不法侵入 3
人が通って自動ドアが開くたびに叩きつけるような雨音が聞こえてくる。
「こんにちは真中くん」
「……こんにちは薬師寺さん。よく会いますね」
これで三日連続だ。不自然なくらい顔を合わせる。
講義中の教室に彼女の姿を見かけたことはない。授業はかぶっていないようだし、学部だって違う。それなのによくもこう遭遇するものだ。
「なにをしているんですか?」
説明できるような理由もなく、誠はただぼんやりと廊下の壁にもたれて玄関の窓ごしに外を眺めていた。
「雨が……」
「雨が?」
「さっさと止まないかと思って」
昨日は曇り空だったのに、その反動のように今日はざあざあ降りの雨が降っている。朝はまだ小雨だったのにどんどん勢いが増していった。
「今日は終日雨だそうですよ」
「らしいですね」
「梅雨明けまでも、もうしばらくかかるそうです」
「そうみたいですね、ニュースでも言ってましたよ」
「雨がお嫌いなんですか?」
「逆に好きな人っているんですか?」
いるなら教えてほしいくらいだ。
「砂漠に住まわれている人などには雨はとても喜ばれると思いますよ」
そうかもしれないですね。と返しはしたが、ミソラの答えはそもそもの前提が違いすぎて参考にはならなかった。
そんなことを言ってしまえばこの世の何もかも誰かは必要としているということになる。それが例え自分には不快なものでもだ。
これから用事でもあるのかぱたぱたと軽快な足音をたてて、小走りで前を通りすぎていった女の子に反応して自動ドアがまた開く。雨脚が弱まる気配はない。
本当に、嫌になるくらいに降っている。
傘を持ち歩かない誠はこのままではずぶぬれになって帰るしかない。
「薬師寺さんは……これから帰るとこだったんですか?」
「ええ、今日はもう授業もないので」
彼女の手には淡い水色の傘がある。女性用のサイズの傘ではこの土砂降りだと役に立たなさそうに見えた。
「待ってても仕方なさそうだし、早く帰った方がいいと思いますよ」
土砂降りだからといっていつまでも待ってはいられない。もう帰るだけなら、無駄に時間を浪費せず暗くなる前にさっと動いてしまうのも手だ。
「真中くんは帰らないんですか」
自分はもうしばらく様子をみてからにする。そう答えようとした時、賑やかな話し声が飛び込んできた。
集団に心当たりがあった誠は咄嗟にミソラの手をつかみ、声の主たちがやって来るのとは反対の曲がり角の影に身を潜める。
一人だったのなら隠れる必要もなかったが今はミソラがいた。昨日の様子からして彼らは十中八九彼女に絡んでくるだろう。
急に手を引っ張ってしまったことを謝ろうと視線を向けると、彼女はいつも浮かべてる笑みを消し、目を丸くしていた。驚かせてしまったようだ。
「昨日会ったサークルの先輩たちがいたんです。いなくなるまでちょっと待ちましょう」
説明すると納得したように彼女は頷く。
「……別に会っても構いませんでしたよ」
声をひそめてミソラが話す。冷静になると思ったより距離が近くて気まずい。
「気にしないことはできても、値踏みされるのは嫌でしょう」
あのサークルはいわゆる飲みサーというやつなので色々と軽い人たちが多く所属している。誠はとくに、昨日ミソラに声をかけてきた三年の先輩たちのグループが苦手だし嫌いだ。
「女の子をトロフィー扱いするタイプの人たちだなあとは思いますが、テンプレートすぎて私は彼らには関心をいだけませんので、大丈夫ですよ。でもありがとうございます」
テンプレートには関心をいだけないとはどういうことなのか分からなかったが、ミソラが嫌な思いをしていないのであればよかった。
「真中くんは良い人なんですね」
「そんなことない。……これくらい普通ですよ」
彼らが完全にいなくなったのを確認したので、隠れるのをやめミソラから距離を取る。
「知り合ったばかりの、しかも内心ちょっと得体がしれないと思っている女のことまで慮れるというのは充分人が好い気がしますけどね」
「得体がしれない行動をとってる自覚があるのなら、もうちょっとどうにかなりませんか?」
昨日もそうだったがまたもやこちらの心情は筒抜けらしい。
「例えば?」
「た、例えば、これまで一度も会ったことがなかったのに、どうしてここ数日になって急に頻繁に会うようになったのか。とか」
「存在を認識したからですよ。今まではすれ違っていても、お互いを認識していなかったから気づけなかったんです。今日だって真中くんのことを知らないままだったなら私は声をかけませんでした。そうすれば会っていたとしても会っていなかったことになります。そこに接点があった事実があろうとも、認識していなければ当人的にはなかったことと変わりませんからね」
確かに知らない相手とどれだけすれ違おうが会ったとはカウントしない。だがそれは自分のような凡庸な人間に当てはまる話だ。
「薬師寺さんみたいに綺麗な子だったら、一度でも見かけたことがあれば僕は覚えていたと思いますよ」
「どうもありがとうございます」
「謙遜しないんですね」
