなら借金の連帯保証人にだってなりますか? 友人を助けるためなら自分が怪我をしても構いませんか? 友人を助けたせいで罵倒されるとしてもそうしますか? 友人のためならというお題目はどこまで使えるものですか?」

「話をずらさないでよミソラさん。川谷さんは借金なんかしてないだろうし、君が怪我をするような失態をおかすとは思えない。ここ数日の付き合いだけでも彼女が僕たちを理不尽に罵倒する人じゃないことは分かる。存在しない選択肢じゃなく、ミソラさんの手のなかにあるものの話をしてよ」

「成長しましたねえ」

 親が子どもに向けるような、感慨深げなしみじみとした口調だった。

「ミソラさんのおかげでね」

 彼女と関わっていれば嫌でもこうなる。なにしろ今のような会話を日常的に交わしているのだ。

 目的がなければ適度に妥協したり流したりもできるが、今回に限っては前提が異なる。誠は頭を必要以上に使う会話を楽しむタイプではないので、脳の糖分不足で今とても甘いものでも食べたい気分だ。

 いつの間にかミソラの顔には再び薄い笑みが浮かんでいた。

「川谷さんが傷つくのは私も望むところではありません」

「なら、」

「しかし強制された善意とは果たして本当に善意なのでしょうか」

「今度は何?」

 ゴール間際のマスでふりだしに戻されるすごろくのようだ。似たような問答を繰り返す気力はもうないのだが、頑張るしかないのか。

「私の意思ではなくマコトくんの説得で動くなら、それは倫理観からの行動でもなければ、善意でもないですよね? 友人のためという理屈だってそうです。それは私が私の意思で行動してこそ意味を持つはずです」

「……倫理観どうこうについては一旦忘れよう」

「最初に倫理観を引き合いに出したのはマコトくんですよ」

「そうだね。それはそうだ」

 倫理観などというあやふやなものを引き合いに出すべきではなかったと気づいたところでもう遅い。

「私と川谷さんはどうやら友人のようですけど、マコトくんはどうなんですか?」

「川谷さんとは会って数日しかたってないし、友人というよりは知人だね」

「そうでしょうね。なら、どうしてあなたは川谷さんのために私を説得するという労力を払うのですか。友人ならともかくただの知人のためにはそこまでしませんよね」

「それこそ……倫理観だよ。気づいてしまったものを無視することは僕にはできない」

「立派ですねえ」

 ふんわりといかにも興味なさ気に漂った言葉により、胸に違和感が浮かび急速に本心を組みあげられる。

「違うよ、僕が嫌なんだ。ただ僕がそうしたいだけなんだ。人を見捨てて平然としていられるほど僕の心は強くない。もしも川谷さんに何かあったらきっと僕は後悔する。言ったそばからごめん、前言を撤回するよ。倫理観も友人だからというのも関係がない。僕が、ミソラさんになるべく早く解決してほしいと思ってるんだ。それが川谷さんでも誰であっても、僕は、誰かが理不尽に傷つく姿は見たくない」

 倫理観だのと言って他人を引き合いに出したからこじれたのだ。ミソラは時に鏡のようなところがある。世間だのなんだのと適当に他者を引き合いに出して煙に巻こうとしたのがいい例だ。

 最初からただ自分の意見を言うだけで良かったのだ。

「そうですか」

「うん、僕は僕のために君に労力を払ってくれと頼むよ。いつも散々ミソラさんの行動に付き合っているんだからそれくらいはいいだろう?」

「高人兄さんからバイト代はきちんと支払われているのにそれ以上を望みますか。マコトくんもなかなか強欲ですねえ」

「それ、は、そうだけれども……」

 ミソラのお供をすることで誠は高人からバイト代をもらっている。

 彼女の行動に付き合いながら大学の講義も受け就活もして更にアルバイトもできるわけがない。一日は二十四時間しかないのだ。だが誠は仕送りをもらっていないので、本来なら生活していくためにバイトは必須だった。

 彼女と出会った当初、生活状況を高人に伝えたところ「じゃあ、バイト代を出すよ」と言われた。勿論その代わりにミソラの面倒をちゃんとみろということだったのだが、そこらの飲食店で働くよりも高い金額だったので誠は提案に飛びついた。

 頷いてしまったのが、運のつきだ。

 何もかもミソラの気分次第。年中無休、二十四時間体勢のバイトだ。ブラックどころじゃない。しかも、このバイト先は辞表を受けつけていないのだ。脱出するには就活で内定を勝ち取るしかない。

「確かにバイト代はもらってるけど、払っているのは高人さんだし、金額以上にミソラさんは無理難題をふっかけてくることがあるんだからたまにはいいんじゃないかな!」

 途中からやけくそだった。ここまできたら勢いで押すしかない。

 つい言葉の最後とともにぐっと拳を握ってしまったので茶番感がすさまじい。だが、彼女はじたばた足掻いている人間が好きだから無様な方が良い結果を運んでくれるかもしれない。

 案の定、軽く息をつくとミソラは言った。

「いいですよ。まあ、私が何かしたところであまり意味はないと思いますけど」

「ありがとう、可能性を潰したいだけだからそれで充分だよ」

 それが例え一パーセントだとしても可能性は可能性だ。悲劇が起きたあとに嘆くことの方が意味がない。

「マコトくんが思いつめなくても近い内に解決するんですけどねえ」

「どういうこと?」

「すぐに分かりますよ。どうせ解決するんですから説明はいらないでしょう?」

 気になるが請け負った以上は彼女がどうにかしてくれるはずだ。細かいことはもういい。その時になれば分かるだろう。

 やっと終わったという開放感でどっと疲れが出て身体が重くなる。就活の面接よりも疲れた。

 今日のタビ探しは川谷の講義が終わってからの予定なので、あと一時間以上も時間があまっている。どこか適当なスペースでも見つけて仮眠をとりたい。

 さっそくぼやぼやし始めた頭の中で先程の会話を反芻していると、ふと思い立ったことがあった。

 ねえミソラさん。と中身を検分する前に言葉がつるりと口から飛び出る。

「誰かが被害にあうくらいなら、僕は歪んだ善意にだって頭を下げるよ」

 霞む視界に、きゅっと口の端をつりあげて笑うミソラが見えた。

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