不法侵入 5
誠が抵抗することなく脱力したのを確認すると、投げて床に叩きつけた相手はばさりとかぶっていた黒いパーカーのフードを脱いだ。
「なんですか今の?」
頭が回らないせいで純粋な疑問が口からこぼれる。
「合気道だよ」
上から下まで全身黒ずくめの格好をした高人を床から眺める。ミソラも真黒な服装をしていたから最初からこうなることは予想されていたみたいだ。
「すごいですね」
「探偵なんかやってると荒っぽいことに巻き込まれることもあるからそこそこね」
状況にそぐわない雑談をしていると、じわじわと何が起きたのか実感がわいてきた。
「……どうして止めたんですか」
「事件を未然に防ぐのも探偵の仕事だからだよ」
「一体誰に頼まれて?」
「依頼人がいるわけじゃないけど、しいていうならミソラかな?」
コンクリートの上でごとりと頭を動かしてミソラに目を向ける。
こんな時でも彼女は笑っていた。
「なんで邪魔をしたんですか」
「殺人を止めることに理由が必要でしょうか?」
「細川礼司は姉さんを殺した」
「ええ、色々と調べさせてもらいましたから知っていますよ。事故だったそうですね」
「事故だから、なに」
頬に触れるコンクリートの床は冷たいのに、まるで自分の身体が火にくべられたかのように熱い。頭のなかで何かがばちりばちりと弾ける。
「事故だったら人を殺しても許されるのか、自分が殺した人間の名前を忘れても許されるのか、罪を償わなくとも、謝罪の一つもせずとも許されるのか、悪いと思ってもいないやつを裁けないならなんのために法律はあるんだよ」
感情で人を裁くことは許されていない。けれど、人は感情で動いている生き物だ。
簡単に割り切ることなんてできない。
「法が裁いてくれないなら、自分の手で終わらせるしかない。単純で直情的な思考だよ。復讐なんて許されることじゃない。やっていいことじゃない。復讐なんて馬鹿な真似をしないで、きちんと消化して、前を向いて、普通に、平凡に、生きていくのが、きっと正しい。そうだよ間違ってる、僕は間違ってる、全部全部間違ってる!」
叫び声が、むきだしのコンクリートに当たってぐわんと反響した。
「でもどうして正しく生きなきゃいけないんだよ! 正しさが何を救ってくれるんだよ、正しくあることが人としての正解ならどうしてあいつは生きてるんだよ! あいつだって間違ってる! ……なのに、どうしてあいつは許されてるんだ、もう、なにが正しくて、なにが、間違っているのか、わからない、くるしい、くるしい――」
破裂した水道管のように言葉が喉からあふれていって止まらない。
「もう、疲れたんだ。もう、終わらせたい」
魂に寿命があるのなら誠はもう死んでいるべきだ。
「けれど、あいつがのうのうと今も生きていることが許せない。疲れた、疲れたんだ、人を恨むのはもう疲れた。自分が生きていることにも疲れた。だからもうこうするしかない。仕方ないんだよ、どうしたってあいつが生きている限り幸せになんてなれない。姉さんのことも母さんのことも全部忘れて自分だけ幸せになんてなれない。どっちにしろ不幸になるのなら、僕は、あいつを殺して、死にたいんだ」
涙が、勝手にこぼれていく。
疲れた。
もうどうしようもなく疲れた。
本当は、死ぬなら、自分の人生で一番幸せだと思える瞬間がいいなと思っていた。
穏やかで、満たされていて、まだ生きていたいと願える、やさしい時間の中で死にたい。
姉の手からも母の手からもこぼれ落ちてしまった、平凡で、ささやかな幸せに包まれて、まどろむように眠りたかった。
こんな風にヘドロの憎悪に殺されたくはなかった。
「それはもったいないので、どうせ死ぬならあなたの人生私にください」
あっけらかんとミソラは言った。
「……僕の話聞いてましたか?」
「興味深く拝聴させていただきました」
「なら伝わったでしょう。僕は、もう疲れたんだ」