「事実ですからね。日本人は謙遜が好きですけど、あんなのは中身のないすかすかのボールを投げ合っているのとさして変わりません。望んだ答えをくれるロボットに私は興味はありませんし、過ぎた謙遜は時に嘘の言い換えです。嘘をどれだけ重ねようと意味はない。言葉で飾ったところで事実は変化しないからです。人の思惑に揺らぐことなく事実はいつだって強固に形を保ったままあり続ける。感情も認識も打算も事実を動かすことはできません」
「……なんの話です?」
「なんの話だと思いますか?」
全てを見透かすような目だった。
ああ、早くしないといけない。
「薬師寺さんはなにがしたいんですか?」
「なに、とは?」
「君の叔父さんは薬師寺さんのことを事件が好きすぎる異常者の一人だとか言ってましたけど、それがどういう意味なのか僕には分からない。何を指して好きというのかも何を指して異常者というのかも分からない。事件を解決するのが好きなのかと思えば探偵になる気はなさそうだし、こんな風に意味深に僕の前に姿を現すから、言いたいことでもあるのかと思えば何も言わない」
堰を切ったように疑問があふれていく。
「君は何かを知っているの? それとも本当に偶然なの? 一体何がしたいの?」
邪魔だけはされたくなかった。あとのことはどうだっていい。ただ、邪魔だけはされたくなかった。
微笑みを顔から削ぎ落し無表情になったミソラは、ぞっとするほど精巧な顔をしていた。
「私は、人を知りたい」
彼女が誠に伝えたのは、そのたった一言だった。
それから数日間、彼女は姿を現さなくなった。
何かされる前に早くしないといけない。けれど一度パトカーなんか呼ばれてしまったせいで、あの人たちも弱気になったのか少し大人しくなってしまったようだった。
それでは困る。
今更、止まる選択肢もないのだ。
それに早く終わりにしたい。
もう疲れた。
やきもきしながら一週間がたち、焦れてとうとう昨日自分からメッセージを送った。
これまで誠から連絡を取ったことはないから不審に思われるかもしれないと心配だったが、今日になって微塵も疑う様子のない返信が届いたので安心で胸を撫でおろす。
どうやら『人からもらったんですけど、数が少ないので他の人には内緒で』と言葉を添えていた効果があったらしい。
目先の欲望だけを優先する短絡さに吐き気がする。
それでも今の自分にとっては都合がいい。
長かったような気もするし、まだ昨日のように思えるほどに短かった気もする。
でもそれも、もう終わりだ。
目的を達成すれば、それで全てが終わる。
約束した時間から十分遅れ、人の目がない時を見計らってビルの中に潜り込んだ。
締め切られた空間は相変わらず埃っぽい。外はもう暗いため明かりが外に漏れると目立つ。入口の扉をきちんとしめてから懐中電灯をつけると、先日ミソラたちとやって来た時とまったく変化がない光景が広がっているのを目にした。
スプレー缶で殴り書きされた壁の落書きは、今日も才能の無駄遣いを迸らせている。
肝だめしにやって来た誰かがポイ捨てしたのだろうゴミを蹴り飛ばして物音をたてたりしないように、足元を照らしながら慎重に進んだ。
高揚と恐怖でないまぜになった感情をかかえて廃ビルの階段をのぼる。
相手には五階で待っているように頼んでいた。
どうせなら一番高いところからがいい。
地面にたどり着くまでの時間が長ければ長いほど、いい。
五階にある外を見渡せる壁一面のガラス窓は、おあつらえむきに一部が割れている。
誠はその光景を見た時に思ったのだ。落とすならここだと。
やっと、やっとだ。
階段をのぼりきり五階にたどり着くと窓際に人影があった。
距離があって懐中電灯の光が届かないためぼんやりとしか見えないが、こちらに背中を向けている。
また通報されても困るからだろう。窓際であれば外からの明かりで手元が見えるからか、向こうは明かりを消しているようだ。
今日ここに来るのは一人しかいない。
懐中電灯を消す。一瞬視界が真っ暗になるが、すぐに目が暗闇に慣れると相手の影を確認できるようになる。
手に持っていた懐中電灯を放り投げて誠は走り出した。突然響いた物音に驚いたのか、相手がびくりと反応したのが見える。何が起きているのか判断がつかないのかうろたえるような動きをしていた。
戸惑っている間に誠はタックルの要領で相手にぶつかり、しがみついて自分もろとも窓の外に飛び出すつもりだ。
そう、ここから誠も落ちる。
はじめから決めていた。
だって他に方法なんてない。
こうするしかないのだ。
やっと解放される。
――僕も、やっと終わることができる。
「え?」
相手に触れた瞬間に視界がぐるりと一回転した。
衝撃で息がつまる勢いで背中が床に叩きつけられる。げほごほと倒れたまま咳をしていると、ぱっと光を顔に当てられまぶしさに目をつむった。
「こんばんは、真中くん」
のんびりとしたほがらかな声が誠の名前を呼ぶ。
じわりと焦点の合いはじめた視界に、しゃがみ込んで顔をのぞき込んでくるミソラの顔が見えた。
「……こんばんは、薬師寺さん」
どうやら自分は失敗したらしい。
まだ状況がのみこめない中、それだけがはっきりした事実だった。
誠は人を殺せなかった。