「くだらない人間のために死ぬのはもっとくだらないですよ」
正論を言われても心は少しも動かなかった。その程度のことはとっくの昔に自分でも考えている。
「理屈で心がコントロールできるなら、最初から人を殺そうとなんて思わないよ」
「心とは厄介なものですね」
「他人事みたいに言うね」
いつまでも床に横たわっている誠にミソラが手を差し出す。
「取引をしましょう」
「嫌だよ」
彼女の手を手の甲で軽く押し返す。
「あら、どうしてですか?」
ミソラは不思議そうにきょとんとしていた。
「どうしても何もなんでこの場面で僕に分かりましたって言ってもらえると思ったのさ」
「……なるほど。では、まずは交渉することにします」
彼女は何を考えてるのか分からない表情で再び手を差し出した。
振り払う気力もないので無視したら、握り返すまでてこでも動かないと言わんばかりに微動だにしなかったので渋々彼女の手を取って身体を起こす。
触れた手は細く冷たかった。もともとの体温が低いのだろう。
汚れた床にミソラはちょこんと座った。高人は少し離れた位置で腕を組んで柱に寄りかかり様子を見守っている。
「私があなたのことを見つけたのは、飲み会で細川に睡眠薬をお酒に入れられたかもしれないという女の子からの相談があって、フットサルサークルの人たちのことを観察していたからです」
噂には聞いていたが、改めて聞くと怒りが再燃するような話だ。
「彼らを観察している内に、妙に空間に馴染んでいない人がいると気づきました。強制されてそこにいるのか、はたまた無理をしているのかと思って注視していると、一人の男性のことを今にも殺しそうな目つきで時折見ている。不思議だなあと思っていると、あなたたちは先月あたりから定期的にこの廃ビルに立ち寄るようになりました」
ストレス解消だとか言って彼らはここで違法すれすれの薬を吸引していた。完全に違法のものに手を出さないところが小賢しい。
誰かの家ではなく廃ビルを利用するようになったのは、使用はしたいが手元に置いておきたくない様子の彼らに、ここを使えばいいんじゃないかと誠が提案したからだ。
怪談がささやかれているせいで、見つかったとしても肝だめしをしていたでごまかせる。前に不法侵入した人たちがビル内をすでに荒らしているから隠していた薬が見つかったとしても、自分たちではないと言い張ればいい。そんな稚拙な提案に彼らはのった。
「一先ず状況を確認するために、彼らがビルに入ったところを見計らって私はパトカーを呼びました。あなたに初めて食堂で会った日の前日のことですね。通報を受けやって来たサイレンの音に驚いた彼らはわらわら慌てて逃げ出していった。その様子で彼らがたちの悪い大学生レベルでしかないということは分かりました。けれど、私が気にしていた人がそのなかにいなかったんですよ。その人はどこか残念そうに、離れた歩道から廃ビル前に止まった赤いランプを見つめていました」
「やっぱり一番最初に話しかけてきた日から僕を疑ってたんだ。変だと思った」
「とても自然に話しかけたと思ったんですけど、変でしたか?」
「自覚がないの?」
がらがらの食堂内でわざわざ目の前に座ってきて唐揚げは美味しいですか? なんて突然聞いてくる美人なんて不自然きわまりない。
「初対面の人にはさりげない話題から入るのが正解だと思ったんですが、違ったみたいですね」
問題はそこではないのだが、今はそこを議論する場面ではない。
「僕は細川にメッセージを送ったのにどうして君たちがここにいるの」
「あなたがメッセージを送ったのは私が新しく作成したアカウントです」
「……どういうこと?」
「細川が使用しているものと同じ名前とアイコンをつかって、私は新しくアカウントをつくりました。そして元からあなたのスマホに登録されていた細川の連絡先を削除し、私のものとすり替えたんです。あなたがこれまでグループでのやり取りだけで、個人的に彼と連絡を取ったことはないようだったのでそれだけで済んで楽でしたね。廃ビルを捜索していた際にあなたのスマホを無断で拝借して申し訳ありません」
高人の方に注意を払いすぎて自分のスマホが鞄からぬかれていたことに気づけなかった。
「視覚情報が同じなら人は疑わずに行動してしまう。そういうわけなので、あなたは始めから細川にメッセージは送っていませんよ。彼はおそらく今日もふらふらと遊んでいるでしょう」
最後の一言でちりちりと胸の奥を焼かれているような痛みがぶり返した。
「……僕は、恨みを忘れられない」
「そうですか」
「ぼくは、ひとをころせるようなにんげんには、なりたくなかった」
こんな自分にはなりたくなかった。
「あなたはまだ誰も殺していませんよ」
「でも殺そうとしたよ。自分の意思で手順を踏んで細川を殺す準備をした」
「ここにいたのは高人兄さんです。真中くんじゃどうやったって高人兄さんには勝てませんよ」
「それは君たちの手柄だ。僕は本当に殺す気だった。法律とか倫理とかそんなものはどうでもよかった。自分のためだけに人を殺そうとした」
「空想で殺すことと実際に手にかけることでは天と地ほどの開きがあります」
「僕は実行しようとした、だったらそのハードルはもう超えている」
反論し続けるとさすがのミソラも閉口した。
「……頑固ですね」
ぽつりと落された言葉はこれまで聞いてきた彼女の発言のなかで一番素直なものだったように思う。
少しの間、口元に手をあてて考え込んでからミソラは言った。
「罪をおかそうとしたなら尚更、あなたの人生を私にくれませんか」
「どうしろって?」
「どりあえずあなたの残りの大学生活の四年間を私にください。これまでは高人兄さんにくっついて事件現場を回ってばかりいたんですが、本格的に大学の方でも学生の相談にのっていこうかと思うんです。一人だと大変なこともあるでしょうが、こればかりは外部の高人兄さんに頼るわけにもいきません。なので真中くん、あなたの大学生活全部捧げて、私の趣味に付き合ってください」
「それがなんの償いになるのさ」
「趣味ではありますが人の相談にのって悩みを解決しています。結果として私のしていることは無償の人助け、ボランティアです。償いにはうってつけではないですか?」
「屁理屈だよ……」
彼女の言っていることは、めちゃくちゃだ。だが緊張や落胆で疲弊した頭はもう考えることを放棄したがっていた。
「たった四年でいいの?」
「そうですねえ、その時が来たらその時考えましょう。延長してもいいし、自分の人生を生きたくなったのならそうすればいい。その時が来ても死にたいなら、私は次は止めません。今あなたのことを繋ぎとめた責任をとって、亡くなったあとの処理も全部、私が手配してあげますよ」
「ふうん」
それは結構、魅力的な提案だった。自分では死んだあとの自分の面倒は見られない。父親に自分の死後の処理までやらせるのはあまりにも惨すぎる。
「頷いてくれるなら、私はいつか細川礼司を逮捕に追い込んであげますよ。今はまだそこまでのことはしていないようですが、一度許されて味をしめている欲望に弱い人間は、いつか絶対法のラインを超える。その瞬間に過去の余罪も全て叩きつけて、あなたが恨むあの男を、法で裁いてみせます」
確証のない話だ。すがるには曖昧すぎる約束だった。けれど何故か彼女のことを信じてみたくなってしまった。
「私にとってあなたはとっても興味深い。だからまずはあと四年。私のために生きてください」
そして誠は、ミソラを選んだ。
細川礼司がその後逮捕されたのかどうかを誠は知らない。捕まったところでどうせ死刑になることはなく、刑期を終えたからといって許せるものでもないからだ。
ただいつかミソラは必ず約束を守る。
誠はそれを信じている。




